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2012-02-15

雇用不要論

テーマ:哲学・思想
雇用の喪失が最大の社会問題だと言われる。政府の役割は雇用の維持だと言われる。経済も雇用を創出するためにあると言われる。社会情勢を計るにはいつも失業率が問題になる。失業率が上がると経済が下向いたと言われる。雇用の維持、安定はどの国でも政策の最大課題である。

しかしどの国の雇用政策をみてもあまりうまく行っていないように思える。まず政府のやることは解雇規制の強化。これは雇用流動性を失わせ、経営者は従業員を新しく雇いづらくなり結局雇用は増えない。次に労働者への助成金。これは正社員の雇用は安定させるが、非正規社員は置いてけぼりを食う。となると次にくるのが非正規労働者の保護、そして非正規労働者の正規化。これは非正規労働者にとっては処遇向上になるかもしれないが、最下層に位置する失業者を増やし、かえって問題を悪化させる。これらの政策が労働生産性を低下させ失業率が高止まりし、経済を冷え込ませさらなる悪循環に入っていく。各国の首脳が四苦八苦している様子を見ると雇用問題は非常に難しいものであるようだ。

しかしよくよく考えてみる。雇用とはなんだろうか。何のために働くのだろうか。働くことはいろいろな意味がある。食べていくため、人の役に立ちたいため、自己実現のため、承認欲求のため。しかし今の仕事で本当に好きでやっている人がどのくらいいるだろうか。もし有り余る財産を持っていたら今の仕事を続ける?続けると答えられる人は好きでやっている仕事だ。しかしほとんどの人がやめると答えると思う。ほとんどの人が嫌々仕事をしているのだ。

本当に仕事が重要なのか。本当に雇用が一番重要なのか。我々は楽になるために働いているのではないか。働くのも遊ぶためもしくは自由に暮らすためにお金を稼いでいるのではないか?我々は働くために生きているのではなかったはずだ。それがいつの間にかお金を稼がなければいけない社会になり、労働が美化される社会になってしまった。

仕事とは仕事をなくすために存在しなければならない。決して仕事を作るためではない。我々の目的は雇用を維持することではない。嫌な仕事を無くして楽に暮らすためにがんばっているのだ。そうでなければがんばる意味がある?

どんな仕事が嫌な仕事か。それは人それぞれであるが、ある程度共通しているものがある。単純でつまらない仕事だ。ゴミ拾い、掃除、流れ作業、体に悪い作業、危険な作業、長時間の作業などなど。よく考えると今の大半の仕事が多かれ少なかれ当てはまる。やりがいがあると言われている仕事でも半分はこうしたどうしようもない作業に明け暮れているのではないか。働いていて楽しいのは一日3時間くらいであろう。

ほとんどの人が仕事はしたくないはずだ。だがしかし朝起きると嫌々みんな会社に向かう。これが本当に正しいのか?正しい社会なのか?幸福なのか?理想とはほど遠い。

しかし中には楽しい仕事もある。創造的で自分を表現でき、学べて、めっちゃ楽しくて、世の中の役に立つ仕事だ。こういう仕事は遊びとほとんど区別がつかない。遊び=仕事である。未来の仕事は遊びであるべきだ。遊びはなんで楽しいのか、それは義務ではなく自由に好きなことをやるからだ。

みんなが遊んで暮らせる世の中を目指そう。人間らしい最も高度な行動は遊びなのだ。単純作業はどんどん機械やロボットにやらせるべきだ。我々の仕事は仕事をなくすためにのみ捧げられなくてはならない。

先進国にくらべて途上国の労働力は安い。だらか雇用はどんどん途上国へと流出する。途上国に工場が造られる。ネットを使って知識労働も途上国へとまわされる。しかし途上国の安い労働力もいずれは高止まりする日がやってくる。

現在のグローバル化の流れは、まず冷戦が終わったことで共産圏の労働力が解放された。世界の安い労働力を使うとこうことが主流となり、中国を始めBRICs、アジアの勃興へとつながっていった。今は世界的に西から東へと富=仕事が移っていく過程をみている。しかし地球人口は限りがある。この規模での労働力の解放はもう二度とない。世界を西から東へ回ってアフリカまでいったら終わりである。

しかし永遠に安い労働力がある。それは機械・ロボットである。機械はエネルギーさえ投入すれば動き続ける。賃上げを要求することもない。劣悪な労働環境であっても文句は言わない。そして機械の数を増やせば増やすほど安い物が大量に作れるようになる。うまく設計すれば機械は自分自身を作ったりメンテナンスできるようになる。

人的な安い労働力を使い切ったあとにはもうオートメーションしかない。そして我々はすべての労働をオートメーション化すべきだ。将来仕事がオートメーション化され遊んで暮らせる世の中になる、そう思えばこそ今のつらい仕事もなんとかやり通せるというものだ。そうでなければ救いが無い。

オートメーション化の過程では職を失う者が出てくる。必ず職からあぶれる人が出てくる。みんな一斉に仕事やーめた、となればいいがなかなかそうはいかないだろう。一部の人の仕事が無い状態がやってくる。そういう人々に資源を配分しなければならない。理想郷への橋の途中では職がある人と職がない人が混在することになる。職のない人を保護しなければならない。その人々は遊んで暮らせる世界でのクリエイターなのだから。遊んで暮らせる理想郷では新しい遊びを考えることが仕事になる。

職に就いているすべての者は自らの仕事をオートメーション化して、自ら首を切る覚悟を持たなくてはならない。最後に自分の仕事をやってくれる機械、コンピュータのスイッチを入れ敬礼し職場を去る。美しい光景ではないか。

まずは最低限の衣食住の自動生産から始める。最低限の服、最低限の食べ物、最低限の住処。このくらいは今の技術でも自動生産できるはずだ。郵便局がつぶせないというならば自動でパンを作って置いておく場所にすればいい。簡単な衣類を自動で作って配ればいい。画一的な住居ならほとんどの部材を自動生産できるはずだ。

我々が目指すのは雇用の創出ではない。雇用という概念をなくすことだ。雇い雇われということをなくすことだ。そうでなければ理想郷には近づけない。理想郷は理想郷だと言うかもしれない。でも一歩でもそれに近づける可能性があるならやってみるべきだ。

ムダな仕事が多すぎると感じるから。仕事を作るために仕事をしていると感じるから。週に5日会社に通わなければならないから、暇でも8時間勤務しなければならないから、ムダな仕事が作られるのだ。無理に仕事を作るのは罪である。でもそれは仕方が無い。会社にいて暇ならば仕事を作るしかないのだから。この文化を変えていく必要がある。

まずは週休三日。このくらいは今でもできると思う。週休三日を実現するために今少し我慢してオートメーションの仕組みを作るってことならなんとかがまんしてやっていけそうではないか。

現在はまだまだ物は自動では作れない。働いて稼ぐ以外の制度も価値観も醸成されていない。だから雇用は今しばらくは必要とされるだろう。だがそろそろ雇用がなくなるという理想の社会を夢想してもいい時期に来ているのではないだろうか。
2011-07-25

ちょっとした反論

テーマ:科学・テクノロジー・IT

Chikirinの日記 「自然エネルギーか原発か」という議論の不毛


その4までのエネルギーの全体感については、今の視野の狭い議論では不毛で、もっと俯瞰して話をしなければならないということで大いに同意したのですが、その下を読み進めていくとなんとなく違和感が残りました。なぜ違和感があったのかずっと考えていたのですが、それはエネルギー源から実際に使うエネルギーへの変換装置の議論がすっぽり抜け落ちているためだとわかりました。


石油はそのままでは使えません。自然に湧き出している石油を偶然に発見し、火をつければ燃えるかも知れませんが、それだけでは殆ど役に立ちません。たとえば水車を回せないし、車も動きません。石油はその埋蔵場所・量を特定し、採掘して精製し、それを燃やしたり加工したりする装置によってやっと有用なものにに変換できるのです。


エネルギーを人間にとって有用なものにするには、この一連の変換装置が必要でなのす。たとえば石油ならば採掘から発電所までの装置です。太陽エネルギーであったら太陽光発電パネルであり、太陽熱発電所です。つまり、エネルギーの使用効率はその変換装置にも拠っているということです。


風力や太陽光などの再生可能エネルギーでは社会をまかないきれないということですが、今後変換装置の効率が上がらないと結論づけることができるでしょうか?タイムマシンに乗って50年後に行き、効率が上がっていない現実を見てきたのならば断定できますが、そうじゃないならば未来にどんなイノベーションが起るか予測はできないので、再生可能エネルギーの効率が未来に渡って上がらないとは断定できないでしょう。50年後の世界に太陽光でエネルギーの半分をまかなっている未来もありえると思います。その他にもマグネシウム とかいろいろな可能性があります。


石油が発見された当時、その有用性が予測できなかったのは変換装置の効率が悪かった、あるいはなかったからです。当時の人の気持ちになってみれば、なんだか知らないけど燃える水が湧き出しているところがある、でも量も限られているしこんなものは使い物にならない。石炭や水蒸気のほうがずっといいと。でもめげずに石油を掘って精製を試みた人がいたはずです。その人がいたからこそ今の文明があるのです。


もし、薪や水車を使っている時代に石油が発見されたとしたら、当時の人達はこう言ったはずです。


石油エネルギーの比率は、5倍から10倍がせいぜいであって、薪の3分の1以下、水車の10分の1に過ぎない。モノを作るには、大量のエネルギー、動力が必要であり、相当に効率のいいエネルギーでないと現代社会は維持できない。この点、薪・水車のエネルギー産出/投入比率は圧倒的であり、石油エネルギーで現在の社会を維持するのは無理。(質素な生活をすればいい、というレベルではなく、人口の大半が維持できない=死ななくてはならない。)


再生可能エネルギーの本当の未来について理解したい方は下記の文献を読まれることをお薦めします!読んだことないですけどね。

脱「ひとり勝ち」文明論


そんじゃ~ねぃ

2011-04-25

新リーダー論

テーマ:政治・経済・金融

有能なリーダーが出てこないと嘆く向きがあるが、人々のこれだけ多様化した価値観、思惑を自信を持って代表できる勇気のある者はいないだろう。また選ぶ方も自信を持って選ぶことはできない。すべての分野に秀でた聖人君子はいない。我々はともすると全知全能なリーダーを捜し求めてはいないか。そもそもそんな人はいないのだ。価値観や文化が幅広く細分化した現代ではなおさらだ。しかしそれはさけられない変化だし、それでいいのだと思う。


我々はそれを克服する方法を考えねばならない。一人のリーダーが全員の利益を代表する時代は終わりを迎えつつある。しかしこれはリーダー不要論ではない。むしろ最強のリーダーの作り方である。


「アホで無能」な我々だが、一人一人には必ず得意分野がある。何か一つに特化していなくても、組み合わせればかなりのレベルになるというものが少なからずあるはずだ。それを収集し、表明できる技術、そして自らが社会に参加したいという価値観は醸成されつつある。


一人一人の得意分野は違うのだから、起こり来る諸問題に対してその場その場で最も適した人に任せればいい。誰が担当するのかはその場で手を挙げればいい。あたかも、飛行機の中で急病人が発生したときに「この中にお医者様はいらっしゃいませんか?」と呼びかけられて、手を挙げるような感じだ。複数人が立候補した場合はその場でアンケートを取って決めればいい。


誰もが民衆であり、(なろうと思えば)誰もがリーダーになれる社会。しかし今のところ政治家になるにはちょっと敷居が高い。それは政治家が担いすぎているからだ。高い供託金を納め、ポスターを作って選挙カーで叫んで、握手をして回るなんて何の意味があって誰が得をするだろうか?たとえば街路樹を一本どこに植えるか、これを決めるリーダーならば誰しも可能であろう。そういう単位でいい。それだけで自分や社会を見る目が変わるだろう。参加意識が芽生えるだろう。


有事の時に優れた才能を発揮する人が平時の時にも優れているとは限らない。環境は時間とともに変化するので「今」優れた人を選んでも3年後も同じ能力を発揮できるとは限らない。

その場に応じてすぐにリーダーを選べ、頻繁に変更できるシステム。そのほうが望ましい。つまりガチャピンを作るということである。中身が自由に入れ替えられるガチャピンこそが最強なのだ。そうなるとその実態はもはやリーダーではなく「専門家」である。


もう一国の利害をすべて担える一人のリーダーなど存在しないし、いらない。そもそもトップ権力、総理大臣や大統領などは民衆の代表者だ。ならば民衆の総意を集められるネットワークを手に入れた以上、代表者の必要はない。ネットワークで集計された民衆の意識と専門家、それだけでいい。細分化された価値観グループに応じて細分化された政策が必要になる。それは情報量から言って中央計画で補えるものではない。自分たちで決めるしかないのだ。


リーダーは我々全員である。最終責務を負うのも我々全員だ。それには直接民主主義やGov2.0といった取り組みをさらに進める必要がある。直接民主主義のベースができれば、求心力の中心としてカリスマ性のある象徴(アイドル)を置くのも面白いかもしれない。それはバーチャルなキャラクターでもよい。できれば歌がうまくて美しいほうがいい、そして、、まあいい。


昨今なぜ人々はリーダーを求めるのか。なぜリーダー待望論が台頭してくるのか。それは価値観が多様化し、他人の価値観を身体感覚として察しにくくなっているためであり、それが不安につながっているためではないか。

それでは何故価値観が多様化したのか。世界人口の増加ももちろんあるが、近代の「個人としての自由を求める」という意味のリバタリアニズムによって旧い組織体、共同体が解体されてきたからだ。その結果、気がついてみれば欲望丸出しの「個」がそこに置かれていたという構図だ。それがグローバルなITコミュニケーションにより混ざり合いカオス状になった。


我々が意思を表明するにはどうしたらいいか。それはまず情報収集をすることだ。興味を持ったことについて徹底的に調べる。身をもって経験してみる。蓄積した情報は意識下で熟成される。そして情報が一定量たまると自然に答えが出てくるものだ。そしてその意識をTwitterやらFacebookやら井戸端会議やらなんでもいい、発信するのだ。その発言の総意が世論を形成し、世の中を動かしていく。そうなる時代がもうすぐやってくる。

ただ、無意識を抽出するのはよいが、政策の選択は意識的に行う必要があると思う。我々は「自分が選択したんだ」という思いからモチベーションを発揮する生物であるから。


<参考>
ティム・オライリー特別寄稿:ガバメント2.0―政府はプラットフォームになるべきだ
【動画版】茶会ちゃんねる特別編: 東x白田の一般意思2.0について語る

2011-02-25

選挙の勝ち方 - 私が選挙に出るとしたら

テーマ:政治・経済・金融

次の選挙に私が打って出るとしたらこのようにするだろう。


無所属新人で立候補する。そしてすべての政治、政治家への反対表明をする。今までのすべての政治勢力も政府も全否定だ。誰とも組まない、誰の思想をも受け継がない。


そして掲げるマニフェストはただ一つ。


「ネット選挙を実現する」


私はこのために生まれてきた。このために生涯を捧げる。ネット投票の実現。それ以外を思想を私は持たない。当選の暁にはすべての判断はネットにゆだねる。つまりネットを通じてアンケートを収拾し、その通りに発言する。私は一切の意見を持たない。一切の思想を持たない。


人は「できる」ということがわかるか、わからないかである。0を1にすること。これこそが大事なのだ。0と1とではまったく違う。0を1にできるのならば、1を2にすることは簡単だ。1を10にすることも100にすることも簡単である。人は「できる」ということがわかってさえしまえば、容易に行動に移せる。往々にして革命とは0を1にすることから始まる。すべての雪崩は一粒の砂粒から始まる。たった一つの砂粒が砂上の楼閣を崩すのだ。


(以上、飲みの席の会話で思いついたことでした)


2010-11-28

長所と短所の総量は同じ

テーマ:哲学・思想
人はそれぞれ長所を持っています。水泳が得意な人、計算が速い人、手先が器用な人、笑顔が素敵な人、機転が利く人。

人はそれぞれ短所を持っています。運動音痴な人、怒りっぽい人、細かい作業が苦手な人、後ろ向きな人、理屈っぽい人。

それではこのようにバラバラに見える長所・短所を整理してみましょう。そうすると必ず1対1になっていることがわかるでしょう。

反抗的⇔自立的、頑固⇔意志が強い、いい加減⇔おおらか、あきらめが悪い⇔粘り強い、興奮しやすい⇔情熱家、仕切りたがり⇔リーダーシップがある、八方美人⇔誰にでも好かれる、気分屋⇔臨機応変、慎重さに欠ける⇔楽観的、目移りが激しい⇔好奇心旺盛、お節介⇔面倒見がよい、引っ込み思案⇔謙虚、口べた⇔聞き上手、迎合⇔協調、優柔不断⇔柔軟、甘やかす⇔包容力、気が弱い⇔繊細、いい加減⇔平和主義、自分を責める⇔まじめ・勤勉、鈍感⇔打たれ強い、頭でっかち⇔思慮深い、理屈っぽい⇔理論家、神経質⇔几帳面、臆病⇔慎重

短所の反対には必ず長所が見つかります。どんな短所にでもです。長所を持っている人はその反面として必ず短所も併せ持っているのです。そして一人の人間の中にはたくさんの長所と短所があります。また、長所が大きければ大きいほど短所も大きくなります。そしてその総量は同じです。ビジュアル的には下図のようになるでしょう。

$木下英範のブログ-長所と短所

長所を伸ばすと反対側に短所も伸びます。一方、短所を克服すると長所もなくなってしまうのです。

この長短のポートフォリオをどう組んでいくかは個人の方針によりますが、なるべく他人と違うユニークな組み合わせを目指していった方がいいでしょう。短所を克服するよりも、短所は放っておいて、長所を伸ばした方が成功の確率が高いということは統計でも証明されています。

なぜそうなるかというと、上記で述べた理由からなのでしょう。だから短所は気にしなくていいのです。また他人の短所に対しても寛容になりましょう。なぜなら大きな短所を持った人は逆に大きな長所もどこかに持っているのですから。

自分が適わないような才能を持った人でもどこかに大きな短所があると思えばやっかむこともなくなるでしょう。

短所は他人同士互いの長所で補っていけばいいのです。そのために人は仲間を作り、組織を作り、社会を作っているのですから。
2010-11-28

他人になりたいと思う?

テーマ:哲学・思想
今、あなたは誰か他人になりたいと思うだろうか。もし、あの人になれたら、入れ替われたらどんなに幸せかと。だが、おそらく歳と共にそういう気持ちは小さくなっていくはずである(少なくとも自分はそう思う)。

それはなぜか。それは徐々に自分を乗りこなせるようになっていくからだ。自分の長所や短所、どうやったら自分は喜ぶか、どうやったら悲しむかを知っていく。そして自分の才能や向いていることに目覚めていく。

知識というと、外部からの影響や、経験から来る認知だけを想像しがちだが、「自分に対する知識」もまた重要な知識である。

だからある程度自分の乗りこなし方をマスターしてくるともう他人になりたいという感情は起らなくなる。今から他人になったら、また一から自分分析をやり直さなければならないのだから。

「恐怖」というものは自分の外側にあるのではなくて、自分の内側にあるものだ。外部からのある刺激に対して、自分がどういう反応を示すかわからない。これが恐怖である。どういう反応を示すか(めげるにしても泣くにしても)がわかっていれば恐怖にはならない。恐怖とはすなわち自分の内なる未知の部分なのだ。

また、「幸福」も同様に自分の内側からわき上がってくるものだ。自分はどういう存在なのか。どういうことに真の喜びを見いだすのかを知っていれば、自ずと幸福はわき上がってくるだろう。

自分を知るには少なくとも30年はかかる。今、私は35年かけて自分という者を知ってきたが、さらに上があるのだろうか。いやたぶんある。40歳、50歳になって今の自分を振り返ったとき、なんて自分という乗り物の運転がヘタだったのだろうと思うことだろう。それは楽しみなことである。
2010-11-28

人を信じること

テーマ:哲学・思想
人を100%信じていこう。ときにはだまされるかも知れない。詐欺に引っかかるかもしれない。それでも100%信じていこう。だまされたっていいじゃないか。命まで取られることはない。詐欺師だって好きでやっている者はいない。仕方なく嫌々やっているんだ。

「良心」というのは人種や宗教を超えて共通のものだ。どんな国や環境に生まれようがなにが良いことか、悪いことかは直感的にわかっているはずだ。生まれつきわかっているんだ。子供を愛さない親はいないように。だから信じよう。他人を自分を。人を100%信用しよう。

「信頼」はコミュニケーションの効率を上げ、生産性を上げ、社会を豊かにしてくれる。逆に信頼がない社会は荒廃していく。人は信じて貰えないからウソをつくんだ。だから人を信じて生きよう。

100%人を信じて生きる人生ではときにひどい裏切りに会うかも知れない。それでもその人を許して、次からはまた信用しよう。

これは非常に難しいこと。でも努力しよう。人を100%信じられるように努力しよう。人を100%信じればウソは必要なくなる。自分がウソをつくことから解放される。

だまされてもいい。でも自分は人をだましてはいけない。人をだまして一時的には成功するかもしれない。でも長期的には決して成功しない。それは世の中を見回してみれば、詐欺師よりも正直に誠実に商売をしている人が多く成功していることからもわかる。

「正直者は馬鹿を見る」とよく言われる。たしかに馬鹿を見るだろう。しかし同時に幸福を手に入れることができる。不正直は馬鹿を見ないかもしれない。しかし長期的に幸福になることは決してない。

信頼関係を築くというのはウソを許さないということではない。ウソをつかれても許して、なおその人の本質を信頼していくということだ。

その場の雰囲気や防衛心によりウソをついてしまうときもあるだろう。その場合にはすぐに謝って、そのときの気持ちを正直に説明しよう。相手が謝ってくれたときには快く許そう。たとえ謝らなかったとしても本人は罪悪感を感じているはずだから許してあげよう。

人を信じればお互いに正直になれる。例えどんなに怪しく見える人でも信じてあげよう。少なくとも最初は信じてあげよう。そうすることでどんなにその人が救われるか。そして初めてその人は正直になることができる。

人を疑う世の中よりも人を信頼できる世の中の方がいいに決まっている。そのためにはまず自分から人を信じることだ。人を100%信じて行動してみよう。はっきり言って今の世の中はウソも欺瞞も少なくない。だから人を100%信じて生きると傷だらけになるだろう。それでもそういうふうに生きていきたい。どんな仕打ちを受けても折れない心を、どんなにだまされてもその人を恨まない心を私は欲しい。ウソをつかれてもその人を信じ続けられる強さが欲しい。
2010-09-28

勝海舟の談話 - 日本と中国、兄弟げんかは犬も喰わない

テーマ:政治・経済・金融

勝海舟は日清戦争後にコメントを求められて次のように語っている。


「支那は平気でいるよ。


 戦争でも同じことだ。世間では百戦百勝などと喜んで居れど、支那では何とも感じはしないのだ。そこになると、あの国はなかなかに大きなところがある。支那人は、帝王が代わろうが、敵国が来たり国を取ろうが、殆ど馬耳東風で、はぁ帝王が代わったか、などといって平気でいる。風の吹いたほども感じない。


 感じないも道理だ。1つの帝室が亡んで、他の帝室が代わろうが、誰が来て国を取ろうが、一体の社会は、依然として旧態を存しているのだからのー。国家の一興一亡は、象の身体を蚊か虻が刺すくらいにしか感じない。


 ともあれ、日本人もあまり戦争に勝ったなどと威張って居ると、後で大変な目にあうよ。剣や鉄砲の戦争に勝っても、経済上の戦争に負けると、国は仕方なくなるよ。そして、この経済上の戦争にかけては、日本人は、とても支那人には及ばないだろうと思うと、おれはひそかに心配する」



「支那は国家ではない。


 支那は、ドイツやロシアに苦しめられて、早晩滅亡するなどというものがあるけれど、そんな事は決してない。膠州湾(こうしゅうわん)や、三沙澳(さんさおう)ぐらいの所は、おれの庭の隅にある掃溜ほどにも思って居ないだろう。


全体、支那と日本と同じように見えるのが大違いだ。日本は立派な国家だけれども、支那は国家ではない。あれはただ人民の社会だ。政府などどうなってもかまわない。自分さえ利益を得れば、それで支那人は満足するのだ。清朝の祖宗は井戸掘りをしていたのだが、そんな賤しい者の子孫を上に戴いて平気で居るのを見ても、支那人が治者の何者足るに頓着せぬことがわかる。


それだからドイツ人が愛親覚羅氏に代わって政権を握ろうが、ロシア人が来て政治を施そうが、支那の社会には少しも影響を及ぼさない。ドイツが膠州湾を占領したり、英国が三沙澳に拠ったりすれば、支那人の方では堅固な門番を雇い入れたってんで居るかもしれないよ」



「おれは大反対だったよ。


 日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟げんかだもの犬も喰わないぢゃないか。たとえ日本が勝ってもどーなる。支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分からないに限る。支那の実力が分かったら最後、欧米からドシドシ押し掛けてくる。つまり欧米人がわからない内に、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。


一体支那五億の民衆は日本にとっては最大の顧客サ。また支那は昔時から日本の師ではないか。東洋のことは東洋だけでやるに限るよ。おれなどは維新前から日清韓三国の合縦の策を主唱して、支那朝鮮の海軍は日本で引き受ける事を計画したものサ。今日になって兄弟げんかをして、支那の内輪をさらけ出して、欧米の乗ずるところとなるくらいのものサ」


(引用:「本の街」10月号 - 酒部一太郎著)


どうだろう。今見てもこの談話は的を射ている。現代から考えれば格段に情報の少ない当時において、よくもこれほどの視点が持てたものである。本質を理解し、先を正しく見通せる人だったのだろう。


「1つの帝室が亡んで、他の帝室が代わろうが、誰が来て国を取ろうが、一体の社会は、依然として旧態を存しているのだからのー。国家の一興一亡は、象の身体を蚊か虻が刺すくらいにしか感じない。支那は国家ではない。あれはただ人民の社会だ。政府などどうなってもかまわない。自分さえ利益を得れば、それで支那人は満足するのだ。」


まさに本質はここの部分にある。あれだけの人数、環境、土地柄の違う人々を国家としてまとめられるはずがない。一応、一党独裁、国家主席なるものを置いてはいるが、それはある意味飾りに過ぎず、それぞれの個々人が自分の利益のために動いているのが中国の実態であろう。本当のところ、人々の間では社会主義も資本主義もあったものではないのである。


そしてそれこそが、お上が代わろうが、誰が来ようが、決して滅びることなく文明を維持してきた中国、華僑・大中華圏、支那圏の本当の力なのである。だから中国とのケンカは国と国とのケンカにならない。ただ感情をぶつけるだけの兄弟げんかである。


くだらない兄弟げんかは早々に卒業して、経済の結託を計っていかなければ、アジアがリーダーになって世界をよい方向に導いていける最大のチャンスを逃すことになるだろう。

2010-08-07

動物を殺して食べるのは善か悪か - 全体を考えるということ

テーマ:哲学・思想

子供の素朴な疑問にどう答える?


たとえば子供が道ばたで犬をいじめていたらあなたは注意するだろう。しかしなぜいじめてはだめなのかをちゃんと説明するのは少々難しい。

「なんで犬をいじめちゃだめなの?」
「そりゃかわいそうだから」
「だってみんな肉を食べるでしょ?豚や牛をたくさん殺して、それで平気なの?それとこれとどう違うの?」
「食べるならばいいんだよ」
「でも人間を殺して、さらに食べることはもっと罪が重いっていうよ?だから肉を食べる方が罪が重いんじゃないの?」
「・・・」


あなたならばどう答えるだろうか。


今ならば私は苦しいながらもこう答えるかも知れない。


「結局、人間は人間のためにしか生きられないんだ。生物は種の保存という欲からは逃れられない。肉はおいしいというのは否定しようのない事実だ。焼き肉を食べることによってみんな元気になる。笑顔になる。それでいい。例え他の生物を犠牲にしたとしても。


そして、豚や牛を殺すところをあまりおおっぴらに見せてはいけない。それは悲しくなるからだ。犬を必要もなく殺してはいけない。より人間に近い動物、より身近な動物ほど感情移入しやすいため、いたたまれなさを感じる。心が荒廃してやがて犯罪や殺人にいたるかもしれない。それは『人間にとって』よくないからだ。


環境を破壊してはいけない。それは地球や生物のためではない。地球環境が破壊されて動物が死滅することが『人間にとって』よくないからだ」


良くも悪くも我々は利己的にしか生きられない。生物である以上この業からは逃れられない。その究極は「種の保存」という生物定義からくる欲求だ。この欲求を捨て去ることは生物としての死を意味する。すなわち「種の保存」という欲求のない生物はこの世では存在できない。それが生命と物質を分けている。


環境問題も、動物愛護の問題も、政治も、「人間という種を守るため」という大前提が一番根本にはある。その観点から見るならば動物を殺して食べることはいいことだ。ただし動物を殺すことの悲しみを最小限に抑える必要がある。また、人々の価値観が変化し、動物を殺すことに罪悪感を感じる人が多くなれば、食用であっても動物を殺すことは悪となる。


全体の範囲をどこに設定するかによって答えが違ってくる


ここでは問題の観点を、個々の事情から、人類という全体の利害に広げることによって答えを導いた。結局、トータルでプラスなのかマイナスなのか、なのであるが、意見が対立した場合、「全体」の範囲をどこに設定しているかを見直す必要がある。


イルカやクジラを殺すことは良くないという意見がある。それはそれらを殺すことを許容できないグループを全体として見るならば「悪」となる。なぜならそのグループに対してはイルカやクジラを殺すことによる心の痛みが、殺すことにより得られる利益を上回るからだ。全体としてマイナスだからだ。


しかし、イルカやクジラの肉を食べることを喜びとしているグループからすればそれは「善」となる。このグループも殺すことの痛みは少なからずあるだろうが、全体として「殺すことの害<利益」という価値観だからだ。しかし殺しすぎてしまっては利益を得られなくなるのでマイナスとなる。


世界全体で考えた場合、肉を食べることに喜びを見いだす人々が多いと思われるため、動物を殺すことは必要悪であると見なすことができる。全体の利益のために許容すべき「悪」があるのだ。


組織運営に当てはめると?


これは組織運営でも使えるコツである。たとえば部下の遅刻を許すか叱るか。もちろん遅刻はよくないことであり、遅刻をしないで頑張っている人がいる以上、ある程度叱ることは必要である。


では組織全体から見た場合はどうだろうか?少しの遅刻でピリピリしていたのでは組織全体が硬直してしまう。失敗を恐れた社員から新しいアイデアが生まれてくることはないだろう。組織全体を考えればある程度は許容したほうがいいのだ。あとは自分が責任を持つ範囲がどこにあるかである。


課に責任を持つ場合は、課全体がプラスになるようにある程度細かく指示した方がいいだろう。部に責任を持つ場合は部全体の雰囲気がプラスになるにはどうするかを考える。課レベルの失敗を叱ってはいけない。社長ならば会社全体ではどうかを考えなければならない。


全体の成功のためには許容すべき失敗(必要悪)が存在するのだ。どこまで許容するのかの判断は一概には言えないが、「全体にとってどうなのか?」を考えることで限りなく正解に近づけるはずである。

2010-06-27

自分を変えるということ

テーマ:哲学・思想

自分より優秀な人や尊敬できる人が現れたとき、あの人のようになりたい、「自分を変えたい」と誰しも思ったことがあるでしょう。他人が自分の思うように動いてくれない、環境が思い通りにならないと感じるとき、そんなとき多くの本や識者は、環境は変えられない、「自分が変わらなければならない」と言います。


それは正しいことです。しかし自分を変えるということ、それもまた難しいことですよね。何度も自分を変えようとして挫折した思い出があるでしょう。


それは自分の「軸」を変えようとしているからです。自分の軸は変えられないのです。根本的には自分というのは変えることができないのです。それを変えようとするから苦しい。


たとえば、Aさんのようになりたい、Bさんのようになりたい、と思ったとします。このとき、自分を捨てて、自分の「軸」を移動させて自分を変えようとすると大変に苦しい思いをします。


木下英範のブログ-他人になるのは難しい


例外として心に大きなショックを受けたときには、本当に性格から変わる可能性もあります。大きな病気や臨死体験、不幸な事故などによって。逆に考えると、自分の軸を変えるということはそれほど心に負担をかけないと実現しないということなのです。


ところが「自分を変えずに」自分を変える方法があります。自分の「軸を太く」すればいいのです。


自分の軸を太くして全部取り込んでしまえばいいのです。大切なのはこのとき自分の中心は動いていないということです。自分を保ったまま、他人の良いところを取り入れることはできるはずです。


木下英範のブログ-自分の軸を太くして取り込めばいい


心の成長についても同じ事が言えます。多くの方は子供と大人は別物と思っているのではないでしょうか。子供から大人になるにつれて人格が変わっていくと。それは実は違うのです。誰しもが子供の心を持ったまま大人になるのです。幼かった頃の心を内包したまま、まるで年輪のように大人の心を外郭に重ねていくのです。


それは自分の心をよく観察すればわかるでしょう。今でも時折子供の頃の気持ちが顔を出すでしょう。根本的な価値観って子供の頃のままではないでしょうか?


退行催眠を使って大人の外郭を外していくと、子供の頃の感情も、記憶も、すべてよみがえるといいます。「三つ子の魂百まで」なんて言いますが、小さかった頃の自分は今でもそっくりそのまま、そこにいるのです。


心だけではありません。人間の肉体的な発生においても、受精卵から胎児に至る過程で、両生類~爬虫類~鳥類の特徴が順番に現れ、哺乳類の進化の歴史をたどるといわれています。


生命全体を見てもそうです。単細胞生物はまだ生きています。そして細胞の働きは単細胞生物も我々の細胞も同じなのです。生命は過去を捨ててはいないのです。昔を捨てるのではなくて、昔を保ったまま、過去をその中に抱きながら機能を拡張してきたのです。


そうです。これはフラクタルの原理です。これはこの世界に普遍的に現れる物理法則です。すべてはこの土台の上に乗っているのです。


少々話が遠くへ来てしまいましたが、はじめに戻ると、今の自分を捨てて、自分を変えるのではなくて、「今の自分を内包したまま、自分を広げる」のです。そのほうがずっと楽に自分を変えることができるでしょう。

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