2011年07月21日 23時10分04秒
夏の日の夢 ラフカディオ・ハーン
テーマ:その他の文学
ローマ皇帝ユリアヌスは、キリスト教徒の側から「背教者」と呼ばれた。キリスト教に帰依していると信じられていた皇帝であったが、実際は、キリスト教を軽蔑し、ときには露骨にキリスト教徒たちを蔑視した。一神教を信奉するキリスト教徒にとって、自ら信じる神を信じない者は、すべて異教徒であり、ユリアヌスの行為は許し難いものであった。
古来、一神教に見られる教えほど、頑迷で排他的な考え方はなかろう。いや、考え方や思考の内容ではなく、狂気といってよい。
徒党を組んだキリスト教徒とは、いうなれば狂信者達の群れであり、彼等が神の名の下に、大航海時代に南北アメリカ大陸や、アジア、アフリカにおいて、どれだけの悪事を働いたかなぞ、あえて語るまでもないだろう。
「自分たちと同じ神を信じろ。さもなければ……」
日本人は無宗教であるといった言葉を耳にしたり、そういった類の書籍さえ販売されているのを目にすることがある。
実のところ、自分を無宗教であると思っているあなた(ここでいう「あなた」とは、日本人の父親と母親との間に生まれた、日本人の意味である)も、宗教に属しているのだ、といえば、少なからず驚くことであろう。
「自分は、あまり宗教には興味がないから」「宗教を必要とはしていません」といくら言い訳をしたところで、神道に属する氏子のひとりであるのだ。
文部科学省が行っている「平成21年度宗教統計調査」によると、神道系の信者の数は約1億800万人。仏教系は約8750万人。キリスト教系は約237万人、諸教系が約888万人とある。
政府統計の総合窓口:平成21年度宗教統計調査
http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?lid=000001070844
わが国において、宗教に属する信者の数は、なんと2億人を遙かに超えるのである。
「自分は神道の信者になんかなった記憶はない」とどんなに言い張ったところで、いわゆる日本人としてわが国に生まれた人は、好むと好まざるとにかかわらず、生まれたときから氏子の一人として勘定されているのである。また、家が、お寺の檀家である場合もあろう。その場合には、仏教系の信者の一人として勘定されているのである。場合によっては、その両方に勘定されている人もたくさんいるはずである。
わが国の国民は、なんと宗教に寛容であり、信仰心が厚い人達であろうか。何の違和感もなく、いくつもの宗教に属しているのであるから。
四季のあるわれらが国土は、古代の人々に、さまざまな自然現象を見せた。古代人は、そのひとつひとつを、ときに畏れ、ときに親しみ、そして、敬った。彼等はそこに多くの「かみ」をみたにちがいない。ときに死者さえが、「かみ」となった。「かみ」が、彼等を罰することはなかった。彼等と共に生きたのであった。
わが国の土着の宗教である神道が、固陋で偏狭な一神教でなくてよかったとつくづく思うのである。
さて、自分は何を書こうと思ったのか。とめどなくなりそうなので、ラフカディオ・ハーンの「夏の日の夢」から、浦島太郎に関する一文を引用して、この拙文を締めくくることとしよう。
「一体浦島を可哀相に思うのは正しいことであるだろうか。生そのものが迷夢以外の何ものであろう。途方に暮れた浦島は神々の意図するところを疑い、玉手箱を開けてしまった。そして何の苦もなく息絶えた。人々は神社を建てて浦島明神として祀り上げている、それなのに、どうしてそんなに憐れまなくてはならないのだろう。
西洋だったら話は全く違ってくる。西洋では神々に背いたら、生きながらえて、最大の悲痛をその極みの果てまで味わい尽くさなくてはならない。一番よい時期に安楽そのままの死を遂げるなど許されるはずがない、いわんや死後自ら小さな神となることにおいてをやである。現身の神々の間であれほど長いこと暮らしてきた事実の後で、どうして浦島の愚かさを憐れむことが出来ようか。(「夏の日の夢」小泉八雲)」
古来、一神教に見られる教えほど、頑迷で排他的な考え方はなかろう。いや、考え方や思考の内容ではなく、狂気といってよい。
徒党を組んだキリスト教徒とは、いうなれば狂信者達の群れであり、彼等が神の名の下に、大航海時代に南北アメリカ大陸や、アジア、アフリカにおいて、どれだけの悪事を働いたかなぞ、あえて語るまでもないだろう。
「自分たちと同じ神を信じろ。さもなければ……」
日本人は無宗教であるといった言葉を耳にしたり、そういった類の書籍さえ販売されているのを目にすることがある。
実のところ、自分を無宗教であると思っているあなた(ここでいう「あなた」とは、日本人の父親と母親との間に生まれた、日本人の意味である)も、宗教に属しているのだ、といえば、少なからず驚くことであろう。
「自分は、あまり宗教には興味がないから」「宗教を必要とはしていません」といくら言い訳をしたところで、神道に属する氏子のひとりであるのだ。
文部科学省が行っている「平成21年度宗教統計調査」によると、神道系の信者の数は約1億800万人。仏教系は約8750万人。キリスト教系は約237万人、諸教系が約888万人とある。
政府統計の総合窓口:平成21年度宗教統計調査
http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?lid=000001070844
わが国において、宗教に属する信者の数は、なんと2億人を遙かに超えるのである。
「自分は神道の信者になんかなった記憶はない」とどんなに言い張ったところで、いわゆる日本人としてわが国に生まれた人は、好むと好まざるとにかかわらず、生まれたときから氏子の一人として勘定されているのである。また、家が、お寺の檀家である場合もあろう。その場合には、仏教系の信者の一人として勘定されているのである。場合によっては、その両方に勘定されている人もたくさんいるはずである。
わが国の国民は、なんと宗教に寛容であり、信仰心が厚い人達であろうか。何の違和感もなく、いくつもの宗教に属しているのであるから。
四季のあるわれらが国土は、古代の人々に、さまざまな自然現象を見せた。古代人は、そのひとつひとつを、ときに畏れ、ときに親しみ、そして、敬った。彼等はそこに多くの「かみ」をみたにちがいない。ときに死者さえが、「かみ」となった。「かみ」が、彼等を罰することはなかった。彼等と共に生きたのであった。
わが国の土着の宗教である神道が、固陋で偏狭な一神教でなくてよかったとつくづく思うのである。
さて、自分は何を書こうと思ったのか。とめどなくなりそうなので、ラフカディオ・ハーンの「夏の日の夢」から、浦島太郎に関する一文を引用して、この拙文を締めくくることとしよう。
「一体浦島を可哀相に思うのは正しいことであるだろうか。生そのものが迷夢以外の何ものであろう。途方に暮れた浦島は神々の意図するところを疑い、玉手箱を開けてしまった。そして何の苦もなく息絶えた。人々は神社を建てて浦島明神として祀り上げている、それなのに、どうしてそんなに憐れまなくてはならないのだろう。
西洋だったら話は全く違ってくる。西洋では神々に背いたら、生きながらえて、最大の悲痛をその極みの果てまで味わい尽くさなくてはならない。一番よい時期に安楽そのままの死を遂げるなど許されるはずがない、いわんや死後自ら小さな神となることにおいてをやである。現身の神々の間であれほど長いこと暮らしてきた事実の後で、どうして浦島の愚かさを憐れむことが出来ようか。(「夏の日の夢」小泉八雲)」
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