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2012年01月07日 06時49分14秒

日記/書簡 フィッツジェラルドの手紙 その3

テーマ:日記/書簡
ヘミングウェイ晩年の作品「移動祝祭日」には、1920年代のパリの模様が描かれており、その中には、彼がフィッツジェラルドに出会った頃のことが記録されている。
「彼はいくつも質問をし、作家や、出版社や、批評家や、ジョージ・ホレス・ロリマーのことや、ゴシップや、成功した作家であるための出費などについて、私に語った。そして、彼は、皮肉で、こっけいで、とても陽気で、魅力的で、好感をもたせた。たとえ、だれに対しても好感をもつことを警戒している人にとっても。(移動祝祭日)」。

この部分だけを読むと、ヘミングウェイは好感をもってフィッツジェラルドを描いているように思えるのだが、彼らの蜜月はわずかしか続かず、後年、ヘミングウェイは著書「キリマンジャロの雪」の中でフィッツジェラルドの実名を出し中傷するまでにいたる。

「ぼくの名前を活字にするのは止めてくれたまえ。ぼくが時として深き淵よりを書いたとしても、友人たちにぼくの死体にお祈りを捧げてくれといっているわけではない。きっときみはよかれと思ってしたのだろうが、ぼくのほうは一夜の眠りを犠牲にしたよ。だからきみがそれ(例の短編)を本に入れるときには、ぼくの名前をカットしてくれないか? あれはいい短編だ——きみの傑作の一つだ——『哀れなスコット・フィッツジェラルド云々』がかなりぼくの興味をそいだけれど(1937年6月5日アーネスト・ヘミングウェイ宛書簡)」

「深き淵」とは、フィッツジェラルドが1936年に発表した『崩壊』のことを指す。彼の胸中には、1924年のパリにおいてまったく無名であったヘミングウェイを大手出版社に紹介する労を尽くしたときの気持ちがわずかでもあっただろう。そんなことを考えると、彼のヘミングウェイへの慇懃な文面はあまりに哀れである。

1924年1月。25歳のヘミングウェイはこの年からパリにおいて本格的な文学修業時代を開始する。ジェームス・ジョイスをはじめとする文学者との交際が始まったのもちょうどこの頃からであった。3月には小品集『われらの時代に』をスリー・マウンテンズ社から出版する。初版部数はわずか170部であった。

同じ頃、フィッツジェラルドは、後に『グレートギャツビー』となる作品を新しい視点から書き直していたところであった。
「昨年の夏書いた原稿の多くの部分は中々の出来ばえでしたが、途中何度も中断したので全くひどいものとなり、新しい視点から書き直したとき、かなりの部分を切り捨てなければなりませんでした——ある場合は、一万八千語も切りました(1924年4月16日頃マックスウェル・パーキンズ宛書簡)」

10月27日頃に送られた書簡には、「別便で第三番目の小説『グレートギャツビー』の原稿を送ります。(本当に自分自身の、満足できる小説がとうとう書けたと思います。しかし、『私自身のもの』がどれだけの出来ばえかはこれから判断される問題です)」と記されており、このとき送られた原稿に対して、編集者のマックスウェル・パーキンズは、賞賛の言葉をフィッツジェラルドに送った。
だが、この時点では、作品のタイトルが正式に決まっておらず、フィッツジェラルドは『金の帽子のギャツビー』を提案しており、翌11月20日の書簡では、『トリマルキオ』、『ウェスト・エッグへの道』、『高く飛び上がる恋人』を本人があげている。

それにしても小説のタイトルが、『トリマルキオ』はともかくとして、『金の帽子のギャツビー』や『ウェスト・エッグへの道』、『高く飛び上がる恋人』に決まらなくて本当によかったと思う。少なくともこれらのタイトルに決まっていたら、現在ある『グレートギャツビー』の魅力の2割から3割を失うところではなかったか?

タイトルを巡る問題は、翌12月になっても解決せず、フィッツジェラルドは、『トリマルキオ』または『ギャツビー』でよいかもしれないと書送り、あいまいな人物として描かれているギャツビーを「迫力のある人物」に修正することを伝えている。「彼の人物像を明確にいたします(1924年12月1日頃マックスウェル・パーキンズ宛書簡)」。

そして、彼は再び原稿に向かう。(続)
2012年01月05日 20時58分57秒

日記/書簡 フィッツジェラルドの手紙 その2

テーマ:日記/書簡
「今回新しい小説を書くにあたって、自分を純粋な創作に体当たりさせています——短編小説のときのような安物の想像力ではなく、偽りのない、しかも光り輝く世界の絶えざる想像力を駆使して。だからぼくはゆっくりと注意深く、ときにはかなり苦しんで進んでいます。この本は意識して作られた芸術作品になるでしょう(1924年4月16日マックスウェル・パーキンズ宛書簡)」

「それにしてもなんてつまらない本だろう」。
そう思った僕は、古書店で100円程で購入したばかりの新潮文庫版「華麗なるギャツビー」を放り投げた。
「さっぱりわかりゃしない」。
19歳の僕は、本書に描かれている情景や人物をまったくイメージすることができないまま、第一章の末尾のあの有名な場面、主人公であるギャツビーが緑色の灯火を見つめるシーンにたどり着く前に、早々とこの物語を投げ出してしまった(その後、気を取り直して最後まで読んだが、物語はちっとも僕の中にしみ込まなかった)。
1987年、「ノルウェイの森」を読んだ多くの若者がフィッツジェラルドの著作を手にしたはずだ。特にワタナベくんにより絶賛されていた「グレートギャツビー」を。
自分もその一人であった。

だが、2006年に村上春樹訳の「グレートギャツビー」を読み、あまりの素晴らしさに三日の間に三回読み返した。

そのときのことをブログに綴った。
Ev'rything's gonna be alright:グレート・ギャツビー フィッツジェラルド
http://ameblo.jp/syo-hyo/entry-10643925213.html

Ev'rything's gonna be alright:グレート・ギャツビー再読
http://ameblo.jp/syo-hyo/entry-10041452018.html

フィッツジェラルドが「グレートギャツビー」にかけた意気込みは並々ならぬものがあった。それは、冒頭に引用した、1924年4月16日にマックスウェル・パーキンズに宛てた書簡からも明らかだろう。同じ書簡で彼は次のようにも書き送っている。
「もし、将来余暇を持つことをゆるされるならば、過去に浪費したように、時を浪費することはないと約束いたします。どうか、今、最善を尽くしていると言っているぼくを信じてください(1924年4月16日マックスウェル・パーキンズ宛書簡)」。

1924年6月18日には、「ぼくたちは当地で牧歌的な落ちついた生活をしています。小説はうまく進んでいます——小説は一か月以内に書き終えられるはずです——しかし今、もう一万六千語ぐらい書き足すことを考えているので、確信をもって言えませんが」と同じく、マックスウェル・パーキンズに宛てている。

当時、彼はゼルダをともない、南仏のリヴィエラに別荘を借り、執筆に注力していたのであった。だが、ゼルダとフランス海軍航空士官との恋愛事件や、後に「夜はやさし」の登場人物であるディックとニコルとの優雅な生活のモデルとなったジェラルド・マーフィー夫婦との交際により、「牧歌的な落ちついた生活」ではなかったようである。

なお、ジェラルド・マーフィー夫婦とは1924年頃から交際を始め、「夜はやさし」のモデルとなったことをめぐって一時彼らの間でもめ事が生じたとはいえ、フィッツジェラルドの晩年まで彼ら夫婦はよき理解者であった。
ジェラルド・マーフィーは、ハーヴァードで造園学を学ぶが、フランスに渡り画家を志す。1921年には、南仏リヴィエラのアンティーブ岬に「ヴィラ・アメリカ」と名付けた別荘を構え、妻のセアラと三人の子供と暮らしていたのであった。

先の手紙から2か月後の8月27日には、後一週間程で小説が完成することをマックスウェル・パーキンズに告げる手紙を送る。その中で、「ぼくの小説は今まで書かれたアメリカ最良の小説だと思います。所々あらっぽい所もありますが、約五万語になります。どうか驚かないでください」と自作に関する自信の程をのぞかせる。
一方で、晩年まで良心的な作家であると同時に批評家でもあった彼は、この書簡においてデビュー間もないフランス人作家レイモン・ラディゲの作品を正当に評価している。

2か月後の1924年10月18日付けの書簡では、当時無名であったヘミングウェイの才能を知らせている!
「この手紙を書いているのは、アーネスト・ヘミングウェイという青年について話したいからです。彼はパリに住んでいて(アメリカ人です)、『トランスアトランティック・レビュー』に寄稿していますが、すばらしい未来の可能性をもっている男です。(略)彼は本物です(1924年10月18日マックスウェル・パーキンズ宛書簡)」。

この書簡がきっかけとなって、ヘミングウェイがスクリブナーズ社、いや、アメリカを代表する大作家と、なるのである。(続)
2012年01月04日 20時42分06秒

日記/書簡 フィッツジェラルドの手紙 その1

テーマ:日記/書簡
岩波文庫から刊行されているドストエフスキーの「妻への手紙」の中には、ルーレットで有り金を失ってしまったドストエフスキーが出版元に原稿料の前借りをするために妻に宛てて書いた手紙がたびたび登場する。
彼の書簡を手に取った多くの読者は、ドストエフスキーの書簡に彼の作品に関する彼自身の考えを読みたいと思うだろう。が、妻へ宛てた書簡の多くが、ルーレットで失った金を補填するお願いであり、作品に関する言及はわずかである。

作家は職業柄、様々なイマジネーションをその胸中に蓄えている。日常生活を営むにあたり、膨張し過剰となったその幻たちが発露を求めて動き出す。それらが作品の創作へと向かう力となる場合もあれば、ときにギャンブル、酒、ときに反社会的行為へと作家を駆り立てる場合もあろう。ドストエフスキーの場合にはギャンブルに、フィッツジェラルドは妻のゼルダに焚き付けられるように、放恣な生活へと向かってしまった。

多くの作家の手紙に見られるように、フィッツジェラルドの編集者に宛てた書簡の中にも、原稿料の前借りを頼む内容のものがある。

「(略)やっとスクリブナーズ社との清算ができたのだから、この状態を続けたいと望んでいました。しかし、わたしは今や絶対絶命なのです。今回のお願いを、来年の七月にならなければ支払っていただけないクリスマス・セールの前金としではなく、新しい小説に対する前金という風に考えていただけないでしょうか。スクリブナーズ社が金を借りる場合と同じ利子で。(略)1920年12月31日マックスウェル・パーキンズ宛書簡」

どうやら、彼を担当している編集者であるマックスウェル・パーキンズに金の無心をする書簡を大晦日に送っているのであるが、この日の昼、彼れらは昼食をともにしており、その場で金を工面してくれと言い出せなかったようである。

この1920年という年は、3月に「楽園のこちら側」を出版。4月にはゼルダと結婚し、彼女との無軌道な浪費生活が開始されたのだった。さすがにそんな生活も長続きせず、乱痴気騒ぎを反省した彼らは、5月にコネティカット州ウェストポートに家を借りて、静かな生活をしようとしたのであるが、あえなく挫折してしまう。濫費の結果、印税を前渡ししてくれるように、出版元のスクリブナーズ社の社長に直接手紙を送付することになってしまう。
「今回もまた大変ありがとうございました。この秋、今までの前渡し分に最大限の利子をつけて決算するように会計係に命じてくだされば、わたしも、もっと金銭に関して几帳面になり、少しは浪費を控えるのではないかと思います(略)1920年8月12日スクリブナー宛書簡)」

9月には「フラッパーと哲学者」の出版、翌10月にニューヨーク市内にアパートを借りる。

この書簡だけを見ると、かなりだらしない人間のように思えるフィッツジェラルドであるが、処女作である「楽園のこちら側」のゲラの校正をはじめた彼は、1920年1月21日にマックスウェル・パーキンズに宛てた書簡に見られるように、著書に使われている活字の大きさや書体に対して、細かな注文を編集者につけるなど、細部に関するこだわりを見せる。

また、「美しく呪われた人々」の原稿に描かれた表現に関して、マックスウェル・パーキンズから考え直してはどうかという提案に対して、真っ向から自説を主張する。
「小説の中に聖書に関する挿話についてのお手紙を受け取りましたが、わたしは少々深いに思っております。(中略)その上、物語の中でのその場面の位置からいってもこれはモーリーのペシミズムが増大していくのを示すために必要なのです。(1921年12月12日マックスウェル・パーキンズ宛書簡)」

彼が編集者に注文をつけるのは、本文に使われる書体や活字の大きさは表現だけではない。表紙のデザインに関しても、事細かな注文をつけており、そのやりとりを読んでいると面白い。
「(略)昨夜、本のジャケットの色について電報を打ちましたが、少なくともわたしに送られてきたものは気分の悪くなるような黄色になっていました。以前送ってくださったジャケットは深みのある赤っぽいオレンジ色だったことを覚えていらっしゃると思いますが。ジャケットに描かれている絵について考えれば考えるほど、画家がどうしてあんな男性を描いたのか分からなくなります(略)1922年1月31日頃マックスウェル・パーキンズ宛書簡)」

著書に関する細かな注文の間には、かならず金の話が出てくる。
「(略)また、最後になりましたが、大切なことがあります。わたしはまだ印税の報告を受け取っていません。現在、大変困窮しています。わたしの取り分がまだ千ドルぐらいはあると推測いたします。(1922年8月11日頃マックスウェル・パーキンズ宛書簡)」
「こういう風にしていただけないでしょうか。全額の支払いが終わるまで、劇の最初の印税を担保に当てることはできないでしょうか。勿論、小説が遅れることによって生じる差がでたらその幾部分かを払うということです。(1923年11月7日頃マックスウェル・パーキンズ宛書簡)」

そして、1923年、彼は長編小説に取り組む。「偉大なるギャツビー」である。
2012年01月03日 20時24分09秒

日記/書簡 フィッツジェラルドの手紙

テーマ:日記/書簡
「追伸 とびらの校正等送り返しました。O・Kです。まだ『トリマルキオ』という題にしておくべきだったのではないかと思っています。しかし皆さんの忠告に反対してまで固執するほど馬鹿でも強情でもありません。『ウェスト・エッグのトリマルキオ』は妥協にすぎませんでした。『ギャツビー』は『バビット』に似すぎていますし、『偉大なるギャツビー』は弱いと思います。なぜなら彼の偉大さ、あるいはそれの欠如を諷刺的にさえも強調していないからです。しかし、まあそれはそれでよいでしょう(1925年1月25日 マックスウェル・パーキンズへの手紙)」

年末に「フィッツジェラルドの手紙」を購入した。以前から読んでみたいと思いながら、放擲した一冊となっていたが、この年末年始の休暇を利用して読むことができた。内容があまりに興味深かったので、元旦の一日をかけて、読み切ってしまった。

僕の購入した「フィッツジェラルドの手紙」は、荒地出版から1982年7月25日に出版された初版本である。四六版、ハードカバー、本文のページ数は201ページとなっており、副題に「愛と挫折の生涯から」と付されている。なお、荒地出版からは、フィッツジェラルドの作品集が刊行されていたが、現在では入手困難となっているようである。

書簡集の多くは、書かれた順に書簡を所収する編集が施されていることが一般的であるが、本書は全体が一部と二部とに分けられ、前半に母や妹、妻、娘、愛人、知己友人宛等の手紙によって、後半はチャールズ・スクリブナーズ・サンズ出版社の編集者マックスウェル・パーキンズ宛の手紙を主体としてまとめられている。つまり、宛先ごとにまとめられるという編集が施されているわけである。僕はこの編集に不満である。
10歳の彼が母親メアリーに宛てて書いた手紙の次には、プリンストン大学に入学したことを知らせる17歳の時の電報が紹介される。続いて、1917年7月にミネソタ州セント・ポールに帰郷した彼がフォート・スネリングで少尉任官臨時試験に応募し、同年の10月現役少尉任官辞令を受けたことを母に知らせる書簡が並ぶ。近況を母親に知らせる手紙が5通並べられた後には、妹アナベルへの手紙が2通収められている。1通は19歳の頃の手紙であり、もう1通は39歳の頃の手紙であるが、それらを続けて読んでもほとんど意味が分からないのである。
本書を読むにあたり、読者は彼の生涯についてある程度の知識を持っておかなければ、並べられた書簡に書かれている内容を理解することが難しいわけである。

無論、宛先別に編集することにより手紙の書き手の人物像を鮮明に浮かび上がらせる場合がある。たとえば画家のゴッホ。弟テオに宛てた彼の手紙は、小林秀雄に私小説であると言わせた内容であるが、テオ以外の者に宛てた手紙では、彼が彼自身を語ることが少ない。
フィッツジェラルドの場合には、妻であるゼルダと、編集者であるマックスウェル・パーキンズ宛の書簡には、彼という人間を語る内容があるが、それ以外の人に宛てた書簡は、資料的価値を有する程度の内容である。

本書に関する不満はもう一点ある。
翻訳されている書簡の一部は、抄訳となっており、省略した部分に注を加えて補足しているのである。注を加えるなら、全訳すべきではないか。約3000通残されているといわれている彼の書簡のうち、本書にはわずか約100通が所収されているだけである。

本書は、所収された書簡が少ない上に、様々な人たちに宛てた手紙をばらばらに配置し、また、一部が抄訳されるという甚だ中途半端な編集がなされているのである。

このような中途半端な編集を行うならば、むしろゼルダ宛の手紙だけを完全翻訳し、書簡と書簡との間にある背景を注として加えて一冊にまとめるか、または、編集者マックスウェル・パーキンズ宛の手紙を同じようにまとめたほうがよかった。前者は、人間フィッツジェラルドに、後者は、作家フィッツジェラルドに焦点をあてたものとして流れを持った、まとまったものとなったのではあるまいか。

とはいえ、現在のところ比較的入手しやすい彼の翻訳された書簡集は本書だけである。わずか100通しか所収されていない本書であるが、興味深い内容の書簡も収められている。たとえば、冒頭に引用した「1925年1月25日 マックスウェル・パーキンズへの手紙」では、彼の代表作である「偉大なるギャツビー」のタイトルをめぐって、フィッツジェラルドは『トリマルキオ』を主張している。
ペトロニウスの小説に登場する、派手好きの金持ちのことのようであるが、本書に所収された書簡の中にはそれに関する言及はない。
wikipedia:サテュリコン
http://ja.wikipedia.org/wiki/サテュリコン

ギャツビーを「偉大」であると考えた著者が、「グレートギャツビー」と名付けたのだとばかり想像していたのだが、その実、著者フィッツジェラルドは、ギャツビーのことを偉大であるし、偉大さが欠如した人物として考えていたことが書簡からわかる。

もっとも、著者がどのような意図のもとに登場人物を造型しようとも、著者の意図の通りに登場人物が作り出されるとは限らないし、また、読者や批評家がそのとおりに解釈するとは限らない。フィッツジェラルドの書いていることは、あくまで舞台裏のつぶやきであり、彼の考えが必ずしも「偉大なるギャツビー」の解釈に関する「正解」ではない。
作家により創作された小説は一人で歩き始め、読者により読まれるという過程を経て初めて「小説作品」となるのだから。その意味で、小説(小説だけに限らないが)は、作者と読者との共同作業の上に成り立つのである。

話がそれた。今回は本書に関する内容よりも、本書の編集上の話が中心となってしまった。本書に関しては、面白そうな部分について今後紹介するつもりである。

それにしても、僕にとっては興味深い、関心をそそられる書簡集であるからこそ、前記した本書に対する編集上の僕の不満が高まってしまうのである。

村上さんがフィッツジェラルドの書簡を翻訳してくれないだろうか?
2010年09月26日 07時38分47秒

ゴンクールの日記(下)(五) ゴンクール兄弟

テーマ:日記/書簡
ゴンクールの日記(下) (岩波文庫)/ゴンクール

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作家の日記が生前において公開されることはさほど珍しいことではない。例えば、トルストイは生前、日記の出版を行っていた。もっとも、出版される予定である日記は、彼の妻が目を通すため、彼は妻に隠れて、もう一つの日記をつけていた。彼の死後、全集に「もう一つの日記」も収められるのであるが……。

エドモンも、生前、自分たちの『日記』を出版することに踏み切った。これは、アルフォンス・ドーデ夫妻の薦めによるものであったが、いったん、日記が出版されると、フランス文学界に関する暴露記事が、関係者の間に恐慌をもたらせてしまう。日記の出版を薦めたドーデ夫妻も例外ではなかった。中にはエドモンに対して悪意を抱くもの、日記の内容に抗議するものが現れる始末であった。だが、出版された九巻の日記は、彼等兄弟の書いた日記のすべてではなく、内容が無難であるものを抜粋したものであった。そこで、エドモンは、すべての日記を公開することを自分の死後二十年とする遺言を残した。一九一六年がその年にあたったが、関係者の子孫の反対を考慮した結果、刊行は遅れに遅れ、草稿が公開されたのは一九五六年のことであった。

エドモンは一八九六年七月十六日、七十四歳でこの世を去る。亡くなった年の二月には「北斎」を刊行。五月には最終巻となる「日記」を刊行するなど、旺盛な創作意欲を残しての死であった。巻末にある解題によると、彼の死因は、ドーデの家で、「行水をつかって体を冷やしたのが原因」とある。弟ジュールが亡くなった後、実の弟のように愛した、作家アルフォンス・ドーデがその最後を看取った。

一九〇三年、エドモンの遺言により、アカデミー・ゴンクールが発足。一年間に出版された作品の中で、優秀な散文作品に対して「ゴンクール賞」を授与することと、若く独創的な才能を有する作家たちを経済的に支援することとを目的として設立された機関である。その資金はエドモンの遺産を基金としたものであった。プルーストやボーヴァワールなどが受賞している。

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