2011年07月20日 22時59分16秒
ローマ帝国衰亡史 第一九章ー第二二章 E・ギボン
テーマ:歴史
背教者ユリアヌス
辻邦生が描いた小説に「背教者ユリアヌス」なるものがあることは知っていたが、ユリアヌスなる人物が果たしてどのよう生涯を送ったのかまでは知らなかった。
ユリアヌスとは、西暦三六〇年から三六三年まで在位した、ローマ帝国の皇帝である。
彼が生まれた西暦三三二(?)頃のローマ帝国は、彼の伯父であるコンスタンティヌス一世(大帝)により治められていた。大帝は、三一三年に、キリスト教を公認した勅令であるミラノ勅令を、リキニウス帝とともに発布し、晩年にはキリスト教の洗礼を受け、ローマ帝国で最初のキリスト教に帰依した皇帝となった人物である。
大帝の死後、血族において帝位をめぐる争いが起こる。ユリアヌスは、コンスタンティヌス一世(大帝)の甥にあたる。彼には六歳年上の兄ガルスがいた。ガルスは、コンスタンティヌス一世の三男であるコンスタンテイゥス二世により、副帝にまで起用されるが、あらぬ疑いをかけられ、三五四年に粛正されてしまうのであった。コンスタンテイゥス二世により、いつ命を奪われるかしれない立場にあった若きユリアヌスであったが、皇紀であるエウセビアの温情に守られ、アテナイ市に逃れることとなる。幼い頃からギリシア人の言語、習俗、学問、宗教等に対する嗜好を示していたユリアヌスにとって、「軍の騒擾や宮廷内での陰謀から遠く離れ、もっぱらアカデメイアの森林学園で」、「当代哲学者たちとの自由な交わりに日々」を送ったことは、彼の波乱に富んだ、短い人生において、束の間の幸福な時間であった。後年、背教者と呼ばれる彼の素地が作られたのはこのときであった。
幼い頃には、キリスト教の教えを受けたが、彼の中に根付くことはなかった。「キリストの名とコンスタンティウス帝(コンスタンテイゥス二世)の名と、そしてまた隷属と信仰の観念が、もっとも感受性の鋭敏な少年の想像力の中では、まもなく一つに結びついたのだ(「ローマ帝国衰亡史 第二三章」)」と、ギボンは分析している。
ユリアヌスの兄であったガルス副帝を殺害することにより、帝国のすべてを手中にしたコンスタンテイゥス二世ではあったが、当時のローマ帝国は、相次ぐ蛮族の侵入により、ガリア属州の治安が脅かされ、また、帝国の東方に位置したペルシア王シャプールによりアジア属州が危機にさらされていたのであった。事ここにいたって、コンスタンテイゥス二世は、この広大なローマ帝国を一人の皇帝が統治することなど不可能であることを悟ったのであった。皇紀エウセビアの忠言もあり、彼は、ユリアヌスを副帝とするため、ミラノ宮廷に召還した。帝は、ユリアヌスにガリア諸属州を蛮族から救出し統治するように命じるのであった。「武器よりも書物、生きた人間よりもむしろ死者たちにこそより深く親しんできた彼ユリアヌスの隠遁者的な学究教育からすれば、戦争、統治だのといった実際技術にはまったくの無知といってよかった(「ローマ帝国衰亡史 第一九章」)」。
三五六年、蛮族からガリア諸属州を解放するために派遣されたユリアヌスに随行する兵の数は、わずか三百六十人に過ぎなかった。彼の振る舞いは次のように記されている。
「彼が修めてきた哲学的思索は、彼の心に最も崇高な教訓と最も輝かしい実例をおしえていたばかりか、勇気への愛、名声への欲望、そして死への蔑視をもって彼の魂を鼓舞していた(「ローマ帝国衰亡史 第一九章」)」。
「寝食に関しても天性の寡欲が、よくその節度を忘れさせなかった。食事についても美味佳肴は断然これをしりぞけ、一兵卒に供されるひどい粗食で十分満足した。ガリアの厳寒中にあってすら決して寝室に暖を入れることを許さなかった。ほんの短い仮眠さえとれば、あとは深夜といえども床上の毛布から身を起こして緊急な要務の処理をする、軍営を見まわる、かと思えばまた寸暇を盗んで好きな思索に耽ることも珍しくなかった(「ローマ帝国衰亡史 第一九章」)」。
三度の遠征によりガリア諸属州を蛮族の手から救出したユリアヌスは、制圧した地域に対して善政をなし、ガリアにあった諸都市の復興を果たした。
三六〇年には、「ローマ国民が宦官群や司教群による恥ずべき圧政下に呻吟中のころ、ユリアヌス副帝賛歌の声が、コンスタンティウス帝皇宮内だけを除いて、あとは帝国全土にわたり油然と湧き起こっていた(「ローマ帝国衰亡史 第二二章」)」。
彼は、ローマ帝国の皇帝への階段を駆け上っていくのであった。
辻邦生が描いた小説に「背教者ユリアヌス」なるものがあることは知っていたが、ユリアヌスなる人物が果たしてどのよう生涯を送ったのかまでは知らなかった。
ユリアヌスとは、西暦三六〇年から三六三年まで在位した、ローマ帝国の皇帝である。
彼が生まれた西暦三三二(?)頃のローマ帝国は、彼の伯父であるコンスタンティヌス一世(大帝)により治められていた。大帝は、三一三年に、キリスト教を公認した勅令であるミラノ勅令を、リキニウス帝とともに発布し、晩年にはキリスト教の洗礼を受け、ローマ帝国で最初のキリスト教に帰依した皇帝となった人物である。
大帝の死後、血族において帝位をめぐる争いが起こる。ユリアヌスは、コンスタンティヌス一世(大帝)の甥にあたる。彼には六歳年上の兄ガルスがいた。ガルスは、コンスタンティヌス一世の三男であるコンスタンテイゥス二世により、副帝にまで起用されるが、あらぬ疑いをかけられ、三五四年に粛正されてしまうのであった。コンスタンテイゥス二世により、いつ命を奪われるかしれない立場にあった若きユリアヌスであったが、皇紀であるエウセビアの温情に守られ、アテナイ市に逃れることとなる。幼い頃からギリシア人の言語、習俗、学問、宗教等に対する嗜好を示していたユリアヌスにとって、「軍の騒擾や宮廷内での陰謀から遠く離れ、もっぱらアカデメイアの森林学園で」、「当代哲学者たちとの自由な交わりに日々」を送ったことは、彼の波乱に富んだ、短い人生において、束の間の幸福な時間であった。後年、背教者と呼ばれる彼の素地が作られたのはこのときであった。
幼い頃には、キリスト教の教えを受けたが、彼の中に根付くことはなかった。「キリストの名とコンスタンティウス帝(コンスタンテイゥス二世)の名と、そしてまた隷属と信仰の観念が、もっとも感受性の鋭敏な少年の想像力の中では、まもなく一つに結びついたのだ(「ローマ帝国衰亡史 第二三章」)」と、ギボンは分析している。
ユリアヌスの兄であったガルス副帝を殺害することにより、帝国のすべてを手中にしたコンスタンテイゥス二世ではあったが、当時のローマ帝国は、相次ぐ蛮族の侵入により、ガリア属州の治安が脅かされ、また、帝国の東方に位置したペルシア王シャプールによりアジア属州が危機にさらされていたのであった。事ここにいたって、コンスタンテイゥス二世は、この広大なローマ帝国を一人の皇帝が統治することなど不可能であることを悟ったのであった。皇紀エウセビアの忠言もあり、彼は、ユリアヌスを副帝とするため、ミラノ宮廷に召還した。帝は、ユリアヌスにガリア諸属州を蛮族から救出し統治するように命じるのであった。「武器よりも書物、生きた人間よりもむしろ死者たちにこそより深く親しんできた彼ユリアヌスの隠遁者的な学究教育からすれば、戦争、統治だのといった実際技術にはまったくの無知といってよかった(「ローマ帝国衰亡史 第一九章」)」。
三五六年、蛮族からガリア諸属州を解放するために派遣されたユリアヌスに随行する兵の数は、わずか三百六十人に過ぎなかった。彼の振る舞いは次のように記されている。
「彼が修めてきた哲学的思索は、彼の心に最も崇高な教訓と最も輝かしい実例をおしえていたばかりか、勇気への愛、名声への欲望、そして死への蔑視をもって彼の魂を鼓舞していた(「ローマ帝国衰亡史 第一九章」)」。
「寝食に関しても天性の寡欲が、よくその節度を忘れさせなかった。食事についても美味佳肴は断然これをしりぞけ、一兵卒に供されるひどい粗食で十分満足した。ガリアの厳寒中にあってすら決して寝室に暖を入れることを許さなかった。ほんの短い仮眠さえとれば、あとは深夜といえども床上の毛布から身を起こして緊急な要務の処理をする、軍営を見まわる、かと思えばまた寸暇を盗んで好きな思索に耽ることも珍しくなかった(「ローマ帝国衰亡史 第一九章」)」。
三度の遠征によりガリア諸属州を蛮族の手から救出したユリアヌスは、制圧した地域に対して善政をなし、ガリアにあった諸都市の復興を果たした。
三六〇年には、「ローマ国民が宦官群や司教群による恥ずべき圧政下に呻吟中のころ、ユリアヌス副帝賛歌の声が、コンスタンティウス帝皇宮内だけを除いて、あとは帝国全土にわたり油然と湧き起こっていた(「ローマ帝国衰亡史 第二二章」)」。
彼は、ローマ帝国の皇帝への階段を駆け上っていくのであった。
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