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2011年07月20日 22時59分16秒

ローマ帝国衰亡史 第一九章ー第二二章 E・ギボン

テーマ:歴史
背教者ユリアヌス

辻邦生が描いた小説に「背教者ユリアヌス」なるものがあることは知っていたが、ユリアヌスなる人物が果たしてどのよう生涯を送ったのかまでは知らなかった。

ユリアヌスとは、西暦三六〇年から三六三年まで在位した、ローマ帝国の皇帝である。

彼が生まれた西暦三三二(?)頃のローマ帝国は、彼の伯父であるコンスタンティヌス一世(大帝)により治められていた。大帝は、三一三年に、キリスト教を公認した勅令であるミラノ勅令を、リキニウス帝とともに発布し、晩年にはキリスト教の洗礼を受け、ローマ帝国で最初のキリスト教に帰依した皇帝となった人物である。

大帝の死後、血族において帝位をめぐる争いが起こる。ユリアヌスは、コンスタンティヌス一世(大帝)の甥にあたる。彼には六歳年上の兄ガルスがいた。ガルスは、コンスタンティヌス一世の三男であるコンスタンテイゥス二世により、副帝にまで起用されるが、あらぬ疑いをかけられ、三五四年に粛正されてしまうのであった。コンスタンテイゥス二世により、いつ命を奪われるかしれない立場にあった若きユリアヌスであったが、皇紀であるエウセビアの温情に守られ、アテナイ市に逃れることとなる。幼い頃からギリシア人の言語、習俗、学問、宗教等に対する嗜好を示していたユリアヌスにとって、「軍の騒擾や宮廷内での陰謀から遠く離れ、もっぱらアカデメイアの森林学園で」、「当代哲学者たちとの自由な交わりに日々」を送ったことは、彼の波乱に富んだ、短い人生において、束の間の幸福な時間であった。後年、背教者と呼ばれる彼の素地が作られたのはこのときであった。
幼い頃には、キリスト教の教えを受けたが、彼の中に根付くことはなかった。「キリストの名とコンスタンティウス帝(コンスタンテイゥス二世)の名と、そしてまた隷属と信仰の観念が、もっとも感受性の鋭敏な少年の想像力の中では、まもなく一つに結びついたのだ(「ローマ帝国衰亡史 第二三章」)」と、ギボンは分析している。

ユリアヌスの兄であったガルス副帝を殺害することにより、帝国のすべてを手中にしたコンスタンテイゥス二世ではあったが、当時のローマ帝国は、相次ぐ蛮族の侵入により、ガリア属州の治安が脅かされ、また、帝国の東方に位置したペルシア王シャプールによりアジア属州が危機にさらされていたのであった。事ここにいたって、コンスタンテイゥス二世は、この広大なローマ帝国を一人の皇帝が統治することなど不可能であることを悟ったのであった。皇紀エウセビアの忠言もあり、彼は、ユリアヌスを副帝とするため、ミラノ宮廷に召還した。帝は、ユリアヌスにガリア諸属州を蛮族から救出し統治するように命じるのであった。「武器よりも書物、生きた人間よりもむしろ死者たちにこそより深く親しんできた彼ユリアヌスの隠遁者的な学究教育からすれば、戦争、統治だのといった実際技術にはまったくの無知といってよかった(「ローマ帝国衰亡史 第一九章」)」。

三五六年、蛮族からガリア諸属州を解放するために派遣されたユリアヌスに随行する兵の数は、わずか三百六十人に過ぎなかった。彼の振る舞いは次のように記されている。
「彼が修めてきた哲学的思索は、彼の心に最も崇高な教訓と最も輝かしい実例をおしえていたばかりか、勇気への愛、名声への欲望、そして死への蔑視をもって彼の魂を鼓舞していた(「ローマ帝国衰亡史 第一九章」)」。
「寝食に関しても天性の寡欲が、よくその節度を忘れさせなかった。食事についても美味佳肴は断然これをしりぞけ、一兵卒に供されるひどい粗食で十分満足した。ガリアの厳寒中にあってすら決して寝室に暖を入れることを許さなかった。ほんの短い仮眠さえとれば、あとは深夜といえども床上の毛布から身を起こして緊急な要務の処理をする、軍営を見まわる、かと思えばまた寸暇を盗んで好きな思索に耽ることも珍しくなかった(「ローマ帝国衰亡史 第一九章」)」。

三度の遠征によりガリア諸属州を蛮族の手から救出したユリアヌスは、制圧した地域に対して善政をなし、ガリアにあった諸都市の復興を果たした。
三六〇年には、「ローマ国民が宦官群や司教群による恥ずべき圧政下に呻吟中のころ、ユリアヌス副帝賛歌の声が、コンスタンティウス帝皇宮内だけを除いて、あとは帝国全土にわたり油然と湧き起こっていた(「ローマ帝国衰亡史 第二二章」)」。
彼は、ローマ帝国の皇帝への階段を駆け上っていくのであった。
2011年06月12日 19時14分53秒

ローマ帝国衰亡史 ギボン

テーマ:歴史
「ローマ帝国衰亡史」
昨日から「ローマ帝国衰亡史」を読み始めた。僕は、今年の一月からTwitterに読書記録をつけており、それによると三月六日から「ローマ帝国衰亡史」を読み始めたとある。だが、それから一週間も経たないうちに「東日本大震災」が発生し、十日間ほど僕はまったく読書をしなかった。三月の下旬頃から、再び本を手に取ったが、読む気が失せてしまい、そのまま放置していた。

震災から三カ月が過ぎた。被災地の復旧や復興は、遅々として進まず、福島第一原子力発電所の事故処理は、予断を許さない状況が続いている。

昨日、ひさしぶりに「ローマ帝国衰亡史」を手にとると、読んでみようと思う気持ちが、ふっと、わいてきた。自分の生活が徐々に震災前の状態に戻っているのだろうか。もっとも、今後、あの震災の前と同じ世界に戻るわけではないのだけれど。

本書は、タイトルからも分かるように、ローマ帝国の衰亡をたどった史書である。著者のギボンが本書を執筆したのは、今から二世紀も昔、十八世紀半ばのことであり、彼の母国イギリスが、世界の海を次々と制覇していた時代である。訳者の中野好夫があとがきで述べているように、「訳者は本書をあくまで歴史文学として訳出した。厳密な学問的史書として見れば、すでに二世紀も昔の本書、時代おくれであることはいうまでもあるまい」。
だが、本書が二世紀もの時間の風雪に耐えてきた事実が、本書に登場する人間たちが、いかに生き生きと、魅力的に描かれているかを証ししている。
いつ本書を読み終えることができるかわからないが、僕は始めてみることにした。

iPhoneからの投稿
2010年08月16日 20時33分35秒

戊辰物語 東京日日新聞社会部編

テーマ:歴史
戊辰物語 (岩波文庫 青 431-1)/著者不明

¥735
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本書、「戊辰物語」は、明治維新の戊辰戦争が勃発した一八六八年から六〇年経った、昭和三年に「東京日日新聞」に、古老からの聞き書きにより、戊辰戦争の頃の様子をまとめた記事である。

聞き書きの面白さは、語られる物語が果たして本当であるかどうか、ちょっといかがわしいところにある。「俺が見たっていうんだから、本当のこったあ」と言われたら、まさにそれまでの危うさが、話に妙なリアリティを加える一方、作り話臭さが話の其処此処に感じられるものまであり、話の信憑性に関する判断は、読み手に大きく委ねられている。

歴史の事実に関する語りは、そのほとんどが巷間に伝えられている話である。たとえば新撰組の結成から、幾度かの変遷を辿り、近藤勇の処刑、函館において土方歳三の死によって壊滅するまでを語る部分など、よく知られているものが多く見受けられる。だが、解説で佐藤忠男が指摘するように、「ここには正統的な歴史書には記述されないことが滅多にない民心の動向、時代の気分といったものが語られている」。

戊辰戦争の前夜、江戸の町では。
「高村光雲翁の話によると、殊に町人などは呑気なもので、朝湯などで、流し場へ足をなげ出して、手拭いを頭の上へのせながら、『近い中に公方様と天朝様との戦争があるんだってなア』というような話でも仕合う位のものである、これから、どうしようなどというような考えなどは持つ者もなかった」。
わが国が明治維新を迎えるというときに、江戸の町人のなんと呑気なことかと感心するが、庶民の感覚とはこんなものだろうという気がする。後日、上野の山に彰義隊が立てこもり、官軍との間に戦いが始まるとそれを見物に行く者が後を絶たない。うっかり官軍にでもつかまろうものなら、死骸運びをさせられたとある。

物価に敏感なのも庶民ならではである。開国後物価が高騰したことは知られているところだが、米価が約十倍に跳ね上がっている。
「しかし戊辰の春は前後十年ないような淋しさであった。物価がべら棒に上がったのも一つの原因、嘉永六年ペルリ来の時に米百俵四十九両、一両に付き七斗一升、百文(一銭)持って行って一升買って戻れたのが、慶応三年の冬には百俵で四百二十両、一両八升三合、百文でわずかに一合一勺、ほとんど十倍になっていた。しかしながらそれはそれとして今と違って電信電話のない時代、京都に何が起きようと、江戸は依然として江戸の春であった」。だが、話の終いに「江戸は依然として江戸の春であった」と言ってしまう感覚がやたらとおかしい。

江戸っ子たちは、自分たちが将軍のお膝元に暮らしているという意識がたいそう強かったに違いない。将軍が上洛して江戸にいないと、江戸の町は、「戊辰の正月は将軍様が江戸にいないというので自然門松なども小さ加減で寂しい」とある。鳥羽伏見の戦いに敗れた後、徳川慶喜は江戸に戻ることとなった。すると、「将軍が帰ってくると江戸はまた安心した。暮れは百俵四百二十両の高値に上がった米が、七十両の大下落、百俵三百五十両、一両に一斗、百文(一銭)持って行って一合二勺買えるということになった」。将軍様が戻ってきたから、米価が下がったと言ってしまうあたりが、将軍様贔屓で何とも面白い。

薩長土肥からなる官軍を田舎者と馬鹿にし、啖呵を切った江戸っ子たちも、時代が明治になり、江戸城に天皇陛下がお住まいになり、江戸が東京になる頃には、次第に文明開化の波に呑まれ、帝国の臣民となるのである。
2010年08月03日 21時06分02秒

大東亜戦争肯定論 黄文雄

テーマ:歴史
黄文雄の大東亜戦争肯定論

黄文雄の名前を聞いたことはあったのだが、今まで彼の著書を手に取ったことはなかった。偶然、書店の店頭に並んだある雑誌に彼の文章を見つけ、読んだところ納得できる内容であった。戦前のわが国の植民地支配により、朝鮮半島や台湾、中国東北部が近代化されたという趣旨であった。当たり前と言えば、当たり前のことだが、この当たり前のことを書く人がいないのである。氏の論調に対して反対する意見もあるだろう。

氏が指摘するように、歴史とは事件の積み重ねであり、世界共通の歴史観に集約できるところのものではないが、自分は氏の歴史観に共感し、共鳴するところが大きい

図書館に行き、氏の書籍を探し、「大日本帝国の真実」と「黄文雄の大東亜戦争肯定論」の二冊を借りてきた。「大東亜戦争肯定論」というと、林房雄のものや、富岡幸一郎の「新大東亜戦争肯定論」があり、比較して読むと興味深い。

大東亜戦争肯定論
http://ameblo.jp/syo-hyo/entry-10003463459.html
新大東亜戦争肯定論
http://ameblo.jp/syo-hyo/entry-10018888361.html

第一章 大東亜戦争を世界史の視点から見直す
■「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と称する過ち
なぜ「太平洋戦争」という言葉が流布されたかということから、本書の第一章は始まる。「日本から見たあの戦争を『太平洋戦争』と呼んで相応しいかというと、決してそうではない。なぜなら日本の戦線は太平洋だけに限られなかったからだ(黄文雄)」。一九四一年一二月八日、わが国が米英に宣戦布告した二日後の、十日、大本営政府連絡会議は「今次戦争及び今後生起すべき戦争を、支那事変を含めて大東亜戦争と呼ぶ」ことを決定し、十二日にはそれを閣議決定したのである。閣議決定と同日、内閣情報局は「大東亜戦争と称する所以は、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域を大東亜のみに限定する意味に非ず」と発表している。大東亜とは、「従来から日本、朝鮮、満州、中国を指した『東亜』に、南方地域を含めたものである」。

開戦時、アメリカは大西洋と太平洋の二方面で正面作戦を行っていたため対日戦争を「太平洋戦争」と呼び、イギリスは「極東戦争」と呼んでいた。

戦後、連合国軍最高司令部(GHQ)は、一九四五年十二月十五日に、「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並に弘布の廃止に関する件」、いわゆる「神道指令」において、
「公文書に於て『大東亜戦争』、『八紘一宇』なる用語乃至その他の用語しての日本語としてのその意味の連想が国家神道、軍国主義、過激なる国家主義と切り離し得ざるものは之を便用することを禁止する、而してかかる用語の即刻停止を命令する」としている。連合国軍最高司令部(GHQ)は、大東亜戦争を「国家神道、軍国主義、過激な国家主義などのイデオロギーに基づいた呼称であるとの理由で、公文書における使用が禁止されたわけである(黄文雄)」。連合国軍最高司令部(GHQ)は、公文書だけを対象とせず、メディア、書籍、雑誌にまで検閲を行ったため、神道指令の後、「大東亜戦争」という言葉が「報道、言論界から抹殺されることとなった黄文雄)」。だが、そもそも神道指令は、わが国の神道文化に関する誤解から生じたものである。

内閣情報局は、大東亜戦争の目的を「大東亜新秩序建設を目的」であると掲げているが、開戦に先立つ九月六日の御前会議で決定された「帝国国策遂行要領」には、「自存自衛を全うする為対米(英・蘭)戦争を辞せざる決意」とある。開戦の前月である十一月五日の御前会議で再度決定された「帝国国策遂行要領」では、「現下の危局を打開して自存自衛を完うし、大東亜の新秩序を建設する為此の際対米英蘭戦争を決意」とある。わが国が対米英蘭に対して、宣戦を布告したのもアメリカの経済断交によることを考えると、
一 自存自衛を全うする為
二 大東亜の新秩序を建設する為
の目的の内、一が重きであったと解釈すべきだろう。
「もちろん日本の将兵が、戦争目標として大東亜共栄圏建設、つまりアジアの解放という理念の達成に感激しながら大東亜戦争を戦ったのは事実だ」。「日本人であるならやはり、かの戦争は『大東亜戦争』と呼び、先人たちが国家防衛、そしてアジア解放のために膨大な犠牲を払いながら戦ったことを誇りにするべきではないだろうか(黄文雄)」。


■大東亜戦争は果たして避けられたのか
氏は、そのそも、日本は大東亜戦争を回避することができたのかという問いをたてる。
その際に下記の四点に留意することを促している。
一 二十世紀における歴史の状況、歴史の流れ、ことに歴史の趨勢からみて、大東亜戦争は避けることができたかどうか。
二 列強の競争の時代であった当時、列強間の戦争は果たして避けることはできたのかどうか。
三 東京裁判での日本断罪は、果たして正しかったのか。それにはどのうような問題があったのか。
四 大東亜戦争以後も戦争は絶えず発生していたが、そもそも二十世紀の戦争というものは避けることができるものだったのか。

まず、一に対しては、大航海時代までの歴史を遡り考えなければならない。「スペイン、ポルトガルによる世界の海の分割」、「イギリス、オランダ、フランスによる海洋ならびに各大陸への進出と、それによる世界の分割」、そして、「産業革命と市民革命後の国民国家の成立と成熟によって迎えたのが列強の時代」である。これにより、「ムガール帝国、清帝国、オスマン・トルコ帝国、ロシア帝国といった世界帝国は十九世紀以降、相次いで衰亡、瓦解の運命をたどらざるを得なくなった」。ドイツ、イタリアの統一と、「開国維新を経た東方海上の小国日本の国民国家化と世界史の舞台への登場」があり、「万国対峙」の列強戦争は第二次世界大戦の終結まで続くこととなった。
二に関しては、「二十世紀に入ると非欧米の国々は、日本、タイ、チベット、エチオピアを除いては、みな列強の植民地、準植民地、あるいは属領となった。日本は植民地への転落を避けるために列強の道を歩んだ以上、やはり戦争は不可避だったのである」。
三の東京裁判が、果たして公平、公正なものであったかどうかという疑問を呈した後、「戦後の日本人を支配してきた『東京裁判史観』、あるいは『コミンテルン史観』といったものが果たして正しいかどうかを再検証しなければならない」と提議し、「一元的あるいは一方的に戦争の近因や遠因を糺し、究明するなどは正しくない」と主張している。
四の問題に関しては、戦後、冷戦の時代を迎え、植民地体制の崩壊の波を戦勝国、戦敗国の双方がこうむり、社会主義革命の思想の嵐が吹き荒れる。列強が植民地を失っていく中で、「中ソという二大共産帝国は逆に『解放』という名のもとで領土と『植民地』を拡大していった」。また、第二次世界大戦の世界で発生した内戦が、列強間の国民戦争よりもはるかに熾烈であったことを指摘している。中国の国共内戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、カンボジア内戦での犠牲者の数を見れば理解できる。

続いて、大東亜戦争の否定・肯定から貢献論への転換の必要を説き、「反省謝罪」より「歴史の省察」の必要性を力説する。

まだ第一章だけを簡単に紹介しただけだが、本書は、第六章まで続き、大東亜戦争の世界史への貢献を語るという壮大な歴史書である。

夏になると、ドキュメンタリーやドラマを装い、戦前の日本は悪であるとか、憲法第九条があるから日本は平和なのだといった不思議なイデオロギーを伝播するテレビ番組が雨後の竹の子のように出てくるのだが、いつになれば、わが国の歴史に対して冷静に、かつ公正に報道される日がくるのであろうか。
2010年07月11日 15時20分47秒

戦争を知らない人のための靖国問題 上坂冬子

テーマ:歴史
戦争を知らない人のための靖国問題 (文春新書)/上坂 冬子

¥756
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今年の四月、花見がてら靖国神社を参拝した。肝心の花の方はまだ五分咲きであるにも関わらず、花見客が大勢詰めかけていた。参道の前には屋台が並び、お花見頃の神社の、どこにでもあるわが国の四月のある晴れた日曜日の風景である。ここが靖国神社であるということを除いては。
鳥居をくぐり、手水舎で手を洗い(本来口をすすぐのだが、自分はどうも手水舎の水に抵抗感があり、不敬ではあるが大人になってからすすいだことがない)、賽銭箱に賽銭を入れ、拝礼を行った。ふと隣を見ると、妻は長々と何やらお祈りをしているようだ。

遊就館に行く。入り口には零式艦上戦闘機、いわゆるゼロ戦が展示されており、この戦闘機の美しさに思わず感動してしまった。館内に入ろうかと思ったが、大人800円とあり、どう考えても妻はほとんど興味がないようで、すでにどこでランチを食べようかということで頭がいっぱいになっている表情をしていたので、昼食を食べに、歩いて神保町まで向かった。

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「戦争を知らない人のための靖国問題」を買った。自分には、新書を買うという習慣がない。「帯に短したすきに長し」。新書に対する自分のイメージである。また、最近ではさまざま出版社から新書が発売されており、題名だけが先歩きして、中には内容がともなわないものが数多くあることは、書店の店頭でぱらぱらめくるだけで簡単に分かってしまう。だが、数年ぶりに買ってしまった。

上坂冬子さんは二〇〇九年四月一四日に肝不全によりお亡くなりになった。昭和五年生まれとあるから、享年七八歳であった。「硫黄島いまだ玉砕せず」などにより第四一回菊池寛賞を受賞、また第九回正論大賞も受賞されている。主な著書には「慶州ナザレ園」「生体解剖」「巣鴨プリズン13号鉄扉」がある。

本書の骨子は、わが国には、「いわゆる戦犯」は法的に存在しないことを法的に論証していることと、中華人民共和国や大韓民国による、わが国の首相が靖国神社を参拝することに対する不当な内政干渉を、法的な根拠をもとに批判していることである。

第一部では、首相の靖国参拝に賛成か反対かを問う、世論調査に対して、「私はまともに受けれる気になれない」という。なぜなら、戦争を知らない世代が国民の八十パーセントを占める時代にあって、「戦争も、戦時下の緊張も、靖国神社なるものが戦時下で果たした役割も、まったく知らない人が圧倒的多数を占めているときに、参拝を続けたほうがいいか、悪いかと問い掛けることにどれほどの意味があるというのか」と疑問を呈しておられる。
上坂さんは、あくまで現代から過去を断罪するということはしない。歴史を語るとは、事実を丹念に調べ上げるということであり、現在の価値観で過去を解釈することでないからである。
たまに「現在の価値観で過去を裁くこと」を誤解する人がいて、「そんなことを言ったら、誰も過去について言及できないではないか」と言う人がいる。こういう人は、歴史云々以前に常識がないと判断せざる得ない。事実を調べることと、解釈を施すことは同じではないのだから。

第二部では、終戦直後の靖国神社の立場を、第三部では太平洋戦争(上坂さんを始め、多くの論者が「太平洋戦争」と表記するが、わが国の公文書においては「大東亜戦争」と表記されていたし、そう呼ばれていた。戦後、GHQにより、「大東亜戦争」という言葉の代わりに「太平洋戦争」なる表記を使用することが指示され、それが未だに横行しているわけだ)において、わが国が中国(支那)や韓国に対して、本当に加害者であったかを読者に問う。

第四部において、東京裁判といわゆるA級戦犯について解説を加える。ここでは、東京裁判でのブレイクニー弁護士の発言内容を紹介している。
「戦争での殺人は罪にならない。それは殺人罪ではない。戦争が合法だからだ。つまり戦争は合法的殺人なのだ。たとえ嫌悪すべき行為でも犯罪としての責任は問われない(中略)。何の罪で、いかなる証拠で戦争による殺人が違法なのか。原爆を投下した者がいる。投下を計画し、その実行を命じ、それを黙認した者がいる。その人たちが、いま裁判官の席にいる。」
アメリカの弁護士であるブレイクニーは、アメリカも戦争犯罪を行っているではないかと追求した。だが、裁判長であるオーストラリアのウェッブはこれを却下し、当初の速記録には「以下通訳なし」として記録されなかった。ブレイクニー弁護士の発言内容は正義の言葉であり、その良識ある内容に感銘を受けてしまう。
ここで上坂さんは、一九八三年に講談社が制作したドキュメンタリー映画「東京裁判」について言及しており、戦争を知らない代議士が増えているのだから、国会で本作品を上映することを求めている。

第五部では、靖国参拝に関するメディアの無知を批判し、第六部においてパール判事の功績を紹介。第七部では、いわゆるA級戦犯の中でも東条英機に関して彼の事績と、その「強引な人柄」を分析している。

そして、いよいよ本書の中核である第八部において、サンフランシスコ平和条約第十一条の誤訳について解説を加えている。この件に関しては小林よしのり氏も著書の中で触れているので、ご存じの方も多いだろう。つまり、わが国はサンフランシスコ平和条約第十一条において、戦争裁判の判決を受け入れたのであり、裁判そのものを受け入れたのではないのだ。それが長い間判決と訳する部分が裁判と誤訳され、嘘やデマがまかり通ってきた。この違いは本書や小林よしのり氏の著書に詳しい。そして、中華人民共和国や大韓民国に、いわゆるA級戦犯に関して干渉することができないかという法的根拠を示す。それは「対日平和条約第二十五条」である。

対日平和条約第二十五条
「この条約の適用上、連合国とは(中略)、当該国がこの条約に署名し且つこれを批准したことを条件とする(中略)。ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益も与えられるものではない。また、日本国のいかなる権利、権原又は利益も、この条約のいかなる規定によっても前記のとおり定義された連合項の一国でない国のために減損され、または害されるものとみなしてはならない」
ここにある「連合国」に中華人民共和国や大韓民国が入っていないことは言うまでもない。

第九部では、戦犯というものがわが国には存在しないことを論証する。わが国では、メディアを中心として未だに戦争犯罪人であるとか、A級戦犯と言う言葉が使われているが、一九五三年八月一日、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」の一部改正を行い、戦犯にもこの法律を適用することを、自由党、改進党、左右両社会党の全会一致で賛成したのである。
「つまり、この時点で戦勝国がどんな決定を下そうとも、独立日本政府としては戦死も戦傷病死も戦犯による刑死も、すべて国家のために犠牲になったとして、厚生大臣の認定により、その扱いに一切の差をつけないと決定したのである(援護法附則第二十項)」。それは、「いい換えればここで、日本から戦犯という存在はいなくなったと見てよい」。

第十部では、中華人民共和国が、靖国参拝に関してクレームを付けるその真意と、支那人の歴史観に言及する。第十一部では、国立追悼施設に対する疑問を呈し、第十二部においていわゆる靖国問題の解決の方策を提議する。第十三部に、著者自身が中華人民共和国と大韓民国の指導者に宛てる声明書(案)を示している。

ところどころ自分の考えと合わず、腑に落ちない点もあるが、本書は簡単に読める上に、靖国問題の核心をつく書である。

八月になると、大東亜戦争(いわゆる太平洋戦争)に関する内容の新聞記事やテレビ番組が雨後の竹の子のようにうじゃうじゃと生え始める。でまや嘘に惑わされないためにも、著者が生前超してくださったこの良書から真実を学び取っておかなければならない。

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