2011年01月19日 07時11分45秒
両像・森鴎外(一) 松本清張
テーマ:自叙伝/伝記/評伝
僕の鴎外を敬愛する念は、その硬質な文体にある。それのみならず、官僚である彼の栄達への執着と、家庭人としての忍耐との間にありながら、激しい熱情を内に秘めつつも、自らを傍観者として書き続けられた諸作品には、著者の情念や著者の「自我」が見られないのである。無論、それが、鴎外の公人であったことに大きく由来していることを承知しつつも、近代以降の文学とは、「自我」の物語であったことを考えると、鴎外の文学の内容とは、その硬質にして冷徹な文体と相まって、読者に一切の感傷を与えないものであることは間違いのないことである。
「舞姫」や「うたかたの記」は、情念を描いた物語とする向きもあろう。無論、エリスや、ルウドヰヒ第二世、マリイは、激情に囚われた存在である。だが、多くの文学者が、江戸の戯作から連綿と続く、人情物の夢から覚めやらぬ時代にあって、優柔不断にして意志のない人物である豊太郎や、始終傍観者でしかない巨勢を創り上げた鴎外を、どんな作家と比較することができようか。
三島由紀夫ではないが、鴎外を解釈することは、やっと始まったばかりなのである。
先日、近所の図書館に行くと、日本人作家「も」の列に「両像・森鴎外」と題された本があった。著者は松本清張である。
歴史が好きであった中学生だった頃、松本清張が執筆した邪馬台国に関する新書を買ったことがあったような記憶がある。だが、読み終えた記憶がまったくないところから、きっとあっという間に挫折したのだと思う。自分は大学生になるまでほとんど本を読み切ったことがなかったので。
松本清張が森鴎外の一体何を論じているのだろうか、という興味から本書を手にとった。適当に開いたページには、
「たしかに鴎外には、『おれも書いてみよう』というところが強い。インタレストの赴くところである。それも他からの刺激による。漱石の技を意識して『青年』を書いた。しかし、これは失敗した。文学を『求道』と考える自然主義派からはほど遠い話で、鴎外の作品に体系がないのはそのためである。あるものは自然主義的、あるものはロマン主義的である。それは『遊び』でもある。公務の間に書いているのでよけいそう見えるが、一つには鴎外の聡明なためである。聡明というのは、彼がいわゆる西欧の本を多く読み、知り過ぎているために、かえって一つのものに凝ることができなかったからであろう。焦点の分散である(「両像・森鴎外」二七九頁)」。
とある。
まだ半分ほどしか読んでいないが、鴎外の最初の離婚に纏わる、西周との確執の真相に関して、資料を基に、隠された謎を推理するその手際や、「半日」に描かれた舞台裏に関する彼の推論の進め方は、文学論を読むというよりも、推理小説を読む心地がする。愉快である。
「新幹線は山辺を走る。(中略)窓はすぐに真っ暗になった。山陽本線ではないので、走る灯を眺めても何処を通っているかわからない。私はバッグの中に『鴎外全集』(岩波書店。昭和二十六~三十一年版)を三冊ほど入れてきている。こういうことはめったにない。家に居ては読めないので、たった一晩泊まりだが、この往復を利用しようと思った(「両像・森鴎外」五四頁)」。
いくら旅先で執筆しているとはいえ、電話帳よりも重い鴎外全集を、なんと三冊もバッグに入れて、読み続けるのである。恐るべき人である。
松本清張の晩年の作品といってよい、「両像・森鴎外」に関しては、読み終わったら、何かを書きたいと思っています。
「舞姫」や「うたかたの記」は、情念を描いた物語とする向きもあろう。無論、エリスや、ルウドヰヒ第二世、マリイは、激情に囚われた存在である。だが、多くの文学者が、江戸の戯作から連綿と続く、人情物の夢から覚めやらぬ時代にあって、優柔不断にして意志のない人物である豊太郎や、始終傍観者でしかない巨勢を創り上げた鴎外を、どんな作家と比較することができようか。
三島由紀夫ではないが、鴎外を解釈することは、やっと始まったばかりなのである。
先日、近所の図書館に行くと、日本人作家「も」の列に「両像・森鴎外」と題された本があった。著者は松本清張である。
歴史が好きであった中学生だった頃、松本清張が執筆した邪馬台国に関する新書を買ったことがあったような記憶がある。だが、読み終えた記憶がまったくないところから、きっとあっという間に挫折したのだと思う。自分は大学生になるまでほとんど本を読み切ったことがなかったので。
松本清張が森鴎外の一体何を論じているのだろうか、という興味から本書を手にとった。適当に開いたページには、
「たしかに鴎外には、『おれも書いてみよう』というところが強い。インタレストの赴くところである。それも他からの刺激による。漱石の技を意識して『青年』を書いた。しかし、これは失敗した。文学を『求道』と考える自然主義派からはほど遠い話で、鴎外の作品に体系がないのはそのためである。あるものは自然主義的、あるものはロマン主義的である。それは『遊び』でもある。公務の間に書いているのでよけいそう見えるが、一つには鴎外の聡明なためである。聡明というのは、彼がいわゆる西欧の本を多く読み、知り過ぎているために、かえって一つのものに凝ることができなかったからであろう。焦点の分散である(「両像・森鴎外」二七九頁)」。
とある。
まだ半分ほどしか読んでいないが、鴎外の最初の離婚に纏わる、西周との確執の真相に関して、資料を基に、隠された謎を推理するその手際や、「半日」に描かれた舞台裏に関する彼の推論の進め方は、文学論を読むというよりも、推理小説を読む心地がする。愉快である。
「新幹線は山辺を走る。(中略)窓はすぐに真っ暗になった。山陽本線ではないので、走る灯を眺めても何処を通っているかわからない。私はバッグの中に『鴎外全集』(岩波書店。昭和二十六~三十一年版)を三冊ほど入れてきている。こういうことはめったにない。家に居ては読めないので、たった一晩泊まりだが、この往復を利用しようと思った(「両像・森鴎外」五四頁)」。
いくら旅先で執筆しているとはいえ、電話帳よりも重い鴎外全集を、なんと三冊もバッグに入れて、読み続けるのである。恐るべき人である。
松本清張の晩年の作品といってよい、「両像・森鴎外」に関しては、読み終わったら、何かを書きたいと思っています。
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