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2011年03月29日 23時05分44秒

サンデルの政治哲学 小林正弥

テーマ:思想/宗教
「サンデルの政治哲学」を昨日、読み終えた。震災があってからというもの、なぜか本を読む気が起こらなかった。一方、朝の通勤電車の中で座ることができないこともあって、昨年から続けていた資格試験勉強まで中止していた。
電車の中では、十数年ぶりに音楽を聴いていたのであった。

先週の日曜日に、ぶらりと書店に立ち寄り、何も考えずに三冊ほどの書籍を購入した。三浦知良の「やめないよ」と、曾野綾子の「『いい人」をやめると楽になる」、そして、本書「サンデルの政治哲学」である。

まず、マイケル・サンデルについては、いまさらいうまでもないと思うが、ハーバード大学教授にして、昨年からわが国だけでなく、隣国である韓国でも話題となっている「これからの『正義』を語ろう(以下、「これから~」)」の著者である。基本的に自分は流行の本をほとんど無視しているのだが、今年の正月の深夜、NHKで放送していた「ハーバード白熱教室」には、感銘を受けた。哲学の原点ともいうべき、対話術の持つ、あまりの緊張感に、思わずテレビの前に釘付けになってしまった。
翌日、「これから~」を購入し読んだが、プラトンの著作ほどの緊張感はなく、また、カントやヘーゲルほど難解でもなく、ニーチェほど刺激的でもなく、アランほどの落ち着きもない。まあ、こんなものかと思いながらも、興味深く読了したのであった。いつか、この本の内容について雑感でも書こうと思いながらも、今日まで自分が何も書いていないのには理由がある。「これから~」には、サンデル自身の思想が明確に語られていないためだ。

そこで、本書、「サンデルの政治哲学」について。
まず、本書は、サンデルの思想を簡潔にして、手軽にまとめ上げた良書である。平易に書かれており、初めて哲学書を読む人にも、手軽に読める(もっとも、本書の第五講あたりになると同じ事を延々と繰り返し言葉を変えて書いているだけであり、かなり冗長な感があるのだが)。「これから~」を読んだ読者は、本書をガイドブック代わりに、「これから~」を再読することにより、サンデルの思想への理解が深まるだろう。

だが……。
本書がある程度の説得力を持っているように思えるのは、本書の著者である小林正弥氏がアメリカの政治思想の潮流を、わが国のものに重ね合わせて、読者に見せているからに他ならない。
「戦後日本の自民党政権が、官僚制度と結びつきつつ、功利主義的な考えに基づいて、経済成長を目指してきた」。部分的には、「平等主義的リベラリズムの発想も現れ、福祉政策も一定程度導入された」。それが行き詰まった頃から、イギリスではサッチャーが、アメリカではレーガン政権に、わが国では、小泉政権下における政策に代表されるリバタリア二ズムの考え方が、「現実政治を席巻してきた」。「リーマン・ショックによる世界経済の動揺によって、この考え方は大きく後退して、日本政治史上初めての本格的政権交代が生じた。その結果、成立した鳩山内閣の理念は友愛という『善』を掲げる点において、オバマ政権と同様に、コミュニタリアニズム的である」。
実は、この著者、鳩山元首相を擁護する「友愛革命は可能か」なる本まで書いている人物なのである。他の著書として、「非戦の哲学」なんてものまである。あああ、いつものパターンである。

結論。本書はあくまでサンデルの哲学について書いている部分を拾い読みすること。
これらは、あくまで時間つぶしの知的ゲームであることとわきまえて、流し読みすること。以上。
2010年11月10日 21時24分02秒

「幸福論」 ノイローゼ アラン

テーマ:思想/宗教
幸福論 (岩波文庫)/アラン

¥840
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■ノイローゼ
立派で教養があり頭がいい男が、こんなことを考える。「ぼくは自分に不満なのだ。自分のやっていた仕事やトランプ遊びから離れるやいなや、自分の脳裏にたくさんのささいや理由が駆けめぐり、そのたびごとに喜んだり、悲しんだりさせられている」のだと。しまいには、自分がノイローゼになっているとまで、この男は考え込んでしまっている。

アランの答えはいつだって、軽快だ。
大げさに考えるなよ。頭のよすぎる人間は考えすぎるのだ。自分がなぜよろこんだり、悲しんだりするかを知ろうとする。そこでいらいらしてしまうのだ。よろこびも悲しみも自分が知っている言葉では説明できないものだから。

少し考えてみればわかるように、われわれは自分が少し暇になると何事かを考えてしまうものだ。そうすると、「ささいな理由がどっと出てきて、これが原因でこれが結果であると考え出す」。アランが考えるには、「ほんとうのところ、しあわせだとか、不幸だとかいう理由には価値がないのだ。からだと、からだの働きですべてが決まってくる」。アランの考えは、いたって現実的である。だいたい、暇なときに考え出すことにろくなものなどない。原因と結果という因果律をたどりはじめたところで、現在の自分が幸福であるか、または不幸であるかということを、自分に説明などできないはずである。

だが、生きている以上、さまざまな考えがわれわれの中に生じてしまうものだ。こまかな考えにわれわれは一喜一憂する。だから、「音楽でもいい、絵画でもいい、会って話すことでもいい。こういうものはわれわれの憂鬱を比べようのないほど小さなものにしてしまう」。なんだか、あたりまえのような事をアランが述べているようだが、それらに没頭することを薦めるアランの真意とは、「われわれは大事な仕事から、また有意な道から、書物から、友人たちから生きるすばらしさを」見つけることができるのである。ノイローゼのように鬱々としてしまうことがあっても、「自分がほんとうに得たいと思うものを欲すること、これは往々にして、人生の極意でもある」。自分がほんとうに得たいものとは何か? ふと考えてみるが……。
2010年11月03日 21時41分52秒

「幸福論」 悲しみのマリー アラン

テーマ:思想/宗教
幸福論 (岩波文庫)/アラン

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■悲しみのマリー
自分はメンタル面があまり強くない。些細なことで動揺するし、気持ちがふさぎ込んでしまう。仕事をしていても、仕事の内容や量よりも、むしろ人間関係に疲れてしまう感じがしてならない。数年ごとに仕事を変えている自分の過去を思い返すたびに、自分は失格者であり、適応障害ではないかと思うこともある。気が塞ぐと、酒を飲む。酒は強くないのである。すぐに酔ってしまうのである。適度なところで飲むことを止めることができず、ついつい飲み過ぎてしまい、宿酔の朝を迎える。無論、後悔しながら、鞄を片手に家を後にするのである。だが、些細なことで、からりと気持ちが晴れることもある。そんなときには、酒を飲むこともなく、気持ちよく目覚めることができる。心持ち自信にさえ溢れているのである。

「悲しみのマリーとよろこびのマリー」とは、ある一週間は楽しいのだが、もう一週間は悲しい思いをして生きる娘の話であるそうだ。アランは「有名な話」として紹介しているのだが、自分は知らない。このマリーが躁鬱病であるかどうかまでは分からないが、文章を読む限りは、躁鬱病のようである。

マリーのような症状がある人に対して、心理学の先生はいろいろな観察をかさね、さまざまな処置をほどこした後、赤血球の数を調べたところ、明らかな法則を発見した。「よろこびの季節が終わる頃になると、血球数が減少する。悲しみの季節が終わる頃になると、血球数が増大する」というのである。心理学の先生は、その数値を見つめながら、マリーに「大丈夫ですよ。あすになれば、きっとよくなっていますから」と応えるのであるが、無論、彼女は先生のそんな言葉を信じることはない。

ある男が、この話を耳にして、「わかりきったことじゃないか。われわれの力ではどうすることもできないのだから。考えたところで血球数が増えるわけではないし……。要するにどんな哲学もむだなことだ。この大宇宙というのはそれ自身の法則にしたがって、われわれに喜びをもたらすこともあれば、悲しみを与えることもある」。「僕がしあわせになりたいと望んだところで、そんなこと、散歩がしたいと思うのと大して変わらないではないか」。男はこう考える。自分は悲しいと思いたがっている、この男は、耐えることしかしないのである。

アランは考える。なるほど、さまざまなつらい判断や、いまわしい過去の出来事をくよくよと考えれば考えるほど、悲しみは鮮やかに蘇ってくる。人は自分の悲しみを味わっているのだ。だから、自分の感情の揺れが、血球の数の問題であると「知ることは」、「自分の考えがばかげていたと笑いながら、その悲しみをつっぱねて、からだの中に押しやること」なのだ。そうすれば、悲しみは体の中の単なる疲労か、病気に過ぎなくなる。情念に駆られ、煩悶するよりも、病気であると考える方が楽である。「裏切られることよりも胃の痛みに耐えることの方が楽である」。「ほんとうの友人がいないというよりも、血球数が少ないというほうがいいではないか」。
2010年11月01日 21時15分00秒

「幸福論」 いらだつこと アラン

テーマ:思想/宗教
幸福論 (岩波文庫)/アラン

¥840
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■いらだつこと
考えてばかりいても解決しない問題がたくさんある。いらだつことだって、そのひとつだ。

アランの文章の中では、体を動かすことや、歩くこと、視線を動かすこと、乗り物に乗って移動することなどが、しばしば取り上げられる。「いらだつこと」と題されたプロポにおいても彼は、フェンシングや体操のたとえを挙げている。彼は、体を固定したまま、うーうーとうなってばかりいて、考えに固まっているような哲学者ではない。アランを読むこつは、彼の書いていることを実践してみることである。「幸福論」を読んでも、読者は決して幸福にはならない。「幸福論」を読んだ後には、まず、行動を起こしてみる。

ここで、すこし脱線して、彼の「プロポ」について。「プロポ」は、「哲学断章」と訳されている。日常身辺の話題という意味である。一九〇三年から、「ルアン新聞」はアランの「プロポ」の掲載を開始し、第一次世界大戦が勃発して、彼が前線に志願して出兵するまでの十一年間、ほぼ毎日、「プロポ」の連載を続けた。個々の「プロポ」にはタイトルがつけられているが、これらのタイトルはアラン自身がつけたものではなく、新聞の編集者がつけたものである。

物を食べていて、食べ物が気管にでも入ってしまったら、からだは大騒ぎをはじめる。これは一種の痙攣である。人間は、こういった反応に影響を受けないでいられるだろうか? もしも、誰かが、「自分の力ではどうにもならないぐらい、体が固くなって、筋肉が引きつってくる」と言ったことを、フェンシングや体操の先生が耳にしたら、きっと彼らは大笑いするだろう。自分が考えているように筋肉が動くことを、先生達は知っているのだから。体が硬くなったり、痙攣したりする本当の原因は、一体どうすればいいかわからないことから生じるのだ。だから、こんなときには、体の力を抜くにかぎる。

咳をして、いらだった人は、まるで怒り狂ったかのように自分の体をひっかくような咳をする。こんなときだって、体の力を抜いてしまえば、いらだちは収まるに違いない。

アランは考える。「怒りにわれを忘れた人と、咳の発作に身をまかせている人との間には大きな相違があるとは」思わないと。つまり、それらの人達は、自分の考えが激しい情念のいうままになってしまっているのである。「われわれの病気は情念によってもっと悪くなる」。

情念のいうままになる人達は、「ほんとうの体操」を知らない。「ほんとうの体操」とは、「正しい理性によってからだの動きを支配することである」。情念に駆られそうになったときであっても、からだの自然なうごきを邪魔しないことが、いらだたないこつである。

いらだつように咳をする人と、怒りに我を忘れた人とを同じであると考え、同じ方法によってそれらを解決できると考える、アランの考えは再考するに値する。
2010年10月31日 11時18分45秒

「幸福論」 名馬ブケファラス アラン

テーマ:思想/宗教
幸福論 (岩波文庫)/アラン

¥840
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■名馬ブケファラス
哲学という言葉を聞くと、カントやヘーゲルといった人物を想像しがちだ。彼等の難解な著作を読むと、いかにも哲学を勉強している気分になるものだ。一方、アランの著作は、まるでエッセイ程度の扱いしか受けていないようである。事実、アランをわが国に紹介したのは、哲学者ではなく、桑原武雄や小林秀雄といった文芸評論家であった。アランの文章に見られる、人間観察から導き出された数々の省察には、巨大な哲学大系といったものはない。だが、実生活や実体験に即した、彼の表現に耳を傾けていると、自分の生活や生き方に応用できるものが多いことに気が付く。はっ、と気が付かされることが多い文章である。

彼の数ある著作では、「幸福論」がもっとも有名である。自分はときどき思い出したようにこの本を手にとっては、手当たり次第にページをめくり、その一節を読む。一度読んだだけではぴんとこないことが多い。彼の書いている言葉が自分の言葉として理解できるようになるまでにはかなり時間がかかる。

落ち着いていて、優雅、智慧の源泉、そんな言葉で形容したくなる本書「幸福論」は、「名馬ブケファラス」からはじまる。

「幼い子供が泣いてどうにもなだめられないと、乳母はよくその子の性質や好き嫌いについて、すこぶる妙をえたことを考える。遺伝までひっぱり出して、お父さんのときからもうその素質があるなどと言う。こんな思いつきの心理学をつづけているうちに、乳母はピンを見つけたりする。ピンがすべての本当の原因だったというわけだ。(名馬ブケファラス)」

泣きわめく子供がいる。ひとりの子供が泣き出すと、それにつられるようにまわりの子供も泣き出す。子供は泣くために泣く。こつ(ピン)を心得ている乳母達は、子供を腹ばいにさせる。こうすることで体の動きが変わり、子供の気分が変わる。自然、子供は泣き止むというわけだ。

自分がいらいらしているときや、不機嫌であるときには、そのような感情を抱くには、何か原因があると考えがちだ。または、そんなことを考える余裕さえ失っているかも知れない。たとえば、駅で人を待っているが、いつまで経ってもやってこない場合には、とかくいらいらしたり、不安になったりするものだ。
アランはいう。
「苛立ちだと不機嫌だのは、往々にして、あまり長いあいだ立ちどうしていたことから生ずる。そういうときには、不機嫌な人に対して道理を説いたりせずに、椅子を差し出してやることだ」。

不機嫌な人が自分であった場合には、自分で自分に椅子を差し出すのがよいだろう。それがいらいらしたときの「ピン」である。

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