1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>
2011年09月07日 21時57分54秒

フランス文学 バルタザアル アナトール・フランス(芥川龍之介訳)

テーマ:フランス文学
「その首の上に『これはユダヤ人の王イエスなり』と記したる罪標を置きたり。爰にイエスとともに二人の強盗、十字架につけられ、一人はその右に、一人はその左におかる(マタイ伝第二七章三七—三八節)」

キリストの存在を知ったのは、僕が六歳の頃のことであった。町内に「教会」ができたと、近所の子供たちが騒いでいる。なんでも、そこにいくと、カードとお菓子とがもらえるということが、評判となり、子供たちは群れをなして、赤い尖った屋根に白い十字架が立つ、灰色をした壁を持った小さな教会に集まるのである。僕もその群れの中の一人であった。

子供たちが押し掛けると、教会の関係者である中年の女性が、群がる子供たち一人ひとりを教会に招き入れるのである。入り口で靴を脱ぎ、僕たちが案内された場所は、畳が敷かれた大きな広間のような場所であった。いくつも並んだ折りたたみ式のテーブル。そこは、さながら一昔前の書道教室のようでもあった。

中年女性は、お行儀よく並んで座る子供たちに、五センチメートル四方のカードを一枚、一枚手渡し、その後、そのカードを貼付ける、細長いアルバムのようなものを配る。カードをそのアルバムに貼付けるように、そして、これから言うことを、余白に鉛筆で書き込むことを子供たちに命じた。

僕が手にしたカードには、磔になった男と彼を取り巻く人間が描かれていたが、なにぶんカードが小さいから、その男が何者なのか、またどんな顔をしているのかもわからなかった。そもそもなぜ、この男は、裸になり、木に縛られているのか。とげとげの冠をなぜ冠っているのだ。不思議に思うのだが、当然、何の感興もわかなかった。あまりに奇妙な絵が描かれていたので、あれから四十年近く経つが、未だにあのカードに描かれた絵の断片が僕の脳裏をかすめることがある。

そのとき、彼女が僕たち子供に何を言ったのかまでは、さすがに四十年近く前のことなので、記憶にない。僕は言われるままに、糊を使ってカードをアルバムに張り付け、そのアルバムの余白に鉛筆を使ってなにやら文字を書いた記憶がある。彼女は、キリストの最後に関する、聖書の一節をわれわれに述べたのだろうか?

一通り、お説教を聞き終わった僕たちは、やっとおやつにありつくことができた。お菓子が何であったかという記憶もない。ただ、駄菓子が腹の中に消える頃には、十字架にかかったその奇妙な男に関する好奇心もすっかり消えていた。

その教会に足を運んだのは、後にも先にもその一回きりである。四十年近く経った今でもその教会は存在し、日曜日の午前中には、大勢の信者が集まっている様子が、外からでもわかる。

芥川龍之介が訳した、アナトール・フランスの「バルタザアル」を読み終えて、ふと、幼い頃の記憶が蘇ってきたのであった。

シバの女王バルキスに心を奪われたエチオピアの王バルタザアル。一度は、彼女と結ばれ、至福のときを迎えるのであるが、女の気まぐれに翻弄され、絶望することになる。地上的な一切の欲望から逃れようとするバルタザアルの心を捉えたのは星の声であった。そして、彼は、「驢馬と牡牛との間に生まれむ」とする幼子を探す旅に出ることになった。
「ユダヤ人の王とて生まれ給へる者は、何処に在すか。我ら東にてその星を見たれば、拝せんために来れり(マタイ伝第二章第二節)」。
いかにも西洋人が作りそうな話だが、芥川龍之介の時代なら、いざ知らず、現代において、この話を耳にしても、ややバタ臭い話にしか感じられない。

ただし、若き、芥川龍之介が「文芸」に初めて手を染めた処女作が翻訳作品であり、そこにはキリスト教が色濃く染みていることは、興味深い。

本作については、昨年の九月七日に一文書いているので興味のある方には、下記のリンク先をご覧いただきたい。

Ev'rything's gonna be alright:バルタザアル アナトール・フランス(芥川龍之介訳)
http://ameblo.jp/syo-hyo/entry-10642067906.html
2011年02月01日 23時10分03秒

地獄の季節 アルチュール・ランボオ

テーマ:フランス文学
 ああ、季節よ、城よ、
無疵なこころが何処にある(小林秀雄訳 「ランボオ詩集」)。


季節もわかたず街道を行き、あの世の様に食も絶ち、物乞い等の尤物よりも利慾を離れ、郷もなく友もないこの身を誇り、ああ俺の少年時、想えば愚かな事であった。——漸く俺も合点した。(小林秀雄訳「ランボオ詩集」)

ランボオを読むのは久しぶりである。小林秀雄訳による、岩波文庫版「地獄の季節」を二百円ほどで、大学生協の書物部で買い求め、裸電球が僅かに灯る、四畳半一間の部屋にごろ寝しながら、煙草を燻らせ、頁をめくったのも、今から二十五年も前のことである。近くを車が走るだけで、ガタガタと建物が揺れ、部屋の窓の外にはヤモリが這っていたアパートであった。薄っぺらい壁を隔てた隣の部屋には、会社を首になって昼間から酒に酔っている、四〇代ほどの男性が、ときどき、うなり声を上げたり、怒鳴ったりしていた。

「地獄の季節」。訳が分からぬ内容であるにも関わらず、見知らぬ言葉の音の重なりに幻惑されそうになった記憶がある。砕け散った、無数の色ガラスが日の光を反射する様を眺めるかのようであった。だが、それを人に分かるように散文として説明することはできないし、仮にできたとしても、その行為は無意味に近いだろう。

後年、堀口大學や粟津則雄の訳によるランボー詩集を読んだが、息も詰まるような狭苦しい、あの四畳半の部屋で夢中で読んだ、小林秀雄訳の「地獄の季節」が放った耀きを、僕が感じることはなかった。

小林秀雄訳のランボオを読むのは、二〇〇二年十一月に「小林秀雄全作品集」第二巻で読んで以来であるから、八年ぶりとなる。当時、介護の仕事についていた自分にとって、ランボオの文学とは、自分とは完全に無関係である世界で鳴り響く音でしかなかった。これといった感銘を受けることがないまま、自分は「小林秀雄全作品集」第二巻を閉じたのであった(結局、数年かけて全二十八巻すべてを読むのだが)。
ランボオの文学が、僕の心に化学反応を起こすことはなかった。僕は、リアルな人間の老いと死とを毎日目の当たりにしていたのであった。日常の生の時間に没入していた。観念を弄ぶことは、当時の自分がもっとも嫌うことであった。

書物を再読するたびに湧き上がる感動や、思いを、その時々で比較することにより、今の自分とかつての自分とを比較することができる。無論、ある場所を再訪したり、人間に再会したりすることも自分の試金石となることがあろう。だが、書物は時間の経過や、社会の変化によって変質を被ることがない。例えていうなら、測量における原点である。一冊の本を、自分の人生における原点に見立てて、時間の中を渡って行く人もあるだろう。自分のように、いくつもの原点の中で迷子になってしまった人もいるかも知れない。
僕にとっての原点となりうる書物は、果たして何だろうか。

 ああ、季節よ、城よ。

この幸福が行く時は、
ああ、おさらばの時だろう。

 季節よ、城よ(小林秀雄訳 「ランボオ詩集」)。
2010年12月24日 21時04分08秒

人は云ふ…… フランシス・ジャム

テーマ:フランス文学
フランシス・ジャムは有名な詩人ではない。
ボードレールほど、刺激的ではない。
ヴェルレーヌほど、扇情的ではない。
ランボーほど、革命的ではない。
彼の創造する詩は、冷たく透き通った、清廉な水のように、清らかで無邪気である。
「アンリイ・ド・レニエは云ふ、
ジャムの不器用だと同時に霊妙な言葉遣ひは、彼にあつてはチャァムである」
「フランソワ・コッペエは云ふ、
フランシス・ジャムは小児の魂を持ついている。さうして彼の感受性には愛す可き新鮮さがある」

人は云ふ……
人は云ふ クリスマスの晩の十二時になると、
家畜小屋の信心深いもの影で
驢馬と仔牛が話をすると。
わたしは本当だと思ふ。
なんでそれが偽りなものか?
クリスマスには夜が霙を降らしたり
星が祭壇や薔薇の花にさへなるのだもの。

驢馬と仔牛はその秘密を一年間守りつづけた。
かう言つても人は怪しまぬ。その上わたしは知つている。
彼等があの貧しげな額の奥に大きな秘密を持つてると。
彼等の眼はわたしの眼と立派に話が出来るので。

驢馬と仔牛は 毎日が日曜なので
何時も白い衣を着ているマアガレットの花の側で
空いろのやせた麻の花が わななきながら咲いている
日当たりのいい広いあの牧場以来の友だちだ。

驢馬と仔牛は二人ながら、
あの頭でつかちで、


この後も続くのであるが、引用はこのあたりでよかろう。
クリスマスの夜になるとふと読みたくなる詩である。二十数年前からずっと。
2010年09月07日 21時09分19秒

バルタザアル アナトール・フランス(芥川龍之介訳)

テーマ:フランス文学
バルタザアル 芥川龍之介
せっかく、芥川龍之介全集を買ったので、一つひとつ感想文を書いてみたいと思う。

本作は、芥川龍之介による、アナトール・フランスの作品の翻訳であり、一九一四年二月一二日発行の「新思潮」第一巻第一号に掲載された。翻訳作品であるので、作品について書くよりも当時の芥川についての事実を記す方が興味深いであろう。

芥川龍之介全集第二十四巻にある年譜によると、本作が発表された一九一四年一月頃の芥川は下記のような日常を送っていた。
1月4日 鵠沼にあった山本喜誉司の別荘を訪れ、6日まで滞在する。
上旬 神経質になり、電話では居留守を使い、友人とも会わず、手紙も書かない日がしばらく続く。以後の手紙にも内省的な文面が目立つ。
12日 大学の講義開始。
17日 「バルタザアル」を脱稿。第三次「新思潮」創刊号のための原稿だった。
月末 風邪で床に就く。一時は三九度六分の熱を苦しんだ。この月、芸術座第三回公演で、イプセンの「海の夫人」を観る。

また前年の十二月の月末には、「大学で友人ができない寂しさを感じる」ことを書簡に記している。

一九一四年一月二一日の井川恭宛の書簡では、「アナトオル フランスの短篇を訳して今更ながらわが文のものにならざるにあきれたり 同人中最文の下手なるは僕なり甚しく不快なり」と送り、同月二九日には山本喜誉司宛の書簡に、「バルタサアルは訳して出すことにしました まづいので悲観です」と綴っている。この頃、青年の憂鬱とでもいった気持ちの中で、生きていたようである。そんな頃に彼は、男の情念と女の恋愛の駆け引きとを描いた作品を訳したのであった。なお、芥川の翻訳は、ジョン・レイン夫人訳の英訳本からの重訳である。

第三次「新思潮」が創刊された同じ月に、外国語学校仏文科の同人誌「蛇の舌」創刊号にも、岡野馨による原文による「バルタザール」が掲載されている。「新思潮」創刊号において久米正雄が、芥川の訳は「岡野氏の事実上の誤訳指摘の役目をつとえめて」いると評価している。だが、芥川のものにもささやかな誤訳があり、全集の巻末の注解において指摘されている。全集とは残酷な物である。
2010年08月15日 08時40分59秒

一匹の犬が二匹になる話 マルセル・ベルジエエ

テーマ:フランス文学
本作も「諸国物語」に収められている。

「マルセル・ベルジェエの名も今は全く聞かない」と巻末の解説で小堀桂一郎が書いているように、現代でもほとんど名前を聞かない、フランスの作家である。鴎外が訳出した原典も突き止められておらず、小堀は「新聞の文藝付録所載」のものを鴎外が訳したのではないかと推測している。

気の弱い男が一匹の犬を拾ってきた。男は犬に「リップ」という名前をつけて可愛がっているのだが、家主は、この犬が気に入らない。家主から犬に関する小言を言われ続けていた妻は、とうとうある日、犬を捨ててこいと夫に命じる。

気の弱い男は、リップを連れて、公園に向かう。公園の中で綱と首輪をはずし、リップを放った男は、自由に走り回る犬を置き去りにして、公園を後にする。
「気分は沈んで、メランコリツクになつている。なんだか物足りない。いや、犬足りない。賑やかな中にいるのに、なんといふ寂しい事だらう」。こんな思いを胸に抱きながら、歩いている男は、ふと気がつくと再び公園の前まで来ていたのである。人だかりがしており、どうしたのだろうと思い、近づいてみると、番人がリップと見知らぬ尨犬とを引っ張って連れて行こうとしているところであった。飼い主のいない犬を製革所へやるという。番人に捕まり、製革所に連れて行かれるという自らの運命を受け入れられないリップは、「腰を据えて顔を上げて吠」えているのである。その姿を見て、我慢できなくなった男は、リップに向かって口笛を吹く。心の中ではこの場所から逃げ出したいと男は思いながら、意に反してその足はリップの方に向かうのである。
「あなたの犬ですか」
「ええ、リップという飼犬です」
男は番人からリップを受けてとり、その場を去ろうとしたが、「長いちぢれた毛の、白い、小さな尨犬」が男の顔を見つめながら手を舐めているのであった。
「この小さな犬もわたくしのです」
と男は番人に云った。
一匹の犬を捨ててくるはずが、二匹の犬を連れて帰ることになるのである。物語はここで終わり、男が妻に叱られる、または呆れられる場面はでてこない。

犬嫌いの私でも最後まで読める作品である。単純にして明快な作品で、気の弱い男の、小さな動物に対する優しさがしっかりと表現された小品である。

Amebaおすすめキーワード

    1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>