2010年12月02日 21時08分10秒
ファウスト ゲーテ
テーマ:ドイツ文学
ファウスト
あの世のことなど、どうでもいい。おまえがこの世をぶち壊しても、あとはどうなろうともかまわない。よろこびが湧くのはこの世であって、苦しみを照らすのも、この世の太陽にかぎる。この世からおさらばすれば、それっきり。あの世でも憎んだり愛したりするのか、あの世に上下の区別があるものか、知りたくもない。
(第一部 書斎)
今、「ファウスト」を読んでいる。明日、読み終わるだろう。三度目の「ファウスト」である。僕が初めて「ファウスト」を読んだのは、大学三年生の頃であった。人文書院から刊行されたゲーテ全集の一冊を古書店で購入し、読んだ。高橋健二訳であったと記憶する。なかなかとっつきにくい作品であるが、僕が学生時代に読んだ文学作品の中で感動したものの一つである(余談だが、他に感動した作品としては「レ・ミゼラブル」や「アンナ・カレーニナ」がある)。
二度目に読んだのは、四年ほど前だった。初めて読んだ時ほどの感動はなかったが、複雑にして怪奇である第二部を読んでいると、本作を書きあげるまで数十年をかけたゲーテの苦悩が伺われるようであった。
ゲーテ自身が劇として上映することを企図して執筆した本作の第一部は、たいへん分かりやすい物語の展開となっており、戯曲であるがほとんど散文作品のようでもある。一転、第二部はたいそう難解である。映像としてイメージすることが難しい場面や、作者の意図を理解することが難解である場面が続き、集中力が途切れそうになるが、そこをがんばって最後まで読み進むと、どんでん返しの結末に驚かされ、そして、ひしひしと感動が打ち寄せてくるのである。だが、これがエンターテイメント作品であるかというとそうでもないのだ。人生における苦悩と挫折、欲望に引き回され、快楽をむさぼりつくすファウストを見ていると、読者は知らず知らず、自分の過去を振り返るだろう。後悔を胸に抱いたことのない人間などいないのであるから。
ゲーテが、「ファウスト」を描きはじめたのは二十代のころであったと伝わっている。これは現在、「原ファウスト」と呼ばれており、原稿も見つかっている。だが、彼はこれを公表しなかった。四十代になって「ファウスト断章」と呼ばれる作品を公表する。この「ファウスト断章」に加筆することで、「ファウスト第一部」を刊行したのはゲーテが五十九歳のときであった。さらに「ファウスト第二部」を仕上げたのは、死の前年である八十二歳のこと。松浦寿輝が指摘するように「『ファウスト』は青年期、中年期、老年期と、いわばゲーテの人生のすべてが投影されている」のだ。
確かに、ファウスト博士は、老年を迎えた人間でないと描けない人物である。
悪魔が目の前に現れて、
「おまえを若返らせてやる」と言ったとしたら、俺は一体どうするだろうか? たぶん、いや結構、結構、今更青二才なんぞになどなりたくはない、といって、悪魔を追っ払うのだろうか? はてまた、これは願ってもないチャンスである。十代か二十代ぐらいに若返って、むさぼれるだけの快楽を享楽するのだといって、悪魔の足にすがりつくだろうか?
名作だからといって、神棚に祭られていることがもったいないほどすばらしい文学作品である。高橋健二訳は、やや堅いので初めて読むなら、集英社文庫にある、池内紀訳が読みやすい。自分は、いつか森鴎外訳の「ファウスト」にチャレンジしてみようと思いながら、積読(つんどく)のままであるのだが……。
四、五年前に自分が書いた感想とさほど変わらない文章をこうして書いているから、「ファウスト」に関する自分の思いはほとんど固まってしまったようである。次に読み返すときがくるかどうかは分からないが、老年にでもなったときにふと手にとってみたいと思わせる作品かも知れない。
二〇〇五年に書いたファウストに関する文章
2005年5月29日
http://ameblo.jp/syo-hyo/entry-10002031298.html
二〇〇六年に書いたファウストに関する文章
2006年6月16日
http://ameblo.jp/syo-hyo/entry-10013711361.html
2006年11月4日
http://ameblo.jp/syo-hyo/entry-10019351136.html
あの世のことなど、どうでもいい。おまえがこの世をぶち壊しても、あとはどうなろうともかまわない。よろこびが湧くのはこの世であって、苦しみを照らすのも、この世の太陽にかぎる。この世からおさらばすれば、それっきり。あの世でも憎んだり愛したりするのか、あの世に上下の区別があるものか、知りたくもない。
(第一部 書斎)
今、「ファウスト」を読んでいる。明日、読み終わるだろう。三度目の「ファウスト」である。僕が初めて「ファウスト」を読んだのは、大学三年生の頃であった。人文書院から刊行されたゲーテ全集の一冊を古書店で購入し、読んだ。高橋健二訳であったと記憶する。なかなかとっつきにくい作品であるが、僕が学生時代に読んだ文学作品の中で感動したものの一つである(余談だが、他に感動した作品としては「レ・ミゼラブル」や「アンナ・カレーニナ」がある)。
二度目に読んだのは、四年ほど前だった。初めて読んだ時ほどの感動はなかったが、複雑にして怪奇である第二部を読んでいると、本作を書きあげるまで数十年をかけたゲーテの苦悩が伺われるようであった。
ゲーテ自身が劇として上映することを企図して執筆した本作の第一部は、たいへん分かりやすい物語の展開となっており、戯曲であるがほとんど散文作品のようでもある。一転、第二部はたいそう難解である。映像としてイメージすることが難しい場面や、作者の意図を理解することが難解である場面が続き、集中力が途切れそうになるが、そこをがんばって最後まで読み進むと、どんでん返しの結末に驚かされ、そして、ひしひしと感動が打ち寄せてくるのである。だが、これがエンターテイメント作品であるかというとそうでもないのだ。人生における苦悩と挫折、欲望に引き回され、快楽をむさぼりつくすファウストを見ていると、読者は知らず知らず、自分の過去を振り返るだろう。後悔を胸に抱いたことのない人間などいないのであるから。
ゲーテが、「ファウスト」を描きはじめたのは二十代のころであったと伝わっている。これは現在、「原ファウスト」と呼ばれており、原稿も見つかっている。だが、彼はこれを公表しなかった。四十代になって「ファウスト断章」と呼ばれる作品を公表する。この「ファウスト断章」に加筆することで、「ファウスト第一部」を刊行したのはゲーテが五十九歳のときであった。さらに「ファウスト第二部」を仕上げたのは、死の前年である八十二歳のこと。松浦寿輝が指摘するように「『ファウスト』は青年期、中年期、老年期と、いわばゲーテの人生のすべてが投影されている」のだ。
確かに、ファウスト博士は、老年を迎えた人間でないと描けない人物である。
悪魔が目の前に現れて、
「おまえを若返らせてやる」と言ったとしたら、俺は一体どうするだろうか? たぶん、いや結構、結構、今更青二才なんぞになどなりたくはない、といって、悪魔を追っ払うのだろうか? はてまた、これは願ってもないチャンスである。十代か二十代ぐらいに若返って、むさぼれるだけの快楽を享楽するのだといって、悪魔の足にすがりつくだろうか?
名作だからといって、神棚に祭られていることがもったいないほどすばらしい文学作品である。高橋健二訳は、やや堅いので初めて読むなら、集英社文庫にある、池内紀訳が読みやすい。自分は、いつか森鴎外訳の「ファウスト」にチャレンジしてみようと思いながら、積読(つんどく)のままであるのだが……。
四、五年前に自分が書いた感想とさほど変わらない文章をこうして書いているから、「ファウスト」に関する自分の思いはほとんど固まってしまったようである。次に読み返すときがくるかどうかは分からないが、老年にでもなったときにふと手にとってみたいと思わせる作品かも知れない。
二〇〇五年に書いたファウストに関する文章
2005年5月29日
http://ameblo.jp/syo-hyo/entry-10002031298.html
二〇〇六年に書いたファウストに関する文章
2006年6月16日
http://ameblo.jp/syo-hyo/entry-10013711361.html
2006年11月4日
http://ameblo.jp/syo-hyo/entry-10019351136.html
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