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2011年12月15日 23時14分36秒

アメリカ文学 残り火 フィッツジェラルド

テーマ:アメリカ文学
44歳の若さで世を去ったスコット・フィッツジェラルドが、24歳のときに書いた短編「残り火」は、完成度の高い小説である。むしろ、24歳の若者が書く内容のものとしては、いささか陰鬱であるし、死臭さえ漂っている。

ゼルダとの結婚以来、ニューヨークでの乱痴気騒ぎに明け暮れた自身の生活を醒めた目で観察することができるほど、フィッツジェラルドは彼の年齢に似合わない老成した視点を持っていた。そして、彼の倫理観は、フラッパーを作品に登場させる流行作家のものではなく、彼が生まれ育った中西部の古典的な、いわゆる前時代的なものであった。
後年彼が知人に宛てた手紙に、
「結局のところ僕はこつこつ屋なんだ」
と書くまでに彼の根は勤勉であった。本作に限らず、彼の古い倫理観が作品の土台を支えているのである。
本作も例外ではない。

24歳といえば、「楽園のこちら側」によって、彼がアメリカの文学界に華々しいデビューを果たした年にあたる。ゼルダとの結婚、富と名声と愛のすべてをいっぺんに手に入れた年である。
彼のエッセイ「マイ・ロスト・シティー」には、この時のことが次のように回想されている。
「車はちょうど藤色とバラ色に染まった夕空の下、そびえ立つビルの谷間を進んでいた。私は言葉にならぬ声で叫び始めていた。そうだ、私にはわかっていたのだ。自分が望むものを全て手に入れてしまった人間であり、もうこの先これ以上幸せにはなれっこないんだということが」。
小説家であるジェフリー・カーテンとその妻ロクサンヌ・ミルバンク。彼の友人であるハリー・クロムウェルとその妻キティの織りなす、この不幸な物語は、作者が「もうこの先これ以上幸せにはなれっこない」と叫んだ年に書かれたものである。

ジェフリー・カーテンの作品は「名作と呼ぶべき作品はひとつとして見当たらない」「暇つぶしの娯楽小説」であり、いわゆる通俗作家である。一方、彼の妻であるロクサンヌは「主役女優が病気で倒れた折りに見せた卓抜な演技によって主役に抜擢された」女優であるが、これといってスポットライトを浴びないまま、婚約を機に女優業を引退する。彼らの結婚生活は、ほとんど傍目から見ると児戯に近いものであるのだが、彼らはともに幸せの絶頂にある。ジェフリーが植物状態になってしまうまでは。
ストイックなまでに良人を看病するロクサンヌの11年にも及ぶ介護のかいもなくジェフリーは亡くなってしまう。彼の死は、彼女を解放することはなく、彼女を思い出の中に捕まえてしまったのだった。

良人への献身的な看病に自身を蕩尽させてしまう妻ロクサンヌと、対照的な存在がハリー・クロムウェルの妻キティである。自堕落な彼女は、良人を捨て、木材によって財を成した年配の男と再婚してしまう。

キティの消息を尋ねるロクサンヌにハリーが答える。
「噂ではね。好きなだけ物を買えるわけだし、仕事といっても、夕食時にご亭主のために着飾るぐらいだから」
「なるほど」
良人に先立たれた女と、妻に捨てられた男の間には、いつしかいたわり合いが生まれるのだが、彼らはともに人生に幻滅を感じるのではなく、ただ痛みを感じ、痛みを抱えたまま女は思い出の中に閉じこもり、男は自分の生活の場に戻るのであった。彼らは三十代であるにも関わらず、はやくも人生の黄昏と向かい合わなければならないほどに老成してしまったのだった。だが、彼らが漆黒の闇に沈むことはないだろう。静かに訪れる夜の中、彼らを包む月の光に照らされて、彼らが見つめる深い闇がよろこびのない朝を再び彼らにもたらすだろうから。
2011年12月13日 21時40分31秒

アメリカ文学 リッツくらい大きなダイヤモンド フィッツジェラルド

テーマ:アメリカ文学
「彼は神に向かって、世界で最も大きなダイヤモンドを捧げようとしていた。(リッツくらい大きなダイヤモンド)」

フィッツジェラルドの全作品に共通していることは、一度読んだだけでは分からないということである。無論、彼の作品が難解であるとか、出来が良くないといった意味ではない。二回、三回と読み返すことにより、作品に織り込まれている味わいが、じわじわと読者の心にしみ込んでくるのだ。仰天するようなオチや、トリックがあるわけでもない。まったく種も仕掛けもないのだが、ただ、読めば読むほど、彼の作品がそっと心に触れてくることを感じるだけだ。それは少しずつやってくる。

本作品を初めて読んだのは、僕が19歳の時であったと記憶する。が、あまりのくだらなさに、ものの20ページも読んだところで、投げ出してしまった。
当時、村上春樹の訳した「マイ・ロスト・シティー」を読んで、フィッツジェラルドの名前を知った僕は、荒地出版から刊行されていたフィッツジェラルド作品集第一集から第三集までを購入した。第一集は初期の短編集であり「ジャズエイジの物語」、中期の短編を集めた第二集は「すべて悲しき若者たち」、そして、晩年の作品を集めた「崩壊」(中でも第三集の「崩壊」は長年、手放さずに持っていた。これはできのよい作品集である)。

村上春樹翻訳ライブラリーの一冊である「冬の夢」では「リッツくらい大きなダイヤモンド」のタイトルとなっているが、荒地出版の作品集に所収されていた際の邦訳タイトルは、「リッツホテルぐらい大きなダイヤモンド」であったと思う。タイトルを見ただけで、お分かりだと思うが、この物語、要はリッツホテルぐらいある大きなダイヤモンドを持った一族のお話なのである。馬鹿馬鹿しい話といえばその通りかもしれない。
つまらない作品だと思った19歳の僕はこの作品を投げ出したまま、この25年間、再び手に取ることはおろか、「リッツ」という言葉を耳にするだけで、本作品のバカバカしさを微かに思い出すこととなったのだった。

先日、書店の店頭で、村上さんが訳したフィッツジェラルドの作品集である「冬の夢」を見かけた。一作年ぐらい前に単行本として発売された時から、買おう買おうと思いながら、そのままにしてあったのだが、新書判の翻訳ライブラリーになったことを機に、購入することにした。まさかその中に「リッツくらい大きなダイヤモンド」が収められていることも知らずに!
本書を購入した後に、目次を見て僕が驚いたことは言うまでもなかろう。

仕方ない。せっかく購入したんだ、久しぶりに読んでみようかと思い、まったく期待せずに(ここまで小説作品に期待せずに読書をするのは初めてかもしれない)本作品を読み始めた。

が、予期に反して、これが面白い。無論、本作は、リッツホテルぐらいあるダイヤモンドを持った一族が凋落する物語であることに変わりはない。
本作品に描かれた、富に狂喜し、それを守らんがために、社会から孤立して生活する気違い染みた一族とは、高騰する証券市場により、経済が沸き返っていたアメリカの世相そのものであり、生の人間の欲望そのものである。
すべての富を失いそうになった瞬間、神に向かって宝石を高々と捧げ上げ、本気で神を買収しようとする、傲慢にして常軌を逸したブラドック・ワシントンの姿は、滑稽を通り越して、ほとんど狂気である。

もしも、本作品を一回読んだ後に、「これはちょっとおばかな作品だな」と思って、放っている人がいるならば、もう一度手に取って再読していただきたい。思っているほど馬鹿げた物語ではなく、ふっと心に触れる何かがあるかも知れない。そんな作品である。
2011年09月13日 22時18分58秒

アメリカ文学 「ロング・グッドバイ」を読む その三

テーマ:アメリカ文学
「こっちには本当のギムレットの作り方を知っている人間はいない」と彼は言った。「ライムかレモンのジュースにジンを混ぜて、そこに砂糖をちょいと加えてビターをたらせば、ギムレットができると思っている。本当のギムレットというのは、ジンを半分とローズ社のライム・ジュースを半分混ぜるんだ。それだけ。こいつを飲むとマティーニなんて味気なく思える」(ロング・グッドバイ)

大学を卒業し、就職したばかりの僕は、副社長と一緒にお酒を飲むこととなった。彼は、酒を飲む場所では、周りの人間に、酒の講釈をたれずにはいられない人物であった。大学を出たばかりの、世間知らずである僕を前にして、
「ねえ、君、この生ビールの泡。たいへんクリーミーだね。ビールは泡が美味くなければならない。そう思わないかね?」
と言う。
「ええ、そ、そ、そうですね」と、どもりながら答えるしかない。こっちは、貧乏な学生時代を送ったのである。ビールは値段が高いという理由から、ガード下にある飲み屋では、いつだって熱燗を注文していた。二合徳利に五百円という大枚をはたいていた学生だったのである。くりーみーもなにもあったものじゃない。

そんなこともあり、僕は酒について蘊蓄を垂れることも、垂れられることにもうんざりである。そもそも僕には酒に関する知識など皆無なのである。バーに入っても、スツールに腰掛け、適当なスコッチを注文し、ビールをチェイサー代わりにして、がぶ飲みである。カクテルなんてほとんど飲んだ事ないし、どんな種類があるかさえほとんど知らない。が、ギムレットだけは別である。おしゃれなお酒に無関心である僕が唯一飲むカクテルが、ギムレットであるのも、上に引用したテリー・レノックスの台詞の影響である事は云うまでもない。

「ロング・グッドバイ」の影響から、ギムレットを飲むようになった僕であるが、自分が飲んでいるギムレットが、果たして、テリー・レノックスが言う「本当のギムレット」であるかどうかまでは分からないのであったが……。ローズ社のライムジュース。

ギムレットについて蘊蓄を垂れるテリーに向かって、マーロウは、一切とりあわない。
「酒について、うるさいことは言わないほうでね」。
この一言がいかにもマーロウらしい。彼には蘊蓄が似合わない。

シルヴィアと寄りを戻すことで、再び「金持ち」となったテリー・レノックスは、フィリップ・マーロウの事務所を訪れては、彼とともに、〈ヴィクターズ〉で「ギムレットをダブルにはせず、三杯ずつ」飲む。それが習慣のようになったある日、彼等はいつものように〈ヴィクターズ〉でグラスを傾けていた。
「お座敷プードルのような生活を送る」テリーに向かって、マーロウは皮肉を述べる。テリーの微笑みが遠くの方に浮かんでいる。彼は自らが「ソルトレイク・シティーの孤児院」で育った事を明かすのであるが、マーロウは沈黙を守った。そして、彼等は別れてしまう。
「店のウィンドウの照明が、白髪を捉えて一瞬きらいと光り、それから彼は淡い夜霧の奥に姿を消した」。

マーロウが、皮肉を言ってしまう気持ちも分かる気がするし、食うにさえ困る生活を送ったテリーが、「お座敷プードルのような生活」から逃げ出さないのも分かる気がする。テリーとマーロウとの〈ヴィクターズ〉での最期の会合は、ほろ苦くて、ちょっとだけ寂しい。

いつか、僕に向かって、
「生ビールの泡がクリーミーだ」という人物がいたら、
「酒について、うるさいことは言わないほうでね」と答えるつもりだ。
2011年09月11日 16時50分43秒

アメリカ文学 「ロング・グッドバイ」を読む その二

テーマ:アメリカ文学
「どうせ誰かに迷惑をかけることになるさ。それほど友だちが多くいるようにも見えないしね」
「友だちならいる」と彼は言った。「ある種の友だちはね」。彼はグラスをテーブルの上で回した。(「ロング・グッドバイ」)

フィリップ・マーロウが、再びテリー・レノックスと出会ったのは、クリスマスを迎え、にぎわう商店の前であった。そこにいたのは、「テリー・レノックスのなれの果て」だった。身なりは落ちぶれ、「もう四日か五日は髭を剃っていないように見えた。鼻は色つやを失い、顔色はひどく青白く、長く延びた細い傷跡が目につかないほどだった。目は吹きだまりに開いた二つの穴」であり、いまにも警察が彼を浮浪者としてしょっぴこうとしているところだった。間一髪というところをマーロウに助けられる。

テリーには、ラス・ヴェガスに「ある種の友だち」がいるにもかかわらず、この町で落ちぶれるに任せていた。無論、テリー・レノックスとフィリップ・マーロウとを再び引き合わせるには、このような状況設定が必要であったためである。

テリー・レノックスは、現在、無一文であること。「ある種の友だち」がラス・ヴェガスにおり、彼を助けてくれるらいいこと。〈ダンサーズ〉で彼を置き去りにしたのは、シルヴィア・レノックスという名の、かつて彼の妻であり、大金持ちであること。少しずつではあるが、テリー・レノックスをめぐる謎が明らかとなってくる。

「この次会ったときには、もう私の手には負えない面倒に君がまきこまれているような気がするんだ。なぜそんな思いを抱くのか自分でもわからない。でもとにかく抱いてしまうんだ」と、マーロウが、彼に答えるように、テリー・レノックスには、危うさが潜んでいる。その危うさとは、彼の性格の弱さであり、彼の意思の弱さであるといってしまえばそれまでだが、自分自身を助け起こすことができる手段があるにも関わらず、路上で行き倒れ寸前になるまで、自分自身を放置していることを「何も持ち合わせない人間のプライド」であると説明する彼には、雑多な人間社会の中で、生き残ろうとする意思がそもそも存在しないのだ。彼はすでに死んでしまった人間であるかのごとく、人間の社会をさまよっているのである。彼は他者に何も求めておらず、他者から受け取ることも期待していない。

だが、フィリップ・マーロウがテリー・レノックスのことが気になるように、また、多くの読者が、彼のことが気になるのも、彼の人間的弱さに、自分にもある人間的弱さを見つけてしまうからではなかろうか?

ラス・ヴェガスにテリーが向かう気持ちになったのは、フィリップ・マーロウからの無償の親切を受け取ったからに違いない。が、我々が、自分の住む世界にそれを見出すことはほとんどない。
2011年09月09日 21時32分07秒

アメリカ文学 「ロング・グッドバイ」を読む その一

テーマ:アメリカ文学
「テリー・レノックスとの最初の出会いは、〈ダンサーズ〉のテラスの外だった(ロング・グッドバイ)」

レイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」。この感傷に満ちた、作品を初めて読んでから、はやいもので二十年近くの歳月が流れた。初めて読んだ版は、早川文庫におさめられていた、清水俊二訳のものであった。タイトルは、人口に膾炙した「長いお別れ」である。
二〇〇七年には、村上春樹訳が発売されるサプライズがあったものの、この二十年間、僕は幾度となくこの作品を手に取っては、適当なページを開き、目を通したものだった。今も僕の側には、二〇〇七年に発売された村上春樹訳の「ロング・グッドバイ」のハードカバーの版がある。

さて、何度目になるであろうか、僕は最初から目を通すことにする。

チャンドラーが作りあげた、もっとも魅力的な脇役であるテリー・レノックスが最初に登場する場所は、ロールズロイス・シルバー・レイスの車中である。彼の「左脚が置き忘られたみたいに外に垂れ下がっていた」ので、駐車係がいつまでたっても、ロールズロイスのドアを押さえていなければならない。右ハンドルであるロールズロイスから左脚が外に出ているということは、彼が助手席に腰をかけていたのだろう。彼はひどく泥酔している。

彼の容姿についての記述をあげておこう。
「顔立ちこそ若々しいものの、髪の毛はみごとに真っ白」であり、「ディナー・ジャケットに身」を包んでいる。「我が新しき友人の顔の右側は、凍り付ついたみたいに真っ白で、すらりと細く傷跡がいくつか筋になって残っていた。傷跡に近い部分の皮膚は艶光していた。どうやら相当荒っぽい手術を受けたらしい」。真っ白い髪と、顔の右側に残ったいくつもの細い傷跡とは、この後の話の伏線となっている。もっともこの段階では、彼の頬になぜ傷跡があるのかについて語られることはない。

泥酔しているテリー・レノックスであるが、彼の声と抑揚には、「彼がオレンジ・ジュースより強い飲み物を口にしたとは思えない」とある。フィリップ・マーロウに助け起こされたときには、「謝辞を述べる」。言葉遣いはきわめて慇懃であり、礼儀正しい男、それがテリー・レノックスである。
「『こんな礼儀正しい酔っぱらいには、お目にかかったことがないね』と私は白服に言った。」。

その実、彼の慇懃さとは、「ご親切にしていただいて、なんとお礼を言えばいいのか、ご迷惑をおかけしてまことに申し訳なかった、ということを口にしただけ」なのである。絶えず、他者と一定の距離を保ち、決して近づかず、決して自分の心のうちを見せず、決して打ち解けない。それが彼の習慣となっていたといってよいだろう。

泥酔すると、まるで崩れるように眠り込んでしまい、次に目を覚ましたときにはその時の記憶を失っている。彼は何らかの問題を抱え、それから目をそらそうとしているのである。しきりに泥酔したがる人間の多くがそうであるように、彼は弱い精神を持ち、時間や人間をまるでやり過ごすようにして通り過ぎていく存在なのである。

だが、テリー・レノックスには、「感情に流されずに生きるように努めている」フィリップ・マーロウの「心の琴線に触れる何か」があった。無論、フィリップ・マーロウだけでなく、本作を読む読者のすべての心の琴線に触れる何かが。

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