2011年12月19日 21時33分50秒
エッセイ 走ることについて語るときに僕の語ること 村上春樹
テーマ:エッセイ
「ミック・ジャガーは若いときに『四十五歳になってサティスファクションをまだ歌っているくらいなら、死んだ方がましだ』と豪語した。しかし実際には彼は六十歳を過ぎた今でもサティスファクションを歌い続けている。そのことを笑う人々もいる。しかし僕には笑えない(誰にミック・ジャガーを笑うことができるだろう?)」
テレビでマラソンや駅伝の中継をしていても、最後まで見たことがない。そもそも、それらの中継を見て、どこでどう感動すればよいのだろう? なにもマラソン選手までが嫌いなわけではない。古くは瀬古利彦や宗兄弟、女性選手なら高橋尚子の力走などを見ると、がんばれと結構熱く応援し、数十分ぐらいは熱を込めて応援するのだ。が、さすがに2時間は長い。何を隠そう、僕は、毎年行われている国民行事ともなっている箱根駅伝を生まれてこのかた一度も見たことがない。沿道に立って旗を振るなどはおろか、テレビで見たことさえない。かろうじて、夕方のニュースで結果を知るだけだ。「山の神」がどうのこうのと言っているが、なんのことだかさっぱりわからない。
僕が好きなのは短距離競技である。最近であるなら、ジャマイカのウサイン・ボルトがすばらしい。違う惑星からやってきたスプリンターのようだ。おまけに、彼が本気で走っているように見えないところが恐ろしい。
「走ること」に興味があるが、僕の興味は短距離競技だけなのである。実際、僕自身短距離しか走ってこなかった。長距離を走るほどの根気も体力もない上に、数十分も数時間も黙々と走り続けるだけの集中力がないのだ。
村上さんのエッセイ「走ることについて語るときに僕の語ること」の存在は知っていたのだけれど、ここでいう「走る」とは、ジョギングやマラソンの類いである。だから、僕は読まずに放っておいたところ、ふらりと立ち寄った近所の図書館の棚に、この本がぽつんとあるのがちらりと見えた。先日、「雑文集」を読んだ勢いで、なにげに手に取るとそのまま借りてきてしまったわけである。全9章の内まだ2章しか読んでいないのだが、思ったほど、「走る」ことについて書かれていないから、気楽に読んでいる。村上さんの小説作品には、たしかに人を惹きつける力があるから、気楽に読むことは難しいのであるが、エッセイなどであるならあまり集中しないで読むことができる。
小説家になるまでの経緯であるとか、村上さんの写真がカラーで掲載されているなど珍しい内容を持った本である。だが、このエッセイの中で、興味深いことは、彼が走ることと文章を書くこととを、同じ次元で語っていることである。
僕は長編小説を読むことは好きであるが、長い文章を書くことが苦手である。これは、僕の性格によるだろう。マラソンや駅伝中継さえ満足に最後まで見ることが出来ないのであるから。
数カ月前から小説みたいな物をコツコツと書き始めたが、原稿用紙数十枚ぐらいのところで止まってしまっている。また受験勉強を始めてしまったり、転職活動などに力をそがれてしまったり、仕事でまとめて原稿をつくることが多いから、帰宅するとぐったりと疲れてしまったりで、キーボードを叩くことにうんざりしてしまうのである。自分の中からこんこんとわき上がる思いを、自然に、一定のテンポで呼吸をするように、そして、走るように文字に移していかなければならないのだろうが、どうもぎこちないようである。
走るようにでなくていいから、せめて歩くように文章を書くことが出来るようになればいいのになあと思いながら、真っ黒に焼けた背中を出してランニングをする村上さんの写真を、僕はさっきからずっと眺めている。
テレビでマラソンや駅伝の中継をしていても、最後まで見たことがない。そもそも、それらの中継を見て、どこでどう感動すればよいのだろう? なにもマラソン選手までが嫌いなわけではない。古くは瀬古利彦や宗兄弟、女性選手なら高橋尚子の力走などを見ると、がんばれと結構熱く応援し、数十分ぐらいは熱を込めて応援するのだ。が、さすがに2時間は長い。何を隠そう、僕は、毎年行われている国民行事ともなっている箱根駅伝を生まれてこのかた一度も見たことがない。沿道に立って旗を振るなどはおろか、テレビで見たことさえない。かろうじて、夕方のニュースで結果を知るだけだ。「山の神」がどうのこうのと言っているが、なんのことだかさっぱりわからない。
僕が好きなのは短距離競技である。最近であるなら、ジャマイカのウサイン・ボルトがすばらしい。違う惑星からやってきたスプリンターのようだ。おまけに、彼が本気で走っているように見えないところが恐ろしい。
「走ること」に興味があるが、僕の興味は短距離競技だけなのである。実際、僕自身短距離しか走ってこなかった。長距離を走るほどの根気も体力もない上に、数十分も数時間も黙々と走り続けるだけの集中力がないのだ。
村上さんのエッセイ「走ることについて語るときに僕の語ること」の存在は知っていたのだけれど、ここでいう「走る」とは、ジョギングやマラソンの類いである。だから、僕は読まずに放っておいたところ、ふらりと立ち寄った近所の図書館の棚に、この本がぽつんとあるのがちらりと見えた。先日、「雑文集」を読んだ勢いで、なにげに手に取るとそのまま借りてきてしまったわけである。全9章の内まだ2章しか読んでいないのだが、思ったほど、「走る」ことについて書かれていないから、気楽に読んでいる。村上さんの小説作品には、たしかに人を惹きつける力があるから、気楽に読むことは難しいのであるが、エッセイなどであるならあまり集中しないで読むことができる。
小説家になるまでの経緯であるとか、村上さんの写真がカラーで掲載されているなど珍しい内容を持った本である。だが、このエッセイの中で、興味深いことは、彼が走ることと文章を書くこととを、同じ次元で語っていることである。
僕は長編小説を読むことは好きであるが、長い文章を書くことが苦手である。これは、僕の性格によるだろう。マラソンや駅伝中継さえ満足に最後まで見ることが出来ないのであるから。
数カ月前から小説みたいな物をコツコツと書き始めたが、原稿用紙数十枚ぐらいのところで止まってしまっている。また受験勉強を始めてしまったり、転職活動などに力をそがれてしまったり、仕事でまとめて原稿をつくることが多いから、帰宅するとぐったりと疲れてしまったりで、キーボードを叩くことにうんざりしてしまうのである。自分の中からこんこんとわき上がる思いを、自然に、一定のテンポで呼吸をするように、そして、走るように文字に移していかなければならないのだろうが、どうもぎこちないようである。
走るようにでなくていいから、せめて歩くように文章を書くことが出来るようになればいいのになあと思いながら、真っ黒に焼けた背中を出してランニングをする村上さんの写真を、僕はさっきからずっと眺めている。
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