2011年12月26日 23時04分12秒
日本文学 雁 森鴎外
テーマ:日本文学
「雁」は一幅の書画のような作品である。男と女の淡い情愛が、さながら薄墨で描かれたかのように淡い濃淡を持って描かれているのである。時間が静かに流れるように、「僕」の口から彼と彼女との物語が静かに滾々と語られる。作中において岡田とお玉とが交わす会話は数語に過ぎない。
無論、岡田をはじめ、お玉や彼女の父親のひとり一人には、彼らが辿ってきた人生の物語がある。お玉の父親とお玉とがたどった人生は決して楽なものではなかった。慎ましやかな彼ら親子の日常生活を踏みにじったとある男を恨み続ける破壊的衝動に捉えられることもなく、娘は父親に楽をさせてやりたいとの思いから高利貸しの妾になり、父親は仕方なく娘を妾に出さなければならなかった。世間に顔向けできない日陰者という形を粛々と受け入れることによってではあるが、彼らのささやかな日常生活が取り戻されるのであった。だが、父親に守ってもらうことで生きることが出来る童心を失う代わりに、お玉は、今まで自分が気がつかなかった、人を魅する美しさを自分が持っていることを知るのであった。日常的に交わされる岡田との視線のやり取りの中に、自分の人生を変えるきっかけを彼女が見つけたとしても、それはあながち彼女の夢物語に過ぎないとはいいきれない、現実味を帯びた期待であったろう。
一方、岡田の日常は、定規で線を引いたように正確なものである。毎日決まったコースをたどる彼の散歩道、懐中時計の時間を必ず正確に保つ彼の性癖は、「僕」が「当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた」と評するものである。岡田の持つ「均衡」とは、危うきもの、自分を惑わすものに近づかないということである。自ら定めた道順を自ら反古にしたり、脱線したり、逸脱したりすることがない人間である。そんな彼の心を一時惑わしたのは、お玉の彼を見つめるまなざしであった。だが、彼は一縷のあこがれをお玉に抱きながらも大学を辞め、ライプチヒに向かうのである。
「一本の釘から大事件が生ずるように、青魚の煮肴が上条の夕食の饌に上ったために、岡田とお玉とは永遠に相見ることを得ずにしまった」と結論じみた言葉が作品の末尾に置いているが、作者である鴎外は自分の書いていることを信じていない。こんな格言じみたことでも書かなければ、物語を締めくくることができなかったから、置いたまでのことである。この作品の成立の経緯までは知らないが、「雁」という題名といい、物語の終わらせ方といい、やや唐突の感がないわけではない。鴎外が果たして当初からこのようなオチを考えて執筆を始めたかどうか甚だ疑問である。
そもそも、お玉と岡田とは、自らの人生を逸脱する人間として造型されていないのであるから、仮に彼らが「相見る」ことがあったとしても、お玉は妾としての人生を耐え忍んで生き続けるであろうし、一方、岡田は洋行の路に上ったはずである。作者鴎外が、彼らのパーソナリティをあまりに明確に描き出してしまったため、物語に広がりや意外性がなくなってしまった点が本作の欠点であると同時に、彼らが自らの人生に従順である姿を描ききる点において優れていると思えるのである。
巷では数年おきに純愛小説なるものが流行するようであるが、得てして小説が恋愛感情なるものを深く掘り下げることがないまま、唐突に恋人が事故や病で亡くなってしまい、悲嘆に暮れる主人公といったパターンが一般的である。昨今の純愛小説の多くは、実は恋愛についての物語ではなく、対象喪失についての物語なのである。恋愛対象の死。ステレオタイプとなっている観があるが、繰り返し繰り返し流行するところを見ると、われわれは心のどこかで退屈な日常生活をぶちやぶり、破壊してしまいたい欲望を密かに抱きながら、型にはまった人生を何事もないような顔をして歩み続けているのだと思えてならない。
または、逸脱していく様を目撃したいだけなのかもしれない。だから、僕の胸には「雁」がとても新鮮に映るのである。
無論、岡田をはじめ、お玉や彼女の父親のひとり一人には、彼らが辿ってきた人生の物語がある。お玉の父親とお玉とがたどった人生は決して楽なものではなかった。慎ましやかな彼ら親子の日常生活を踏みにじったとある男を恨み続ける破壊的衝動に捉えられることもなく、娘は父親に楽をさせてやりたいとの思いから高利貸しの妾になり、父親は仕方なく娘を妾に出さなければならなかった。世間に顔向けできない日陰者という形を粛々と受け入れることによってではあるが、彼らのささやかな日常生活が取り戻されるのであった。だが、父親に守ってもらうことで生きることが出来る童心を失う代わりに、お玉は、今まで自分が気がつかなかった、人を魅する美しさを自分が持っていることを知るのであった。日常的に交わされる岡田との視線のやり取りの中に、自分の人生を変えるきっかけを彼女が見つけたとしても、それはあながち彼女の夢物語に過ぎないとはいいきれない、現実味を帯びた期待であったろう。
一方、岡田の日常は、定規で線を引いたように正確なものである。毎日決まったコースをたどる彼の散歩道、懐中時計の時間を必ず正確に保つ彼の性癖は、「僕」が「当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた」と評するものである。岡田の持つ「均衡」とは、危うきもの、自分を惑わすものに近づかないということである。自ら定めた道順を自ら反古にしたり、脱線したり、逸脱したりすることがない人間である。そんな彼の心を一時惑わしたのは、お玉の彼を見つめるまなざしであった。だが、彼は一縷のあこがれをお玉に抱きながらも大学を辞め、ライプチヒに向かうのである。
「一本の釘から大事件が生ずるように、青魚の煮肴が上条の夕食の饌に上ったために、岡田とお玉とは永遠に相見ることを得ずにしまった」と結論じみた言葉が作品の末尾に置いているが、作者である鴎外は自分の書いていることを信じていない。こんな格言じみたことでも書かなければ、物語を締めくくることができなかったから、置いたまでのことである。この作品の成立の経緯までは知らないが、「雁」という題名といい、物語の終わらせ方といい、やや唐突の感がないわけではない。鴎外が果たして当初からこのようなオチを考えて執筆を始めたかどうか甚だ疑問である。
そもそも、お玉と岡田とは、自らの人生を逸脱する人間として造型されていないのであるから、仮に彼らが「相見る」ことがあったとしても、お玉は妾としての人生を耐え忍んで生き続けるであろうし、一方、岡田は洋行の路に上ったはずである。作者鴎外が、彼らのパーソナリティをあまりに明確に描き出してしまったため、物語に広がりや意外性がなくなってしまった点が本作の欠点であると同時に、彼らが自らの人生に従順である姿を描ききる点において優れていると思えるのである。
巷では数年おきに純愛小説なるものが流行するようであるが、得てして小説が恋愛感情なるものを深く掘り下げることがないまま、唐突に恋人が事故や病で亡くなってしまい、悲嘆に暮れる主人公といったパターンが一般的である。昨今の純愛小説の多くは、実は恋愛についての物語ではなく、対象喪失についての物語なのである。恋愛対象の死。ステレオタイプとなっている観があるが、繰り返し繰り返し流行するところを見ると、われわれは心のどこかで退屈な日常生活をぶちやぶり、破壊してしまいたい欲望を密かに抱きながら、型にはまった人生を何事もないような顔をして歩み続けているのだと思えてならない。
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