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2011年12月28日 21時51分06秒

雑感 小林多喜二の手紙を購入する

テーマ:雑感
「時々特高刑事におびやかされている。銀行も長いことないとは思っている。然し、どういう噂か知らないが、まだ銀行はやめていない。やめさせるまで、出る積りだ。君が一日八時間も画の方へ時間がとれることをきいて、君をなぐりたくさえなる。俺達の生活を思ってもみろ(斎藤次郎宛一九二九年一月九日)」

書簡を読むのが好きで、それが高じて書店の店頭で、「手紙」という文字を見つけるとついつい手に取って、気に入ればそのまま買ってしまう。昨日、横浜にあるブックオフに入ると、棚に「小林多喜二の手紙(岩波文庫)」が500円で売られていた。僕は社会主義運動にも、プロレタリア文学にもまったく興味がないので、彼の著作を読んだことがないのであるが、以前から彼の書簡が気になっていたのだった。こうして中古本の店頭で出会うのも何かの縁であると思い、そのまま購入した(今日は、フィッツジェラルドの書簡をAmazonのマーケットプレイスから購入した)。
帰宅して読み始めたところ、ページの間に、フェリス女子大学の赤色と桃色の出席票がそれぞれ一枚ずつ挟まれていたのを見つけた。栞代わりに使ったものだろうか?
出席票か、懐かしいなとふと自分の学生時代を思いながら、前の持ち主は女子大生だったのか。そして、どうでもいいことが自然に次々と頭に浮かぶ。近頃の女子大生が小林多喜二を読むのも近年起こった「蟹工船」の影響かも知れない。何を思っての社会主義、共産主義であろうか。ここ十年ばかり、若い世代にとっては仕事が見つからない、給料が上がらないといった氷河期が続いている。その一方で、高給に恵まれている一部の若者が世間を暗躍している。平凡に生きている若者の心中に渦巻く不満や苛立が行動をともなった思想ともいうべき社会主義の方面に発露することはいたって自然なことである。

僕はその出席票をゴミ箱に捨て、小林多喜二の手紙を読み始めている。僕は特高刑事におびやかされることはないし、突然自分から辞職でもしない限り、当面仕事を失うことはないだろう。僕は一切の思想といったものを信用していない。僕は社会の変革であるとか、改革であるとか、革命であるとかといった体のいい言葉を信じていない。僕はこれまで自分が培ってきた習慣の上にあぐらをかいているだけである。僕は日常生活に根ざした常識だけを信じている。
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2011年12月26日 23時04分12秒

日本文学 雁 森鴎外

テーマ:日本文学
「雁」は一幅の書画のような作品である。男と女の淡い情愛が、さながら薄墨で描かれたかのように淡い濃淡を持って描かれているのである。時間が静かに流れるように、「僕」の口から彼と彼女との物語が静かに滾々と語られる。作中において岡田とお玉とが交わす会話は数語に過ぎない。

無論、岡田をはじめ、お玉や彼女の父親のひとり一人には、彼らが辿ってきた人生の物語がある。お玉の父親とお玉とがたどった人生は決して楽なものではなかった。慎ましやかな彼ら親子の日常生活を踏みにじったとある男を恨み続ける破壊的衝動に捉えられることもなく、娘は父親に楽をさせてやりたいとの思いから高利貸しの妾になり、父親は仕方なく娘を妾に出さなければならなかった。世間に顔向けできない日陰者という形を粛々と受け入れることによってではあるが、彼らのささやかな日常生活が取り戻されるのであった。だが、父親に守ってもらうことで生きることが出来る童心を失う代わりに、お玉は、今まで自分が気がつかなかった、人を魅する美しさを自分が持っていることを知るのであった。日常的に交わされる岡田との視線のやり取りの中に、自分の人生を変えるきっかけを彼女が見つけたとしても、それはあながち彼女の夢物語に過ぎないとはいいきれない、現実味を帯びた期待であったろう。

一方、岡田の日常は、定規で線を引いたように正確なものである。毎日決まったコースをたどる彼の散歩道、懐中時計の時間を必ず正確に保つ彼の性癖は、「僕」が「当時岡田程均衡を保った書生生活をしている男は少かろうと思っていた」と評するものである。岡田の持つ「均衡」とは、危うきもの、自分を惑わすものに近づかないということである。自ら定めた道順を自ら反古にしたり、脱線したり、逸脱したりすることがない人間である。そんな彼の心を一時惑わしたのは、お玉の彼を見つめるまなざしであった。だが、彼は一縷のあこがれをお玉に抱きながらも大学を辞め、ライプチヒに向かうのである。

「一本の釘から大事件が生ずるように、青魚の煮肴が上条の夕食の饌に上ったために、岡田とお玉とは永遠に相見ることを得ずにしまった」と結論じみた言葉が作品の末尾に置いているが、作者である鴎外は自分の書いていることを信じていない。こんな格言じみたことでも書かなければ、物語を締めくくることができなかったから、置いたまでのことである。この作品の成立の経緯までは知らないが、「雁」という題名といい、物語の終わらせ方といい、やや唐突の感がないわけではない。鴎外が果たして当初からこのようなオチを考えて執筆を始めたかどうか甚だ疑問である。

そもそも、お玉と岡田とは、自らの人生を逸脱する人間として造型されていないのであるから、仮に彼らが「相見る」ことがあったとしても、お玉は妾としての人生を耐え忍んで生き続けるであろうし、一方、岡田は洋行の路に上ったはずである。作者鴎外が、彼らのパーソナリティをあまりに明確に描き出してしまったため、物語に広がりや意外性がなくなってしまった点が本作の欠点であると同時に、彼らが自らの人生に従順である姿を描ききる点において優れていると思えるのである。

巷では数年おきに純愛小説なるものが流行するようであるが、得てして小説が恋愛感情なるものを深く掘り下げることがないまま、唐突に恋人が事故や病で亡くなってしまい、悲嘆に暮れる主人公といったパターンが一般的である。昨今の純愛小説の多くは、実は恋愛についての物語ではなく、対象喪失についての物語なのである。恋愛対象の死。ステレオタイプとなっている観があるが、繰り返し繰り返し流行するところを見ると、われわれは心のどこかで退屈な日常生活をぶちやぶり、破壊してしまいたい欲望を密かに抱きながら、型にはまった人生を何事もないような顔をして歩み続けているのだと思えてならない。
または、逸脱していく様を目撃したいだけなのかもしれない。だから、僕の胸には「雁」がとても新鮮に映るのである。
2011年12月25日 10時15分44秒

番外編 藤子・F・不二雄ミュージアム

テーマ:番外編
今年の9月に川崎市にオープンした、藤子・F・不二雄ミュージアムに行った。

藤子・F・不二雄ミュージアム
http://fujiko-museum.com/pc.php

小田急線の向ケ丘遊園駅から徒歩15分ほどの府中街道に面した場所にある。入館するには、あらかじめチケットを購入しておかなければならず、当日券の発売はない。自分たちは午後2時から入館できるチケットを購入していたので、入館20分ほど前に施設の前に到着したのであるが、すでに100人ほどのお客さんが列をなしていた。
施設の入り口の前には、茶色いタイルが貼られた壁に沿っていくつもの小窓があり、そこには20~30センチほどのドラえもんやパーマンなどのフィギュアが展示されていて、気の早い人たちはカメラや携帯電話で写真を撮っていた。僕の横では妻が懸命にシャッターをきっていた。エスパー魔美が彼女のお気に入りだそうである。

photo:01



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入館時間が迫るにつれ、列に並ぶ人の数が増え始めると、施設職員がお客さんを30人ずつ順に施設に導き入れ、施設の説明を始める。やっと入館できた施設の入り口では、「おはなし電話」という、手のひらに乗る程度の大きさをした機器を渡される。なんでも、展示物の前でこの機器のボタンを押すと、展示物の説明をしてくれるそうである。なるほど、展示室を見ると、この「おはなし電話」を耳に押当てている大人や子供がだんごのように群がっている。

展示室はセル画や、マンガの原稿が展示されており、なかなか面白い。中でも、ドラえもんとのび太君、ドラミちゃんの三人が立体画像となって、マンガが出来るまでの手順を説明するコーナーは内容があり、また、見ていて楽しかった。

展示の中心はあくまで、吹き出しに印画紙を貼った段階の原稿であり、藤子・F・不二雄さんのマンガの好きな方には、十分楽しめる展示だと思う(「ジャングル黒べえ」が彼らの作品であることを初めて知った!)。著作権の関係から、展示されていないキャラクターがいるが、これは大人の事情といったところだろう。
30年以上前に読んだ、ドラえもんの第一話や、パーマンの第一話が展示されていたのを目にすると、懐かしい思いがしたのと同時に、自分が子供の頃のマンガにある表現がストレートであることに笑いを禁じ得なかった。たとえば、ドラえもん第一話では、ドラえもんが唐突にのび太の部屋に登場し、30分後にはのび太が「首つり」をすると予言する。怪訝に思うのび太であったが、事実、その時間になると、彼の家の前で羽子板をしていたしずかちゃんが屋根に上げてしまった羽を取ろうとして転落し、木の枝にトレーナーの首をかけてしまう。「首つりね」とあざ笑うジャイ子。
当時の子供(自分を含む)は、十分笑えたはずである。
ドラえもん第一話を見ながら声を出して笑っている大人がおり、その姿がマンガの「ミュージアム」にはふさわしいと思ったのだった。「ふむ、ふむ」なんて感心しながらおとなしくして黙って見なければならないマンガなんて面白くなかろう。

ドラえもんやパーマン、その他のキャラクターが登場する10分ほどのミニシアターを見物したが、声優さんの声が自分に馴染みのないものばかりで、今ひとつしっくりこない。だが、今時の子供が見る分には十分楽しめる内容である。

施設の2階から3階に向かう途中に、庭があり、そこにはパーマンが昼寝をしていた。他にもドラえもんに登場する「積んである土管がある原っぱ」や「どこでもドア」、恐竜とドラえもんとのび太くんがあり、多くの人がそれらの前で写真を撮っていた。もう少しこういった展示物が多ければ、よいなあと思う。たとえば、のび太君の部屋やドラえもんのタイムマシーンを再現するとか、原寸大のキャラクターのフィギュアをもっと展示していれば、もっと楽しい施設になっていると思う。

photo:03



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楽しみにしていたミュージアムカフェには驚くほど、人がつめかけており、待ち時間180分とある。空いた席もあるが、並んで順番を待つお客さんの数が多く、並んで食べようという気持ちが一気に失せてしまった。仕方ないから、とりあえずメニューを貼っているフライヤーだけ写真に撮る。

ミュージアムカフェ
http://cafe.fujiko-museum.com/

photo:05



ミュージアムショップでは、キャラクターグッズが販売されており、自分は、人の良さそうな表情をしたオバケのQちゃんのぬいぐるみ(約2千円程)を妻に買ってくれと言ったのであるが、彼女は4千円を超えるコロ助のぬいぐるみがよいという。しばし対立したのであるが、ぬいぐるみはやめて、1枚260円のクリアファイルを購入することで妥協し、結局、ドラえもん、エスパー魔美、ドラえもん、パーマンをそれぞれ1枚ずつ購入し、ミュージアムを後にした。

ミュージアムショップ
http://shop.fujiko-museum.com/

向ケ丘遊園駅まで向かう途中にある交差点では、寒風の吹きすさぶ中、鯛焼きの冠りものを頭に付けた、妙な青年がたこ焼きの入った皿を手に持ち、路行く人たちにたこ焼きの試食を進めている。どうやら、たこ焼きの宣伝をしているようであるが、たこ焼きの路上試食とはなかなか斬新な発想である。
やっぱり、人の良さそうな表情をしたQちゃんのぬいぐるみを買って帰ればよかったなあと後悔しながら、僕は、青年の頭の上に乗った鯛焼きの冠りものをぼんやりと眺めていた。
2011年12月22日 21時33分04秒

番外編 文学ときどきジャズ

テーマ:番外編
このアメバブログには、アクセス解析の機能がついており、どういった検索ワードからブログにアクセスされたかがわかる。こういった機能は、紙に印刷した活字の本にはまねできないことであり、現にこういった解析を商売としている人たちが世の中には存在するぐらいであるから、一定のマーケットを形成しているのであろう。

拙ブログへの検索ワードのアクセスを見ると、もっとも多いキーワードは、村上さんの短編のタイトルである「四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」である。この作品はかなり人気があるようで、そのことは、村上さん自身があるエッセイの中で語っていたのを読んだことがある。

四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて 村上春樹

http://ameblo.jp/syo-hyo/entry-10452183073.html

次に多いのは、なんと「子ども子育て新システム」なのである。これは今年の7月6日に書いた下の記事によるらしい。
番外編 子ども・子育て新システム 政府中間報告
http://ameblo.jp/syo-hyo/entry-10945628572.html

自分は保育関連の仕事をしている。保育士を志す人の手助けをする仕事である。詳細についてここで書くことは出来ないが、児童家庭福祉関連の法令や制度、保育士試験についてはかなり詳しいはずだ。保育関連の記事を数回このブログに載せたことはあるが、あくまで余興である。だから、上にある記事にアクセスする人がいてもおかしくはないのであるが、自分としては軽く書き流したといった記事であり、このブログの本線はあくまで「文学ときどきジャズ」である。

無論、自分が書いたものを読んでくれる、拙ブログにアクセスしてくれることはたいへんありがたいことであると思う反面、いたって複雑な気分である。

民主党は、平成24年6月に、「子ども子育て新システム」の法案を提出するとしているが、先日、公開された基本制度ワーキングチームの議事次第を見て、驚かれた方も多かろう。
すでにニュースで取り上げられているのでご存知の方も多いと思うが、目玉政策であった幼保一体化が骨抜きになるどころか、「三元化」されかねない有様である。幼保一体化について厚生労働省と文部科学省とにより決着がつけられないから、「『総合施設法』は、学校教育法体系における学校及び児童福祉法体系における児童福祉施設としての性格を併せ持つ『一体化施設』であることに鑑み、国民にとって分かりやすい体制となるように、所管について整理することが必要」と宣言している。たしかに「少子化社会対策基本法」を所管しているのは内閣府であるが、子どものための施設も内閣府が所管するのは、「子どもの最善の利益」からの判断であるとは考え難い。民主党が唱える「子ども子育て新システム」全般にいえることは、この「システム」とやらは、ちっとも「子どもの最善の利益」が考慮されていないということである。

このことについて書き始めたら、止まりそうにないので、「子ども・ 子育て支援法(仮称)」等が提出されてから、この件について書いてみたいと思う。

が、あくまでこのブログは「文学ときどきジャズ」なのだ。

内閣府:子ども・子育て新システム検討会議作業グループ 基本制度ワーキングチーム 第17回会合
http://www8.cao.go.jp/shoushi/10motto/08kosodate/wg/kihon/k_17/index.html
2011年12月20日 23時03分51秒

雑感 漫ろ

テーマ:雑感
年の瀬が近づいたせいでもないが、漫ろな気持ちで、本棚を眺めている。八月に試験が終わって後、すぐに無心になって「芥川龍之介全集」を読み始め、十一月の半ばまでかかって小説作品をすべて再読したあと、懲りもせず再び受験勉強を始めることにした。そのため、おおっぴらに本を読むことに後ろめたさを感じてしまう毎日となってしまった。とはいえ、ごそごそと本を手に取ってはちらちらとのぞき、拾い読みしているのではあるが。たとえば、村上春樹のエッセイ「走ることについて語るときに僕の語ること」や「雑文集」。

一方、読みたい本がたまっている。たとえば、サン・テグジュペリの「城砦」。これは、サンテックスが晩年まで執筆し続けた作品であり、黙示録的世界に自身の思想をちりばめたものである。三分冊となっており、結構な分量である。現在絶版となっているはずだから、入手が困難ではなかろうか。十二年前に偶然三省堂本店で購入したが、読み始めては挫折、読み始めては挫折を繰り返して、そのまま放置してしまっている。つい先日読み始めたが、やはり挫折。なぜか読めない。サンテックスを読み解くための重要作品であるにも関わらず。
今年の五月には「戦時の記録」全三巻をいっきに読破したので、その勢いを借りたかったのだが。

「ローマ帝国衰亡史」全十一巻。これは一昨年古書店からまとめて購入し、テンポよく読み進めていたのであるが、三月十一日の大震災により読書はおろか、体中の気力まで失われてしまい、そのまま放置してしまっている。第五巻まで読み進めたが、登場するローマ皇帝の名前がどれも似ていて覚えるのが面倒である上に、時代が下るにつれ皇帝であると僭称する者が乱立。たとえ正帝であっても、数年ごとに暗殺されたり、失脚したりした結果、わが国の首相のごとくころころ代わってしまうので、人間関係がさっぱり把握できず、落ち着いて読めない。背教者と呼ばれたユリアヌス帝のところまでは面白く読めたのであるが。

ドストエフスキー。ほぼ毎年、彼の長編小説のどれか
(「罪と罰」「白痴」「悪霊」「未成年」「カラマーゾフの兄弟」)を読み返しており、今年は「ローマ帝国衰亡史」と平行して、「罪と罰」を読み返していたのだが、江川卓訳の岩波文庫版の上巻が終わったあたりで、これも震災にて中断。気持ちが落ち込むニュースばかり目にしている中で、いまだドストエフスキーの世界に浸る気分には到底なれず、完全に放擲してしまっている。

こうして、ふと今年を振り返ると、やはり、三月の震災前と震災後とでは、何かが違ってしまっている。

一歩外に出ると、街は震災前の状態に戻っているように見える。十一月頃からはクリスマスソングが流れ出し、街路にはイルミネーションが灯っている。駅の中や地下街、小売店、百貨店の店頭には、光が溢れており、食料品店の店頭にも商品が所狭しと陳列されている。近所のスーパーマーケットの通路にはミネラルウォーターの箱が小山のように積み上げられ、乾電池がずっと安売りされている。週末になると公道を暴走する連中がどこからともなく湧き始めた。僕は、節電が叫ばれていた時期には手さえ触れなかった、わが家のオーディオの電源を入れ、毎晩ジャズを聴くようになった。毎月数枚のCDを購入するようになり、ジャズばかり聴いている。

だが、何かが違っている。
最近では募金箱を見かけることも稀となり、「がんばれ日本」というコピーさえ目にしない。今年の漢字が「絆」であることを知り、多くの人がそういえばそんな言葉がテレビからよく流れていたと思い出したのではないか。東京電力のHPに掲載された電気予報など誰も見ていないだろうし、関西電力が呼びかけている節電の声もむなしく響く。福島第一原子力発電所を廃炉にするまでには三十年以上の歳月と、一兆五千億円を超えるコストがかかると試算されている中で、原発事故が収束したと宣伝する政府の声も同じくむなしい。短期間に集中的に国民の脳に刷り込まれた金子みすゞの「いいえ、誰でも」や、奇妙なキャラクターが数多く登場した「ポポポポーン」もすでに忘却の彼方である。

僕の気持ちが漫ろであるのは、師走のためばかりでもない。無論、試験勉強のためでもない。
僕の感じるのは、ただむなしさといらだたしさである。
昨日から、森鴎外の「雁」を読みはじめた。

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