2011年09月25日 13時43分27秒
日本文学 二流の人 坂口安吾
テーマ:日本文学
「どさくさはすんだ。どさくさと共にその一生もすんだといふ茶番のやうな儚さを彼は考へてゐなかつた。」
坂口安吾を久しぶりに読むと、彼の独特の語り口にのせられてしまい、「二流の人」をあっという間に読了してしまった。「二流の人」とは、豊臣秀吉の軍師であった黒田如水のことである。
本作の内容とは関係ないが、僕は、この作品をiPhoneで読んだ。正確にいうなら、青空文庫にあるデータを、青空文庫リーダーである豊平文庫を用いて読んだのだ。
電子書籍が、市場を拡大していると、マスコミは煽っているが、それを実感しているのは、書店経営者や、出版取次各社、そして、出版社を経営している人であり、それら以外にはいないだろう。文章を読むにあたって、紙媒体であろうが、なかろうが、読むことができればよいと考えている多くの人々にとって電子書籍の趨勢など、どうでもよいことだ。
学習教材の編集という、しがない商売を生業としている自分にとっては、電子書籍の動向が気になっていた。趣味の範疇で読書をするならば、紙に印刷された文字を読む方が、読みやすいと考えていたのだが、本作を電子書籍として鑑賞したことにより、今更ながら、紙媒体の危機を感じた次第である。
自分の電子書籍に関する知識は浅いが、保守的な思考の持ち主である僕がさほどの違和感を覚えずに、小説作品を電子書籍で読み終えてみて、なるほどこれは便利な代物であると理解できる反面、電子書籍に向く文体や向かない文体、向くジャンルや向かないジャンルがあるのかしら、と思ったのだ。
まず、文体の定義であるが、文体とは語り口とでもいえばよいだろうか。書き言葉と話し言葉、和文や漢文といったものをイメージすればよいだろう。
電子書籍で読みやすい文体とは、話し言葉であり、平易な語句だけで構成されたものである。いちいち、辞書や専門用語を調べなければならないのは、面倒だ。
電子書籍の特性を生かすことのできるジャンルなら、映像や音を用いて説明できる実用的なものがよい。観念の操作を必要とする哲学や倫理学あたりは、読むのに骨が折れそうだ。ジャンプページを含むものや、注釈の多いものなどは、読んでいて混乱しそうである。
それらを考えると、漫画やライトノベルといったジャンルなど、電子書籍に適したものだろう。それらの分野の読者層が、総じて低年齢であることも、電子書籍の市場には、追い風と理解してよかろう。
ここまで、「二流の人」とは、まったく関係ないことを長々と書き綴ってしまったが、安吾の軽妙な文体は、まさに電子書籍で味わうにもってこいである。
黒田如水の人生が、二流で終わってしまったのも、彼の覚悟のなさが、彼を豊臣秀吉や、徳川家康としなかったと、安吾は見切っている。戦国時代のどさくさにまぎれて暗躍したのが彼の一生であり、大平の世のおいて、彼の活躍できる場などどこにもなかった。「どさくさと共にその一生もすんだ」のだ。
なるほど、安吾の人間を図る尺度は、その人物の覚悟の度合いにあったことは、間違いない。事実、彼は徳川家康を狡猾な古狸としてのみ描いているわけではない。
「家康も三成も山城も彼等の真実の魂は孤立し、死の崖に立ち、そして彼等は各々の流義で大きなロマンの波の上を流れてゐたが、その心の崖、それは最悪絶対の孤独をみつめ命を賭けた断崖であつた。この涯は何物をも頼らず何物とも妥協しない詩人の魂であり、陋巷に窮死するまでひとり我唄を唄ふあの純粋な魂であつた」。
如水にも、そのような頃があった。かつて彼も詩人であった。だが、秀吉亡き世にあって、彼は若き日の「死の崖」をすでに失っていたのである。「己れの才と策を自負し、必ず儲る賭博であるのを見ぬいてゐた」ただの一賭博者でしかなかった。
もっとも、現代社会において、如水を「二流の人」だとして、あざ笑うことができる人間が、果たして何人いることか。とかく傍観者になりがちな自分は、本作を読了した後、自分は、二流でさえないことを寂しく思い、また、安堵したのであった。
iPhoneからの投稿
坂口安吾を久しぶりに読むと、彼の独特の語り口にのせられてしまい、「二流の人」をあっという間に読了してしまった。「二流の人」とは、豊臣秀吉の軍師であった黒田如水のことである。
本作の内容とは関係ないが、僕は、この作品をiPhoneで読んだ。正確にいうなら、青空文庫にあるデータを、青空文庫リーダーである豊平文庫を用いて読んだのだ。
電子書籍が、市場を拡大していると、マスコミは煽っているが、それを実感しているのは、書店経営者や、出版取次各社、そして、出版社を経営している人であり、それら以外にはいないだろう。文章を読むにあたって、紙媒体であろうが、なかろうが、読むことができればよいと考えている多くの人々にとって電子書籍の趨勢など、どうでもよいことだ。
学習教材の編集という、しがない商売を生業としている自分にとっては、電子書籍の動向が気になっていた。趣味の範疇で読書をするならば、紙に印刷された文字を読む方が、読みやすいと考えていたのだが、本作を電子書籍として鑑賞したことにより、今更ながら、紙媒体の危機を感じた次第である。
自分の電子書籍に関する知識は浅いが、保守的な思考の持ち主である僕がさほどの違和感を覚えずに、小説作品を電子書籍で読み終えてみて、なるほどこれは便利な代物であると理解できる反面、電子書籍に向く文体や向かない文体、向くジャンルや向かないジャンルがあるのかしら、と思ったのだ。
まず、文体の定義であるが、文体とは語り口とでもいえばよいだろうか。書き言葉と話し言葉、和文や漢文といったものをイメージすればよいだろう。
電子書籍で読みやすい文体とは、話し言葉であり、平易な語句だけで構成されたものである。いちいち、辞書や専門用語を調べなければならないのは、面倒だ。
電子書籍の特性を生かすことのできるジャンルなら、映像や音を用いて説明できる実用的なものがよい。観念の操作を必要とする哲学や倫理学あたりは、読むのに骨が折れそうだ。ジャンプページを含むものや、注釈の多いものなどは、読んでいて混乱しそうである。
それらを考えると、漫画やライトノベルといったジャンルなど、電子書籍に適したものだろう。それらの分野の読者層が、総じて低年齢であることも、電子書籍の市場には、追い風と理解してよかろう。
ここまで、「二流の人」とは、まったく関係ないことを長々と書き綴ってしまったが、安吾の軽妙な文体は、まさに電子書籍で味わうにもってこいである。
黒田如水の人生が、二流で終わってしまったのも、彼の覚悟のなさが、彼を豊臣秀吉や、徳川家康としなかったと、安吾は見切っている。戦国時代のどさくさにまぎれて暗躍したのが彼の一生であり、大平の世のおいて、彼の活躍できる場などどこにもなかった。「どさくさと共にその一生もすんだ」のだ。
なるほど、安吾の人間を図る尺度は、その人物の覚悟の度合いにあったことは、間違いない。事実、彼は徳川家康を狡猾な古狸としてのみ描いているわけではない。
「家康も三成も山城も彼等の真実の魂は孤立し、死の崖に立ち、そして彼等は各々の流義で大きなロマンの波の上を流れてゐたが、その心の崖、それは最悪絶対の孤独をみつめ命を賭けた断崖であつた。この涯は何物をも頼らず何物とも妥協しない詩人の魂であり、陋巷に窮死するまでひとり我唄を唄ふあの純粋な魂であつた」。
如水にも、そのような頃があった。かつて彼も詩人であった。だが、秀吉亡き世にあって、彼は若き日の「死の崖」をすでに失っていたのである。「己れの才と策を自負し、必ず儲る賭博であるのを見ぬいてゐた」ただの一賭博者でしかなかった。
もっとも、現代社会において、如水を「二流の人」だとして、あざ笑うことができる人間が、果たして何人いることか。とかく傍観者になりがちな自分は、本作を読了した後、自分は、二流でさえないことを寂しく思い、また、安堵したのであった。
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