2011年08月31日 22時34分43秒
エッセイ 映画『可憐なるギャツビー』についてのコメント 村上春樹
テーマ:エッセイ
スコット・フィッツジェラルドの代表作である、「グレート・ギャツビー」は、これまで数回読み返したのだが、残念ながら、映画だけはいまだに見たことがない。
文学作品の映画化に対する、僕の根強い不信感が、僕が二の足を踏む原因となっていることは重々承知している。
たとえ、村上さんが、映画版の「グレート・ギャツビー」を次のように評したとしてもである。
「映画版『可憐なるギャツビー』の見どころとして第一にあげるべきはフランシス・コッポラの脚本の見事さで、実にうまく原作を刈りこんですっきりとした作品にしあげている(映画『可憐なるギャツビー』についてのコメント)」。
それにしても、フランシス・コッポラが脚本を書いているとは!
僕は映画が嫌いな訳ではない。ジョン・ランディス監督の「ブルースブラザーズ」など、初めて見た十四歳のとき以来、何十回繰り返し見ていることだろう(つい最近も見た)。何度見ても飽きのこない映像作品があることだって、承知している。ただ、文学作品を原作とする映画に、どうも感心できないのである。
今年の三月に、映画「パンドラの匣」を見た。ひどいできであった。太宰治のこの原作。僕の好きな題材であるだけに、映画の惨憺たるできに、腹立たしくなったぐらいである。俳優はみんな熱演であった。小道具やセットもよかった。音楽もよしとしよう。それだけに、この映画の監督の姿勢に、原作に対するリスペクトを、感じることができなかったことが残念である。原作には、敗戦直後の日本における期待と不安とが描かれていた。だが、映画には、何も描かれていないのである。ただ、結核病棟でちゃらちゃらと恋愛みたいなことをしているのである。映像の背景から何も浮き上がってこないのである。
映画 パンドラの匣
http://ameblo.jp/syo-hyo/entry-10918532659.html
昨年から雨後の筍のように、量産された、太宰治作品の映像化の中で成功しているものは、一つもないのではないか。また、上映前には話題になった「ノルウェイの森」にしても、上映後は、さっぱり話題にさえあがらない有様である。
そもそも、文学作品を安易に映像化し過ぎである。原作が有名だから、それに便乗して、そこそこ名の知れた俳優や女優を起用すれば、適当に金儲けができるという、いかにも安易なビジネスの手法が、鼻につく。これら駄作映画群に共通していることは、原作に対するリスペクトが全くないということである。
ここで小津安二郎を引き合いに出すのはややはばかられるが、志賀直哉の作品に心酔し、敬愛して止まなかった彼は生涯、それらを映画化することなど考えなかった。いや、考えられなかったはずである。作品や作家に対して愛着や執着を持てないなら、それを映画化してはならないはずである。文学作品の読者の一人ひとりが、ひっそりと心の中に作り上げている、愛着のある場面の数々が、安易な映像化により、ことごとく破壊されるのである。読書子にとっては、甚だいい迷惑である。
昭和四十年代に生まれた自分の世代にとって、十代の頃に邦画を夢中で見た記憶がある人は少ないだろう。ティーンエイジャーにとって任侠映画や歌謡曲は、受け入れがたい文化であった。七十年代から八十年代にかけて、我々の世代は、アメリカの音楽と映画とを見て育った。だから、昨今の我が国の映画業界の活況には、驚かされるのであるが、それだけに文学作品を安易に映像化することに腹が立つのである。
文学作品の映画化に対する、僕の根強い不信感が、僕が二の足を踏む原因となっていることは重々承知している。
たとえ、村上さんが、映画版の「グレート・ギャツビー」を次のように評したとしてもである。
「映画版『可憐なるギャツビー』の見どころとして第一にあげるべきはフランシス・コッポラの脚本の見事さで、実にうまく原作を刈りこんですっきりとした作品にしあげている(映画『可憐なるギャツビー』についてのコメント)」。
それにしても、フランシス・コッポラが脚本を書いているとは!
僕は映画が嫌いな訳ではない。ジョン・ランディス監督の「ブルースブラザーズ」など、初めて見た十四歳のとき以来、何十回繰り返し見ていることだろう(つい最近も見た)。何度見ても飽きのこない映像作品があることだって、承知している。ただ、文学作品を原作とする映画に、どうも感心できないのである。
今年の三月に、映画「パンドラの匣」を見た。ひどいできであった。太宰治のこの原作。僕の好きな題材であるだけに、映画の惨憺たるできに、腹立たしくなったぐらいである。俳優はみんな熱演であった。小道具やセットもよかった。音楽もよしとしよう。それだけに、この映画の監督の姿勢に、原作に対するリスペクトを、感じることができなかったことが残念である。原作には、敗戦直後の日本における期待と不安とが描かれていた。だが、映画には、何も描かれていないのである。ただ、結核病棟でちゃらちゃらと恋愛みたいなことをしているのである。映像の背景から何も浮き上がってこないのである。
映画 パンドラの匣
http://ameblo.jp/syo-hyo/entry-10918532659.html
昨年から雨後の筍のように、量産された、太宰治作品の映像化の中で成功しているものは、一つもないのではないか。また、上映前には話題になった「ノルウェイの森」にしても、上映後は、さっぱり話題にさえあがらない有様である。
そもそも、文学作品を安易に映像化し過ぎである。原作が有名だから、それに便乗して、そこそこ名の知れた俳優や女優を起用すれば、適当に金儲けができるという、いかにも安易なビジネスの手法が、鼻につく。これら駄作映画群に共通していることは、原作に対するリスペクトが全くないということである。
ここで小津安二郎を引き合いに出すのはややはばかられるが、志賀直哉の作品に心酔し、敬愛して止まなかった彼は生涯、それらを映画化することなど考えなかった。いや、考えられなかったはずである。作品や作家に対して愛着や執着を持てないなら、それを映画化してはならないはずである。文学作品の読者の一人ひとりが、ひっそりと心の中に作り上げている、愛着のある場面の数々が、安易な映像化により、ことごとく破壊されるのである。読書子にとっては、甚だいい迷惑である。
昭和四十年代に生まれた自分の世代にとって、十代の頃に邦画を夢中で見た記憶がある人は少ないだろう。ティーンエイジャーにとって任侠映画や歌謡曲は、受け入れがたい文化であった。七十年代から八十年代にかけて、我々の世代は、アメリカの音楽と映画とを見て育った。だから、昨今の我が国の映画業界の活況には、驚かされるのであるが、それだけに文学作品を安易に映像化することに腹が立つのである。
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