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2011年06月27日 20時55分38秒

番外編 スルメ(いか寿メール)が来た夜

テーマ:番外編
番外編 スルメ(いか寿メール)が来た夜
仕事が終わり、自宅に帰宅し、わが家の入り口にある郵便受けを覗くと、イカがいた。イカといっても、スルメである。郵便受けに入るように、二つに折りたたまれていたスルメはポストの中でじっとしていた。

「う~む。なぜ、スルメが郵便受けに入っているのか?」
という疑問が、自然と、わき起こる。
ひょっとすると、妻が、こっそりとスルメを注文したのだろうか? だが、彼女がスルメを食べているところをみたことがない。怪訝に思いながら、ポストからスルメを取り出す。
ひょうきんな顔をしたイカの絵が描かれており、「いか寿メール」とある。下の方には、なにやらメッセージが書かれている。
「おや?」
なんと、このスルメは、友人であるサロン・ド・ソクラテースの主幹さんご夫婦からの便りだったのである。スルメはさすがに定形外らしく、百四十円の切手が貼られていた。
きっと、これは、主幹さんの奥さんが見つけたに違いないのである。ちなみに、彼女は天才的な陶芸家として、われわれの間では有名である。
(参考)
二〇一〇年一一月一七日 伊豆市上白岩
http://ameblo.jp/syo-hyo/entry-10713821494.html

なんでも、便り(?)には、今、函館にいるとある。函館は晴れているとある。空は青いとある。どうやら、二人して北海道を旅行しているようである。
それにしても、世の中にはいろんなものがあるものだ。郵便配達のおじさんは、このスルメを配達しながらどんなことを思っただろう。いや、函館にあるポストに投函されたときから、このスルメは何百キロという道のりを旅してきたことを思うと、奇妙な感慨に耽るのであった。

お二人とも、よいご旅行を。また、遊びに行きましょ。

Ev'rything's gonna be alright-いか寿メール
2011年06月26日 11時36分53秒

夜はやさし スコット・フィッツジェラルド

テーマ:アメリカ文学
「『夜はやさし』は完璧な作品とは言えない。冷徹に批評をしていけば、欠点はいくつも並べ上げられるだろう。しかし、何度も繰り返すようだが、これは懐が深い小説である(器量のある小説 村上春樹)」

最近は、「ローマ帝国衰亡史」ばかり読んでいるので、ブログに書くことが、雑感であるとか、Jazzに関することばかりとなってしまった(You Tubeのおかげで、紹介したい音源が簡単に見つかる)。おまけに、受験勉強などをしているものだから(実際にはサボってばかりだが)、文章を書く時間がなかなかとれない。そこで手っ取り早く、雑感などをものしてしまっているのであるが、文学作品をまったく読んでいないわけでもないのである。

つい先日、スコット・フィッツジェラルドの「夜はやさし」を再読した。僕はこの作品を都合三回読んでいる。初めて読んだのは、今から六年ほど前のことである。学生の頃に購入した角川文庫版の「夜はやさし(上・下)」を読んだ。次に読んだのは、二〇〇八年に集英社から発売された「夜はやさし」である。そして、先日、僕が読んだのは、角川文庫版である。角川文庫版と集英社版とに分けて書くのにもわけがある。よく知られたことであるが、「夜はやさし」には、オリジナル版と改訂版(いわゆる「カウリー版」)との二種類が存在するのである。集英社版はオリジナル版を翻訳したものであり、角川文庫版は改訂版を翻訳したものである。

一九三四年、「夜はやさし」は発売されたのだが、販売部数はたったの一万三千部にしかすぎなかった。心血を注いで創り上げ、絶対の自信を持って、世に送り出した作品が、世間から認められないことに、作者フィッツジェラルドは、作品に欠陥があると考え、改訂を決意するのであった。誠実な作家である。
「だがとりわけ気になっているのは『夜はやさし』のことだ——あの本は死んでいない。あれには深いところで読者に訴える力がある……あの本の大きな欠陥は、本当の始まり——スイスの若き精神医——が小説の中盤に押しこまれてしまったことなのだ(フィッツジェラルドが、担当編集者であるマックスウェル・パーキンズに宛てた書簡)」。

村上春樹さんは、著書「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」において、「個人的な意見を述べるなら、僕はオリジナル版よりもカウリー版の方を好んでいる」と書いている。僕もオリジナル版よりもカウリー版を翻訳した角川文庫版の方が好みである。

オリジナル版では、物語の進行が時系列で進められていなことに加えて、登場人物の一人であるローズマリーがあまりに華やかであるため、だれが主人公であるかが分かりにくい。焦点が合っていない印象を受けてしまう。
一方、カウリー版では、オリジナル版を時系列に配列を変更することにより、「ディック・ダイバーという一人の人間が運命に翻弄される様が確かな方向性をもって描き出される(「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」)」。村上さんが指摘するように、カウリー版では、「ローズマリーの『視点』がうまく解消しないままに第三部へともつれこんでしまうというきらいがある」。
どちらにも一長一短がある。

フィッツジェラルドの運命は、彼自身が本作品の改訂を行うことを許さなかった。妻ゼルダの発病や、アルコール中毒、逼迫する家計など、日々生活に追われた彼には、かつて執筆した作品に手を入れる時間などほとんど残されていなかったのである。フィッツジェラルドが残した、簡単なメモをもとにして、文芸批評家であるマルカム・カウリーがオリジナル版を編集しなおし、公表したのは、フィッツジェラルドの死後である一九五一年。
改訂にあたったカウリーは、「作者にとっての決定版が即ち読者にとっての最良の版であるか、という疑問は残った。おそらく私がその最初の形を愛していたせいだろうが、(彼の指示に従って編纂しなおす)決心をするにはずいぶん時間がかかってしまった(「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」)からの引用」と、序文に記したのであった。

煌びやかな傑作小説である「グレート・ギャツビー」と比較すると、「夜はやさし」はかなり地味な作品であるが、ここにある物語は、四十歳の半ばにある僕をひどく揺さぶるのである。
2011年06月25日 19時42分23秒

JAZZ  I Loves You Porgy Keith Jarrett

テーマ:JAZZ
Keith Jarrettの演奏を初めて見たのは、一九九六年の来日公演のときであった。渋谷公会堂を埋め尽くした観客は、二時間にも及ぶ、彼等スタンダーズの演奏に幻惑された。感情が高揚すると、鼻歌のような奇声を発し、椅子から立ちあがるKeith Jarrettの様子に驚かされながら。片足でペダルを踏みながら、ピアノの鍵盤に指を走らせる彼の姿には、僕だけでなく、多くの聴衆が圧倒されただろう。一九九六年三月三十日の演奏は、皇太子と皇太子妃とが鑑賞され、その夜の演奏の模様が、「Tokyo 96」として、ライブ録音され、発売されている。

だが、この年の秋、Keith Jarrettを奇病が襲う。慢性疲労症候群。「体からエネルギーが完全に抜けた」ような状態となった彼は、公演を行うどころか、ピアノを演奏することさえ、いや、町を歩く元気さえない。ニュージャージー州に引きこもり、三年あまりにも及ぶ療養生活が始まったのだった。

彼が慢性疲労症候群となり、三年あまり経った一九九九年。彼は一枚のアルバムを発表した。
The Melody At Night, With You
ソロピアノ集である本作に聴かれる演奏には、パワフルでタフな演奏であった彼のスタイルがまったく聴かれなかった。アドリブといったものさえほとんど聴かれない。
ここに聴かれるのは、ピアノを弾くことができることに対する喜びや、音を奏でることができることへの静かな祈りである。音のひとつひとつに、小さな喜びが素直に表現されている。
本作は、彼の代表作ではないが、僕が一番好きなアルバムである。
その頃の彼を捉えた映像が、これであろう。
漆黒の闇の中で一人っきりでピアノに向かうKeith Jarrettが演奏する曲は、オペラPorgy&Bessの中の一曲である、I Loves You Porgyである。彼は、ただメロディーだけを弾いているようだが、聴き入ってしまうのだ。


2011年06月25日 11時35分21秒

番外編 「刑事コロンボ」米俳優ピーター・フォークさん死去

テーマ:番外編
朝の九時から図書館に行き、受験勉強をしていたのだが、室内のあまりの暑さと空腹とに耐えかねて、マクドナルドに行った。さぞ冷房が効いているだろうと期待して、入店したが、思いの外、涼しくない。他に行く当てもないから、ソーセージマフィンとホットコーヒーとを注文し、一気に平らげ、鞄からiphoneを取り出し、ニュースを閲覧した。RSSにある、次の一行に目がいった。

「刑事コロンボ」米俳優ピーター・フォークさん死去

瞬間、ああ、と思い、すぐにそのページを確認した。
今月二十三日夜に、ピーター・フォークさんがカリフォルニア州ビバリーヒルズにある自宅で亡くなっていた。死因は明らかにされていないが、数年前からアルツハイマー病を患っていたとある。享年八十三歳であった。

なぜか、子供の頃から、僕はピーター・フォークが演じる「刑事コロンボ」が好きだった。よれよれのレインコートに、今にも壊れそうな、おんぼろの車で事件現場にやってくるコロンボは、誰の目にも、切れ者には見えない。言うなれば「昼行灯」であり、「必殺仕事人」に出てくる中村主水のようだ。彼の着ていたよれよれのレインコートが欲しくて、探したこともあった(自分には似合わないので購入しなかったが)。

だが、彼が一度、犯人の目星を付けると、有能な猟犬がじりじりと執拗に獲物を追い詰めるように、事件の真相に迫っていく。
「ウチのカミさんがね~」という有名な台詞を挟みながら、犯人を油断させておき、なにげない会話で相手の様子を窺い、誘い出す。話が終わり、犯人に背を向けて、立ち去ろうとするコロンボは、片手を挙げ、振り返りざまに、
「ああ、ひとついいですか~」と事件に関する疑問を投げかける。強烈なカウンターパンチに、色を失う犯人。巧妙なトリックが一つ、また一つと、コロンボに見破られていく瞬間である。犯人との間に繰り広げられる、これらの心理戦は、相当見応えがある。

余談だが、自分も「ウチのカミさんが」という言葉を使う。これは、多分にコロンボの影響である。

一般的に、推理小説にしろ、ドラマにしても、物語の進行にともなって、犯人とトリックとが徐々に明かされ、お終いに、真犯人が判明し、事件が解決し、大団円を迎えるのである。
だが、「刑事コロンボ」シリーズでは、ドラマが始まるとすぐに犯行が行われる。視聴者は、犯人が誰であり、また犯行のトリックを知った上で、ドラマの進行につきあう。
前者のドラマが、トリックの巧緻さや真犯人の意外性に、視聴者の興味を向けさせているのに対して、「刑事コロンボ」では、状況証拠と事件に関係している人物達からの証言とを元に、犯人と覚しき人物の細かな矛盾点をつき、相手の動揺を誘い、事件を解決する手法が視聴者の興味を惹きつける。
「刑事コロンボ」を考えた人物は、かなり大胆な構成をドラマに取り入れたものだ感心するのだが、考えてみると、ドストエフスキーの「罪と罰」も「刑事コロンボ」と同じ構成を持った作品だと今頃気が付いた。
「ちっぽけなこと、ちっぽけなことが肝心なんだ!……こういうちっぽけなことが、いつだって万事をぶちこわしてしまうんだから……」(「罪と罰」 (上)十六ページ 岩波書店)

それにしても、「刑事コロンボ」には、「ウチのカミさん」が一度も登場しない。彼女の顔を一度も見る事がないまま、「刑事コロンボ」は本当に終わってしまったのである。ピーター・フォークさんのご冥福をお祈りしたい。

asahi.com:「刑事コロンボ」米俳優ピーター・フォークさん死去
http://www.asahi.com/obituaries/update/0625/TKY201106250100.html
2011年06月24日 23時49分12秒

JAZZ A Night in Tunisia Woody Shaw

テーマ:JAZZ
僕の好きなトランペッターであるWoody Shawに、Herbie Hancock、そしてArt Blakeyが一堂に会した、演奏があった。演奏している曲は、A Night in Tunisia。
Woody Shawの演奏がずば抜けて素晴らしい。
それにしても、Herbie HancockとArt Blakeyとが共演してるのも、なんだかありそうで、なさそうで、実際に観ると、違和感がありそうで、なさそうで……。
違和感をあまり感じないのも、Herbie Hancockの演奏スタイルの間口の広さに起因するのだろう。
Art Blakeyは、いたってマイペースである。

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