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2011年02月28日 21時26分14秒

罪と罰を読む その六

テーマ:ロシア文学
夢から覚めたラスコーリニコフは、「静かな落ち着いた気持でネワ川を眺め、赤々と輝く太陽のまばゆいばかりの夕映えに目をやった」。本作においては、水や太陽が現れる場面が、物語の転機となっていることに注意しなければならない。たとえば、宮沢賢治による散文作品においては、風が吹くことが、物語の場面が変わる合図であるように。

この一月にも及ぶ殺人計画を放棄した彼は、「悪魔の誘惑から自由」となったかに見えた。心も軽やかに彼は、ペテルブルクにあるセンナヤ広場を横切って帰宅することにした。もっとも、センナヤ広場を通って帰宅することは、彼の無意識が彼を導いたのである。この広場に屋台を出していた、ある夫婦が、リザヴェータ・イワーノヴナに次のように言う言葉をラスコーリニコフは耳にしたのである。
「ねえ、リザヴェータ・イワーノヴナ、あんたの一存できめりゃいいんですよ」。商人は大声でしゃべっていた。「じゃ、あした、六時すぎにいらっしゃいな。先方からも人が見えるから」。(「罪と罰」第一部 百三十一頁)

リザヴェータ・イワーノヴナとは、アリョーナ・イワーノヴナの腹違いの妹であり、彼女たちは、二人であの建物の四階に住んでいるのである。ドストエフスキーは、リザヴェーダの容姿を次のように描いている。
「背が高く、不格好な体つきをした、三十五になる未婚の娘で、臆病でおとなしく、少し頭が足りないらしい。姉の家にいて、夜昼となく奴隷のようにこき使われながら、姉の前では口もきけず、ときには姉からぶたれもするという話だった。」(「罪と罰」第一部 百三十三頁)
「未婚で、ひどく不格好で、背ばかりむやみと高く、ねじれたような長い足に履きつぶした山羊皮の靴を履いていたが、身なりはいつも小ざっぱりとしていた。ところで学生がとくにあきれもし、笑いもしたのは、リザヴェーダがほとんどいつも妊娠していることだった……。(「罪と罰」第一部 百三十七頁)


未婚のリザヴェーダが「いつも妊娠している」ことに関しては、江川卓が「謎解き『罪と罰』」の中で、十九世紀にロシアで勢力を持った、ある宗教との関連を指摘している。

彼は偶然知ってしまったのである。明日の晩の七時には、あの部屋には老婆一人でいることを。
ラスコーリニコフは、「死刑の宣告を受けた男のように、部屋にはいった。彼は何も考えなかったし、まったく考えることができなかった」。
「すべては突然、最後的に決定されてしまったのだということを、ふいに感じたばかりだった」。(「罪と罰」第一部 百三十三頁)

彼が凶行に及ぶことは、彼が決めたことではないのである。それは、彼の外部にある彼の知らない力により決定されたのであった。誰が決めたのであろうか?
そもそも、彼が、老婆を殺害し、金を奪うことが頭に浮かんだのは、今から一月半ほど前のことであった。知人から、アリョーナ・イワーノヴナの存在を教えて貰った彼は、質草になりそうな物を持って、彼女のもとを訪れて、「お礼」を二枚借りた。帰宅する途中に一軒の安料理屋に立ち寄ると、二人の男がアリョーナ・イワーノヴナのことを話し合っていることを耳にしたのであった。
「じゃ、彼女を殺して、その金を奪ったらどうだ? そして、その金をもとに、全人類の共同の事業に一身を捧げるのさ。きみはどう思う、ひとつのちっぽけな犯罪は数千の善行によってつぐなえないものだろうか? ひとつの生命を代償に、数千の生命を腐敗と堕落から救うんだ。ひとつの死と百の生命を取りかえる——こいつは算術じゃないか」。(「罪と罰」第一部 百三十九頁)
この考えは、後年、「カラマーゾフの兄弟」の中で、イワンがアリョーシャを前にして話される、「神聖なる調和」と同じこと意味しているのではなかろうか。これは、算術の問題だろうか? 功利主義によって解決する問題だろうか?

「ひとつのちっぽけな犯罪は数千の善行によってつぐなえないものだろうか?」この考えをラスコーリニコフが耳にしたとき、彼の頭の中にも同じ考えが芽生えていた。千人の人間を救うためには、一人の人間を殺さなければならないとするならば、君は凶行に及ぶかという問いが読者の前に提出されている。マイケル・サンデル教授も同じ問いを発している。そもそも、これは一つの問いであるか? 問いの体をなしているいるだろうか?
このことについて考える前に、もうしばらく自分を失ってしまったラスコーリニコフの行動を観察することにしよう。
2011年02月26日 08時55分50秒

罪と罰を読む その五

テーマ:ロシア文学
「夢でよかった!」木陰にすわって大きく息をつきながら、彼はつぶやいた。「でも、どうしたんだろう? 熱病にでもかかったんだろうか、あんな恐ろしい夢を見るなんて!」。(「罪と罰」第一部 百二十六頁)

悪夢といえる夢を見た記憶がほとんどない。ただ、どこかの草原を、僕は懸命に駈けているのであるが、突然、体がふわりと浮いたかと思うと、穴ぼこに真っ逆さまに落ちる夢を見る事がある。また、体が金縛りにあったような感覚に襲われた後、ふと自分の体が浮いているように感じる夢を見る事がある。誰かに追われて、逃げ惑う夢を見る事もある。あまりいい気持ちがする夢ではないが、心身が穏やかではないときに見るようだ。

毎晩、人は夢を見ているのだが、そのほとんどを覚えていないようである。自分も例外ではない。朝、目覚めると、目覚める少し前まで見ていた夢の記憶があるのだが、布団を出て、少しすると、跡形もなく記憶に残っていないことがしばしばだ。だが、時々、いつまでも記憶に残る、鮮明な夢を見る。二〇〇六年二月のある朝のことであった。不思議とその夢だけは、今も頭に焼き付けられている。
僕は誰かと一緒に、丘の麓を歩いている。何気に、丘の上を見上げると、桜の木であろうか、花も葉もつけていない、裸の、むき出しになった枝を持った、木々が立っている。枝には、無数の、黄色いカナリヤらしき鳥が止まっている。それらはさえずっているようにも見えるのであるが、彼らの鳴き声が聞こえてくることはない。僕は丘の上を目がけて歩き出そうとするのである。
「それは仕方がないこと」
僕の隣にいる人が、そう、僕に言うともなくつぶやくのである。
次の瞬間、僕は目覚める。さっき見たばかりの夢のことを考えるのであるが、夢に意味を見いだそうとしても、それがうまくいったことなど一度もない。

母の手紙を読み終わったラスコーリニコフは、往来に飛び出す。ぶつくさと独り言をいいながら。途中、気の毒な少女を助けるという茶番を演じるのであるが、その後も彼は熱に浮かされたように歩き続ける。ポケットにある金を勘定し、「ふっと思いだして、空腹を感じた」。彼はそのまま酒場に入り、「ウオツカを一杯」ひっかけ、「プローグ」にかぶりついた(プローグがどういった食べ物かが分からないのであるが「ピローグ」いわゆる、ピロシキのことか?)。店を出た彼は、道からそれて藪の中に入ると、草の上にぶっ倒れて、眠ってしまうのであった。

彼の見た夢は、不気味なものであった。
七歳の彼は、父親とロシアの田舎の町を歩いている。「薄ぐもりのむし暑い日」、「ある祭の日の夕方」であった。町外れにある、一軒の酒場の前には、一頭の年老いた、痩せた馬を囲んで、人だかりがしていた。歩くことさえやっとである、その馬を、ぐでんぐでんに酔っぱらった男たちが、むち打ち、なぐりつけて、荷を引かせようとしている。
「くたばるまで、ぶったたけ!」ミコールカがわめいた。「乗りかかった舟だい。そら行け!」(「罪と罰」第一部 百二十二頁)

馬にむける暴力による酔いと、酒との酔いとに狂った男たちは、年老いた、痩せた馬を撃ち殺してしまうのであった。
倒れた馬に駆け寄る、幼いラスコーリニコフは、この非情な現実を父親に訴える。
「お父さん! なんだってあの人たち……かわいそうなお馬を……殺しちゃったの!……」少年は、しゃくりあげようとしたが、息がつまり、締めつけられるような胸の底から、言葉が絶叫となってとび出した。(「罪と罰」第一部 百二十六頁)

恐ろしさのあまり目覚めた彼は、この一月もの間、自分の中でふつふつと湧き上がっていた、「あの考え」を再び意識の俎上に上げる。
「おれは本当に、本当に斧を手にして、頭をぶち割る気なんだろうか、あいつの脳天を血で染めるんだろうか……そして、まだなまあたたかい、べとべとする血のなかをすべりながら、錠をこわし、盗みをやり、がたがたふるえているんだろうか。全身血まみれの姿で身をかくすんだろうか……斧をもって……ああ、本当にそんなことを?」。(「罪と罰」第一部 百二十七頁)

彼はすでに自覚していたのである。計算の上では一点の狂いのない、殺人の計画があったとしても、それをいざ実行に移すとなると、「おれにはもちこたえられない」ことが。観念の世界において、彼は間違いを犯すことがない。肉体を持たない観念の世界において、彼は、自分が考える、正しい目的のために殺人を犯すことを罪であるとは考えていない。その考えは、一たす一が二であることぐらい狂いがない。なぜなら、善悪とは、論理的に実証できるものではない。かつて人々が情念をぶつけあい、肉体をもって争い、時間の流れの中に血によって刻み込んできたものが、善悪の正体である。

夢は肉体感覚をともなうものである。彼は自分の見た夢において、一頭の馬の命が、面白半分に殺される様を目撃した。正しいと彼が考える目的のために犯される殺人であろうが、快楽殺人であろうが、命を奪う行為の後にやってくる、あるものを、彼の肉体が支えることができないことをすでに、ラスコーリニコフは自覚していた。
肉体感覚をともなったその自覚が、彼に、一か月にも及ぶ、彼の計画を断念させるのであるが……。
2011年02月24日 23時21分38秒

罪と罰を読む その四

テーマ:ロシア文学
「彼が翌日、不安な眠りから目をさましたのは、もう遅かった」。(「罪と罰」第一部 六十二頁)

ドストエフスキーの作品を読んでいると、物語の進展にしたがって小説の中において、どれぐらいの時間が過ぎ去っているのかが分からなくなることがある。これは、本作に限ってのことではなく、彼の作品創作上の特徴である。
ラスコーリニコフが目を覚ましたこの日、彼は多忙な時間を過ごすことになる。だが、彼のここ一月あまりの生活は「これ以上無精に、だらしなく暮らすのも容易ではなかった」。作者は、彼が、「いっさいの人間ときっぱり縁を切っていた」と書いているのであるが、彼が本当の意味で、人間と縁を切るのはまだ先のことである。事実、この記述の後、彼は、女中のナスターシャと会話を交わしている。

この日の彼の朝食は、キャベツ汁である(これがどのような食べ物であるかは分からない)。食事を取った後、彼は母親であるプリヘーリヤ・アレクサンドロヴナからの手紙を貪るように読むのである。
「この手紙とふたりきりになりたかった。ナスターシャが出て行くと、彼はすばやく手紙を唇にあてて接吻した」。(「罪と罰」第一部 六十八頁)
このあたりの感覚は、日本人の自分には分かりかねるものである。二十歳そこそこの日本人の青年が、母親からの手紙に心ときめかせ、接吻まですることなど、よもやなかろう。むしろ、その年代の青年は、母親や父親を遠ざけるものである。自分の場合、四十歳を過ぎたあたりから、母親からの手紙にありがたみを感じるようになったものである。それは、両親の老いを思い、その先にある死に対する思いと決して無縁ではない。

プリヘーリヤ・アレクサンドロヴナからの、恐ろしく長い手紙に読者は面食らうであろうが、この手紙の中では、物語の重要人物が登場する。ラスコーリニコフの妹であるアヴドーチヤ・ロマーノヴナ(ドゥーニャ)。彼女が家庭教師をしていた家の主人である、スヴィドリガイロフと、その妻マルファ・ペトローヴナ。そして、ドゥーニャに求婚したルージン。
母からの手紙を読み終えたラスコーリニコフの顔は、「青白く、痙攣にゆがみ、いらだたしげな気重い冷笑が唇のあたりをはっていた」。部屋を飛びだした彼は、用がないにもかかわらず、「急用でもあるような急ぎ足」で、「歩きながらぼそぼそとつぶやいたり、大声でひとりごとを言ったりして」、周りの人達を驚かせるのだった。

経済的に窮地に陥っている彼を助けるために、彼の妹のドゥーニャが自らを犠牲となって、金満家であるルージンとの結婚を決心したことが、ラスコーリニコフには納得がいかないのである。
「われとわが生命を救うためにでも、自分を売ったりしないくせに、いざ他人のためとなると、こうして売ってしまうんだ」。(「罪と罰」第一部 九十五頁)

ラスコーリニコフの苛立ちは続く。自分の愛する人、尊敬する人のためなら、自分の道義心を押し殺すことは正しいことなのだろうか? それはただの「小理屈」ではないのかと推測する。彼は、家族を救うために自らの身を挺したソーネチカを思う。ドゥーニャとソーネチカとの犠牲は、割に合わないことではないのか? 彼らは、自らの犠牲の大きさを考えたのか? と自らに問い掛ける。
だが、彼は道義について問うているのではない。彼の審美眼が、彼の美意識が、妹の自己犠牲を許すことができないのである。
「ルージン式の小ぎれいが、ソーネチカの小ぎれいと同じことで、いや、ことによると、もっとみにくい、不潔な、いやしいものかもしれないっておとが、きみにわかるのかい?」(「罪と罰」第一部 九十七頁)

「ぼくはきみの犠牲なんかほしくないよ。ドゥーネチカ、いらないんだ、母さん! ぼくの生きているかぎり、そんなことはさせない、させない、させるものか! ぼくが承知しない!」。(「罪と罰」第一部 九十七頁)
そこまで思い詰めた次の瞬間、彼は自分自身を棚上げにしていたことに気が付くのである。
散々毒づき、妹の犠牲を拒み、彼女の決心を許さないと自らが、叫んだところで、彼に一体なにができるのであろうか?
そのとき、彼の頭をかすめたのは、『ひとつの、やはり昨日と同じ考え」であった。
2011年02月22日 21時42分22秒

罪と罰を読む その三

テーマ:ロシア文学
マルメラードフはラスコーリニコフをともなって、五日ぶりにわが家に帰宅するのである。彼を待ち構えていたのは、彼の妻カチェリーナ・イワーノヴナであった。
「それが恐ろしくやせた、かなり背の高い、体つきのすらりとした女性で、栗色の髪はまだ美しく、頬はほんとうにしみでもついたように、真赤に染まっていた。彼女は両手を胸のあたりに組み、かさかさに乾いた唇をして、広くもない部屋のなかを行きつ戻りつしながら、妙にきれぎれな荒い息をしていた。目は熱でもあるようにきらきらと輝いていたが、まなざしは鋭くすわっていて、肺病やみらしく神経のたかぶった顔は、燃えつきようとするろうそくのふるえる灯影をうつして、いかにも病的な印象を与えた。」(「罪と罰」第一部 五十七頁)
「彼女は三十歳ほどに見え、たしかにマルメラードフとはつりあわぬ感じだった」。(「罪と罰」第一部 五十七頁)


地下の酒場でマルメラードフがラスコーリニコフに語った、「あれはれっきとした貴婦人ですぞ!」は、どうやら本当のようであった。彼女の生まれは、「佐官待遇官の娘」であり、「育ちのよい上品な心根にみたされた婦人」だと、マルメラードフは続けるのである。だが、彼女は、「心の大きな女でありながら、理不尽」であることをラスコーリニコフに訴えるのである。

カチェリーナは、駈け落ちまでして結婚した前の主人との間に、三人の子供をもうけたのだが、その主人がカルタに手を出し、それがもとで裁判沙汰に巻き込まれ亡くなってしまう。路頭に暮れる彼女たちを救ったのが、他でもないマルメラードフなのであった。

家の金をすべてもって逃げ出した亭主が、帰宅した。有り金のすべてを酒に代えてしまい、やっと得たばかりの仕事を失い、おまけに、新調したばかりの服ではない襤褸をまとった亭主を見た彼女は、
「服まで変わってる! みんなお腹をへらしているのに、お腹をへらしているのに!(そう言って彼女は、手をもみしだきながら、子どもたちを指さした)ああ、こんな暮らしは呪われるがいい! それであんたは、あんたは恥ずかしくないの」。(「罪と罰」第一部 六十頁)
と怒鳴りつけるのである。
彼女が激怒するのは当然である。このような亭主を持って激怒しない妻がいるだろうか? 殺人のひとつぐらい起こってもおかしくない状況である。

貧しい境遇に落ち込んでさえ、彼女は、「県立貴族女学校」の卒業式の時にショール・ダンスを踊ったことで、もらったメダルと賞状とを「家主のかみさんい見せて」は、自慢し、「昔のしあわせな時代のことを吹聴」することにより、現実の自分とどうにか折り合いを付けているのである。「たとえ想像のなかだけでも、以前は自分もしあわせだったと思えればけっこうじゃありませんか」。それが、食うや食わずの生活になってしまうと、他者に自分の過去を語ることさえできなくなってしまうのである。

カチェリーナは、ある程度の物質的な豊かささえ手に入れば、それだけで十分幸せに人生を生きながらえることができる、好人物の一人である。だが、作者ドストエフスキーは、彼女を生き地獄のような世界に放り込んでしまうのである。ここでの彼女の役回りは、ただのちょい役であるが、作品の後半に再び現れる彼女は、読者の情念に訴えかける行動をとるのである。

ラスコーリニコフは、そんな一家を後にして、自分の住む「檻のような」小部屋に戻るのであった。
2011年02月21日 21時01分50秒

日記 珍しく忙しい週末

テーマ:日記
金曜日の夕方。仕事で使用しているグループウェアに、明日の午後六時から品川で飲み会をする知らせが入った。自分の勤める会社は、比較的お堅い会社であるため、勤務先の人達で酒を飲みに行くという風土がない。
突然の誘いであったが、めったにないことであるから、参加することにした。参加するスタッフは、比較的気心の知れた、男ばかりの五人であった。

品川に行くのは、久しぶりである。自分たちが飲んだ店は、創作ダイニング土間品川イーストワンタワー店であった。焼酎や地酒もそこそこそろっており、刺身など、値段の割に美味しい。仕事の話や、プライベートの話など含めて、普段、仕事場で話せないことを延々、語り合った。午後の六時から飲み始めたが、話が弾み、気が付くとあっというまに時計の針は十時半を指していた。おまけに、僕はかなり酩酊していたのだった。
自分の住む町は、品川から一時間半以上かかる場所にあり、午後十一時前には、品川を後にした。帰宅する前に、妻に電話すると、マクドナルドでお土産を買ってこいということだったので、マクドナルドに寄って、マックポークと、ハンバーガー、そして、アイコンチキンソルト&レモンを買って、帰宅した。これだけ買って、たったの六百四十円である。安い。帰宅して、お土産を平らげ、パジャマに着替えると、そのまま、僕は眠ってしまったのだった。爆睡であった。

日曜日は、サロン・ド・ソークラテースの主幹さんから、主幹さんが所属するオーケストラの演奏会にご招待いただいた。会場は、晴海トリトンスクエアにある、第一生命ホール、午後二時開演。妻をともなって、勝どき駅を目指して電車に乗ったのであるが、妻の目当ては、勝どき駅の手前にある「築地市場駅」で食べる海鮮丼であった。家を出るのに手間取ったため、築地に到着したのは、午後一時が過ぎていたが、駅のそばにある、露天の店で食べた、一杯千円の海鮮丼は、なかなか美味しかった。味噌汁まで注文して、急いで、勝どき駅まで向かった。

演奏のプログラムは、すべてモーツアルトであり、二つの行進曲より第一番ニ短調K.335、セレナード第9番ニ長調K.320「ポストホルン」、十五分の休憩を挟んで、「わが感謝を受けたまえ、やさしき保護者よ」K.383、「わがいとしの希望よ!…ああ、お前にはどんな苦しみか判るまい」K.416、交響曲第38番ニ長調K.504「プラハ」が演奏された後、二曲のアンコールが演奏された。二時間を超える時間にわたって、生演奏を楽しむことができた。楽器の生音はよいなあと感じ入るばかりである。

毎週、週末になると、近所にあるジャスコや、ヨーカドーで買い物をし、有隣堂に行き、本を眺め、図書館で本を借りて、家で読書をし、夜は一杯聞こし召すのであるが、珍しく忙しい週末であった。そんなわけで、三日間、パソコンを触らなかったし、家ではほとんど読書をしなかった。本当に珍しい週末であった。

明日から平常営業に戻ります。

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