2010年11月30日 22時34分45秒
日記 現実とフィクションと
テーマ:日記
村上 そう。僕自身はビデオ・ゲームというものをやりません。しかしそこに類似性のようなものを感じないわけにはいかない。小説を書いているときに、ときどきこう感じるんです。僕は自分でビデオ・ゲームをデザインしながら、同時にプレーヤーとしてそれをプレーしているのではないかと。僕は自分でそのゲームのプログラムをしている。そして次の瞬間には僕はその中に入り込んでいる。僕の左の手は、僕の右の手が何をやっているか知らない。それは一種の乖離の感覚です。自分が分裂しているという感覚。(夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです)
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴという爆音で、目が覚めた。たぶん米軍の戦闘機F18スーパーホーネットが、僕の住むマンションの上空を飛んでいるのだ。時計を見ると、午前六時五分。僕が目覚めるまでまだ五十五分ほどあるのだが。隣を見ると、妻はグーグーグーと眠っている。この音の中で眠り続けられるというのもすごいものだと感心していると、再び、ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴという音。これはかなわないなあと思う。眠ることをあきらめて、布団から起き上がろうかとも思ったが、少しでも眠ることができると思うと、その短い時間が愛おしく感じられる。目覚まし時計が鳴るまでの間に、布団の中でごろごろとし、惰眠を貪ることにする。五分も経たないうちに再び、ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ。仕方がないから、目を開けて、ぼんやりと考え事をする。僕が考えていたことは、作家村上春樹が小説を書くときに感じる自己感覚といったものについてであった。上に引用した文章を眠る前に読んだばかりだったから、目覚めてすぐに思い出したのだ。ゲームをデザインしながら、そのゲームをプレーしているといった感覚って、どんなだろうと想像してみるのだが、想像することがかなり難しそうな世界である。分かるようで分からない。文章を書くことで開けてくる世界があり、その世界の中に自分自身が生きていると感じるほどの文章を書いたことがないから、理解できないのだろうと思う。自分が経験したことについて書くことはあっても、自分の知らない世界を描くことをしていないからだろう。
最近、小説のプロットについて、考えることが多い。少しだけ自分で散文を書いてみたこともある。読み返してみると、ちっともよいと思えない。つまらない。僕はそこに何らかの答えなり、主張なりを混ぜようとしている自分を発見するのである。だが、それは自分が知っていることなのである。わかりきったことをわかりきったように書くことが人の心を捉えることなどないのである。
昨日、テレビニュースを見ていた。白い野球帽を被った、三十代ぐらいの男性が、暗い岸壁に佇んでいた。この岸壁で若い女性の死体が見つかった。未だに他殺か自殺かが分からないという。その女とは、彼の実の妹であった。死体が見つかった場所で取材を受けていた男性が、
「どんなことがあっても、傷なんて治らないんです」と言った途端、突然、顔をうつむけて、堅く目を閉じた。印象的な映像だった。ふつふつと湧き上がってくる、悲しみや苦しみといった激しい感情を強い力で押し殺している男の表情であった。
男の顔を思い出していると、時計はすでに午前六時三十分を指していた。再びゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴという爆音がする。
僕の意識は爆音によって、途切れてしまった。次に思い出したのは、殺人事件であった。下関で起こった、女児殺害事件の報道を見ていると、哀れと憤りを覚えた。母親は、結婚後一男二女をもうけたが、数年前に離婚し、その後交際した内縁の夫からは暴力を受けていた。娘の死の翌朝、母親は仕事から帰宅して、事件を知らされたという。ニュースでは、六歳の女児が描いた、家族の絵が紹介された。家族のみんなが極彩色をした梟として描かれていた。彼女が通っていた保育園の関係者が普段の彼女について語っているうちに、いつしか大粒の涙を流している。眼鏡のレンズには、涙の大きなしずくが光っていた。
村上 世間の多くの人々にとっては、フィクションなんて読まなければ読まないで済ませられるものなのです。だからフィクションというもの自体が、根本のところで変化を遂げているのです。僕らは読者の首根っこをおさえて、こっちまでひっぱってきて無理にでも本を読んでもらわなくてはならない(夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです)。
現実の世界では毎日、驚くことが休みなく起きている。悪いニュースには事欠かないのだ。フィクションが現実を凌駕するほどの力を持つには、自分の知らないところまで降りていかなければならないだろう。僕は布団から這い出て、カーテンを開ける。時計は午前六時五十五分。目覚まし時計のアラーム音を聞きたくないから起きるのだ。そろそろ現実の世界に戻らなければならない。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴという爆音で、目が覚めた。たぶん米軍の戦闘機F18スーパーホーネットが、僕の住むマンションの上空を飛んでいるのだ。時計を見ると、午前六時五分。僕が目覚めるまでまだ五十五分ほどあるのだが。隣を見ると、妻はグーグーグーと眠っている。この音の中で眠り続けられるというのもすごいものだと感心していると、再び、ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴという音。これはかなわないなあと思う。眠ることをあきらめて、布団から起き上がろうかとも思ったが、少しでも眠ることができると思うと、その短い時間が愛おしく感じられる。目覚まし時計が鳴るまでの間に、布団の中でごろごろとし、惰眠を貪ることにする。五分も経たないうちに再び、ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ。仕方がないから、目を開けて、ぼんやりと考え事をする。僕が考えていたことは、作家村上春樹が小説を書くときに感じる自己感覚といったものについてであった。上に引用した文章を眠る前に読んだばかりだったから、目覚めてすぐに思い出したのだ。ゲームをデザインしながら、そのゲームをプレーしているといった感覚って、どんなだろうと想像してみるのだが、想像することがかなり難しそうな世界である。分かるようで分からない。文章を書くことで開けてくる世界があり、その世界の中に自分自身が生きていると感じるほどの文章を書いたことがないから、理解できないのだろうと思う。自分が経験したことについて書くことはあっても、自分の知らない世界を描くことをしていないからだろう。
最近、小説のプロットについて、考えることが多い。少しだけ自分で散文を書いてみたこともある。読み返してみると、ちっともよいと思えない。つまらない。僕はそこに何らかの答えなり、主張なりを混ぜようとしている自分を発見するのである。だが、それは自分が知っていることなのである。わかりきったことをわかりきったように書くことが人の心を捉えることなどないのである。
昨日、テレビニュースを見ていた。白い野球帽を被った、三十代ぐらいの男性が、暗い岸壁に佇んでいた。この岸壁で若い女性の死体が見つかった。未だに他殺か自殺かが分からないという。その女とは、彼の実の妹であった。死体が見つかった場所で取材を受けていた男性が、
「どんなことがあっても、傷なんて治らないんです」と言った途端、突然、顔をうつむけて、堅く目を閉じた。印象的な映像だった。ふつふつと湧き上がってくる、悲しみや苦しみといった激しい感情を強い力で押し殺している男の表情であった。
男の顔を思い出していると、時計はすでに午前六時三十分を指していた。再びゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴという爆音がする。
僕の意識は爆音によって、途切れてしまった。次に思い出したのは、殺人事件であった。下関で起こった、女児殺害事件の報道を見ていると、哀れと憤りを覚えた。母親は、結婚後一男二女をもうけたが、数年前に離婚し、その後交際した内縁の夫からは暴力を受けていた。娘の死の翌朝、母親は仕事から帰宅して、事件を知らされたという。ニュースでは、六歳の女児が描いた、家族の絵が紹介された。家族のみんなが極彩色をした梟として描かれていた。彼女が通っていた保育園の関係者が普段の彼女について語っているうちに、いつしか大粒の涙を流している。眼鏡のレンズには、涙の大きなしずくが光っていた。
村上 世間の多くの人々にとっては、フィクションなんて読まなければ読まないで済ませられるものなのです。だからフィクションというもの自体が、根本のところで変化を遂げているのです。僕らは読者の首根っこをおさえて、こっちまでひっぱってきて無理にでも本を読んでもらわなくてはならない(夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです)。
現実の世界では毎日、驚くことが休みなく起きている。悪いニュースには事欠かないのだ。フィクションが現実を凌駕するほどの力を持つには、自分の知らないところまで降りていかなければならないだろう。僕は布団から這い出て、カーテンを開ける。時計は午前六時五十五分。目覚まし時計のアラーム音を聞きたくないから起きるのだ。そろそろ現実の世界に戻らなければならない。
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