2010年10月31日 11時18分45秒
「幸福論」 名馬ブケファラス アラン
テーマ:思想/宗教
幸福論 (岩波文庫)/アラン

¥840
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■名馬ブケファラス
哲学という言葉を聞くと、カントやヘーゲルといった人物を想像しがちだ。彼等の難解な著作を読むと、いかにも哲学を勉強している気分になるものだ。一方、アランの著作は、まるでエッセイ程度の扱いしか受けていないようである。事実、アランをわが国に紹介したのは、哲学者ではなく、桑原武雄や小林秀雄といった文芸評論家であった。アランの文章に見られる、人間観察から導き出された数々の省察には、巨大な哲学大系といったものはない。だが、実生活や実体験に即した、彼の表現に耳を傾けていると、自分の生活や生き方に応用できるものが多いことに気が付く。はっ、と気が付かされることが多い文章である。
彼の数ある著作では、「幸福論」がもっとも有名である。自分はときどき思い出したようにこの本を手にとっては、手当たり次第にページをめくり、その一節を読む。一度読んだだけではぴんとこないことが多い。彼の書いている言葉が自分の言葉として理解できるようになるまでにはかなり時間がかかる。
落ち着いていて、優雅、智慧の源泉、そんな言葉で形容したくなる本書「幸福論」は、「名馬ブケファラス」からはじまる。
「幼い子供が泣いてどうにもなだめられないと、乳母はよくその子の性質や好き嫌いについて、すこぶる妙をえたことを考える。遺伝までひっぱり出して、お父さんのときからもうその素質があるなどと言う。こんな思いつきの心理学をつづけているうちに、乳母はピンを見つけたりする。ピンがすべての本当の原因だったというわけだ。(名馬ブケファラス)」
泣きわめく子供がいる。ひとりの子供が泣き出すと、それにつられるようにまわりの子供も泣き出す。子供は泣くために泣く。こつ(ピン)を心得ている乳母達は、子供を腹ばいにさせる。こうすることで体の動きが変わり、子供の気分が変わる。自然、子供は泣き止むというわけだ。
自分がいらいらしているときや、不機嫌であるときには、そのような感情を抱くには、何か原因があると考えがちだ。または、そんなことを考える余裕さえ失っているかも知れない。たとえば、駅で人を待っているが、いつまで経ってもやってこない場合には、とかくいらいらしたり、不安になったりするものだ。
アランはいう。
「苛立ちだと不機嫌だのは、往々にして、あまり長いあいだ立ちどうしていたことから生ずる。そういうときには、不機嫌な人に対して道理を説いたりせずに、椅子を差し出してやることだ」。
不機嫌な人が自分であった場合には、自分で自分に椅子を差し出すのがよいだろう。それがいらいらしたときの「ピン」である。

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■名馬ブケファラス
哲学という言葉を聞くと、カントやヘーゲルといった人物を想像しがちだ。彼等の難解な著作を読むと、いかにも哲学を勉強している気分になるものだ。一方、アランの著作は、まるでエッセイ程度の扱いしか受けていないようである。事実、アランをわが国に紹介したのは、哲学者ではなく、桑原武雄や小林秀雄といった文芸評論家であった。アランの文章に見られる、人間観察から導き出された数々の省察には、巨大な哲学大系といったものはない。だが、実生活や実体験に即した、彼の表現に耳を傾けていると、自分の生活や生き方に応用できるものが多いことに気が付く。はっ、と気が付かされることが多い文章である。
彼の数ある著作では、「幸福論」がもっとも有名である。自分はときどき思い出したようにこの本を手にとっては、手当たり次第にページをめくり、その一節を読む。一度読んだだけではぴんとこないことが多い。彼の書いている言葉が自分の言葉として理解できるようになるまでにはかなり時間がかかる。
落ち着いていて、優雅、智慧の源泉、そんな言葉で形容したくなる本書「幸福論」は、「名馬ブケファラス」からはじまる。
「幼い子供が泣いてどうにもなだめられないと、乳母はよくその子の性質や好き嫌いについて、すこぶる妙をえたことを考える。遺伝までひっぱり出して、お父さんのときからもうその素質があるなどと言う。こんな思いつきの心理学をつづけているうちに、乳母はピンを見つけたりする。ピンがすべての本当の原因だったというわけだ。(名馬ブケファラス)」
泣きわめく子供がいる。ひとりの子供が泣き出すと、それにつられるようにまわりの子供も泣き出す。子供は泣くために泣く。こつ(ピン)を心得ている乳母達は、子供を腹ばいにさせる。こうすることで体の動きが変わり、子供の気分が変わる。自然、子供は泣き止むというわけだ。
自分がいらいらしているときや、不機嫌であるときには、そのような感情を抱くには、何か原因があると考えがちだ。または、そんなことを考える余裕さえ失っているかも知れない。たとえば、駅で人を待っているが、いつまで経ってもやってこない場合には、とかくいらいらしたり、不安になったりするものだ。
アランはいう。
「苛立ちだと不機嫌だのは、往々にして、あまり長いあいだ立ちどうしていたことから生ずる。そういうときには、不機嫌な人に対して道理を説いたりせずに、椅子を差し出してやることだ」。
不機嫌な人が自分であった場合には、自分で自分に椅子を差し出すのがよいだろう。それがいらいらしたときの「ピン」である。
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