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2010年06月30日 07時09分01秒

銀河鉄道の夜(八) 宮沢賢治

テーマ:日本文学
宮沢賢治全集 (7) (ちくま文庫)/宮沢 賢治

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■「銀河鉄道の夜」に関する感想(八)
八、鳥を捕る人
鳥捕りの名前は第二次稿の中に見ることができるので、かなり早い段階から創造されていた人物である。

この人物の容貌は、「茶いろの少しぼろぼろの外套を着て、白い巾でつつんだ荷物を、二つに分けて肩に掛けた、赤髯のせなかのかがんだ人」である。自分は、鳥を捕まえる商売をしていると彼は二人に告げる。

彼がジョバンニ達に、
「あなた方は、どちらへいらっしゃるんですか。」
と訊ねると、ジョバンニがきまり悪そうに「どこまでも行くんです。」と答えるのも、自分がどこに向かっているのかを知らない事からである。また、どこから来たのかという問いに対しても、自分が「ぜんたいどこから来たのか、もうどうしても考えつきませんでした」とある。どこから来たのか、どこへ行くのかも分からないジョバンニ。彼は明らかに迷走しており、物語の終章に向けて彼の中で新しい信念が形成される萌芽の状態である。

この汽車は、「どこまででも行」く乗り物である。この汽車に乗る旅人はどこかでこの汽車から降りなければならないはずである。だが、鳥捕りは、汽車に乗ったり、降りたりしながら、この世界において鳥を捕り、それを売ることによって生計を立てている。明らかに異質の存在である。天空に行くために汽車を降りるわけでない彼は、永遠に行き場のない人である。信じることもなければ、信じる力さえない存在である。処世に疎かった賢治から見ると、
「ああせいせいした。どうもからだに恰度合うほど稼いでいるくらい、いいことはありませんな。」と言って渡世している処世上手を揶揄しているのだろうか。鳥捕りが、鳥を捕った後に、
「急に両手をあげて、兵隊が鉄砲弾にあたって、死ぬときのような形」をするのも、ステレオタイプである姿を描くことにより、鳥捕りが特異な存在ではなく、むしろどこにでもいる存在であることを表そうとしたのではないか。

「尖った帽子をかぶり、大きな鍵を腰に下げた人(燈台守)」といった人物も汽車の中に現れる。この人物も天上に行くことができず、汽車を乗り降りする人物なのであろうか。鳥捕りと燈台守の存在は、汽車を乗り降りすることの意味を曖昧なものとしているのではないかという疑問が生じる。

ジョバンニは、この鳥を捕る男に対して、「このひとをばかにしながら、この人のお菓子をたべている」自分に気がつき、彼を気の毒に思う。現実の世界では、冷笑される存在であったジョバンニが、この汽車の中においてカムパネルラに出会ったことによって、再び他者との繋がりを取り戻し、他者に意識を向けるだけの余裕ができたからだろうか。汽車の進行とともにジョバンニにも変化が生じているのであった。
2010年06月29日 07時06分06秒

銀河鉄道の夜(七) 宮沢賢治

テーマ:日本文学
宮沢賢治全集 (7) (ちくま文庫)/宮沢 賢治

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■「銀河鉄道の夜」に関する感想(七)
七、北十字とプリオシン海岸
「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」
「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」
カムパネルラの父親に関しては、すでに語られているところであるが、母親を通して「幸せ」とは何かということが、語られる。この部分は第三次稿の段階で創作されており、第四次稿においてもほぼ同じ内容となっている。だが、カムパネルラの母親についても、また幸いについても、これ以上立ち入って語られず、汽車の中が「ぱっと白く明るく」なることで場面が変化してしまう。「さいわい」は本作の主題であり、ここでは、それがほのめかされているに過ぎない。

なぜ、カムパネルラは、自分が母親にゆるされることを気にかけるのか。先に見たように、ジョバンニの母親は、ジョバンニに「川へははいらないでね」という戒律を科す。賢治の作品では、息子に対して戒律を科す母親が登場し、その戒律を犯したものには罰が与えられる。カムパネルラに対してどのような戒律が科されていたのかを作品から知ることはできないが、ジョバンニの見るこの夢幻の世界の中では、ジョバンニに科された戒律が、そのままカムパネルラに科された戒律であるとする解釈も可能である。

「白い十字架」が「永久に立っている」島にむかって、「ハルレヤ、ハルレヤ。」と唱える旅人達のすべてが「白鳥の停車場」で汽車を降りてしまう。ジョバンニとカムパネルラの二人もこの停車場に降りることにし、プリオシン海岸を見学した後に汽車に戻ってくる。だが他の旅人達が汽車に戻ってきたとする記述がない。この汽車が、死者を運ぶ乗り物であることは、天気輪の柱やカムパネルラの様子から推測できるのだが、汽車を降りるということが何を意味するかが語られないまま、新しい人物が汽車の中に登場する。
2010年06月28日 07時10分43秒

銀河鉄道の夜(六) 宮沢賢治

テーマ:日本文学
宮沢賢治全集 (7) (ちくま文庫)/宮沢 賢治

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■「銀河鉄道の夜」に関する感想(六)
六、銀河ステーション
第三次稿においては、ジョバンニのいくつもの独白や、銀河ステーションに関する描写を挟み、彼が「小さな列車」に乗るという設定となっている。一方、第四次稿では、ジョバンニが独白することもなく、気がつくと「小さな列車」に乗って走り出している。あえてジョバンニに彼の胸の内を一切語らせないことにより、彼の孤独を表現している。カムパネルラが登場することにより、ジョバンニに言葉が戻るのである。

カムパネルラの存在に気がついたジョバンニが、彼に声をかけると、カムパネルラが、
「みんなはねずいぶん走ったけれども遅れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追いつかなかった。」
と言う。彼の登場と言葉があまりに唐突であり、読者にはカムパネルラが何を言っているのかを推測することができない。ただ、死者の世界への入り口を表す天気輪の柱から出発した鉄道に乗っている少年が、「ぬれたようにまっ黒な上着を着」ていることを考えると、カムパネルラが現世においてどのような運命を辿ったかということをぼんやりと想像することができるだけである。
その言葉を聞いたジョバンニが、(そうだ、ぼくたちはいま、いっしょにさそって出掛けたのだ。)と思う。明らかにジョバンニの勘違いなのであるが、この夢幻の中においても、ジョバンニがカムパネルラを始めとする学友達と「いっしょ」にあることを強く望んでいることを表していると解釈すべきだろう。

「ザネリはもう帰ったよ。お父さんが迎いにきたんだ。」という言葉も読者には唐突である。ザネリは、どこに帰ったのか。また、なぜ父親が迎えに来るのかという疑問が生じる。その直後にカムパネルラは、「少し顔いろが青ざめて、どこか苦しい」ように見えるのである。いくつもの疑問が残されたまま、石炭をたかずに走る「汽車」は銀河ステーションを後にする。
2010年06月25日 21時51分38秒

銀河鉄道の夜(五) 宮沢賢治

テーマ:日本文学
宮沢賢治全集 (7) (ちくま文庫)/宮沢 賢治

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■「銀河鉄道の夜」に関する感想(五)
四、ケンタウル祭の夜

「一、午后の授業」から「三、家」までは、ジョバンニの現実生活を描写し、「四、ケンタウル祭の夜」には、現実世界の果てに来てしまったジョバンニの姿がある。そして、「五、天気輪の柱」では、現実の世界から離れ行く彼が描かれている。

ジョバンニは、牛乳を取りに行くついでに、ケンタウル祭でカムパネルラと遊べるかも知れないと思い、勢いよく家を飛び出した。坂の下にある大きな街灯の側を通りかかると、自分の影が濃く黒くはっきりとなったことを見て、自分を「立派な機関車」であると見立てる。

牛乳屋へ向かう途中に出会うのは、ジョバンニと同じ学校に通うザネリであった。彼は、「一、午后の授業」においても、ジョバンニを冷やかす役が与えられており、この場面でも、
「ジョバンニ、お父さんから、らっこの上着が来るよ。」
と言って、ジョバンニをからかうのであった。ザネリは第三次稿でも同じ役回りで登場する人物であり、「ジョバンニの同級の子供ら」を扇動し、先頭に立ってジョバンニをけしかける。

牛乳屋を訪れると、牛乳を手にすることもなく、後から来てくれと体よく追い返されてしまう。疎外されることがあっても彼は現実の世界の中に留まり続けている。

牛乳屋を後にして、町のかどをまがろうとしたジョバンニは、ザネリをはじめとする子供達に出会ってしまう。同級の子供らが自分をからかう中に、彼はカムパネルラの姿を見つけてしまう。カムパネルラの目から逃げるように、彼は彼の現実の世界から逃げ去ってしまう。「町かどを曲るとき、ふりかえって」見ても彼の視界には、ザネリが「やはりふりかえって見て」いるだけであった。現実の世界に残されているのは、ザネリであり、それは自分を嘲笑する人間だけがこの世界に存在していることを表している。

第三次稿では、「ぼくはどこへもあそびに行くところがない。ぼくはみんなから、まるで狐のやうに見えるんだ」と思い、力一杯駆け出す。第四次稿では、胸の内を語ることもなく、ジョバンニは「なんとも云えずさびしくなって、いきなり走り出」す。言葉にすることさえできないほどのさびしさを抱えたまま、彼は、黒い丘の方へ急ぐのである。


五、天気輪の柱
本章の冒頭から、「黒い平らな頂上」は「ぼんやり」と見える。夜にもかかわらず、「つりがねそうか野ぎくかの花」が咲き、一羽の鳥が、「丘の上を鳴き続けながら通って行」く。そして、風が遠くで鳴」く。これらは、ジョバンニがすでに異境の世界に立ち入っていることを表している、賢治独特の表現である。

注目すべきは言うまでもなく、「天気輪の柱」である。天気輪とは、東北地方の寺や墓地の入り口付近に置かれている、輪の付いた石または木製の柱だそうである。物語の中には、寺院や墓地が描かれていないが、死者の世界への入り口を表す天気輪の柱が、黒い丘の頂にあることも物語の伏線となっている。

第三次稿では、「天気輪の柱の下に」来たジョバンニは、「ぼくはもう、遠くへ行ってしまひたい。みんなからはなれて、どこまでもどこまでも行ってしまひたい」とさびしい胸の内を明かすのだが、第四次稿では、この場面において、彼は、内的独白もしなければ、言葉をもらすことさえしない。ただ、夜空を見上げているだけである。彼には、空が「小さな林や牧場やらある野原のように考えられて仕方なかった」のであった。主人公の胸の内を本人に語らせないことにより、彼の抱く孤独やさびしさといったものを効果的に表現している。
2010年06月24日 07時20分56秒

銀河鉄道の夜(四) 宮沢賢治

テーマ:日本文学
宮沢賢治全集 (7) (ちくま文庫)/宮沢 賢治

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■「銀河鉄道の夜」に関する感想(四)
三、家
この章においてやっとジョバンニの口から言葉があふれ出る。
「お母さん。いま帰ったよ。工合悪くなかったの。」

この章における母との会話によって、この家族の秘密が明かされる。まず、母親は病気であること。これは、第三次稿にもすで、母親が病身であることが設定されており、牛乳屋に牛乳を取りに行った際に、「おっかさんが病気なんですが」と語るジョバンニの台詞からも明らかである。

彼の父は、家を不在にしており、それは「北の方の漁」に行ったからだとジョバンニは信じている。彼の父は、漁に行っているのではなく、「監獄」に入っているかも知れないと街の噂になっていることが明かされる。彼の父とカムパネルラの父は「小さいときからのお友達」であることが、ジョバンニとカムパネルラとの接点となっている。

母との会話に出てくる、
「お父さんはこの次はおまえにラッコの上着をもってくるといったねえ。」
「みんながぼくにあうとそれを云うよ。ひやかすように云うんだ。」
が、学校の生徒とジョバンニとの関係をここでも印象づけるものとなっている。

なお、第三次稿では、父親は監獄に入っているという設定となっている。「なぜならジョバンニのお父さんは、そんならっこや海豹をとる、それも密漁船に乗ってゐて、それになにかひとを怪我させたために、遠くのさびしい海峡の街の監獄に入ってゐるといふのでした」。この稿では、ジョバンニの父親は、現在のジョバンニの孤独を深める存在として設定されているに過ぎない。第四次稿では、父親の存在が変容したようだが、ここで扱うことは早計である。

姉が、母親の身の回りの世話をしに「ある裏町の小さな家」にやってきている。だが、彼女の姿はない。

末尾に置かれた次の会話が、これ以後の物語の伏線となっている。
「そうだ。今晩は銀河のお祭だねえ。」
「うん。ぼく牛乳をとりながら見てくるよ。」
「ああ行っておいで。川へははいらないでね。」
今夜が銀河のお祭りであること。ジョバンニが、牛乳をとりに牛乳屋にでかけること。そして、くれぐれも川に入ってはならないことが、母の口から禁忌であるとして、ジョバンニに告げられる。母親が息子に禁忌を言い渡す姿は、すでに「サガレンと八月」や「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」で見たところである。

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