ありがとう

今夜22時を過ぎたあたりで、携帯が震えた。
最近ではないことだといぶかしがりながら画面を見ると、大学時代から友人Kの名前がディスプレイに浮かんでいた。

Kは難しい病気ですでに意識も混濁しているはずなので、この電話をかけてくるのは夫人と決まっていた。
知らせは予期した通りに、Kの訃報だった。

一週間前に彼を見舞った。
彼はすでに声を出せなっかた、まだ目には力があり、私の声は聞こえていると感じた。
夫人が、「壬生さんだよ」と何度か声をかけた。
30分ほど枕元にいたが、彼が目を閉じたのを潮時として、奥さんに別れを告げた。
彼へのいつもの決まり言葉、「また来るからね」は言わなかった。

浮草のように頼りない気分で大学に入ったその日、最初に声をかけてくれたのがKだった。
下宿暮らしで年中金欠乏だった私を、東京都北区の家に呼んで、家族ぐるみで時には何泊も止まらせご飯を食べさせてくれたのも彼だった。
お互いの結婚式の司会をして、遠く離れた場所で仕事についてからは何年かに一度しか会わなかったのに、会えばしたたかに飲んで、ただただ学生時代のことを思い出して笑いあった。
だから、30歳から後のお互いの生活は、お互いにほとんどわからない。

Kの葬儀は、私の知らない40年の彼の生活の世界が仕立てるだろう。
私はその場所で、片隅から彼を見送るために、出かけようと思う。


AD

柿大尽

数年前から我が家の柿の木の調子がおかしい。
夏過ぎまで枝についていた実が、赤みを増すころから、十分に膨らまぬまま落ちてしまう。
以前はカラスなどの被害に悩んだが、今年もカラスがつつく前にほとんど実がなくなっていた。
店に柿が出回ようになってから、物置の陰の柿の木を観に行ったら、晩秋の景色のように実が三つだけ残っていたので高枝ばさみで切り取った。
食べてみたら十分に甘い立派な柿だった。

数回、スーパーで柿を買って食べて過ごしていたら、月に一二度我が家でおしゃべりをする友人たちの一人が、10月初めの集まりに柿を持ち込んだ。参加者の数だけレジ袋にわけて仕立ててきたが、五人いたうちの二人は、うちにもあるからと断った。我が家にたくさん柿が残った。
前後して、所用で立ち寄った知人宅で、今年は柿の当たり年だから、と自宅の木からもいだものを5・6個くれた。
東京に暮らす古い友人から段ボール箱に入った柿が届いた。彼女の家の庭にある何本もの柿の木から採って送ってくれるのが、数年来の習わしになっていて、今年も期待していた。
そのうち、ちょっとした相談のついでに、町内会長が柿を持ってきた。
今年は柿の当たり年で自宅の柿の実がなりすぎて食べきれないから、とどこかで聞いた話と同じことを口にした。彼はその後、数度の会合で、柿を参加者に配っていた。
10月下旬になって、里山の裾に住む兼業農家を尋ねたら、奥さんが枝切狭を取り出し、庭の柿の実を自分で採って持って行ってよと言った。
梢から目の高さまで、びっしりと柿がなっていた。手渡された大きなレジ袋にいっぱい柿を入れて、その家を辞した。
東北の郷里に帰って親を見取り、百姓仕事と渓流釣りをして暮らしているいる元同僚が、40年近く住んだ当地に遺してある家を開けるためと、こちらで育ち就職して結婚もした娘の生んだ孫に会いに、やってきた。
年に数度、彼が数日滞在している間に、都合が合えば一晩一緒に酒を飲むのが通例になっている。
その元同僚が、郷里の家に生っているのを持ってきたと、柿をくれた。
いつもは二人で飲むのだけれど、今回は、共通の友人を誘って三人で飲んだ。その席で、その友人が私に、柿は好きかと聞いた。夫婦で好んで食べていると答えたら、元同僚が「今日やったばかりだ」と言った。「うちの柿がたくさんなったのでもらってくれ」とその友人が言い、したたか飲んだその翌朝に我が家まで届けてくれた。

こんな風に、今年は次々と柿が舞い込んでくる。
東京の知人が送ってくれたあたりから妻は、柿がやってくるたびに、「うちは柿大尽ね」と言って喜んでいる。

AD

オールドパー

歳の押しつまった30日に、古い友人たちと飲んだ。特にそのうちの一人は、40年以上あっていなかった知人で、秋に思いがけないところで再会し、帰省した彼を交えての年末の宴となった。
夕方5時にJRの駅で待ち合わせ、少し歩いて、町で一番大きな寿司屋に入った。
店の片隅のテーブルに座り、5人で7時頃までワイワイと話をした。
河岸を変えようということになり、K氏が心当たりに店に電話をしたが、何やら話は不調だった。私が行きつけのスナックに電話をしたが、店もママの携帯も誰も出なかった。
仕方なく、歩いて数分の近場のスナックに私がみんなを案内した。
年に一度か二度、人の後について行ったり、行きつけが閉まっているときに一人で行ったりする店だ。
二年ほど前、十年ぶりくらいで再会した遠方の友人を、地元のイタリアンの店でごちそうした後、この店に連れて行った。
いつもはビールか焼酎の水またはお湯割りで飲む店なのだが、友人はイタ飯のごちそうの御礼と言って、私の名前でウィスキーのボトルを入れた。
大学教授をしていた彼は、スコッチが一番といい、店のママはオールドパーでいいですかと聞いた。
私の名前で入ったオールドパーは、しかしあまり飲まれずに、その夜は終わってしまった。
めったに行かない店なのに、残したオールドパーが惜しくて、何日か後、私は一人でわざわざその店に出かけた。オンザロックでダブルを二杯ほど飲み、カラオケを数曲歌って帰った。
それで、とりあえずオールドパーのことは済んだ気になっていた。
何か月かして、行きつけの店が開いていなかったので、オールドパーの店に寄ってみた。
私も、ボトルは処分されていても仕方がないと思ったし、ママも何も言わなかった。
その後二度ほど、ふらりと立ち寄ってカラオケを一二曲歌って帰った。
今回半年ぶり位に行ったのだが、5人が座ってさて何をという時にママが「オールドパーが残っていましたよ」と私に言った。どうやら棚の奥で眠っていたのを何かのはずみで見つけて、とっておいたらしい。さっそくみんなで飲んで、じきに空になってしまった。

私は、なんだか得をした気分になり、いい年の暮れだったなと、酔った頭でしきりと考えた。

オールドパーをおごってくれた友人は、私と会った数か月後に中程度の脳梗塞を起こし、今はリハビリ中で、年賀状を出しても返事もこない。
しかし今年は連絡を取って会いに行ってみようと思う。
AD

往く夏に

我が家の東隣に、ずっと売れない宅地用の空き地があり、その南隣の20坪ほどの土地がSさんの畑だ。
数年間に80歳を超えたSさんは、ほぼ毎日朝夕に手を入れて、季節の野菜を作っていた。
庭を小さな畑にして野菜つくりをしている妻の師匠のように、いつの間にかなっていた。
妻の植えた野菜の育ち具合をちゃんと見ていて、低い金網のフェンスごしにいろいろアドバイスをしたり、自分の植えつけた野菜の余った苗をくれたり、採れた野菜を「婆さんと二人じゃ食いきれないから」などと言って分けてくれたりした。
彼は畑にやる水をポリタンクに入れて家から自転車で運んでいたので、夏などは我が家の庭の自家水道の水を、長いホースでわけたりもした。
遠慮深い彼は、いくら言っても自分からは水を求めたことはなく、妻が彼の姿に気付いて声をかけると、「悪いね」と言いながら隣の空き地に入ってきて、金網越しにホースの先を受け取ってずるずると引っ張っていった。
彼の姿が見えなくなったのは、昨年の秋の終わり頃で、そのことに気付いて私も妻もしばらくは食事の時など話題にした。
Sさんの親戚という人に、地域の集まりで会ったとき様子を聞いたら、腰を痛めて家から出ないでいる、先日見舞いに行ったら整形外科の医師が往診に来ていた、とのことだった。
年が明けて間もない頃、以前から足が悪くてといってあまり出歩かないSさんの奥さんんと家の前で出くわしたので、声を掛けた。
寒いのがいけなくてじっとしてるでけど、緩んできたらまた出るでしょうよ、と楽観的な話だった。お大事にと言っておいた。
野菜に植え付けをするころになって、Sさんが畑に姿を現した。私も声をかけたし、妻も話をした。
妻には、「もうお迎えがそこまできてっだよ」と言ったらしい。「当分用がありません、と帰ってもらいなさいよ」と、妻は返したという。
妻が実家に帰っているときに、庭に下りた私に声をかけてきて、茗荷の苗をくれた。数日後戻ってきた妻に伝えた。
しばらくしてまた、茗荷の苗を妻にくれた。妻が、この間もらったから、と言ったら「あー」とSさんは言った。
もう畑はやんねえから、ともつぶやいたらしい。
いつもよく手入れをしていた畑のごく一角に、なすを何本か植えて、Sさんはまた姿を見せなくなった。
数回、奥さんが草を抜く姿を見かけたが、やがて畑に草が生え始めた。
夏前には、我が家から見える限りでは、Sさんの畑は一面草が茂ってしまっていた。
夏の初めに、一度反対側に回って畦を通ったら、草に隠れて我が家からは見えなくなっていたなすが、実をつけ始めていた。その周囲だけは草を抜いた形跡もあった。
我が家でもなすが取れ始めたころ、もう一度Sさんの畑の畦に回ってみた。
なすの姿は見えなくなっていた。
今、我が家のダイニングから見ると、我が家の隣の空き地よりも、Sさんの畑の向こうに広がる草地よりもひときわ背の高い草が、彼の畑を覆い尽くしている。
外から見る限りでは、Sさんの家は特に変わった様子もなく、玄関先はきれいになっているし、雨戸も昼間は開いている。しかし、ひっそりとしていて中で人の動く気配はあまり感じられない。
我が家の庭も、この夏は実家と息子の家への往来が忙しくて、妻の草取りが進まず、例年になく草が茂っている。しかし、いつも手入れが行き届いていたSさんの畑は、もう足を踏み入れるのもためらわれるほどである。
そして、夏が過ぎようとしている。







葉書を書いた

 少し遠い町に越して行った古い知人が、昔の伝で頼まれて、私の町の子供用の施設の壁に絵を描いた。
 見て下さいましたかと彼女から葉書が着いたので、早速見に行った。
 すぐに返事を書こうと思っていて、一月が過ぎてしまった。
 私が名目上の責任者になっている地域の祭りで、仕度の段階から些細なトラブルがあったり、息子の息子が発熱したり、気の休まらない時間が流れて、ずっと返事が書けなかった。
 この間の中秋の名月で、ようやく心が落ち着いてきた。
 秋風を部屋に入れて、「暖かく優しいあなたの絵は、子どもたちの心を豊かにすることでしょう」と書いた。
 一つ荷物を下ろしたような気がした。

賀寿

 お付き合いで会費だけの会員になっている親睦団体から、メール便が届いた。
 機関紙か何かのお誘いかと思って封を切ったら、「賀寿を迎えた方々へのお祝い」と書かれた文書と、幾許かの商品券が入っていた。
 今年の秋に自分が「古希」を迎えることは知っていたが、まったくその実感が無かったので、驚いてしまった。
 早手回しに「お祝い」されてもなぁ、というのが実感だったが、届いて数日後の今日、一応礼状を書いた。
 
 第一、賀寿などという言い回しも知らなかった。
 
 遅れているのは私自身の覚悟かもしれない、とちょっと反省もしている。


訃報

いつもやり取りしている年賀状が来ないなと思っていたら、奥さんから古い友人の訃報が届いた。

昨年の十一月に亡くなっていた。
はがきに電話番号も印刷してあったので、受け取ったばかりの今夜電話をした。
身内だけで小さく弔いましたので、お知らせもせずにと謝られた。
亡くなったときの様子を聞いた。
あちこちの臓器の働きが悪くなり、最後は、いくら輸血をしても体のどこかで血漏れて流れて、助からなかったという。
まだ50になったばかりだった。

昨年の年賀状には、久しぶりに会って話したいと書いてあった。
彼が高校時代に作った映画は、文化祭で近隣の女子高の生徒が押しかけて泣いたという伝説が残った。
30代に入ったころからずっと透析をしていて、だんだん弱ってきているのかもしれないとは思っていたが、まだまだ先までつき合えると信じていた。

初めて、彼の奥さんと電話で話をした。
彼女は、彼からよく私の話は聞いていたといってくれた。
彼が何十年も前にくれた、あなたの訳した小説を、昨秋に読み始めたばかりです、と私が言った。

お互いにありがとうございますとお礼を言い、私は彼の冥福を祈る言葉を述べて電話を切った。

風の便り

数日、強い西風が吹いた。

私の町にこの風が吹くときは、遠い西の友人の町に雪が降る。
何年も前にそのことを知らせておいたら、昨日、しばらくご無沙汰していたその友人から、「雪が降りました、西風が吹いていますか」と、メールが届いた。

小さな仕事の山を越えて、三日吹いた風も今夜はうそのように止んで、私は街へひとりで飲みに出た。

この風が止むと、街はきりきりと冷えてくる。

寂れきった盛り場のなじみのスナックで、手持ち無沙汰のママさんと、入浴剤の話をした。
先日、昔のクライアントのお母さんからいただいたのだが、我が家では入浴剤を使う習慣が無くて、もてあましているといったら、ママさんは「私は入浴剤が好き」という。
貰い手が見つかってよかった。

店を出て、静かに澄み渡った空を見上げ、オリオン座を見ながら昨日もらったメールのことを思い出した。

つながりのある嬉しさをかみ締めながら、風の便りって、このことかなと思った。

友がみな

友人に頼まれていた仕事をするため、休日の今日の、午前中を空けておいた。
会う約束の10時の30分前に、その友人から電話で「別のチームがその仕事をもう少し時間をかけてやることになった、ごめん」とキャンセルが入った。ほっとしたが、まったく準備に時間をさいてなかったわけではないので、その時間をどうしてくれるという気分も少しはあった。
思いがけずあいた時間をうまく使えずに午後を迎えた。

昼食後、ネットで大学時代の友人の名前を開いてみた。
大学教授のK君は2年前の著作まで紹介されていて、その後の消息は分からない。モニターには懐かしい笑顔が出ていたが、年賀状は去年今年とこちらから行きっぱなしだ。肩書きがずいぶん沢山ついているので、私の賀状は山の中に埋もれてしまっている可能性もある。

続いて数年前まで大きな保険会社の重役だったS君を検索した。いまは地方の放送局の専務をしている。
彼とは新年早々電話で話した。彼が、共通の友人U君について少し不穏な情報を年賀状に書いてきたので、確かめの電話を入れたのだ。
ネットの情報は、S君について私が知っている情報よりだいぶ古かった。

さらに、コピーライターのO君をさがしてみた。
彼のコピーのいくつかは今でも、名作としていろんな場面で引用されている。中年の感傷を巧みに言葉や場面にしているという気がした。
「筆で生きたい」と大学の部室や近くの飲み屋で言っていたのを思い出す。
ラジオで、宣伝について語ったり、自分のコピーを素材にしたコントのナレーションをやったりしていたことを、今日、ネットで知った。
パソコンから、懐かしい聞き覚えのある声が流れてきた。
相変わらず、きざでセンチメンタルなしゃべり方だった。

Sの結婚式は披露宴に出ただけだが、KとOの披露宴の司会は私がした。そして私の披露宴の司会は一部をOが、二部をKがしてくれた。

Kとは十年以上Oとは30年以上あっていない。
「友がみな我よりえらく見ゆる日よ花を買い来て妻としたしむ」という啄木の歌を思い出した。
彼らが私よりえらいとはまったく思わないのだけれど、彼らがまだ元気にバリバリ仕事をしているらしいということが、今日は心にしみた。

私は今朝のことで、自分でも思いがけないほど心が沈んでいたらしい。
4月には今のささやかなパート仕事もやめることになっていて、そう決めたせいか年明けからずっと、なんだか気分がふわふわしているのだ。

もう少し自分の時間を内容の濃いものにしてみようかなと、あてもなく考えてしまった。

喪中はがき

喪中はがきが届く。
誰が亡くなったのか、以前は書かないことが多かったが、このごろは、具体的な情報が書かれているものも増えた。

今日、妻のところに、学生時代の同級生の女性から喪中はがきが届いた。
「長男が急逝したので、年末年始のご挨拶を…」とあった。
最近では年賀状の交換だけの付き合いになっていたようだったし、事情は一切分からない。それでも、妻の気持ちはひどく落ち込んだようだった。

もちろん、悲しい出来事は世の中にあふれている。
それでも、身近な人の特別な悲しみはまた、傍にいる者にとっても特別なものだ。