バルサの話

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テレビドラマ 精霊の守り人 第二シリーズ の録画を今夜見た。
原作を読んでいるので話は分かるから、画面の雰囲気を安心して楽しめる。第一シリーズを見ていても、新しい話が始まっているし原作を知らないと、話が飛んでいるようでわかりにくいかもしれないと思った。
私は楽しみにしているが、一緒に見ている妻は、いろんな物事の関係がわかりにくいとぼやいていた。
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太平洋戦争開戦の日に、たまたま『この世界の片隅に』を観た。うまく都合が合っただけで、観終わっても格別の意識はなかったけど、あとになって、丁度いい日に観たなと思った。

 

誰かが100年に一度の名作といっていたが、少なくとも私が今まで見たアニメーションの中では、一番印象的だった。

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太秦ライ○ライト

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福本清三氏がカナダで開催された第18回ファンタジア国際映画祭の長編コンペティション部門で、最優秀男優賞を受賞したそうだ。
私と同い年か一つ違い。
大仕事とか、人の上に立つとかでなく、何かを一筋にやり続けてきた人が、そのことにご褒美をもらうのを見るのは嬉しい。
一筋にやっている人は大勢いるが、大方の人は、特にそのことをほめられることなどない。
いわんや、万事に程々でいい加減な私には、振り返ってみるとほとんど一枚の賞状もついてこなかった。
もし彼がそばにいたら、よかったねと、肩をたたきたい。

稀に見る秀才といわれ、誰もがその才能を高く評価していたという科学者が、躓いて自死した。
痛ましいとしか言いようがない。

どのように生きても一人の人間にとって人生は一つだなと、改めて思う。
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 今期の直木賞作品『ホテルローヤル』を読んだ。
 都会のラブホテルと町外れの日本型モーテルの違いはよくはわからないが、いずれにせよ「ホテルローヤル」はそんな建物なのだろう。
 ラブホテルの変遷をたどって30年余りの時間をさかのぼり俯瞰する手法は、頭の固くなった私を少し混乱させた。
 しかし私自身が一つの町に40年余り住み続けて、いくつもの家庭や建物やあるいは人間の誕生から死滅や消滅までを見ることができた今、その風景はすこし懐かしい感覚を呼び起こした。
 リアルの世界の知人たちについて「そういえば、彼の(あるいは彼女の)家族(あるいは家庭)もこんな風に姿を消したのだったな」などという感じである。
 ホテルローヤルを建てた男の、自分の人生に対するある種の真面目さと不真面目さ、そしてそれゆえの哀れさや、それに振り回されながら自分の道を生きる女のしたたかさは、読み終わってみると印象深い。
 ホテルに登場する何組かの男女のエピソードでは、寺の梵妻の話が途中まで面白かったが、さいごの落ちがなんだかしっくり来なかった。
 自殺したカップルの話は、シチュエーションを変えればいくらもある話だけれど、(少し前にテレビで見た『拝領妻云々』だって、似たような話題といえないことは無い)そんなときの男の思いは、何度も取り上げられる古くて新しい素材だ。このエピソードでは、妻の想いがもう少し踏み込んで描かれてもよかったかなと思うのだけれど、それでは話の焦点がぼけてしまうのかもしれない。
 逆に言えば、焦点がいくつもあったり、あるいはひどくぼけてしまっている「現実」を、無理やり一つのことに焦点を当てて描かないと、小説や絵画や写真や映画はつくれないのかもしれない。
 少し混乱したまま読み終わった私としては、少しすっきりさせるために、もう一度、時間の流れに沿ってこの小説を、最終章から読んでみようと思っているところである。
 ラブホテル(あるいはモーテル)は、妻との自動車旅行で二三度泊った以外に、一度だけ、一人で入ったことがある。
 40年近く前、出産のため里帰りしている妻を訪問して自宅に帰る途中で、車のエンジンが不調になった。夜の8時か9時頃だった。地方都市の少し町外れの国道の肩の空き地に車を止め、その中古車を購入した自動車工場に公衆電話から電話を入れたら、顔見知りの主人が出て、今いる町の同じ車種を扱う自動車工場を教えてくれた。
 翌朝一番でその工場を訪れることにして、車をそのままにし、私は10分ほど歩いて飲み屋かラーメン屋のようなところに入り、歩いていけるところに旅館は無いかたずねた。すると、近くのモーテルがある。一人でも泊めるんじゃないかなと言われた。
 「うちは、女の子は呼べませんよ」といわれて、ちょっとたじろいたが、泊まり料金を払って部屋に入った。
風呂に入り、ほっとして冷蔵庫から酒を出して飲んでいたら、ガラガラと音がした。隣の部屋の下のガレージが開く音で、客が隣に入ったことがわかった。
 もう少ししたら寝ようと本を読んでいたら、ブーンというようなうなり音が波打つようにかすかに聞こえてきた。何の音か見当もつかなかったが、どのぐらい時間がたったか、やがてその音も止んだ。
 最初のガレージ音がして1時間か2時間ほどで、またガレージの開く音がした。今度は車のエンジン音も少し聞こえた。自分が朝まで泊まる予定だったえいか、隣の客の出入りがひどく早い気がした。
 いよいよ寝ようとして、ベッドの頭のところのいろんなボタンを触ってみたら、天井のカーテンが開いて鏡が現れたり、ベッドがうなりながら波打ったりした。
 それで先ほどの音の正体がわかった。
 それでもまだ、私は隣の部屋であわただしく行われていた行為を、それほど生々しく感じることは無かった。
 私は疲れていたし、明日は何とか車を直し、急いで自分の町に帰らなければならない。
 だからそれ以上何も考えずに眠り込んでしまった。そしてずっとそのことを思い出さずにいた。
 それなのに、不思議なことだが、この小説を読んだ今、私は40年前のモーテルの、見てもいない二人の男女の影を、そこにいるかのようにありありと思い出している。



 







春の嵐

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今日は朝から大嵐。雨はたいしたことが無いけれど、強風が吹き荒れている。

昨日は午前中、先日借りてきた『桐島、部活やめるってよ』を観た。
原作とは人物の関係や配置が少し違っていて、別の作品になっていたが、登場人物たちはそれなりに生き生きと描かれていたと思う。

社会の中に高校があり生徒たちがいるから、高校生の日常生活の中に社会が縮図のように写しだされる。
同じ空間と時間の中にいながら、階級が生まれしかも彼らはテリトリーを作り棲み分けていて、時には否応無く触れ合いぶつからざるを得ない。
そんな人の世の縮図を、高校生らしい繊細さと鈍感さの描写も的確に交えながらうまく描いていると思った。

なんとなく切なくなる映画だった。

昨日から今日にかけて、浅田次郎『プリズンホテル』を読んでいる。
嵐が少し収まったら、床屋に出かけたいのだけれど。


『残日録』のことなど

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18日が定例の閉館日だったので、19日に藤沢周平『三屋清左衛門残日録』を市の図書館に借りに行きました。
開架式書架には見当たらず、モニターで検索したら図書館では二冊所蔵しており、一冊は移動式図書館にあり、もう一冊は書庫に移されていて職員の手で出してもらう必要がありました。
しばらく待った後職員から渡された本は、小口や天地が茶色く変色しでこぼこに波打っていて、ノドもところどころで離れかけている有様でした。
この本が傷んだので、今は移動図書館に載せられている本を新しく購入し、この本は書庫に移されて廃棄を待っていたのでしょう。

借りた日から、読みかけのほかの小説と平行して読み始め、今日までと期限を切られたいくつかの仕事を気にかけながら、結局二日あまりで、今朝読み終えました。
文庫本で持っていて、結構面白く読んだ記憶があったのに、第一話には、覚えがなく、これは題を知っているだけで読み落とした本だったかと自分の記憶を疑いました。しかし、二話三話と読み進むうちに、確かに読んだことがあるという確信が沸きました。
それでも、各話の詳細はついに思い出さず、最後まで面白く読んでしまったというわけでした。

読み終わった後、本を見ていろんなことを考えました。
後ろの見返しに、昔どこの図書館でも使っていた貸し出し期限表が張ったままになっていて、借り出した人たちの貸し出し期限がゴム印で押されています。
奥付を見ると、平成元年9月20日第一刷とあり、発行時期がわかります。
一方、奥付の上に図書館の楕円形の所蔵印が押してあって、購入日は平成1年11月9日とあります。
貸し出し期限表の最初のゴム印は1-12-9で、最後の3-6-9まで17個のゴム印が押されています。
この本が平成3年の6月以降借り出されていないということではなく、その頃から本の登録と貸し出しシステムがバーコードを使った現在のパソコン管理に移ったということだと思います。
一年半のうちに17回貸し出されたということは、この本が、よく読まれていたことの証でしょう。
特に最初の半年間ほとんど月に二回貸し出されています。これは、2週間の貸し出し期限を考慮すると、この本は購入後半年は、ほとんどの間断なく借り出されていたということになります。
くたくたに疲れた本の有様を見ながら、この本もがんばったんだなあ、と小説の中身のことも考えて、なんだかおかしくなりました。
この本は、私が返却すればまた、私たちの目にはめったに触れない書庫にしまわれるでしょう。
もしかしたら、私がこの本を読んだ最後の読者になるのかも知れません。

さもあらばあれ、私は気合を入れて今日一日、たまった地域団体の仕事に精を出すことにします。

老人とブログの海

『何者』

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今期の直木賞作品、朝井りょう『何者』を読んだ。少し前に『桐島 部活やめるってよ』を読んで面白かったので、期待して読んで、期待は裏切られなかった。
高校生活を描いた『桐島…』でも大学生活を描いた『何者』でも、同じ感想を持った。それは、「50年前の私の周りの風景も同じだった」という感想だった。
『桐島…』の高校生のある男女が、ちょっとした親の隙を見て当たり前のようにセックスをすることとか、『何者』の話の重要な小道具がネットやスマホであることとか、それは当時の私が見聞きしてきた世界ではなかったことだった。
そして、その代わりに当時の私の周りでは、中学生の時代から当たり前のように世界や国の未来や政治が論じられていたのに、この二つの小説の中の人物たちの会話にはそれらがまったく出てこないのも、思えば不思議な気がした。
それでも、私は、ひどく懐かしい話を読むような気がした。
若さとは、こんな風なものだった、と素直に思えたからだ。
つまり、彼の書く小説は、十分にうまくリアルに描かれていたのだと思う。
それは、平安時代の歌人の歌が今の私たちの心を捉えるのと同じことだ。
私たちの心に、若者らしさとか、男女の機微とか、自我とか誇りとか、時空を超えた変わらないものがあり、良い作品はそれをきちんとうまく捉えているのだろう。

ちなみに、今回の直木賞選考では最後に、もう一つの受賞作品の安部龍太郎『等伯』と並んで西加奈子『ふくわらい』が残っていたという。
西加奈子はこの間『きりこについて』を読んでいたく感心したばかりだった。『ふくわらい』はまだ読んでいないが、私に『何者』とどちらを選ぶかと聞かれたら、なんだか西加奈子を選びそうだ。
小説としてのおもしろさの成熟度は、彼女のほうが進んでいる気がするから。

老人とブログの海

ヴィヨンの妻(続き)

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昨夜「ヴィヨンの妻」の続きを見た。妻もまたそばで見ていた。

映画は原作にない人物を登場させ、人間関係や出来事を少し複雑にしていて、次第に作品としては小説と別物になっていった。
相変わらず作家は自堕落でその妻は妙に自己中だったりし、私の妻は仕切りと文句を言った。それだけではなく、登場人物の饒舌なそして微妙に捻じ曲がった理屈を聞きながら、まるであなたみたいだ、などと私に絡み始めた。
「私はこういうのはダメだけど、あなたには確かにこういったところがある。あなたは太宰みたいだ。」
妻は何度かそういった。

私は大学時代に「あなたを見ていると、どういうわけか、『異邦人』のムルソーをおもいだすの」とある知人に言われたことがあったが、この歳になって太宰みたいだと言われたのには驚いた。そしてなんだか愉快になってきた。
昨夜はまた途中で再生を止め、今朝、妻が実家に義父の介護に出かけたあと、続きを見た。

映画の中では、原作とは味わいが異なり、話はありふれた男女の絡みの話になってしまった。妻が自分以外の男性と関係を持ったことを知り、「俺もとうとうコキュになってしまった」と作家がつぶやく場面は、原作を生かしていた。
コキュという言葉には本当に久しぶりに出会って懐かしかった。
『桜桃』の一場面の変形も取り込んであったから、この映画には私の読んでいない他の作品も部分も取り入れてあるのかもしれない。

私の妻はこの映画を見ながら、仕切りと「太宰が云々」といった。
作家は作品に自分を投影する。特に太宰のような作家はその作品に自分の生活や経験の一部を写し込む。しかし、事実と異なることもたくさん書き込まれていて、作品は全体として明らかなフィクションとして読まなければならない。それをもとに作られた映画も勿論同様だ。
しかし人は、あれこれの嘘が混じっているからその話全体を嘘と考えるのではなく、ひとつふたつの事実が織り込まれていることを根拠に、その話全体を事実のように受け止めてしまうことがあるのだと、改めて思った。

ヴィヨンの妻

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少し前に、本を買ったらTUT○YAの「8月12日まで一日一本旧作DVDがタダ」というサービス券が手に入った。
ずっと使わないでいて、期限直前の8月11日に一本借りた。タダ券だけでは気恥ずかしいので、もう一本100円を払って借りた。

借りたのは「ヴィヨンの妻」と「殯の森」。どちらもそれなりの話題作だったが、劇場に見に行く機会を逃したら、わざわざレンタルDVDを借りてまで見る気にはならなかった。
今回選んだのは、いずれも、出演女優にちょっと気を引かれていたのかもしれない。

まる三日放置して、今日の午後、「ヴィヨンの妻」を見始めた。原作を読んだかどうか記憶にない。
映画のテンポは悪くなく、松たか子は十分魅力的だった。脇で私の妻がソファーに寝そべりながら見ていた。「暗いわね」とか、「どうしようもない男ね」とか、ブツブツ言っている。
話の中程で、どうしようもない程自堕落な作家の従順な妻が、夫に「なぜ、はじめからこうしなかったのでしょうね。とっても私は幸福よ」と言う場面があった。
夫の借金を返すために居酒屋で働き始めた妻が、生活の張りのようなものを見出して、そう言ったのだ。
これに対して夫は「女には、幸福も不幸も無いものです」と応じる。
このやりとりは、ちょっと意表をついていて、私は笑ってしまった。
私の妻は「何言ってるのよ、ムカつく。」と怒り出した。
映画では、作家の妻が「そうなの? そう言われると、そんな気もして来るけど、それじゃ、男の人は、どうなの?」と聞き、作家は「男には、不幸だけがあるんです。いつも恐怖と、戦ってばかりいるのです」と答えるのだが、私の妻はそうしたセリフのやり取りなど、もう気にかけずにブツブツ怒っている。

ちょうど潮時だったので私は映画の再生を止め、予定していた外出の準備を始めた。

私が外出から帰ってきたら、妻は私が図書館から借りてきてあった『鮫島の貌』を読み始めていた。そして、「こっちのほうが、女には幸福も不幸もないものです、なんていうのよりずっと面白いわ」と言った。
私は、件のセリフが原作そのままなのかどうか知りたくなって、ネット上の「青空文庫」で『ヴィヨンの妻』を読んでみた。
作家のセリフもその妻のセリフも、ほかの部分もほとんど原作通りに生かされていた。

途中までしか見ていないけれど、映画は、原作を生かしながら、独立した一つの作品として十分面白くできていると思う。