語るに…

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以前、Oという個性的な監督の率いる、名古屋のプロ野球球団Cを応援していた。
Bクラスにいることが多かった球団を、就任以来ずっとAクラスにとどめ、何度もリーグ優勝させ、日本一にしたO監督を、事情は分からないが球団は首にした。
その球団は、それ以後数年低迷し、今年OをGMとして迎い入れて再起を期している。
26日そのCチームと、球界きっての名門チームとが試合をして、Cチームが大勝した。
名門チームの監督Hは自軍の敗戦ぶりにあきれて「語るに足らずですよ」と述べたという。
かつてこのチームの監督をしていたNは、伝説的迷言をたくさん吐いたことで有名な人物だ。
それで、その伝統がHにも引き継がれているのかなどと思ってしまった。
「語るに落ちる」は知っているが、「語るに足らず」は寡聞にして知らなかったのだ。
ネットで調べたら、しかし「語るに足りず=話すほどの価値もない」という用法が、「語るに落ちる」という慣用句の説明文の中で見つかった。今のところそれだけだ。
「とるに足りない」とか「謀るに足らず」は知っていたが、「語るに足らず」については、それでもまだ私は半信半疑である。


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落○というドラマ

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落合というプロ野球の監督は面白かった。
高校の野球部を途中退部し、大学の野球部を途中退部し、プロ野球で前人未到の三冠王三度を実現し、生涯2000本安打を実現して資格を得ても、有資格者の中でただひとり名球会入りせず、中日ドラゴンズというローカルチームを8年間で4回リーグ優勝させた。
人間としては偏屈だけれど、プロとしての技術や理論ではきわめてオーソドックスな姿勢を貫いていた。。
あまりメディアでは強調されていないが、彼の野球人としての生き方の特質は、自分自身も含めて個々の野球選手に一人の人間としての誇りを持たせることにあったように思う。
監督に就任するとすぐ、コーチに暴力の行使を禁じたこと、選手会のストのときにチームの選手会長におもうとおりにやれと激励したこと、自分と自分の家族のためにのみ戦えと言いつづけたこと。
地域の財界などへのすり寄りをせず、マスコミにも機嫌取りのサービスをしなかったことなどは、彼の不評の元になり傲慢だといわれる原因となったが、みんな同じ文脈の中にあったような気がしている。
誰もに好かれる人間でないことは良くわかるし、私もそばにいたらいやになるかもしれないと思う。
でも、少し離れて見ればやっぱり面白い。
監督もコーチも優勝争いの最中に解雇同然の扱いを受けた。しかし選手たちは何事なかったかのように仕事を続けていたのがおかしかった。
そのことだけでも、落合という監督の並々ならない実力が分かる。
できれば日本シリーズでも勝たせたかったが、3-4で負けという結果がちょうど良かったような気もしている。
チームとしての力の差は歴然としていたし、それにもかかわらず、ちゃんと勝ち負けがどちらに転ぶか分からないところまでは持っていったから。

先日、年寄りばかりで日帰りの旅に行った。貸し切りバスの中で、一年ぶりにあった古い友人と四方山話をした。日本シリーズの始まる日だったので、落合について話した。
「落合が好きという人間にはじめて会ったよ」と言われた。
「こいつは昔から人柄も、まっすぐな性格もいいのだが、物事に対する見方が少し浅薄なところがある」と私は笑顔のまま心の中で毒づいた。
その話とは関係なく、仲良く一日を過ごしたので、翌日彼は自分の家になった柿を30個ほど持ってきてくれた。



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お詫びを言うこと

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ト○タの社長の議会での証言の断片を観た。
少し前のタイガーウッズの記者会見を思い出した。
プロが頭を寄せて練り上げた戦略に基づき、謝罪しながら弁明し、責任問題の落としどころをコントロールして、自分がこうむる被害を最小限に抑えようとする。

タイガーウッズのことは、本当は個人の問題だと思う。彼の妻が彼を許せるかどうか、彼の愛人たちが彼の謝罪の仕方に傷つかないかどうか、彼のファンが改めてスーパーアスリートとして彼を受け入れるかどうか。
みんなそれぞれの思いがあるし、それはそれで仕方がない。

ト○タの場合は違う。
本当に責任を取るということは、本当は何が起こっていたのかを明らかにすることだ。
そして、おそらくそれは、ト○タ自身ではできないことだ。

それは、企業自身ではできないことだから。
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石を投げる者たち

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夢を持って異国に来、一生懸命働きながら未来を見ていた若い女性が、若者のアパートから遺体で発見された。若者は逃亡し、そして昨夜捕まった。
何が起こったのかはまだ、明らかにされていない。
少しだけ、若者の昔の事が、母親によって語られた。
想像されているような犯罪や事件を起こすことなど、誰も予想しない少年時代だったらしい。それが当たり前だと思う。

薬物の所持と乱用事件を起こした女性タレントについての報道を見ていて思った。

自分は違うとなぜ思いたがるのか。
彼や彼女らが墜ちた物と同じ陥穽が自分の足元に広がっていて、自分がその深みにはまっていないことが僥倖であると、そうは思わないのか。

騒々しいマスコミの報道振りを見て、ふと心が淋しくなってしまった。

罪なきもの、まず石を擲て。




オリビアを…

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A新聞の土曜特集版に、かつて流行った歌にまつわるエピソードを旅する特集が連載されている。

昨日の特集は『オリビアをききながら』。
Wiki.では「尾崎亜美が作詞・作曲をして杏里に提供された楽曲。オリコンの記録上では目立ったヒットに至ってはいないが、時を経て多くの歌手にカヴァーされ、スタンダード・ナンバーへと成長した」と紹介されている。
なるほどしゃれた題に覚えはあるけれど、歌詞もメロディーも私には思い出せなかった。
記事に載せられた歌詞を読み、youtubeで尾崎と杏里の歌を聞いた。
♪ お気に入りの歌 一人聴いてみるの  
  オリビアは寂しい心 なぐさめてくれるから  
  ジャスミンティーは 眠り誘う薬
  私らしく一日を 終えたいこんな夜
という歌いだしの一節の特に「私らしく一日を…」は印象に残った。
このフレーズは、新聞の解説を読むまでもなくこの歌が、女性の自立への旅立ちの歌だと知らせてくれる。

歌を聴きながら、一月前に読んだ小説『ダブル・ファンタジー』を思い出した。
騒がれたほど「官能」的ではなかったけれど、一人の女性が自分を縛り付けたさまざまな桎梏から自分を解き放とうと苦悶する姿はそれなりに描けていると感じて面白かった。

夏の終わりに部屋を片付けていて、古い新聞の切抜きを見つけた。『オリビアを…』を取り上げた企画の前の、男女の愛や恋を描いた物語の成り立ちや実相を探った連載の記事で、テーマは和泉式部。
切り抜いてはあったものの記事はちゃんと読んでなかったようで、中身に記憶はなかった。改めて読んでみた。
和泉式部は奔放な恋愛で有名な平安王朝の歌人だが、その姿の一部を初めて知って、図書館で「和泉式部日記」の注釈つきと口語訳本を借りてきた。
夫に捨てられ、次々と男を受け入れ、何度も恋をして狭い貴族社会の中で奔放な女と名をはせて、しかし歌の卓越した才能で男たちにも女たちにも一目置かせた女性の一代の話は、華やかというよりは哀切感がある。
彼女の墓と伝承される遺跡がが全国にあるというのも面白い。

そして、以前読んだ「待賢門院藤原璋子」のことも思い出した。
西行の終生の想い人だった待賢門院も、白河法皇の養女であり愛人でありながら、その孫の鳥羽天皇の中宮となり、そうなった後に鳥羽天皇の子として実は白河法皇の子崇徳天皇を産んだ。
後に自分の生んだ鳥羽天皇の実子後白河と崇徳の対立が保元の乱の一因となるのだが、彼女は後世になって多くの女性の信仰を得たという。
先にそのことを何かの記事で読んでいたので、和泉式部の「墓」が全国にあるということも面白く感じたのだ。

『人形の家』の「ノラ」は「家」から飛び出そうとしたが、もしかしたら女性の究極の解放とは、一人の男に囚われることからの「解放」なのかも知れない。少なくとも、長い歴史の中で、名もない多くの女性たちがひそかにあるいは公然とそのことを望みあこがれて、彼女らへの信仰を育んだのではないか。

そんなことまで、独りよがりで身勝手な連想は広がっていった。
女性の自立が描かれようとする時、それはしばしば男からの離脱の物語となるような気がして、興味深かった。

満月の大きな月の出

テーマ:

11月15日の『月』という記事に、双葉さんがコメントを下さいました。

そのなかで、「なんか18時頃に東の空に、すっごく大きな(大きく見える)満月があることがあっって、恐いくらいに大きくて綺麗なんですが、何故にあんなに大きく見えるんでしょう???もし、ご存じなら教えて下さい!」とお尋ねがあり、うろ覚えの記憶で「錯覚説」「光の屈折説」を紹介しました。


そうしたら、まるでそれを読んだかのように(全く偶然ですが)、夕陽がなぜ大きく見えるかという疑問への科学的検証が、NHK「解体新ショウー」という番組で放送されました。

要するに

『太陽の大きさを、昼間と夕方に望遠鏡をつかって測ってもまったく同じ。すなわち、夕日が大きく見えるのは錯覚なのです。人は目にした風景のなかに「線の傾き」をみつけると、自動的に脳の中に奥行きのある空間を作ります。夕日が大きく感じるのは、風景の中にある線の傾きによって、太陽をとても遠くにある巨大なものだと脳が認識してしまうからなのです。』ということだそうです。

下記のように、再放送が予定されています。


解体新ショー ▽夕日が大きいのは? ▽アニメキャラがしゃべっていると思うのは?
チャンネル  :BS2
放送日 :2008年11月25日(火)
放送時間 :午後4:00~午後4:30(30分)
ジャンル :情報/ワイドショー>健康・医療  バラエティ>その他  趣味/教育>その他

番組HP: http://www.nhk.or.jp/kaitai/


老人もまた

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関東のある町で70代の老人が妻や息子夫婦、孫までを惨殺して捕まった。家族との気持ちの交流がうまくいかなくなって孤立感を強めていたそうだが、それにしても無残な事件だ。
数日前頼まれていた仕事を果たしに、二歳年上の友人宅を訪れた。作業をしながら世相の話になった。
どこで仕入れた情報だか、「年寄りの犯罪や事件が急増しているのだそうだよ」と彼が言った。年寄りの実数の増加を遥かに上回って70歳以上の老人の犯罪が増えているのだという。若者の犯罪が増えているというが、数字の上で見る限りその数は横ばい状態で、通常言われていることは実態とそぐわないのだそうだ。
つまりこれの言いたいことは、「最近の若者は」とか、「最近の教育は」とか言う言説は根拠のない全くの俗説で、老人の犯罪の増加でも分かるように、当節は世の中が仕組みとして狂ってきているのだそうだ。

確かに秋葉原の若者の凶行も千葉県の老人の凶行も、犯人一人の事情にだけ帰するには余りにも深い背景がありそうな気がする。
少なくとも、件の若者は悪名高き不正規雇用の労働者であり、老人は後期高齢者医療制度の対象者だった。

哀惜のヒーロー

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出勤途中で聞いているラジオの話題から。

中年男性が同窓会の思い出を投稿して、最後に懐かしいからと「月光仮面は誰でしょう」をリクエストしていた。

このテレビ映画には、私よりも、弟たちが熱中していた。


久しぶりに月光仮面の主題歌を聞いた。

映画は見なかったが、歌は懐かしい。


自分も一緒に口ずさんでいてはじめて気付いた。

月光仮面は、主題歌の歌詞から見る限り、それはなんともあやふやで頼りないヒーローだ。


どこの誰かは知らないけれど誰もがみんな知っている月光仮面は、

①正義の味方よ 善い人よ 疾風のように 現われて  疾風のように 去って行く
②どこかで不幸に 泣く人あれば  かならずともに やって来て (中略) しっかりしろよと   なぐさめる

③電光石火の 早業で  今日も走らす オートバイ この世の悪に かんぜんと 戦い挑んで 去って行く


なんと。

あっという間に現れて、不幸な人を慰め オートバイを走らせて 悪に挑戦して あっという間に去っていくのだ。


不意に、アニメ『ペンギン村』の「スッパマン」を思い出した。

スッパマンこそが月光仮面の正当な後継者だったのか。

主題歌の人物像から見る限りでは、永井豪描く「けっこう仮面」などは、実力がありすぎて、元ネタ「月光仮面」よりずっと立派だということになってしまう。


そう考えていたら、なるほど「♪月光仮面は誰でしょう」のメロディーは短調で、物悲しく聞こえた。

今日はそんなことを考えていたおかげで、通勤時間は短く感じられた。

 rinndaさんから、私が愛していると言わない(言えない)ことについて、コメントをいただいた。このことは、以前にも一度書いた

 そういえば、昔から妻は「どんな料理を作ってもおいしいって言わないから、あなたは張り合いがない」とよく言っていた。私は、「さまざまの工夫の入った料理を、『おいしい』の一言で済まされるほうがずっとさびしいじゃないか。僕の食べてる様子でどう思っているか感じなさいよ」と答えていた。

 共働きだし、子どもも育ち盛りの頃は手のあいたほうが料理をしたので、私も週の三分の一とか半分は夕飯を作ったが、そういうときに妻が律儀に口にする「まあおいしそう」とか「ああおいしかった」とかいう言葉は、特ににうれしくもなかったし、ことさら必要な言葉とも思えなかった。

 私も他人の料理にはいくらも、そういったのに。


 私たちの世代は、言葉の大切さを知っているというよりは、気持ちを素直に言葉に表すことに対して臆病なのだ。だから、今のみんながどんどん気持ちを口にするのはすばらしいと思うのだけれど、でもあまりにも、

大切な言葉が気楽に使われているような。

 例えば、英語の辞書で「mansion」を引くと「大邸宅」と出てくるのに、和英辞典で「マンション」を引くと「an apartment house」(=アパート) と出てくる。日本の不動産屋が、言葉の意味を安くしてしまった。

 そんな一面もあるかなと思う。


 何ヶ月か前に読んだある女性のブログで、不倫の深刻な後遺症として、『「男」と「愛」が信じられなくなったこと』と書かれていた。実は不倫でなくとも、例えば破綻した恋愛や結婚の後でも、人は同じ思いをすると思う。

 でも、不倫関係の破綻の場合は、単なる恋愛関係や結婚生活の破綻と違って、そのような不信が宿命的だといえる理由がある。それは、不倫関係の当事者特に女性はは必然的に強く心理的な逆風を受けており、それに抗するために、通常の恋愛や結婚生活以上に、いつも強く「愛」に頼らざるを得ないから。

 男の場合は、もちろんケースバイケースだが、それほど「愛」依存症にはならない。それは、不倫関係に起因する心理的風あたりが歴史的にも社会的にも、男にとっては女性ほど強くないから。

 この差については、女性は(相手にそれほど風が当たっていないなんて)どうしても実感できにくい。


 男と女が口にする愛の重さの違いも、もしかしたらあるのかも。男は何人もの女性を同時に「愛」せる(人もいる)。

 以前にこのブログで取り上げた 、かの田中角栄は「愛人が何人いても、俺は同じように大切にしてちゃんと面倒を見ている。何も疚しいことはない」と言い張った。でも、それぞれの女性には「中でもお前が一番」と思わせたと思う。それが「思いやり」だし、「大切にする」の中身だ。


 これは一般論で、しかも論証できない仮説で、一人ひとりには機械的に当てはまらないことはあたりまえ。

しかも私が今まで何度も言ってきたことの焼き直し。

 だからこんなに長くだらだら書いたけど、実際には、もっともらしいだけで全く価値のない評論でした。