ひと月前に何気なく手に入れた『芥川龍之介』作品論を読んでいる。

研究者の書いた作品論には、ジャーナリストや小説家の書いた評伝とは違った味わいがあって、めんどくさいけど粘り強く読むとなかなか面白い。

寡聞にして秀しげ子という女性のことは知らなかったが、ちらりとこの本に出てきたのでネットで調べてみた。
文学の世界を通じて知り合った人妻だが、数回の交渉のあと、芥川はこの女性から必死に離れようとし、以後は女性にこりたようだという。
芥川も結婚して数年のうちの出来事で、このあたりはさしずめ原辰徳や橋下徹を彷彿とさせるが、ネットに見る限りこの女性の評判がすこぶる悪い。
私は少し気の毒に思う。

それにしても、芥川の作品に見られる知性とその行動のギャップに、改めて人間一般のどうしようもない愚かさのようなものを感じる。

自分の人生の凡庸さに、物足りない思いはあるのだが、いささか安堵したりもして。

AD
NHKテレビドラマ『初恋』の最終回を観た。
(この後はネタバレあり)
二人の男を愛し二人の男から愛されたヒロインは、長い穏やかで幸せな日々と、短いよみがえりの愛の時間に満たされた後、自らの死を代償として二人の男の許しを得て両者を結びつけ、ともに自分の子供の庇護者とするという話で、これはこれで、女性にとってはひとつのメルヘンではないかと思った。
少し前に、『もう一度君に、プロポーズ』というドラマがあって、これは一人で二度おいしいという感じの愛のメルヘンだった。
妻は、『もう一度…』をそれなりに楽しんでみていたが、『初恋』については妙に気持ちが不安定になるようで、ちゃんと見ないで、ちらちら横目で見るような見方をしていた。夫と子供を置いて初恋の人に走るという展開が、彼女をとても不安にさせたのではないかと思った。

7月23日が締め切りということで、今頃、年賀状のお年玉番号チェックをしした。
半分以上が一年に一度のやり取りの方なので、年賀状の文面を読みながら、「おや、久しぶり、珍しいときに珍しいところで会いましたね」という感じがした。
切手が3枚当たっていたので、明日交換に行くつもり。

すっかり忘れていたけれど、息子が3歳になる女性の年賀状には、「ようやく子育てが一段落した感じです」と書いてあった。
この女性からは、4月に「妊娠しました。双子です」というメールをもらった。
さっき、読んだばかりの瞬間には、正月の段階では4月の妊娠は思ってもみなかったことだろうに、と考えたが、少ししてからむしろこの年賀状の文面と、春の彼女の懐妊とは、それなりの整合性があるような気がしてきた。
双子というのは想定外だったろうけれど。
AD

少し前にテレビで放映されたジョニーディップの「シークレットウィンドウ」の録画を、今夜一人で観た。


夫婦共通の友人に妻を寝取られた作家の話だ。


映画の始まりは、その二人がいるモーテルの部屋に、主人公の作家が何度も逡巡した挙句踏み込むシーンから始まる。


ミステリーだからプロットを書くわけには行かないが、私はそれよりもジョニーディップの壊れっぷりに、ついひきつけられてしまった。


妻を寝取られた男の想いを絵に描けばこんな風なのかと、つくづく思わせられた。


妻は、自分が彼と関係が出来たのは夫との夫婦関係が事実上壊れた後だとしきりに強調するが、既に夫にとっては「そんなことは関係ない」というあたりに、妙なリアリティーがあった。

それは筋立てのリアリティーではなくて、ジョニーディップの演技が生み出したリアリティーだ。




AD

小説を読む

石田衣良「愛がない部屋」を読了。

図書館の開架式書架を渉猟していて、石田衣良の本が並んだ場所を何気なく見ていたらまだ読んだ覚えのない短編集があったのだ。


63歳の未亡人が同世代のやはり妻をなくした男性と恋に落ちる話が出ていた。


その話を読み終わって風呂に入ったら不意に母が死んだ直後のことを思い出した。

葬儀などの一切を終えて職場に戻ったら、十歳上の先輩が、「早く親父さんに良い人を見つけてあげることだね、まだ先の人生は長いのだから」と言った。

彼特有の弔意の表し方だと思ったけれど、やはり違和感が残った。

母は今の妻の歳で死に、三つか四つ年上の父が残った。そのときの父の歳が今の私の歳とほぼ同じだ。

私が60になったとき、母の死んだ歳の若さを改めて思ったが、父もまたこんなにも「若く」て取り残されたのだ。


結局父はその後十数年、子供のいない兄夫婦が同居したが兄嫁と折り合いが悪く、一人暮らしのような暮らし方をしていた。そして、自分のことと、離れて暮らしている私と弟の子供たちつまり孫のことを考え、あれこれ世話を焼いて暮らしていたが、心筋梗塞の発作の後一月入院して死んだ。

生活のことではほとんど愚痴を言わなかった。浮いた話など全く聞かなかったが、彼が寂しかったのかどうか想像がつかない。


今年の5月にNHKで四回連続で観た「こんにちは 母さん」でも同じような恋愛シーンが出たが、その時は父のことは全く思い出さなかった。加藤治子と児玉清の組み合わせを見ているとイメージが固定されて、父の思い出が入り込む隙間がなかったのかもしれない。

自分でどんどん世界を広げていくことのできる小説の強みと言うか、そんなことも考えた。













一昨日9月6日の昼間はほとんどの時間、強くなる風雨を気にしながら私は一人で探し物をしていた。

一年に一度のピアノの調律があるというので、書斎のものを一度部屋の外に出したら、大事なものが三つ四つ行方不明になって、見つからないのだ。

緊急避難避難させた本やガラクタを捨てたり戻しながら探せばいいとたかをくくっていた。結局今までに探したいもの四つのうち二つが見つかった。そのうち一つは、今回のピアノ調律の前から探していたもので、それはまあよかった。けれど、この移動の際に、これは大事だからと意識していたものが見つからないのには参った。

妻は父の介護に、定例の実家行き。


午後のひと時、疲れた私は居間に座り、気分転換にDVDレコーダーの録画番組のチェックを始めた。

番組の頭が切れている画面が出てきた。仲代達也が若い女優とどこかの田舎の丘の上に立っている。

『遠い国から来た男』

いつの間にか引き込まれて、最後まで見てしまった。

切ない話だった。


『60年安保』の映像がドラマの背景に流れた。

私は高校二年生。私立高校生だった私は事件をラジオのニュースで追いながら、夜中まで英語の単語を辞書で引き、二次方程式や三角関数の計算をしていた。学校の中は比較的落ち着いていた。

都立高校に行った小学校時代からの親友は、国会周辺のデモに出かけて、幾晩も真夜中に帰ってきては私の部屋の窓をたたいた。

主人公の仲代達也はそのとき商社の新進の社員で、ヒロイン栗原小巻はデモに参加していた大学生という設定だ。


ドラマの最後で栗原小巻が何度も叫ぶ。

まだ二十年ある。二十年あれば何でもできる。


けれど、かつて彼女を愛し今も愛しているかもしれない二人の男たちは、それぞれの異なる立場からだが、結局彼女の新しい夢を押さえ込み、もしかしたら(あるいは多分)彼女たちの日常は何も変わらない。


父の介護をしながら私と一緒に生活している妻のことを思った。妻の中に何度か燃え上がりそうになって消えている想いがあるような気がした。


山田太一の脚本は面白い。しかし同じテーマを女性が書けば、もっとシリアスなものになるに違いない。

ドラマにも登場した歌声喫茶で、この作品のテーマソングとして使われた『草原情歌』同様によく歌われた『いつかある日(もしかある日)』の歌を思い出す。


♪いつかある日 山で死んだら 

と歌いだして、山の友だちに、両親や妻子への伝言を頼む歌だ。

♪母親には 安らかだったと  とか、妻には 

♪俺が帰らなくとも 生きてゆけと

とか歌うのだが、一緒に声をそろえて歌った後、大学サークルの仲間だったある女性は「だけど、この男勝手なものね、いい気になってるわ」といいはなっって、私たち男の、自己中心的なセンチメンタリズムを一蹴した。


政治的に生きることを熱く主張したSは一浪して有名私立大学に入り、言葉だけのラジカルとしてしばらくあれこれ言っていたが、卒業後は入社した一流損保一筋に勤め上げ、重役まで上って今は子会社の社長をしている。

私とは五・六年前に数十年ぶりに一度会っただけで、後は年賀状の交換だけ。


しっかり者の女性Kとは数年に一度グループで会う。

地方公務員になり、同僚の男性と結婚し、当時としては珍しかった中間管理職を務めて定年の一年前に辞めた。今は美術系大学を出た息子の起業したデザイン会社の経理を手伝っている。

その彼女は、数年前の会で、食事のあとの飲み場所に男たちが通りすがりの屋台を選ぼうとしたら、きっぱり拒否した。「ちゃんとしたお店にしようよ」

久しぶりに会ってニコニコしていたのでずいぶん優しくなったと思っていたら、何も変わってなかった。


遠来男




大切な人

久しぶりにかつて行きつけだった喫茶店に入った。ビッグコミックとかモーニングとか、漫画雑誌が何冊かそろっているので週に数回、それを読みに通っていたのだけれど、漫画を余り読まなくなった上に生活スタイルも変わって10年位前からぱたりと足が遠のいた。

後は年に数回、ふらりと入るだけ。

若くてきれいだった奥さんと、何でお前がこの人と?といいたくなるような無口で無愛想なマスターもそれなりに歳をとった。

一時期はなんだか夫婦仲がうまくいっていないような雰囲気が漂っていたのに、今は妙に落ち着いてしまっている。(人のことは言えない)


お気に入りの漫画「天才柳沢教授」を読んだのも久しぶり。何年か前に比べて微妙に話が変わっているようだ。

孫らしい娘が出てきた。

教授が若かった頃の知り合いの女性と再会するシーン。

回想場面と交互に穏やかな会話の場面が描かれる。大好きなおじいちゃんについてきて同席しているおしゃまな孫娘が、その和やかで親しげな空気をかき回す。


「この人、誰?」「私の大切な人だよ」「私よりも大切なの」「人には、その人にとってどちらが大切か比べることのできない人が何人かいて、それぞれ心の違う場所に住んでいるのだよ」


(こういうせりふは、昔ならば一度で頭に入って当分は忘れなかったものなのだけれど、もうどんどん消えていきます。今回はまあ「およその大意」です。)






人肌の燗

ドックでテレビを見ていたら、3日の朝「NHK短歌」を放送していた。

選者の一人が佐々木幸綱で、この日の選者の歌が紹介された。

 

 人肌の燗とは誰の人肌か

   こころにたたす ひとりあるべし


なるほど、 俵万智の師らしい歌を詠むものだと思った。



旅の終わりに本を買った。

『愛の旅人』 朝日新聞社 。

土曜日の別刷り特集の記事をまとめて本にしたもの。

昨年末の発売だが、先日地元の本屋に行ったら置いていなかった。店長はこの本のことすら知らなかった。

それでこの旅の最中に買うことに決めてあった。


この特集は、実在の夫婦や恋人の愛の遍歴と映画や物語の中の愛の模様とをまぜこぜにして書いている。気がついたら私の愛読記事になっていて、このブログでも何度かその内容を話題にした。


まだ一つ二つを読み返しただけだが、読んだ記憶はあってもまた新しい感想が湧くことに驚いた。

近松秋江の記事はあまり記憶になかった。

逃げ回る京都の芸者を追い掛け回してそのことを私小説的な作品にして、顰蹙を買いながら評判になった作家らしい。作品が読めるというので、青空文庫 で読み始めてみたが、なるほど情けない。

悪口を言いながらついもう三回も見てしまった『今週、妻が浮気をします』の主人公を思い出した。

ふがいなくてだらしなくて、だけどよく考えたらどこかで自分の中に同じものがある。


愛の旅人

映画鑑賞の夜

ホテルのビジネスコーナーから。


昨日は午後になって東京に出てきた。ホテルに車を置いて地下鉄で有楽町に出た。「有楽町マリオン」内の「丸の内ピカデリー1・2」で『武士の一分』と『硫黄島からの手紙』をやっているので、二本見るには都合がいいと思い、『武士の一分』終了後数十分ときわめてぐあいがよいので、二枚まとめて切符を買った。

最近多くなったシネコン系の小ぶりな型の映画館もいいけど、ここのゆったりした広い館内と高い天井や大きなスクリーンも捨てがたい。


『武士の一分』も『硫黄島からの手紙』も見方によっては古風なタイプの男が描かれた作品だった。

『武士の一分』。

愛する妻を奪われ、勝敗や生死を越えて自分の誇りとその妻の為に、ほとんど勝つ事が不可能な戦いに挑もうとする男。彼はそうしなくとも生きていけるのにあえてその道を選ぶ事で、自分の生の意義を確かめようとするのだ。

『硫黄島からの手紙』。

選び換える事の出来ない大きな運命の奔流の中で、動かしようも無く定められた死に何らかの価値を見出そうとして、それぞれの男が自分達の生き様を貫こうとする。


どちらも、自分の生き様を自分で選ぶという事に人間としての最後の誇りをかけようとしている。その選ぶ基準に「男らしい生き様や価値観」が、よりどころとして強調されている。


しかし見方を変えると違ったものが見えてくる。


『武士の一分』では、見終わると木村拓哉演じる主人公のことより、夫に従い夫に寄りかかる事しか出来ないような、美しく純真だが弱くおろかな女に見えた主人公の妻(壇れい)の存在感が心に残った。

作者の意図は分からないが、この作品は、一見男に依存しているように見えながら実は一人の人間として自分らしく生きる道を探し続けている、芯の強い一人の女性に起こった出来事を描いた映画で、男達は皆そのドラマのための脇役ではないのかという思いさえした。

女性ならばどう見るのだろうか。


『硫黄島からの手紙』は一つのものごとを見るときに、複眼的な視点で見ることの難しさと大切さを改めて教えてくれる映画だった。

「本当は日本人にこそこの映画は作られるべきだったのだ」と誰かがどこかで書いていたが、そして確かにその通りだと思うのだが、アメリカ人が作ったから出来て、アメリカ人が作ったから価値があるのだという気もする。

戦闘の中で、日本兵がアメリカ兵も同じ人間だと気づく場面があるが、その日本兵に向けた作者の優しい目は、日本人が描けば身びいきのようにも思えて、かえって観客に素直には入ってこないかもしれない。

戦争の狂気を描くために、父親たちの星条旗と硫黄島からの手紙をワンセットで作ったクリント・イーストウッドの手法は本当に凄い。


クリントイーストウッドも言及しているように、アメリカが起こして失敗したイラク戦争の現実がこの映画を彼に作らせたひとつの契機だと思うのだが、今の日本人はこの映画から何を考えるのだろうか。

悪食

昨日は心理学の入門書のことを書きましたが、それを読み出す少し前から筒井康隆の『如菩薩団 ピカレスク短編集』(角川文庫)を読んでいます。


筒井康隆を読むたびに、ああ面白かったと思ったり、何でこんな本を読み始めちまったのだろうと思ったりします。

今回は、本当に困った本だ、という印象でした。

お勧めは出来ません。あまりにもバッチい話ばかりだからです。

それなのに、もう半分読んでしまいました。


こんな作家に出会わなければよかったと思ってしまいます。