年賀状を書いた

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昨日までの三日間で、100枚余りの年賀状を書いた。書いたといっても、ほとんどはパソコンとプリンターの操作で、最期に宛名を見ながら一言ずつ書き添えていく。
何年も使っているエクセルの名簿で出す相手をチェックしていくのだが、「逝去」と発信記録欄に書き込んだ名前が、次第に増えていく。名簿から消すべきなのだが、なかなか消せずに、名前と住所をそのまま残している。
書きあがった分をその日毎に投函していたが、今朝、最期の数十枚を市の中央郵便局に投函しに行ってきた。少しでも早く配達ルートに乗ってほしかったから。

昨日義弟から連絡が入り、病院の検査の結果、義父はインフルエンザだったという。
「お義兄さんの無実は最終的に証明されました」と電話の向こうで笑っていたそうだ。
義父は、昨日も「壬生さんの風邪がうつった」と言ったそうなので、義弟は「インフルエンザの潜伏期間は長いい、それはあり得ない。お義兄さんは、インフルエンザではなかったし」と説明したそうだが、義父は今一つ納得していなかったらしい。納得するためには、では誰がうつしたのかという別のはっきりした答えが必要なのだ。
治療の結果、熱は下がり始めているという。

秋から暮にかけて、近隣で二人の老人が亡くなった。
Sさんは、我が家の東隣の小さな農地でずっと家庭菜園をやっていた。妻が庭で野菜を作り始めると、その師匠になった。我が家の作物の出来具合を逐一観察し、妻にいろいろアドバイスをした。種や苗や作物をたくさんくれた。
昨年夏から畑に出なくなり、今年の春には一旦姿を見せていたが、夏には再び姿を見せなくなった。奥さんは、今は入院しているけどそのうち戻りますよ、と言っていたが、秋に突然訃報が届いた。
畑は、今年の夏雑草で覆われていて、その草が今は枯れ果てて地面を覆っている。
Aさんは我が家の南隣の広い農地の所有者だった。30年前にはまだ畑を作っていて、庭に出た妻に声をかけ、野菜をくれたこともあったらしい。
そのうち耕作をやめると、広い休耕地は一面背の高い草が生えて、山のようになり向こうが見通せなくなった。土地の周りに植えてあった気がどんどん大きくなって、我が家にも枝が入り込むようになった。
ある時期には除草剤が撒かれて、隣の我が家の庭で野菜を作っている妻は激怒した。
晩秋のある日、終日草刈り機やのこぎりのエンジンの音が鳴り響いて、広大な農地はあっという間に見晴らしの良い空き地になった。
風の強い日には大きな手を振るように揺れて、今の中にいる私たちに居ながらにして外の嵐の激しさをおしえてくれた背の高い栴檀の木は、根こそぎ切られ影も形もなくなっていた。
A家の当主が変わったんだよ、きっと、と私があて推量を言った数日後、Aさんの訃報が地域の新聞に載り、その翌日葬儀が行われた。





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昨日は義父のところに行った

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昨日、義父を訪問した。
義父は11月末に有料老人ホームに移った。
転居の日と、その後二回妻とホームを訪問したが、昨日は一人で行った。

妻が風邪で調子が悪いし、うつしてもいけないので、ほぼ体調の戻った私が一人で出かけた。

妻はこの後年内には行けそうもなかったし、彼女は義父に元の家から保湿用塗り薬を持ってくるよう頼まれていた。私は年賀状の印刷も頼まれていたので、投函する前に出来上がったものを見せておきたかった。

義父は、気分・体調がすぐれないと、数日前から電話で妻に愁訴していた。
会ってみると、顔色などは悪くなかった。
「せっかく来てもらったので、ドライブなどに連れ出してもらいたいが、体調が悪いので勘弁してください。昼食も外で一緒に食べてごちそうしたいけど、そういうわけですみません」と、しきりに気遣いを見せた。
元の家に立ち寄りとってきた薬を渡し、年賀状を見せてから、このまま投函しますからと預かった。20分ほど話して、昼食前に部屋を辞した。

今日になって、昼過ぎに義父から妻に電話がかかった。いつも午後妻がご機嫌伺いの電話をしているのだが、「今日は朝から体調が悪いので、もうねるから電話に出ないよ」ということだった。
「昨日、壬生さんが来たけど、体調が悪そうだった。壬生さんの風邪がうつったようだ。」と言ったという。
妻は、「昨日接触して今日発病するのは早すぎるし、今風邪で調子が悪いのは主人ではなく私だから」と言いかけたが、最近の義父はいったん思い込んだらほとんど意見を変えることはなく、今日も妻の言うことに耳を貸さず同じことを繰り返した。
妻はその話を打ち切り、改めて老人ホームに電話をして、義父が体調が悪いと言っているようなので気を付けてほしいと伝えた。第一保証人の弟にもそのことを伝えた。
義弟は「わざわざ出かけて行ったのに、風邪をうつしたと思われているけど、気にしないでください」と私をねぎらう言葉を妻に伝えた。

老人ホーム常駐の看護士が様子を見てくれたが、義父が発熱しているとのことだ。
ホームで様子を見てもらうことになる。

義父のことが心配なことに加え、自分は行かずにひとりで行かせた上に風邪をうつしたと義父に思われている私に気兼ねして、妻はしばらく落ち込んでいた。

今年一年はことさら、自分とその周囲の高齢化が身に染みる年だったと、改めて思う。


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年の瀬に

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あわただしい年の瀬。
妻が風邪で、半ば寝込んだ状態。
今日は昼夜と私が食事を作った。
この風邪は先週初めに孫からもらった。
衆議院選挙の終わった朝、娘が電話をしてきて、「昼までに来てもらえないか」といった。
その前の週末に熱を出していた孫は、月曜になっても親たちが期待したようには熱が下がらなかった。保育園には出せないが、娘は昼からの会議には何とかして出たいので、息子を夕方まで看てほしいというのだ。
30年以上前の私たちの姿だ。
月曜に予定していた三つの約束をすべて電話で断って、私は昼前から夜まで、水鼻を垂らしてずっと咳をしている孫と狭い部屋で暮らした。熱はあったが、機嫌がよかったので、風邪は快方に向かっていると思った。
娘と、保育園に出ていたもう一人の孫と四人で夕食をとり、車で2時間走って帰宅した。
翌日は娘が休みを取る算段だったが、昼休みに電話があって、朝にはすっかり熱が下がっていたので保育園に出しました、とのことだった。
水・木曜日あたりから、私ののどや鼻の気配がおかしくなった。金曜日に東京で昔の仲間と会い、結構長い時間飲んでしゃべった。
夜、家に帰るバスの中で鼻水が止まらなくなった。家に帰ったころはしきりとくしゃみも出た。
土・日と風邪の症状が強まり強い咳まで出始めた。
次の火曜日(昨日)に義父のところに行く予定だったので、土曜日には医者に行って薬ももらってきた。しかし結局症状は行くところまでいかないと、快方に向かわなかった。
月曜にもまだのどが痛く、深いところから咳が出るので、妻と相談して義父訪問は木曜に日延べした。
月曜には、妻に風邪の症状が出始めた。
妻の風邪は今日がピークである。
私は昨日からぐっと症状が改善した。
明日は私だけが義父のところに行くことになった。

今夜の夕食は、食べやすいように、しゃけと梅を入れ、あっさりゆかりをまぶして海苔で巻いた握り飯。
おかずは、大根、ニンジン、マイタケなどのたっぷり野菜と鶏団子を薄めの醤油味で煮た汁。
冷奴。里芋の煮っ転がし。塩こぶと漬物少々。
デザートはミカンとアイスクリーム。
普段なら、年寄りにはこれで十分なのだが、今夜はそう言えば、クリスマスイブだった。
しかしそのことは、私も妻も口にしなかった。私は忘れていたのだが、自分は信仰を持たずともクリスチャンの両親を持っていた妻の気持ちはどうだったのだろうか。

夕食後の洗い物をすませて、近くのドラッグストアに買い物に走ったら、静まり返った街の上をひどく冷たい風が蕭蕭と渡っていた。

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木枯らしの季節

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今朝の「朝日俳壇」に、山口県の方の「渡りきて木枯島の戸を叩く」の句が選ばれていた。
すぐに山口誓子の「海に出て木枯し帰るところなし」を思い出した。
あの時の木枯しは海面を吹き抜けてここに届いていたのかと、勝手に感じ入った。

山口誓子の句には、20年近く前に訪れた、伊勢の記念館で出会った。
心にしみて時に触れ思い出していたが、その時以来ずっと、言葉そのままに冬の情景か心象をうたった句と思っていた。
すぐに誓子の句を確かめるためネットで検索した。
この句は1944年頃につくられたもので、「木枯し」には「特攻兵士」の寓意もある、とする解釈が複数紹介されていた。
この解釈は今の今まで私には思いもよらなかったことだったが、それを知って改めて「渡りきて…」の句を読むと、これが何やらきわめて辛辣な時勢批評の句にも思えてきた。

70年前のこの国やアジアの死者たちは、帰り来て今の私たちをどのように見出しているのだろうか。