テレビドラマ『最高の離婚』最終回を観た。
別れた妻の実家で開かれた宴席で、元夫が、ずっと苦手だったカラオケを歌っている。
♪風に向かいながら 革の靴を履いて
  肩と肩をぶつけながら …
スローバラードを素人っぽく瑛太演じる元夫が歌っていると、立ち働いていた元妻尾野真千子がふとそれに気づいて元夫を見る。
彼はずっと、離れた場所の妻を見ながら歌っていたのだ。
瑛太の歌がうまいのと、歌詞もメロディーも気になったので、うろ覚えの出だしの文句でネット検索した。
沢田研二のソロデビュー曲『君を乗せて MY BOAT FOR YOU』だった。

ネット上の歌の解説では、男の友情を歌った歌との文言もあったが、ドラマの作者は、別れた夫と妻の心の再会のきっかけに、この歌を使った。

東日本大震災をドラマの始まりに使い、時代と並んで走るように筋を展開しながら、40年前の歌をそのエンディングに持ってきたあたりに、こうしたドラマ作りを楽しんでいる作り手たちの気分が見えたような気がした。


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『残日録』のことなど

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18日が定例の閉館日だったので、19日に藤沢周平『三屋清左衛門残日録』を市の図書館に借りに行きました。
開架式書架には見当たらず、モニターで検索したら図書館では二冊所蔵しており、一冊は移動式図書館にあり、もう一冊は書庫に移されていて職員の手で出してもらう必要がありました。
しばらく待った後職員から渡された本は、小口や天地が茶色く変色しでこぼこに波打っていて、ノドもところどころで離れかけている有様でした。
この本が傷んだので、今は移動図書館に載せられている本を新しく購入し、この本は書庫に移されて廃棄を待っていたのでしょう。

借りた日から、読みかけのほかの小説と平行して読み始め、今日までと期限を切られたいくつかの仕事を気にかけながら、結局二日あまりで、今朝読み終えました。
文庫本で持っていて、結構面白く読んだ記憶があったのに、第一話には、覚えがなく、これは題を知っているだけで読み落とした本だったかと自分の記憶を疑いました。しかし、二話三話と読み進むうちに、確かに読んだことがあるという確信が沸きました。
それでも、各話の詳細はついに思い出さず、最後まで面白く読んでしまったというわけでした。

読み終わった後、本を見ていろんなことを考えました。
後ろの見返しに、昔どこの図書館でも使っていた貸し出し期限表が張ったままになっていて、借り出した人たちの貸し出し期限がゴム印で押されています。
奥付を見ると、平成元年9月20日第一刷とあり、発行時期がわかります。
一方、奥付の上に図書館の楕円形の所蔵印が押してあって、購入日は平成1年11月9日とあります。
貸し出し期限表の最初のゴム印は1-12-9で、最後の3-6-9まで17個のゴム印が押されています。
この本が平成3年の6月以降借り出されていないということではなく、その頃から本の登録と貸し出しシステムがバーコードを使った現在のパソコン管理に移ったということだと思います。
一年半のうちに17回貸し出されたということは、この本が、よく読まれていたことの証でしょう。
特に最初の半年間ほとんど月に二回貸し出されています。これは、2週間の貸し出し期限を考慮すると、この本は購入後半年は、ほとんどの間断なく借り出されていたということになります。
くたくたに疲れた本の有様を見ながら、この本もがんばったんだなあ、と小説の中身のことも考えて、なんだかおかしくなりました。
この本は、私が返却すればまた、私たちの目にはめったに触れない書庫にしまわれるでしょう。
もしかしたら、私がこの本を読んだ最後の読者になるのかも知れません。

さもあらばあれ、私は気合を入れて今日一日、たまった地域団体の仕事に精を出すことにします。

老人とブログの海
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『何者』

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今期の直木賞作品、朝井りょう『何者』を読んだ。少し前に『桐島 部活やめるってよ』を読んで面白かったので、期待して読んで、期待は裏切られなかった。
高校生活を描いた『桐島…』でも大学生活を描いた『何者』でも、同じ感想を持った。それは、「50年前の私の周りの風景も同じだった」という感想だった。
『桐島…』の高校生のある男女が、ちょっとした親の隙を見て当たり前のようにセックスをすることとか、『何者』の話の重要な小道具がネットやスマホであることとか、それは当時の私が見聞きしてきた世界ではなかったことだった。
そして、その代わりに当時の私の周りでは、中学生の時代から当たり前のように世界や国の未来や政治が論じられていたのに、この二つの小説の中の人物たちの会話にはそれらがまったく出てこないのも、思えば不思議な気がした。
それでも、私は、ひどく懐かしい話を読むような気がした。
若さとは、こんな風なものだった、と素直に思えたからだ。
つまり、彼の書く小説は、十分にうまくリアルに描かれていたのだと思う。
それは、平安時代の歌人の歌が今の私たちの心を捉えるのと同じことだ。
私たちの心に、若者らしさとか、男女の機微とか、自我とか誇りとか、時空を超えた変わらないものがあり、良い作品はそれをきちんとうまく捉えているのだろう。

ちなみに、今回の直木賞選考では最後に、もう一つの受賞作品の安部龍太郎『等伯』と並んで西加奈子『ふくわらい』が残っていたという。
西加奈子はこの間『きりこについて』を読んでいたく感心したばかりだった。『ふくわらい』はまだ読んでいないが、私に『何者』とどちらを選ぶかと聞かれたら、なんだか西加奈子を選びそうだ。
小説としてのおもしろさの成熟度は、彼女のほうが進んでいる気がするから。

老人とブログの海

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そして、また

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3月13日に、四年間続けてきた仕事が終わりました。自分の仕事のカタをつけ、その場に居た人には礼を言って、事業所を離れました。
帰宅したら、旧知のK氏から電話があったと妻が言いました。
電話をしたら、4月から手伝い仕事を引き受けてくれないかという依頼でした。
すぐに断るのも悪いと思い、明日の朝まで考えさせてくれといいました。やらない気持ちが7割でしたが、少しは気持ちも揺らいでいました。その揺らぎを静めたいとも思いました。
翌朝、「ごめん、やれない」と電話しました。義父のことや、孫のことを考えていました。仕事を続けたいという気持ちが薄らいでいることも確かでした。
K氏は、「一緒にやろうよ」と粘りました。誘われてうれしい、と感じました。
もう少し考えてみると電話を切ったら、数時間後にその事業所の副所長から電話がありました。
K氏が電話をするように言ったようでした。
緊急な事態があれば、急に休むなど、迷惑をかけるかもしれないというと、そのときはちゃんと対応しますといわれました。
結局、仕事を引き受けることにしました。
また一年、仕事が続くことになりました。
週二日の、しかも一日ではなく限られた時間の仕事ですが、まだやれそうな気がしてきたのです。


3.11

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東日本大震災から二年が経ちました。
イ○ンという、複合商業施設に行って、レンタルビデオの借り換えをした後、駐車場に向かって歩き出したら、歩道に職員たちが何人か並んで立っていました。場内放送が「まもなく14時46分になります。○○市からの要請もあり、皆様に一分間の黙祷をお願いいたします」と呼びかけ、黙祷の声がかかって,,私も立ち止まり黙祷をしました。二人連れの高校生や、急ぎ足だった作業着のおじさんも立ち止まりました。

「防災の日」は関東大震災の起きた日に因んでいます。
阪神大震災の日にも追悼行事が行われます。
8月6日や9日にも、8月15日にも式典があります。

しかし、本当に私たちはそれら「記憶すべき日」の出来事に、真摯に向かい合っているのだろうか、と自問します。

「親が死んでも食休み」ということばがあるように、悲しみや畏れを抱きながらでも、日常の営為は続けなければなりません。しかし、たった二年後の今の「○○ノミクス」の浮かれぶりには、なにやら空恐ろしい気がしてならないのです。

この軽さこそが、私たちが繰り返してきた過誤のような気がして。

弥生三月

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今朝、庭を、モンシロチョウが舞い飛んでいました。
先日は雨戸を開けたとたんに、梅の香りが部屋に広がりました。
寒い日と暖かい日が交代に訪れ、雨が降るたびに春の気配が濃くなります。

弟の50回忌をすると長兄から連絡を受け、一泊で実家に戻りました。
四人兄弟の末弟は中学生のときに急逝しました。
そのとき次男の私は東京で大学生をしており、長兄は大学を中退して少し前に家を出、行方不明でした。

彼の死を契機として、兄は家に帰りずっと一緒に暮らして結局母と父を看取りました。子供が出来なかったので今は義姉と二人暮らしです。
私は遠く離れた町で自分の好き勝手に生きてきました。
弟は、実家の近くで暮らしていましたが離婚と再婚を繰り返し、今は一人暮らしです。

私たち三人兄弟は、私の娘の結婚式以来の顔合わせでした。実家の茶の間でWBC日本ブラジル戦をテレビ観戦しながら、他愛のない話で時間を過ごしました。
子供の頃飲んだ、冷やしあめを久しぶりに飲んだような、そんな気分でした。

翌日、法事を終えた後義姉を入れた四人で墓参りをしました。
その後、墓参に出かけた車で兄が私と弟を新大阪まで送ってくれました。
たいした話もせず手を振って別れ、弟は西へ、在来線に乗り、私は新幹線で東に向かいました。

母も父も死んだ弟のことを私たちの前で口にすることはありませんでした。
でも、どんな思いを抱き続けていたのだろうと、今になって思うのです。
生き残った私たちは彼らの悲しみや苦しみを両親の生前、少しは埋めることが出来ていたのでしょうか。

義姉は、ネットで調べたり人に聞いたりして「50年忌はお祝いやそうや」といい、紅白の餅を用意してくれました。