O君のこと

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昨日書いた記事の終いがひどく気取っているのは、今読んでいる半藤一利『荷風さんの戦後』の文章に影響されたせいだと思う。アクションものを見た観客が映画館から出て、なんとなく肩で風を切って見せるのと同じようなものだ。

今朝も例によって風呂の中で『荷風さんの…』を読み継いでいたら、突然O君のことを思い出した。
風呂に入る前に、孫娘の泣き声が聞こえ、一方で本からは戦後の明日をも知れぬ人々の生活の情景が、私自身の幼時のかすかな記憶につながりながら次々と伝わってきていたからだと思う。

O君は、私がこの街にやって来た年に、生まれ故郷である隣町に、若い奥さんを連れて帰ってきた。
私たちは当時盛んだった地域の若者サークルのようなものを通じて知り合い、何度か家に行き来するようになった。私は狭い独身アパート住まいで、彼夫婦はそれほど大きくはない生家に両親、妹と同居した。
知り合って3年ほどたったころ、O君は帰宅途中のバイクで事故を起こし急逝した。彼らには生まれて間もない子供がいた。

通夜の席では、私の悔やみに奥さんはただ「あの人は馬鹿だから」という言葉を繰り返していた。

数ヶ月して彼女は幼い子供を連れて、自分の生家に帰っていった。
当地にはO君の両親と妹が残った。
その後一度だけお目にかかったO君の両親はずいぶん高齢に見えたが、指を折ってみるとせいぜい今の私くらいの年であったかもしれない。

もうずっと忘れていたO君の面影を突然思い出したのは、娘の不安と希望に私の心情がシンクロしているからだ。
そして、やって来た孫娘は私の中の古い記憶をこんな風に次々と掘り起こしてくれる。
嬉しかった事も悲しかったことも。
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一ヶ月

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孫娘の一ヶ月検診が済んだ。
娘もこの節目を待ちうける気分でいて、無事に終わったことを大変喜んでいた。

車は私が運転し、病院には妻が付き添った。
娘に同伴した妻は、何組かの同じような検診受診の母子を見かけ、それぞれの新生児の母親がいずれもたくましく堂々としていたことに驚いたといっていた。たまたまそのほとんどが二人目か三人目の子供のようで、片腕で新生児を抱きもう片手で幼子の手を引いている姿などを見て、壊れ物を扱うような娘の赤ん坊の抱き方との違いに感動したりしていた。

私の提案で、帰りに、近くのショッピングモールに立ち寄った。私が車中で孫を見ている間に、娘と妻が買い物に行った。
20分ほどのちょっとした買い物だったが、一ヶ月ぶりの買い物で、娘は大いに気分転換ができたと言っていた。
孫娘は、その間に少し泣いたので、私がひざに抱いてあやしていた。
小さくてはかない存在だが、びっくりするほど強く自己主張をしていた。
赤ん坊の重さをずしりと腕とでとひざで感じながら、私が体験してきた悲しかったことやうれしかったことを断片的に思い出した。
ああしたことをすべてこの子も経験するのだろうかと思うと、かわいそうなような、うらやましいような気がしてきた。

この一月の間に何度もそう思ったのだが、その時間にも、この子が大きくなったころのこの国や世界の様子は、しかし、どうしても想像することができなかった。まったく予想も見当もつかないのだ。

私は、激しい戦争のさなかに生まれたが、父や母、一緒に暮らしていた祖母はどう思いながら、生まれたばかりの私を見たのだろうか。
敗色濃く、頭上に爆弾の落ちる日々にはまだ少し間があったが、それでも、先の見通しなどほとんどなかったのではないかと思う。

孫を持つ楽しさとは、こうした一度は忘れてしまった思索に人を引き戻してくれることかもしれないと思った。
妻と話をしていて、私たちの子育てがどれほど多くの人々の好意に支えられていたかを、改めて確認する機会を得たこともうれしいことである。

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今朝、書斎の書架をのぞいていたら『海燕』の創刊新年号が出てきた。執筆者に高名な作家の名前が並んでいる。評判の雑誌が創刊されたということで新物好きの私が購入したのだろう。
掲載作品のどれも読んだ記憶がないのだ。
老人とブログの海
思いついて、ネットで検索してみた。
Wikipediaに、次のような記事が載っていて、なるほどと思った。

<Wikipedia
の記事の一部
『海燕』(かいえん)は、日本の月刊文芸雑誌。1巻1号(1982年1月号)から15巻11号(1996年11月号)まで発行された。版元は福武書店だったが、14巻4号目の(1995年4月)より社名変更によりベネッセコーポレーションとなった。初代編集長は、著名な編集者だった寺田博が務めた。
創刊当初は、地方の文学という項目も設けて、埋もれていた才能の発掘に力をいれていた。海燕新人文学賞を主催し、小林恭二・佐伯一麦・吉本ばなな・小川洋子らを世に出した。島田雅彦もこの雑誌から登場した。
だが文芸雑誌全体の不振のなかで、後半は部数も減り、最末期には実売部数よりも新人賞の応募者数のほうが多いと揶揄される状態になり、版元の文芸部門からの撤退に伴い廃刊となった。
井伏鱒二『鞆ノ津茶会記』や、富士川英郎『菅茶山』など、地元の備前・備中・備後(現在の岡山県中南部と広島県東部)を舞台にした地味だが重厚な大作が連載されていたのも特徴であった。後者は大佛次郎賞を受賞している。

一昨日旧友に会って、『断捨離』を返した。さらに、昨日たまたま『断捨離』著者のテレビ出演の録画を見た。
そんなことも影響して、朝の時点ではこの雑誌を捨てようかどうか迷った。
しかし、庭の雨音も聞きながらその中の一作品富岡多恵子『野施行』を今読んだら、ひどく面白く感じられた。
そういう出会いが気にっているのだから、私に断捨離は出来ないと思い知った。
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断○離のこと

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昨年の十二月に「断捨離」という本のことをこのブログで記事にしている。その後、この言葉を僕に教えた友人から「断捨離」を借りて読んでみた。
物の片付けや整理がまったくできない私にとっては、書かれていることは何一つ目新しいことではなかった。それでも、「自分ではわかっている」と思っていることを人の言葉で改めて言われると、それはそれでいささか心に落ちるものがあった。
しかし私の片付け=「断捨離」はまったく実行に移されなかった。

四月に娘が帰ってきて、私の部屋に足を踏み入れ、私の話と「断捨離」の本を見て「「断捨離」という本が一冊増えて、その分だけ部屋がまた少し散らかったわけよね」と鼻で笑った。

そのころには、私は「断捨離」を開けることもなく、最後の数十ページを読み残したまま放置してあったのだが、今日、私にこの本を貸してくれた友人と何ヶ月ぶりか出会うことになっている。
本を返して感想も言わなければならないので、今朝から、急いで目を通した。そうしたら、もう一度読み直してみたくなった。
しかし、自分で書店で購入しようという気にはならないところを見ると、たぶん本気ではないのだろうと、自己診断した。

年の功

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夕飯を食べ始めたら、孫が大声で泣き始めたのが聞こえました。娘が飛んでいってなにやらやっています。私が急いで食事を終えて、娘と交代しました。くずっていた孫は抱き上げるとすぐ泣き止みました。子守唄をくちずさみながらゆっくり抱いていると、なんとなく穏やかな感じで見えているのかどうかわからない目で私や天井や辺りを見回しています。十分ほどそうしていたら、娘が食事を終えて戻ってきました。
お父さんが抱くとどうして泣き止むのかなあ、と娘は言います。
たまたま空腹とか、オムツの汚れとか、泣く理由がなかったからだけなのですが、私は心の中で、それが年の功だよとつぶやきました。

成長する命

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孫娘が笑うようになりました。
寝ているか泣いているかで、ほとんど表情に変化がなかった二週間が過ぎて、不意にニタリと笑うのです。
新生児微笑というのだそうですが、これがまた不思議な吸引力を持っています。

最初の二週間は、生まれてからいったん減った体重が戻らず、娘はぴりぴりしていました。特別に希望して出かけた助産師外来で、「問題は見あたりませんから、安心して今までどおりでいいです。毎日体重を量るのはやめなさい」といわれて、少し落ち着きました。翌週もう一度見せたら、一気に体重が増えていて、誕生時を越えていました。
娘はすっかり上機嫌です。


送る人

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妻の古い友人の舅がなくなった。90代の半ばを超えていたと言うから、天寿を全うしたといってよかろう。
妻の父と年恰好が似ているので、妻はずっとその方の消息を気にしていた。
妻はその友人とは月に数度、稽古事で会い、数人で昼食とお茶を共にするのが通例だった。
昨年の夏前からその友人が昼食をともにできなくなった。舅の調子が悪くなったのでその世話があるからだ。
稽古事にだけは何とか出してもらっていたが、夫が実父の世話をまったくせず、ついていてご飯を食べさせなければならなくなってからは、彼女は昼食時に家にいなければならなくなったのだ。
昨年の今頃、「この夏は越せないかもしれない」と言って、葬式の段取りまで考えていたのにその方は元気を取り戻し、また庭に出て簡単な仕事をするくらいになった。それでも彼女の夫は、昼食時に彼女がいないとひどく機嫌が悪かった。
舅に昼食を食べさせた後改めてお茶の会に来て少ししゃべって行く彼女が、そのお茶の会にも出なくなったのはこの冬のことだった。それでも、稽古には何とかやってきて、ついこの間も、「今年の夏も越しそうだよ」と言っていたそうだ。
気難しくて昔かたぎの舅の面倒をずっと見てきた彼女の名前は、しかし今朝のローカル紙朝刊に乗った訃報広告の葬儀の案内文にはなかった。
同居して妻に任せることでことたれりとして、自分では父の面倒をまったく見ようとしなかった息子の名前が喪主として書かれ、その兄弟の名前が並べられてあって、後は親族一同でくくられていた。
そのことを、何年もずっと様子を見てきた妻は気にして、一番面倒を見てきたあの人の名前はどこのもないのよね、とつぶやいた。