失踪

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もう丸二日シロが帰ってこない。
こんなことはかつてなかった。

昨日は、時間を見ては妻が庭に向かって呼んでいた。雨戸の戸袋をたたいて音を立てたりもしていた。
昨日から今朝に掛けては強い雨も降り続いていた。そのせいでどこかにもぐりこんで雨宿りをしているのかもしれないと持ったりした。

昨日は寝るまで、しょっちゅう妻が猫を呼ぶ声がしていた。
今日は、あきらめたのか、もう庭に向かって呼ばなくなった。

私は何かと、死んだタマとシロを比べていた。
タマはこうだったとか、タマならばこうしていたとか。

しかし、続いて二匹目もいなくなるとは考えてもいなかった。
タマは目の前で死んだが、シロはその生死すらわからない。

それはそれでまた、心がざわざわと波立ち、無性にさびしい。
不意に帰ってきたら、きっとひどくうれしいだろうと思ったりしている。
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夜明け前

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眠気に耐えかねて昨夜は早く就寝した。
案の定、未明に目が覚めた。
外では強い雨の音。肌着一枚では寒い。

昨日の午前中から、猫のシロの姿が見えないと、私が寝る前に妻が言っていた。
この時間も、いつもなら寝ているソファーに姿がない。
結局、夜中になっても帰ってこなかったとみえる。

雨音が身に染みてきた。
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戯れせんとや

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同じ時代に生きていても、同じものを見ているとは限らない。同じ場所に暮らしていても、誰かが見ているものが全く目に入っていないこともたくさんある。

ある方のブログで「レキシィデータ」という言葉を見たが、全く記憶になかったので検索してみた。
「1970年代にはやった知育玩具」とあった。
私の子供たちは1970年代半ばに生まれた。すると、この玩具の流行期には少し遅かったのかもしれない。
買って与えたことはもちろん、店頭で見かけたことも思い出せない。
でも、なかなか子供の面白がるつぼを押さえたおもちゃのような気がした。

小さな子供の成長は、見ているだけで素敵だ。
昨日できなかったことが今日出来る。
どうしてこんなことが出来るのだろう、言えるのだろうと思うような行動や発言が毎日いくつもある。
何よりも、そういう自分のすごさに子ども自身が全く気づいていないところがすごい。

  遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ


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仲秋の名月

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昨夜は出かけた用事の行き帰りに美しい月を見た。明日が楽しみと思いながら夜道をバイクで走った。
今朝の天気予報で、今日の夜は曇りか雨との予報を聞いて、好機はいつもあるとはいえないのだと思った。
それなら昨夜もう少し月をゆっくり眺めておけばよかったと残念に思った。
真夏日の一日が終わって、夕食の際、ダイニングの窓から美しい満月が見えた。
得をしたような気分になった。先ほど庭に出て見たら、雲が出ていて月が見え隠れしていた。

死んだタマが、昔満月の月明かりの中を走り抜けて、フェンスから大きく跳んだ景色を思い出した。

デジカメで月の写真を撮ろうとしたが、うまく撮れなかった。





不思議な体験

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ついさっき、桐野夏生『メタボラ』読了。
その直後に、ずっと気になっていたので、「メタボラ」の語意をネットで検索した。いくつかのページに、「新陳代謝」とか「(昆虫などの)変態」という意味を表す英語からの造語らしいと、説明があった。

それを知って、驚いた。

この小説を読んでいた間、特にこの数日間、私は「メタボラ」の語意とは関係なく、しきりと「代謝」という言葉を思い浮かべていたからだ。

夏以来、私の周りから傍にあることが当たり前のようであったものがいくつか姿を消した。飼い猫であったり、親しく付き合っていた友人であったり、春までさかのぼれば、一時は愛用していたバイクだったり。そのことが、取立てて気になり出していた。

秋に再開した仕事での小さな蹉跌の体験も響いていたかもしれない。私の心は少し沈み、それを乗り越えるときに考えた。

人の体内で絶え間なく新陳代謝が進行しているように、日々の生活でも生まれるものと失うものが関連しながら入れ替わっている。老いるという事は、人の個体においても人生においても、生まれるものよりも失っていくものが多くなることだ。そのことは避けがたいことだが、失うことを嘆くのではなく、その歳にふさわしい生成と消滅のバランスを心がければいいのだ。

ありふれた知恵の、もって回った再確認に過ぎないのだけれど、「新陳代謝」という概念の導入が自分では気が利いているような気がした。

この間の気持ちの浮き沈みとその自己省察に、この小説が大きな影響を与えていたことに気づかされた。そして、この小説が、大変うまく書かれた作品だということにも。
「メタボラ」という私にとっては意味不明だった題の本来の語意「新陳代謝」を、言葉による解説や説明ではなく物語の展開そのものによって私に、自分の実生活と結び付けて想起させたのだから。

これは、あまり体験したことのない不思議な感覚だった。

私にこの本を薦めた女性は、
「メタボラが今日終りました。東京島より断然良かったのですが今の自分にピッタリ過ぎてナニが何だかわからなくなってしまいました。自分の存在すら不確かのような。うまく言えないのがもどかしいです」
と感想を述べた。
育児と家事に専念しながら、日々を過ごしている彼女にこの小説がどうぴったり重なるのか、読みながらずっと不思議だったが、読み終わり、自分がこの小説から受けていた「気分の伝染」のようなものに気づいて、、少し彼女の気持ちがわかったような気がしたのだ。

秋祭り

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遠くから笛と太鼓の音が聞こえてきます。このあたりの秋祭りです。

地域を挙げての祭りなので、何週間も前からあちこちの家では垣根や庭の植え込みを刈り込んだり路地や広場の草刈をしたりして、住まいの周りをよそいきの顔に作ります。

私の家は、祭りにはかかわらないので、この時期はどちらかというとじっとしています。

それでもこの祭りは、生活の節目になります。

家庭菜園の大根は、この祭り前に植えるようにと、昔に妻は師匠から教わりました。今年はいろいろ忙しかったし、暑さも平年より強かったので、妻は昨日から庭を耕し始めました。

近隣の刈り入れも済んで、もう稲を残している田はありません。

昨日の夕方、まだ西の空に太陽が残っているうちに、南の空に月が見えました。
少し膨らんだ半月がほとんど雲のない空に浮かんでいて、ひときわ秋らしさを感じてしまいました。

一週間

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今週の日曜から木曜までは、気持ちが沈みがちだった。

日曜に会った友人の話が枷のように私を捉えていた。

月曜日か火曜日に、仕事先で私の仕事を監督する担当者から、クライアントからのクレームについて告げられた。
私にミスがあったのではなく、私の仕事のスタイルそのものについての、できれば少し違ったテイストをというコメントである。
手直しは簡単だし、そのクレームにも全く道理がないわけではなかった。というか、食堂の得意の味付けにも客の好みが分かれるように、はるか以前から私の仕事のスタイルに対する賛否は何度も耳に入ってきたいた。
それでも、私の子供よりも若い担当者の遠慮がちな言葉に、言われた直後よりも帰宅した後になって、へこんだ。

少しずつ読み進んでいる桐野夏生『メタボラ』の世界がかもし出す閉塞感と浮遊感までが、私の心の余裕を奪うような気がした。

日曜日の友人を改めて水曜日に見舞った。彼女は少し元気になっていた。
仕事のスタイルの修正自体は、ほとんど苦労なくやってみせた。
私が落ち込んでいるのは、クライアントに対する私自身の読み取りの狂いを、自分でもっと早く修正できなかったことに対してなのだ。
木曜日には、一週間の仕事の区切りがついたので、実家に出かけた妻のいない家で、夜はぼんやりとテレビを見てすごした。
BSで数日前に放送したアガサクリスティー原作『クリスタル殺人事件』の録画を、夕方五時頃から観始めた。
妻がこの類のミステリーの大ファンで、頼まれて彼女のために録画しておいたものだ。
途中で録画を止めて簡単な夕食を造り、それを食べながらまた続きを見た。

途中で居間の中を見渡すと、猫のシロが自分の居場所と決めた箪笥の上で寝ている。
命あるものがそばにいることに、少し安心している自分に気づいた。

もし妻が私のそばからいなくなったら、私は毎日このようにして、ありあわせの食事を作り、たくさんの採りためた録画を見ながら、たとえば「この映画は彼女のために採った、彼女好みの映画だった」などと回想するのだろうか、と考えた。

そんなことをことさら思い浮かべたのも、ひとつは、今週の初めからの気持ちの沈み加減と関係がありそうだったが、それよりも、思いがけずミスマープルものの映画が面白かったからだ。
ゲスト出演のエリザベステイラーの魅力と貫禄もたいしたものだった。

映画を観終わってみると、いつの間にか私は少し元気になっているような気がした。
その感じは、翌金曜日の午前中にはっきりしてきた。
溜まっていた雑用をいくつかこなして午後になると、それは確信になった。

要するに、週末の休日は、誰にとっても必要なものなのだと、改めて思った。
私は気持ちも体も疲れていたのだし、一息ついたことで回復し始めている。

まだ少しはがんばれると、思った。

今日は妻が疲れきって帰ってくる。明日かあさってには、ゆっくりミスマープルを見るように薦めよう。



人生を、さまざまの不幸やめぐり合わせの悪さから幸せに送られていない友人に、しばらくの時間付き合った。
彼女は、健康上の理由や経済的な環境のせいで、自立したいと強く望みながらその見通しすら持てずに居る。
そして、今は頼るべき家族にも見捨てられつつあると感じて、さめざめと泣いた。

私には彼女を救う手段はない。だから慰める言葉もないし励ます言葉も口にはできない。

息を潜め、首を垂れ、腰をかがめてじっと時間の流れに従っていれば、今すぐに命を絶たれることはない。
しかし、誇り高く生きて、幾度もくじけそうになりながら胸を張り続けてきた彼女にとって、それは死ぬことよりも辛いとことだ。

「それは死ぬより辛い」という言葉をじっと聴いていることだけが、私にできたことだった。

私が予定していた時間になったので、「人を待たせてあるので帰るから」と、二度口にして、三度目は言わなかった。
じっと彼女の繰り返えされる嘆きの言葉を聞いていたら、やがて彼女が「ああ、時間が過ぎたのですよね、ごめんなさい」と言った。
彼女が力を振り絞って自分の誇りを奮い立たせたので、私は再会を約して面会の部屋を出た。

ニーチェの「深淵を見入るものは、深淵から魅入られているのだ」と言う言葉(表現や言葉遣いは不正確で適当です)を思い出した。
今は私の心も、沈んでいる。

昨日の続き

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昨日の記事を書き終わってから、書き始めたときに思っていたこととは全く違う方面に話が行ってしまったことに気づきました。

記事を切り抜いて取っておいたのは、話題にした恋の歌に興味を引かれたからなのだけれど、昨日書きたかったのは、その隣の政府広報のことでした。

この記事がたぶん2006年秋のものだということは間違いないのだけれど、「あなたのもしやが子どもを救う」という記事が出されて四年たって、いまなお子どもや年寄りへの虐待が後を絶た他ないことはもちろん、それに対する社会的な安全対策が全くないということが、なんだか悲しいと思ったのです。

最近の特徴のひとつは、隣人などによる一二度の通報は行われていたけれど、学校や役所や警察などの手が入りきらなかったことです。
その意味では、このスローガンそのものがうそだったことを示しています。

このスローガンがなぜうそになってしまったのかを考えない限り、同じような悲劇は残念ながら後を絶たないという気がしたのです。
老人とブログの海-あなたのもしやが