記憶の切れ端

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書斎の書架の隅から、新聞記事の切抜きが出てきた。
朝日新聞に掲載されていた大岡信「折々のうた」。
 駅階段降りきて左右に分かれたり 君はうからへわれは独りへ  飯田和子
という歌が紹介されていた。
この歌について、このブログに記事を書いた記憶があったのでそれを読み返そうとしたが、切り抜きに日付をメモしてないのでいつごろのことか見当がつかない。
部分的に読める、隣接した「天声人語」の記事を読んで推察した。
ハルウララの名前が出ているがその趣旨はわからず、次の話題として村上春樹のカフカ賞受賞にことにも触れていた。
ネットで調べると村上春樹のカフカ賞受賞のほうが後のことらしい。2006年晩秋の記事のようだ。

ブログの記事も少し読み返してみたが、この歌に触れた記事をすぐには見つけられずにあきらめた。
それでも、義母の死の後のころだが、今に比べるとはるかにせわしく毎日を暮らしていたのだと、改めてちょっとした感慨にふけった。

ひと時の出会いを終え、家族のもと(それはたぶんその恋人の妻を意識しながら使われた言葉だろう)に帰る恋人と別れ一人の時間に戻っていく女性の思いに、当時の私は何を感じたのだろうと考えながら、切抜きをシュレッダーにかけた。

                             
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家族と言うこと

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辻井喬『父の肖像』は、現代政治の裏面を垣間見ることができて面白かったし、二代に渡る個性的な男の人生をたどるものとしても興味深かったが、読み終わってみると、私にとっては家族とは何かを改めて考える大きなきっかけになっていた。

主人公の楠次郎(堤康次郎)は自分の出世欲や金銭欲や性欲など欲望のすべてを「楠家」の隆盛のためという大義名分でくくり、自分自身でもそう思い込んでいるだけではなく周囲の女性たちや子どもたちや一族郎党まで巻き込んで、その価値観を押し付けながら自分の欲望を押し通す。
そうして構築された壮大な虚構が現実の中でさまざまの矛盾に追い詰められどのように崩壊して行ったかは、小説の中でも、そのモデルとなった現実の世界でも次第に明らかとなっていった。

彼自身も求めはしなかったかもしれないが、楠次郎にとっていわゆる小市民的で穏やかな暖かい夫婦関係はついに実現できず、長男は離反し、次男は従順でなく後継として指名できず、三男はそのコピーとして一時は彼の作り出した企業体に君臨したが、最後は社会からその経営法の非近代性を指弾されてしまった。
娘も、早々と父の思惑を裏切ってしまっている。

この小説に描かれた家族の姿は、日本人の家族観のある面を極端に肥大化させたものだ。
ありふれたサラリーマンだった私の父の話中に、小説の中で楠次郎がしきりと口にしていた家族観と同じものが何度も垣間見えたことを思い出す。
それは日本人の男たちの多くが共有していた、普遍性のある価値観だった。
そして今、私の周りにあるさまざまの「家族」の姿を見渡すとき、滅び行くものの影が心にある種の感慨を持ってしみてくる。惜しいわけではないが、寂しいという感じだろうか。

私の家では、妻と二人が残っている。
息子と娘は相互に全く独立してささやかな夫婦生活を精一杯送っている。彼らと私たちは、もはや「家族」ではない。私の中に「家」の観念は薄く、彼らにもそれは反映しているようだ。

私のちかしい親族は、娘二人を結婚させた後で離婚した。
その妻は何年も前から交際していた年上の男性の元に行ったがその後の消息は知らない。
夫はその後娘たちとも疎遠になり一人暮らしをしている。私と年に数回の連絡があり元気でいることはわかっているが、同じチームの帽子をかぶり家族四人でひいきのプロ野球チームの応援に出かけていた風景を知っているものには、隔世の感を禁じえない。
初老の域に達した自分の母が父親とは異なる男性の元に行こうとしていることを知ったとき、自分も二子の母親になっていた長女は「お母さんは家族を何だと思っているの」と悲鳴を上げて非難したそうだが、その母親とは今でも行き来があるのだろうか。

幼い子どもが放置されて死に、長い人生を生き抜いてきた老人が野垂れ死にのようにしてその最後を迎えなければならない社会で、それでもそもそも人間は一人では生きられない宿命なのだから、家族という虚構にもう頼れないとしたら、どのように他者とつながる関係を作ればいいのか。
そんなことを改めて考えてしまった。





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永訣の…

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一昨日あたりから石田衣良『チッチと子』を読んでいた。
妻を失って小学生の一人息子と暮らしている小説家の話だ。
息子の教科書に宮沢賢治の『永訣の朝』が出ていて、宿題でその朗読を父親の主人公が聞いてやる場面が出てくる。
数年前に不慮の事故で死んだ妻のことを忘れられないでいる小説家は、息子の朗読を聞きながらひどく心が揺れてしまうのだ。

私は、朝風呂の中でそのくだりを読みながら、飼い猫「タマ」の死にゆく時間に寄り添っていたときのことを思い出した。
愛する妹の死を見つめる賢治の気持ちと一緒にすることはもちろん「不敬」でさえあると思うのだが、それでもタマを見つめる私には

 けふのうちに
 とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ

と呼びかけた賢治の心と響きあうような思いが確かに生まれていたのだと思う。

そして、私がそのようにあの猫に愛惜の情を持ち続けているのは、あの猫がまぎれもなく私を受け入れ私に依存していたからだと、改めて気づいた。
それはまた、私もいつしかあの猫になにがしかの依存をしていたことに他ならない。

妻はタマのことを思い出すとき、「あの子はあなたになついていたわね」という。
しかし、彼女なりにさまざまの思いがあると見えて、私が寄り付かない庭の片隅の墓所に毎日行っては草をとったり周りを片付けたりしている。
リビングにも、彼女の求めに応じて私がパソコンから出してプリントした写真を何枚も貼って、こうすればタマのことをいつも思い出してやれるからという。
しかし、まだ若いころのタマがテラスから大きな目で見上げているのを俯瞰して写した写真は、リビングの低いテーブルの上においたまま、貼らずに放置してある。
「ここにおいておくと、本当にタマがこうして見上げているような気がするの。」と言う妻の言葉を聴いたとき、私は彼女の知らなかった一面を見たような気がした。
確かに、最後の最後に、タマの死の瞬間を看取ったのは、私ではなくて彼女だった。

老人とブログの海-見上げる猫


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夜の八時に

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西向きの窓の雨戸を閉めようとしたら、夜の景色がほんのりと明るかった。
あわてて外に出てみたら、まあるい月が煌々と照っていた。

部屋に入ってから調べたら、明日が満月らしい。

虫が鳴き、ほんのりと夜風が肩に心地よかった。
夕食の前に見たテレビでは、明日も猛暑が続くといっていたが、紛れもなく秋はそこまで来ている。

虚構と事実の狭間で

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以前に図書館から借りて、期間延長までしても読みきれず返してしまった辻井喬『父の肖像』を借り出し、またぞろ期間延長をしてようやく読み終えた。
同じ長編でも『1Q84』などに比べていかにも難渋した感じだが、読み終わってみるとなかなか複雑な面白さに満ちていて、記憶に残る一冊だった。

辻井喬の小説はすでに何篇か読んではいたが、スキャンダラスな話題に満ちた堤一族と西武財閥の創始者の一代記を、高名な詩人・小説家でもあり実業家でもあるその息子が書いたという、作品の成り立ちそのものへの下世話な興味が動機のひとつだったことは否めない。

まず、大正からから昭和をつらくぬ国内政治の内幕小説としても面白かったのは予想外だった。
野心に満ちた一人の男が事業と政治の二つの世界に足を置き、近代日本の国家の中枢に巣食っていた勢力と、一定の緊張関係を持ちつつ利用しあって、自分の勢力を張っていく様子が、身内ならではの豊富な資料使って描かれている。
堤康次郎が大隈重信の弟子を自認していたこと葉驚きだったし、自分自身と企業の使役を考えながら次第に国家主義に妥協し取り込まれていくさまは、多くの政治家たちの動きもまたさもありなんと思わせる説得力があった。

しかし、それらは結局のところほかにもある歴史小説の手法で描かれているものだった。
本当に面白かったのは、著者の辻井喬(堤清二)が、衆議院議長となった父堤康次郎の秘書として、政治の中枢に入り込んだ時期の話である。
挙げればキリがないが、たとえば父に随伴して訪米し、マッカーサーと会見した時のエピソードは印象深かった。辻井は小悦の中で、作者の分身である「恭次」に『マッカーサーが「天皇はなかなかいい政治家だった。吉田とのコンビには感心した」と言ったことと、堤康次郎が「(大統領選挙の候補の)ケネディーはどうですか」と尋ねたのに対し「ツー ヤング」と答えたのが印象に残った』と述べさせていた。
彼は、この小説の中ではフィクションと事実を混ぜながら話を展開しているが、実在の人物について実名を出して実際に起こった出来事を述べているる部分では、想像や創作を排し、資料に基づくか実際に見聞きしたことを書くようにしている。
だから、これもまた事実なのだと思う。
マッカーサーのケネディーに対する感想は意外ではないが、天皇に関する「吉田とコンビを組んだなかなかいい政治家」という評価は日本人には書けないし書かない評価であり、それだけに一種のリアリティーがあって、だから堤清二もどうしても、このような形ででも書いておきたかったのではないかと思った。

この小説のもうひとつのテーマは、作者自身のアイデンティティーの模索だ。
小説の中では作者の分身である楠恭次は、堤康次郎をモデルとした楠次郎の弟夫婦の遺児で、子供の産めない次郎の正妻桜によって養育されている。しかし自分が次郎・桜夫婦の養子であることを知った恭次は、いろんなことから実は自分は次郎が他の女性に産ませた実子であり、その実母はなにかの理由で次郎と袂を分かち、自分はいったん次郎の弟夫婦に入籍されたがその夫婦が早世したので今のような境遇になったのだ、と確信し始める。
このような複雑な設定がどの程度事実を反映しているのかはっきりしないが、堤康次郎を取り巻く家庭環境と小説の中の楠次郎の家庭環境とは、さまざまの点で対応関係が設定されているので、判断が難しい。
現実では、堤清二は康次郎が愛人に産ませた息子だが、後のこの愛人は正妻となり、先妻の子の長子が康次郎と対立して絶縁したので堤財閥の後継者と目された。
恭次は有能で、周りからも評価を受け実績も挙げた。しかし若いころから父親(養父次郎)反発し続けてきた。
現実世界では結局清二の異母弟の義明が後継者になる。そのような関係はある程度小説に反映されているので、母親の問題だけが現実に伝えられていることと作品内とで大きく違っている。
もともと小説なのだからそのような詮索そのものが無意味なのかもしれないが、家父長制的な家族と近代的自我の自立を求めて呻吟する才気ある青年との相克という点から考えると、虚構なら虚構としてその設定の意味を問いたくなってしまったのだ。

この本のことはもう少し書きたいと思います。





夏の終わり

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昨日はあちこちで、猛暑の記録が出て、テレビは大騒ぎでした。
それでも、盆が過ぎればもう夏は終わりと、いつも思うのです。

毎年書いているような気がしますが、この時期は後悔の季節です。
わくわくするような気分であれやらこれやら計画を立てていた時間が、ほとんど無為のうちに流れ過ぎて、残された時間のうちで済ませなければならない宿題の多さに立ちすくむという、小学校以来の習性が何一つ改善されていません。

それでも、思い出はいくつも残っています。

ローマやフィレンツェで見た夾竹桃の花の色。
フランク永井『大阪ぐらし』の「♪花も茜~の夾竹桃~」というメロディーとフレーズが頭の中を駆け巡っていました。
私の夾竹桃の記憶は「暑い日差しの道路際で白くほこりをかぶって咲いている頑丈な花」だったのですが、イタリアの夾竹桃は艶やかにやさしく咲いていました。

タマの死。
旅に出る前に、病院に残して診察室を出る時の私を見つめた瞳の色も、死の数時間前に自前のトイレで用を済まし、入るときは何とか自分で入ったのに外に出たとたんによろけて床にへたり込んだ姿も、ブラシをかける私の足の間に頭を押し付けてもぐりこむようにしたそぶりも、生々しく思い出されます。

ツアーで一緒になった遠方のエンジニアご夫妻から、写真が送られてきました。
こういったツアーのメンバーはいわば行きずりの旅仲間で、仲良くし助け合ったりしても、空港でお別れした後は記憶の片隅にしまうだけ、が普通なのですが、ミラノ空港に向かうバスの中で声をかけられメールアドレスを交換しました。
もしかしたら長いお付き合いになるのかもしれません。



八日目 帰国へ

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最終日は、朝からフリーでした。荷物をまとめ、ドアの外に出してから10時前にホテルを出て、みやげ物を買いに出かけました。
十分な事前調査もなく、昨日のドォーモ付近が繁華街だったようだからと、タクシーで向かいました。しばらくさ迷った挙句に、 袋物や衣類を売っている店を見つけて入りました。
私は革製品の小物を数点買いました。
妻もそれなりに気に入ったものを買ったようで、疲れとあせりでいささかいらだっていた気分が、すっかり落ち着いたようでした。
午後に「最後の晩餐」の見学予約があり、それが気がかりで心配性の彼女はあせっていたのです。
街角の小さな喫茶店でコーヒーを飲んで、タクシーでホテルに帰りました。

土産は、ベネツィアからミラノへの途中で停まった土産物店で少し買ってありました。
そこでは、ワイン、チーズ、チョコレート、からすみなどを買いました。
からすみは人にもあげましたが、自分用にも買って、おろしてパスタにあえたり、スライスしてつまみにしたりしています。
イタリアでからすみを売っていることには驚きましたが、帰国後調べたら、本来地中海由来の食品で、日本には江戸時代始めに長崎経由で伝わったもののようでした。世間では常識だったのかもしれませんが、まったく知りませんでした。
「三大珍味」などというから日本古来のものかと思っていました。
ベネツィアでは、息子の嫁さんと娘のために、ベネツィアングラスの小さな細工物を買いました。
妻は、義母から生前に数種類のベネツィアングラスの装飾品をもらっていました。それは義母自身がベネツィアに来た際に買って、自分で身につけていたものでした。妻はそれらがどういうものかもあまり気にせず、まったく身に着けていなかったのですが、現地のガラス細工店で類似のものを発見して、帰国後改めて箪笥の引き出しから出してみていました。

そんな風にいろんなものが発見できた旅でした。

午後はダビンチの「最後の晩餐」を観に行きました。
ダビンチコードも観ていましたし、数年前に上野で「レオナルドダビンチ 天才の実像」展も見ましたので、フィレンツェでみた「受胎告知」も、ミラノの「最後の晩餐」も馴染み深く懐かしい気がしました。見終わった後は、もうあまり動く気がせず、ホテルのロビーでぼんやりと休んでいました。

やがて、ツアーのメンバーがそろい始め、定刻の四時にホテル前からバスで空港に向かいました。

空港でも比較的ゆっくりと時間があったので、お茶を飲んだり土産物を買い足したりしました。
現地時間の夜九時前に飛行機は飛び立ち、12時間東に向かって飛び続けて、ほぼ定刻に成田につきました。

これで、イタリア旅行の思い出の記は終わりです。
取り留めのない些事ばかりの記事にお付き合いいただいた方は、ありがとうございました。



七日目

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七日目は朝,
ベネツィアを発って、バスでミラノに向かいました。

ローマからフィレンツェ、フィレンツェからベネツィアも同様でしたが、300キロ前後、三・四時間程度のバスの旅です。

途中で必ず20~30分ほどのトイレ休みがありました。
土産物屋を兼ねた、日本語で買い物のできるサービスエリアで停まりました。考えようによっては、土産を買わせるための旅行業者の特約店のようにも見えました。
休みの時間を比較的ゆったりとることについて、毎回添乗員が「運転手さんの労働時間に関する協約がありますから」と停まる直前にバスのマイクで言っていたことを思い出します。
もしかしたら、あれは無駄な時間だなどとクレームがついたことがあったのかもしれません。

アメリカ・ユタ州の観光旅行のバス事故のニュースを聞き、事故にあわれたかたがたに人事ではないと同情の気持ちを強く持ちました。
そして改めて、無事に帰れてよかったと思いました。
事故の原因は、断片的なニュースを聞くだけではなんともいえません。
しかし、イタリアで二時間走ると30分程度の休みを運転手にちゃんと取らせるということが、制度化されていることの意味を、改めて噛み締めたのでした。

日本でも、規制緩和による新社の参入で競争が激化し、バス会社の値下げ競争が限界まで進んで、運転手にとっての過重な運行スケジュールが、ひとしきり重大な事故を生んだことがあったのを思い出します。
競争原理に基づく経営合理化がなお金科玉条のように言われていることの怖さを、改めて思ったのです。

添乗員は、観光スケジュールについて、「ストがあったりするとまた変わってしまいます」と何度か言いました。
いつからか日本では、働いている人間はストをすることがあるという、当たり前のことを、忘れていると思いました。
イタリアの運転手の協約も、そうした環境の中で生まれたものに違いありません。

旅の前にも旅の最中にも、イタリア人の大雑把さやいい加減さをずいぶん聞かされましたが、旅行中は誠実で義理堅く、郷土に誇りと愛着を持っている、古風で人間味のあふれた彼らの姿を何度も見せ付けられました。風景だけでなく人の生き方にも数十年前に映画で見たイタリヤ社会がそのまま残っているようで、印象深かったのでした。

ミラノの町は駆け足で駆け抜けた感じです。


昼食の後 スフォルツェスコ城やドゥオーモを見学しました。

ドォーモは14世紀に礎石が置かれてから500年かけて建設され、19世紀初めに完成したという話です。

その息の長さに驚いてしいました。

ゴシック建築のにぎやかさにもちょっと疲れたましが、観光のためか、教会の屋根に上らせるというのもなんだかおかしい気がしました。しかしおかげで、これでもかといわんばかりの念入りな彫刻の姿を間近に見ることができました。

そういう意味では、スフォルツェスコ城で見たミケランジェロの「ロンダニーニのピエタ像」は、荒削りな姿が、ゴシック建築の畳み掛けるような装飾性と対照的でした。
89歳になって視力を失いながら、ミケランジェロは死の数日前まで彫り続けたという話です。

夕食は、こじんまりとしたレストランで、ツアーのメンバーともなんとなく仲良くなり、ワインをたっぷり飲んで最後の夜を楽しみました。

① ピエタ像
老人とブログの海

② ドォーモ
老人とブログの海






五日目六日目(その2)

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① ベネツィアに上陸した際の船着場から見た、ベネツィア本島を二つに分かつ大運河にかかる、リアルト橋です。あたりは一番の繁華街になっているようですが、私はその近くにはいきませんでした。
前回、人影のない未明早朝の街並みを紹介しましたので、昼の賑わいを紹介します。いたるところに観光客があふれています。TAXIの看板が見えますが、勿論水上タクシーです。
ベネツイアでは手押し荷車以外の車輪は一切禁じられていて、自転車も走っていませんでした。パトカーも救急車も消防車もなく、みんな船です。
老人とブログの海-リアルト橋

② べネツィアの二泊目の夜は、自由行動でした。私たち夫婦は添乗員引率のレストラン行きには参加せず、ちょっともめながら街中をふらついて、行きずりのレストランに入りました。
運河沿いにテラスが出ていて雰囲気が良かったのと、店の前に出だされたプレートに、セットで安い簡便なメニューがあったことが選択の理由でした。
Gで始まる料理の名前は読めなかったのですが、パスタの一種だろうと見当をつけてを注文しました。
出てきたのが写真の料理です。
もちもちとした団子状のものにトマトソースがかかっていました。
おいしく食べ、デザートを食べて退散しました。
翌日、添乗員に料理の形状を話したら、「ああ、ニョッキですね」とすぐに分かりました。
「食感が普通のパスタと違っていたのだけれど」とたずねたら、「材料はジャガイモですよ」と教えてくれました。
そういえば、イタリアでは、どこで食べたジャガイモもとてもおいしかったことが忘れられません。
老人とブログの海-ニョッキ

五日目六日目

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五日目の朝、フィレンツエを出てバスでベネツィアに向かいました。
バスの中で添乗員が「以前お客様にベネツィアの感想を聞いたら、テーマパークみたいだとおっしゃっていました。でも、間違えないでくださいね、ベネツィアがマネをしたのではなくて、テーマパークがマネをしたのですよ。」と言いました。

本土とベネツィア本島を結ぶリベルタ橋を渡り、ローマ広場でバスを降りて、水上バスで大運河を通り、ベネツィアの町並みを水上から見ながら、やがてサンマルコ広場に近い船着場について上陸しました。
「二泊しますから、迷子になっても二日目には宿にたどり着きますよ」と、バスの中で思いがけない添乗員の言葉を聴いていましたが、なるほどベネツィアの街中は昔流行った巨大迷路そのままでした。
はぐれないように添乗員について、いつくも狭い路地を抜け角を曲がってホテルにたどり着き、一息ついていたら夕食になりました。
ホテルのレストランでラテン音楽を聴きながら夕食を食べました。
男女の歌手がフルートを時々吹きながら、歌を歌っていました。
リクエストを求められたので「シノ・メ・モロ」と言ったのですが、ギターがないのでごめんなさいと断られました。中年の男性がそういったのですが、若い女性歌手は題名だけでは分からなかったようで、男性に尋ねていました。男性は「♪アモーレ・アモーレ・アモーレ・アモレ・ミーオ」とイントロを口ずさんでみせていました。

疲れがたまっていたので夜は早めに寝ました。
翌六日目の朝は未明に目が覚めたので、ふらりと外に出ました。

およその見当をつけて歩いていたら、サンマルコ広場に出ました。カフェ用の椅子の一部を勝手に動かして、ゴールに見立て、少年たちが20名近くでサッカーの真似事をしていました。
少しはなれたところには男三人女性一人の若いグループがいました。そのうちの一組が恋人らしく時々抱き合ってキスなどしていました。

しばらく少年たちのサッカー遊びを見てから、適当な方角に向かって、広場から離れ路地に入り込みました。

すぐに自分がどの辺りにいるのか、地図を見ても分からなくなりました。
時々広場に出ても、その広場からの脱出はまた狭い路地なので、結局再び迷ってしまうのです。おまけに、いたるところで路地は網の目のように張り巡らされた運河に突き当たり行き止まりとなってしまいました。
明るくなり出せば、空を見て陽射しの向きを見れば方向が分かり、地図とあわせれば宿は分かると踏んでいたのですが、路地から見上げた空はどこから見上げても狭くて陽光の方向さえ見当がつきませんでした。
一時間半ほどさまよった挙句、ようやく自分の居場所の見当がつき、ホテルにたどり着きました。
あせって道を探していたわけではなく、行き当たりばったりの散歩がてらだったのですが、自分の居場所の見当がついたとき、自分のいた場所が予想とずいぶん違っていたことに驚きました。
いずれにせよ小さな島の中の迷路だったのです。

その途中で、不思議な雰囲気の鐘楼を路地の屋根越しに見かけました。その鐘楼は明らかに傾いていました。
何とか近づきたいと思ったのですが結局そのそばにはいけませんでした。
帰国後、出発前に見落としていたテレビの紀行番組の録画で見たら、レポーターがその鐘楼に触れていました。

① 迷った挙句、何度もこんな風に水路にぶつかってしまいました。
老人とブログの海-ベネチアの町並み

② 町が明るくなっても、広場からの出口はこんな風な狭い路地のことが多く、迷い続けました。
老人とブログの海-ベネチアの町並み

③ 夜明けの空に傾いた鐘楼が見えたとき、何か不思議な気がしました。
老人とブログの海-ベネチアの町並み

朝食を終えて、改めて宿から町に出たら、もう小さな路地の奥まで観光客であふれかえっていました。夜明け時の街の静寂はまったくうそのようでした。