風が吹いて

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先週末から日曜日にかけて、そこそこ忙しかった。


金曜日に東京へ歌舞伎見物。

20年ぶりの生舞台だったけれど、私は楽しんだ。

同行のA氏は、最初の出し物が終わった段階で、レンタルの解説イヤホーンを借りに行った。その後は、舞台の様子がよく理解できて面白く見られた、とご機嫌だった。

巨漢のB氏は、席が狭くて体中が痛くなったと後々まで不満だった。

一番若いC氏は、解説イヤホーンを借りることを思いつかず、「三時間の拷問でした」との感想だった。

夜は上野御徒町の焼き鳥屋で、一年ぶりの小宴会。一昨年一緒に仕事をした事業所が今年で消えるので、多分このメンバーではもう集まることはないということが分かっていたので、一種の解散会だった。しかし私以外のメンバーはまた新しい場所で仕事があるので、格別の感傷はなくて、それぞれとの再会を約して集いは終わった。

土曜日は、私ともともと風邪気味だったB氏が一足先にこちらに帰ってきた。

私は、行きつけだった小料理屋の店長の結婚を祝うパーティーに呼ばれていた。

三時から九時まで一度場所を変えて延々と飲み、且つしゃべった。

いささか前途に浪かぜの予想される結婚との感想もちらほら聞かれたが、とりあえず二人は幸せそうにしていたので婚姻届の証人のひとりとなった私も、おめでとうと挨拶をしておいた。


日曜日は、私がお手伝いしている文化サークルの参加するイベントがあった。

朝からビデオをまわすように頼まれて、余り自信も経験もないのに半日客席で固まっていた。


土曜日にこちらではびっくりするほど強い風が吹いた。日曜日は、真冬が戻ってきたような冷え込みだった。

昨日ラジオで、あれが「春一番」と聞かされた。


写真は幕間でいただいたお弁当。(安いほうのやつです)

幕が開く前に予約しておいて食堂で食べました。予約のとき「吉○」が出している最高値段のお弁当受付だけが、一人も注文者がいなくて、なんだか受付の女性がかわいそうでした。


弁当






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ずっと前から分かっていたことだけれど、私が片付けられない要因の一つは、物を捨てないこと。


今朝はどういうわけか本を片付けようと思いついて少し、手近かな本を分類し始めた。

捨てる本(つまり売れない本)、売る本、置いておく本。


分かったことは、読んで内容を覚えている本は置いておきたくて、読んでない本はやはりいつか読むときのために置いておきたくて(多分今までに読まなかったからきっとこれからも読まないだろうに…)、読んでないとも読んだともはっきりしない本は、もし読んでいたとしたらそれだけなんてことなくすんでしまったということなのだけれど、もし読んでいなかったのだとしたらやはり一度は読みたいから、捨て難くて。


二十分ほど判別に苦戦苦闘して、少し読み始めたりしてしまって、ついに中断しました。

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記録する

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最近、違う時間に違う場所で60歳の男性と女性から同じような言葉を聞いた。


男性は「このごろ、本を読んでも内容をすぐ忘れてしまって、うっかりするともう一度読み始めてしまうので、読んだ本のあらすじを記録しておこうと考えノートを買った。昨年末からまだ二冊しか書いていないけど」と笑っていた。

その話を聞いた数日後、映画好きの女性が、「相変わらずせっせとレンタルDVDで映画を観ているのだけれど、しばらくすると観たかどうかを忘れてしまうのよ。だから観た映画のリストを作ることにしたの」と言った。


私もこの間、すでに一度読んだ本を図書館から借り出して、吾ながらがっかりした。

私は記録ノートをつけていない。

そのかわり読んだ本や観た映画のことは出来るだけここに書いたりメールに書いたりしている。

パソコンに残っているブログやメールの記録を読み直せば、読んだり見たりしたことが確認できるというわけだ。

不便なのはデータが散在し他の文書にまぎれているので、わざわざ検索しなければ見つからないことだ。

だから、確かめるのには役立っても、重複を避ける事前のチェックには役立たない。


とわうわけで、忘れないように。

昨日買った本。桜庭一樹『私の男』

ブックカバー

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梅の花(訂正版)

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庭の小梅の花が満開だと、大阪に行く前から妻が言っていた。

一月の終わり頃からは寒いので余り庭に下りなかったのだが、今朝新聞を取りに出たとき、思いついて庭に回った。

なるほど雪のように白く花がついている。

今年はたっぷり小梅漬けが出来そうだ。


漬物といえば、少し前のこと。

時々お邪魔しているあややんさんのブログで「菜の花のこぶ漬け」のレシピを見た。そのとき丁度妻が庭から菜の花を積んできていたので、私にまわしてもらった。ありあわせの昆布も残っていたので、早速作ってみて、夕食に出したら、妻にも好評だった。

その前には、庭の高菜がしまいになるというのであわてて抜いて塩に漬けた。そのとき、ネットの記事に野沢菜の蕪も食べられると欠いてあったので、少し大きめの蕪は切り捨てずにとっておいて、皮をむき二つ三つに切り分けた。ためしにそのままかじってみたら、程よい歯ごたえでしかも大根のような辛味はなくて甘いのだ。

早速自家製の梅酢と砂糖を混ぜたものに漬け込んだ。

野沢菜の塩漬けを出す時にこの蕪漬けをいくつか取り出して刻み込むと、素朴な塩味の中に突然甘い蕪の切れ端が出てきて、食べながら楽しくなってしまう。


寒さは今がたけなわだけれど、春が来ているのだと、梅の花を見ながらつくづく思った。

梅といえば大宰府を思い出す。

先日テレビでも参詣者の姿を見たが、私の周りにも受験のニュースがあふれていて、私も少しそれに巻き込まれている。

春は、もう少し先かもしれない。


訂正 今朝この記事で「高菜」と書いたのは「野沢菜」の間違いでした。我が家では市販の高菜の漬物もよく食べるのですが、野菜から作るのは我が家では野沢菜でした。訂正します。高菜は義父が九州の出身なので大好きなのです。

梅の花



蕪漬け

大阪へ行っていました

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所要で妻と大阪に行っていました。

9日午前、新幹線に乗るなり眠ってしまい「名古屋」というアナウンスで目が覚めたら、雪がバンバン降っていました。

十数分遅れで新大阪についてもまだ雪はやみませんでした。

夕方小降りになった頃、千日前に行って、ささやかな大阪見物。

翌日10日はもうすっかり晴れて良い天気でした。

今日の新幹線では名古屋あたりもすっかり雪は消えてしまっていました。


大阪の地下鉄で見た宣伝。

「○鉄賢島カンツリー倶楽部」

関東ではゴルフ場はしばしば「カントリー」と表記する。「カンツリー」は無いだろうと思った。

さっきgoogleで「賢島カンツリー」と打ち込んだら、

『もしかして 賢島カントリー』 と訊ねてきた。

しかし、検索結果にはちゃんと「賢島カンツリー」で出ている。どうやらそれが正式の表記らしい。

関西のすべてのゴルフ場がそうかどうかは分からない。


気がついたら、アメブロのデザインが変わったのか、いただいたコメントのタイトルの表記が横に出なくなっていた。後になって古い記事にいただいたコメントなどは見落としますね。

私はなんだか不便な気がするのだけれど、どんなものなのでしょうか。ふらりと読みに来た人が見難いようにしてあるのでしょうか。




誤植

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先週から『オトナの片思い』という短編集を読んでいた。


恋というよりは恋ごころ、恋愛というよりは恋愛感情を描いた小品のアンソロジーだ。

収録されている11人の作家のうち、私が名前を知っていたのは石田衣良、三崎亜記、角田光代の三人だったが、どれもその作品を面白いと思って読んだことのある作家だったので、図書館から借り出した。


石田衣良の作品はどこかで読んだ記憶があったが、他のものはどれも初めて出合ったものだった。

男女関係に一度ならず傷ついた女性が、成就を目指すことなくそっと恋ごころを抱きしめているというような話ばかりが集められていた。


読み終わってみて、おそらくこの本の表題の原点であろう『葉隠れ』の「恋の至極は忍ぶ恋と見立て候(そうろう)」を改めてしみじみと思い出した。


それはさておいて。


11番目(最後)の作品は角田光代「わか葉の恋」。わか葉という食堂兼飲み屋の常連となった中年のOLのほのかな恋心を描いている佳品だ。

読み終わっていい気分で最後のページの「初出一覧」をみた。

「わか妻の恋」となっている。字が小さいので見間違いかと目を凝らしたが、紛れもなく「妻」という字だ。もう一度題を読み違えたかと目次を確認したらやはり「わか葉の恋」となっていた。

本文中の誤植はまれにあるが、インデックスや一覧表の目次は目立つので珍しい。


奥付は07年8月8日。第一刷。刷り増しの際には訂正されたのだろうか。

恋の成立も失敗も、気持ちや言葉の、いわば誤植みたいな行き違いから生まれ、そして壊れることが多い。









馴致

新しいことをした。

年が明けてから、食卓に自家製の野沢菜漬が出るようになった。妻が種から育てたものを摘んで簡便な漬物器で塩漬けにしている。

市販ものとは少し風味が違うが、ちゃんと野沢菜の香りがしてそれなりに食べられる。

先日から、そろそろ野沢菜が仕舞いになりかかっていて、虫もずいぶんついたので早く抜いてしまいたいと、妻が何度か口にした。私は、特に関心を示さずに生返事をしていた。

「今日、ちょうどいい天気だから野沢菜を着けてくれない?」と朝食時に妻が言った。

今日中に全部抜いて、洗って樽に漬け込んでほしいというのだ。いつもなら即刻いやだというのに、今日はなぜか「いいよ」といってしまった。

今朝見た美しい夜明け時の空があんまり奇麗だったからだろうか。

昼食後、一昨年の小梅漬けが入ったままになっていた樽から小梅を取り出してビンに詰め替えた。梅酢は壜につめた。

樽をよく洗ってから庭に出て、野沢菜を抜いた。

どれが野沢菜か分からないでしょう?と妻が庭に付いて出て、百株ほどの野沢菜が生えている場所を示した。

野沢菜を抜きながら、妻の野菜作りには手を出さないと決めていたのに本当にしまったと後悔した。

ただ抜くのではなく、痛んだ葉や虫喰いの酷い葉は捨てて、一株ごとの形を整えながら抜くので意外と時間がかかる。土の中から出てきたばかりの野沢菜の蕪はひどく冷たくて、むしりとっているとしんしんと指先が冷えた。

腰も痛かったので、三分の一ほど抜いたところで「今日はここまで」と言った。

機嫌よく庭の一角で春菊や大根を抜いていた妻は、「集中力の持続性がないね、瞬発力はまああるようだけど。十五分か。小学校二年生くらいのレベルだな」と笑った。

それが悔しかったわけではないのだけれど、その後もダラダラと作業を続けた。そのうち本当に面倒になって、やけくそに残りの菜を抜いてから、流し場に移動した。

泥を流し、痛んだ葉を捨てながら野沢菜を洗っていたら、また時間がかかった。しかし井戸水はほんのりと暖かくて指先に優しく、抜いているときよりも作業は楽だった。

抜いてしまった菜は捨てるわけにも行かないので、小1時間かけてきれいにした。

台所に戻りもう一度水道水で菜を洗って桶に漬けた。

終わると、三時を過ぎていて、妻が大福とコーヒーを用意してあった。

腰が痛くなったし、何よりも妻の野菜作りに手を添えるという実績を作った事が悔やまれた。

野沢菜の漬物を食べるのはあなただけなのだからという妻の言葉にのせられた部分もあるのだが、馴致されていると感じてしまったのだ。


写真は丁度午前六時頃に南東の空に浮かんでいた三日月と金星と木星。


夜明け

携帯の始末

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妻は最近まで私の携帯にほとんど関心を示さなかった。ところがこの一年ほど、何かと私の携帯のことを口にする。

「鳴っていますよ」とか「光っていますよ」とか。


最近では、私がすぐにとりに行かないと「見ましょうか?」などというようになった。


私はずっとどこにでも携帯を出しっぱなしにしているし、妻のものも似たような扱いだ。

それでもお互いに相手の携帯には手を触れないという不文律が出来上がっていると思っていたが、最近それが少し怪しい。

なぜそうなのか、私なりの憶測はある。

義父を介護する妻の状態がだんだん煮詰まってきて、いろんなストレスがたまり、心理的には私への依存が強まっている。私に寄りかかるという意味ではなくて、私を思うようにコントロール出来ないことへの寛容度が薄れてきているのだ。

「明日の予定は?」とか、「**しなさいよ」とか、なにやら口うるさくなってきた。

私への関心が強まったといっても良いだろう。


この間、妻が一線を越えた。

食卓の上で震えだした私の携帯を放置していたら、妻がぱちりと開いてディスプレイを見た。

待ち受け画面には、紺の生地の上に白い小動物のシルエットがいくつも走っているワンピースが映っていた。


昨年の夏に女性の友人と東京で待ち合わせたとき、人ごみの中でもすぐ見つかるようにと彼女がその日にきて来るワンピースを写メールで送ってくれていたので、それを待ち受け画面にしていたのだ。


伴侶の携帯を見ないのは、エチケットだと思う。しかし、いつでも見せ合うという関係の作り方もあるだろうと思う。

私たち夫婦の場合は、今まではどこに放置しておいても妻が私の携帯を見ることはないだろうという確信があったが、これからは少し怪しいかもしれない。だからといって、急に隠しまくるのもなんだか変な気がする。


さてどうしたものだろうか。どうしても困るということではないが、いちいち携帯を見られるのは手紙を見られるようなもので、本質的に不愉快だ。

見られたくない携帯を、世の夫婦はどんな風に扱っているのだろうか。


ちなみに、待ち受け画面のことは、妻はその模様に関心を示したけれど、「良いじゃないか、見ないでよ」といったら、まあいいけどということで、その話は終わってしまった。




ねこの仕事

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正月が過ぎてしばらくしたある朝、雨戸を開けた妻が悲鳴を上げた。びっくりして顔を出したら、庭からヒヨドリが群れになって飛び立ったあとだった。

キャベツとかブロッコリーとか、妻が丹精していた野菜の柔らかい葉が食い荒らされて芯ばかりになっている。

紗布でもかければいいのかもしれないが、とにかくあっという間のことだった。

振り返ると居間ではねこが二匹折り重なって眠っていた。

妻はその二匹をたたき起こして庭に追い出した。

鳥を追い払いなさいというわけだ。

猫たちは遊びたい時に遊び出かけたい時に出かける。急に放り出されたので驚いて一瞬戸惑っていたが、例によって気位い高いそぶりで、何もなかったかのように身づくろいをし、ゆっくりとどこかに姿を消した。

それからは、朝目が覚めると猫を起こして庭に出すことにした。

一度だけ野菜の合間を走り回る猫を見かけた。

彼らはいつも私たちの思惑の外で自分たちの生を楽しんでいる。

ヒヨドリは猫がいないときをみはからって、あいかわらず庭にやってくる。