絆す

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前の記事のリンク先を読んでいただくと分かるが、cm13637262さんは、「絆される」とは言ってもあまり「絆す」と使わないのはなぜかと考えられた。 

少しネットで検索して「特定非営利活動法人 浜松日本語・日本文化研究会」のニューズレターvol.33に行き当たり、受動態での使用がが常態化していて能動態では使わないことが一般的である動詞の例などを知った。

それはそれでいいのだが、「絆す」の原義が少し気になった。cm13637262さんのページのコメントにも書いたけど、gooの国語辞典に『「羇客とかけば、羇は、絆・す也/ 中華若木詩抄」』と引用してあって「羇」という言葉に行き着いたからだ。「羇」は旅の泊まりことらしい。

なぜ「絆す」つまり「縛る」と旅が関係するのか。もう少し調べたら、「絆す」とは馬の足を縄などで縛って動けなくすることらしい。それで、馬をつなぎとめること、すなわち「旅泊」と「絆す」が結びつく。

「絆し」という名詞もかつて使われたそうだ。

「情に絆される」という、私たちが現在「絆す」を使うときのほとんど唯一の用法は、受動態と言うよりは自動詞のように使われている印象がある。

「そうされた」という「よりそうなった」と言う感じだ。だけど、そのことの正体は紛れもなく「がんじがらめに縛り上げられる」ことだ。


ここからがこの記事の本題だが、恋にもそのような恋はたくさんあるのではないか。

例えば、相手の熱い思いに触れて誰かが好きになって、「好きになったのは私の心だから、この恋は私の恋」と言い切っても、すでにその恋のコントロールが制御不可能になっているとき、それはもしかしたら、絆されているのかも知れない。自動詞のように見えてそれはがんじがらめに縛られた心なのだと言うことはないのか、そう思った。そして、縛られていることを認めているのは私、といってみても、自分で解けないとしたら受動態なのに自動詞のふりをしているこの言葉と同じだ、などとも考えた。

縛っているのが何かはそれぞれの場合で違うけれど。


こんなことを考えたのは、ぼちぼちと読み進んでいる「虞美人草」の影響かもしれない。おもしろいけど、漱石は思っていたよりはるかに理屈っぽい。

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絆(ほだ)される

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cm13637262さんのところで絆されるという言葉が取り上げられていて 、ちょっと調べてみた。そのことはまた別のところで書く。

今朝、私の地方は嵐だった。妻も私も仕事なので、先に出る私は妻に言った。「猫は出さないでね。後で見に来るから」

猫は今日のように二人が半日以上家を開けるときは外に出して出かける習慣だ。しかし、あまり嵐がひどいので、日ごろの甘えるような鳴き声についつい絆されたのだ。

今日は打ち合わせが終わった後で事務所から出て書類の発送をしなければならないことが分かっていたので、郵便局に行くついでに家まで足を伸ばすつもりだった。


先ほど帰ってきてみたら、猫は居間のテーブルの下でじゅうたんの模様の一部になったように平べったく寝そべっていた。私の足音を聞いても微動だにしない。

ちょっと触ったら、にゃあと一声めんどくさそうに鳴いて身じろぎをしたかと思うとまた寝てしまった。


絆されて馬鹿を見たかな。

急いで仕事に帰らなければならない。

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生協の白石さん

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最初に携帯から送った記事がちゃんと送られていなかった。後で気がついて送りなおしたので順番が逆になった。

本は、面白いかどうかと言われればまあまあだが、Sさん自身が言っていたように、読み終わればBOOKOFFかな。

でも、白石さん自身は確かにおもしろい人だと思う。

結構おもしろい人気のブログなんか開いてるんじゃないかなと思った。

まだネットの検索にかけていないんだけど、やってみようかな。

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朝5時に外に出た。あたりは暗く大気は冷えていたが思ったほど寒くはなかった。バイクを引き出して走り出した。かみそりのようにとがって細い月が東の空に出ていて、南に向かう私と並んで疾走している。

指の先が次第に冷たくなってきた。


ふとしたきっかけで今朝目覚めたときのように心がざわめくことがある。その時々のきっかけは小さなことだったり、そもそもはっきりしない場合も多いが、このささやかな煩悩の渦が巻き起こるのは周期的なものだと分かっている。


人影のない町中を抜けて農道を走る。顔をたたく風の冷たさがが火照った脳みそまで染透ると、ようやく心が静まってきた。月は相変わらず触れれば指先など切り落としてしまいそうなほどとがっているが、その周りは地平線から這い上がってきている明るみにつつまれ始めている。


煩悩。

私が手に入れることのできない大小のアイテムを持っている人々への嫉妬と羨望。


若さ。強靭な肉体。美しい言葉。富。酒。恋。時間。etc・etc・etc……


一時間ほど走って、家に帰り、冷え切った体をストーブの前に置いたら猫が寄ってきた。ひざに乗せてこうしてパソコンに向かっていると、ようやく心が温まってきた。


すこし前までは、この時間から重たく忙しい現実が押し寄せてきた。今は、軽く穏やかな生活がゆっくりと始まる。

だからこんなふうに朝から走りたくなるのかも知れない。



本を読む

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家を離れると読書が進む。


先日、町の本屋で三冊本を買った。向田邦子「思い出でトランプ」 三浦綾子「雨は明日晴れるだろう」 保坂正康「あの戦争はなんだったのか」

いずれも衝動買いだが、向田邦子は以前のsakuraさんの記事以来ずっと気になっていて、やっと彼女の本を一冊買ったのだ。三浦綾子もやはり読んでいる人がいて、私も以前に何か読んだ気がするのだけれど全く思い出さなくて、できるだけ早く読もうと思って買った。保坂正康氏の本は、本当に目の前にあったので思いつきで買った。

読みかけの「虞美人草」は本が重いのでもっていけない。それで以前から読み継いでいる田中小実昌「ポロポロ」と向田邦子と三浦綾子をリュックに入れた。私はいつも本を持ち歩くのでかばんが重くていけない。しかし今回は持っていった甲斐があった。「ポロポロ」は東京であちこち移動している間に電車の中でまめに読んで、今朝朝食を喫茶店で摂っている間に、読み終えた。その後、昨日から読み始めて少しずつ進んでいた「思い出トランプ」も、東京にいる間に大分進んで、今日家に帰ってから夕方と夕食後で読み終えた。


向田邦子の小説は始めて読んだが、達者で破綻のない文章がとても読みやすかった。

描かれている風景はsakuraさんが以前書いていた通り、今は失われた数十年前の東京の風景で、これもものすごく懐かしかった。

人間については、突き放した皮肉な目が、ひやりとした感触だった。主にどこにでもいるありふれた男が描かれているが、「男ってこうでしょ?」と、化けの皮をはがされていうるような気がした。私はそれほど不快だったわけではないが、ある種の男は嫌がるのではないかと思った。

「向田邦子の恋文」を読んだ後なので、あの恋の始まりと行く末を経験しながらこの人はこんな風に男を観察し続けてきたのかなと思った。

書かれている男の姿はとても的確で説得力があるのだけれど、「まあそういってしまえばそうだけど…」と、読みながらこちらが言いよどみたくなるところもあった。


それでもあっと言う間に読み終えたのは、それだけこの短編集が面白かったと言うことである。

燈台守の恋

閉鎖的で変化に乏しい島に灯台守として一人の若者がやってくる。この若者は、自分の世話をしながら指導してくれる先輩の燈台守の家に寄宿する。

やがて、この先輩の灯台守の美しく貞淑な妻とやってきた心優しい若者は、お互いに心を惹かれあう。

恋愛物語の定番のシチュエーションから、話は定番どおりに進むが、ありふれた恋の話なのに見終わった後私の心にはなにやら震えるものが残った。


失うもののない恋は恋ではない。この映画を見ていると、そんな気がしてきた。

美しい妻と優しく魅力的な若者の恋は二人だけではなく周りの人々にも大きな波紋を広げ、痕跡を残して終わりを告げる。

普通の物語はこれで終わるが、現実にはどのような恋であれ恋の終わりは新しい物語の始まりであり、登場人物にはそれぞれその後の人生を、否応なしに紡がなければならない。

ネタバレになるのでこれ以上かけないが、私はこの恋人たちではなく、妻の恋に直面した夫に深く心を揺さぶられた。

2005年11月25日のこと

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昨日は東京に出て一人で遊んだ。家を出るとき仕事に行く妻と一緒になった。

私は気付かず鼻歌を歌っていたので、「あら、いい調子ね」と言われてしまった。

途中まで車で行って、電車に乗り換えた。

東京ではまず、「燈台守の恋 」。映画マニアの友人が二人の逢引の場面で「恥ずかしながら久しぶりに欲情してしまった」と言ってきたので、濡れ場を楽しみにしていったが、そんな濡れ場はなかった。

一度だけ二人が愛をかわす場面があるが、特別叙情的でも扇情的でもなく、むしろはるか昔の日本映画のように抑制した描写に終始していた。あるいは、だから彼は欲情したのだろうか。そうだとすれば彼と私は性癖が違う。

しかしさすがに彼の映画を見る目は確かで、映像の美しさや迫力と端正で丁寧な人間の描き方には心を打たれた。

その後、上野の国立博物館で北斎展を見た。天才の所業とはこのようなものを指すのだと痛感した。80歳を超えて描かれた彼の絵は、高齢で絵を描き続けたピカソを思わせて、かつピカソを超えているような気がした。

さらにその後、下北沢で小劇団の芝居を見た。

新宿の花園神社の境内あたりで公演している小さな劇団の公演で、80人くらいが入るといっぱいになる劇場で熱演していた。

これがまたとてもおもしろかった。役者の力量にばらつきがあり、素人芝居みたいな部分もあったが、全体として素直にまっすぐ人生を見つめた芝居作りだったし、喜劇仕立てのオムニバスだったが、笑いも心地よい笑いでよかった。

夜は麻布で一人でビールを飲みながらジンギスカンを食べた。

鈎型になったカウンターに座ったら斜め向かいに、若い二人連れが座っていい感じで飲んで食べて話していた。

話しの内容はよく聞こえないし聞こうともしなかったが、女性は大きな目の比較的整った顔立ちで、しかも表情豊かに話すので、風景を見るように眺めていると退屈しなかった。

あまりじろじろ見ると失礼なので、肉を焼くのと飲むのに集中しているふりをしながら時々眺めた。目を上げると自然に彼女の顔が目に入る角度だったし、彼女は隣にいる相手の男性に顔を向けているので私の視線は全く気にしていなかった。

いい気持ちで酔ってホテルに入り、風呂から出た後携帯からブログに書き込もうとして、何度も失敗した。必死に打っているうちについまどろんでしまい、気がつくと書いた記事を消したり誤操作をしていた。

東京に出てきた目的の半分はこの一日で十分に果たせたので、大変満足した。残りは翌日(つまり今日)の買い物である。

ところがこれは、二つとも果たせなかった。品物をもう少し粘って探せばどこかで見つかっただろうが、一日目の奮闘で疲れてしまって、根気がなくさっさと帰路についてしまった。


予定の半分の成果だったが、でも十分に満足した東京行きだった。


上野の秋

上野国立博物館前の紅葉と人出

ちょっとテーマはカテゴリー違いだけど小説の話だから。


順番を飛ばして、「アキハバラ@DEEP」を読んでしまった。それだけ軽い話といえばそうだけど、いつものように石田衣良の視点は低く弱いものに寄り添っていて気持ちがいい。

舞台がITやネットの世界で、かなり細かくアキハバラの雰囲気を書き込んでいて、バーチャルな世界とリアルな世界との不確かで奇妙な接点も結構きちんとかけている気がしておもしろかった。

いま私の生活の大事な一部になってしまった、このブログの隣人たちとの交流について、結構考えさせられた。