女性の覚悟ということ

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sakuraさんが女性の覚悟 について書いていた。私も昨日、同じようなことを感じていた。


図書館から借りていた俵万智の「恋文」を,返却日が近づいているので改めてさっと読み返した。


最初の読んだときの,ちょっと気になる刺激臭のようなものが消えて,二人の気持ちのやり取りが比較的素直に心に入ってきた。

>>恋文(荒木とよひさ共著)

 これは野次馬根性で

 読むのをためらわれる・・・

という、sakuraさんの以前のコメントも,私なりにうなづけた。

その上で改めて思ったのだけれど,いざとなると何故こうも女性は腰が座り,男は逆に危うげになるのだろう。
それはこのブログの海を航行していても幾度も感じた感想なのだけれど。


そのことと少し関連があるかないか…
性を通しての相手とかかわりで,涙を流すことで愛の確かさを初めて感じたという経験を,何人かの女性が書いている。

「恋文」のなかでも「女」がそのような体験をし「男」が少し戸惑っているという部分がある。
男にも,そのように心と体がずっと深いところで共鳴しあうような体験があるのだろうか?

男の性にはそのような深さがないから、時にサディズムとかマゾヒズムとかを通してそれを求めるのではないか。女性の場合も、サディズムやマゾヒズムに傾斜する場合には、もしかしたら同じような希求の気持ちがあるのかもしれない。

今読んでいる桐野夏生の「OUT」の中で登場人物の異常性愛が出てきたので,あらためて,そう思った。

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スピッツというグループの「チェリー」を聴かされた。

人気のバンドで、とてもはやった歌だそうだが、私にはグループの名も歌の題名も「聴いたことがあるかな」というていどの覚えしかなかった。

初めてのような気がして聴いたが、優しくて心にしみるような歌だった。


 ♪ 「愛してる」の響きだけで 強くなれる気がしたよ

 ♪ いつかまた この場所で 君とめぐりあいたい


大昔から人は同じ想いを反芻してきたのだと、また、そう思った。

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繋ぐ・縛る…猫の話(5)

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 今日も真夜中にパソコンに向かっていたら、書斎の扉がきしんだ。わざと締め切らずに置いた扉をそっと引いて開けて、猫が入ってきた。

 ちらりと横目で見る私には目もくれず、あたりの積み上げた書類やフローリングに散乱するパソコン周辺機器を見まわしながら足元に来て座り込む。

 声も掛けずほうっておいた。彼女も、私には関心がないように足をなめたり毛づくろいをしている。

 パソコン画面に集中していたら突然私のひざまで伸び上がって爪を立て、見上げてニャーと鳴いた。私の足は、ふくらはぎもひざも彼女の爪あとで傷だらけだ。

 抱いてひざの上に乗せ、なぜながらパソコン操作を続ける。猫はのどを鳴らしている。少しの間、身体を丸め私の愛撫に酔いしれているような風情を見せた。

 両手をキーボードにおいてパソコン操作に手中し始めたら、じきに身体を起こして机の上に載ろうとした。背中を軽く押さえてもう一度座らせたら、黙ってひざから下りた。後ろも振り向かず部屋を出て行く。

 数分したらまた入ってきた。

 放っておいたら、もう一度足につめを立てられた。再び抱き上げてやる。

 まるで恋愛プレイのような所作の繰り返しだ。

 再び猫が部屋から出て行った少し後で、思いついて私は立ち上がった。

 扉を押し開けて廊下に出たら、猫はそこにうずくまっていて扉に当たった。居間に向かう私の足元にまつわりついてくる。

 えさ箱まで行くと、器にはまだ少し餌が残っていたが新しい餌を足してやると途端に器の前に座り込んだ。ぼりぼりという噛み音を背にして、書斎に戻る。もう猫はこない。今はソファーの上の猫座、専用の座布団の上で丸くなって寝ているに違いない。


 猫は始終私を意味ありげに私を見上げ、鳴いて呼び、時には手加減をしながもらつめを立てる。

 餌が欲しいだけなのか、なにやら私と心がつながっているのか。

 窓を開けてやったり、餌を与えたり、その時々の私の行動が彼女の要求と合った時、あるいは逆に彼女の要求と食い違ったらしい時、いつでも彼女は、私には見向きもせずに自分の世界に入る。

 お互いの関係を私が誤解しないように、確認するように、教えるみたいに。


 結局は、ほどほどに付き合うだけなのだし、それでちょうどいい。

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表現者の宿命…俵万智のことなど

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作家でも詩人でも演技者でも、私たちは彼や彼女の表現したもの、作品や演技や演奏を、表現者の人格や生活とは全く別のものとして受け取り感動する。またそのようにするべきだと考えられている。

しかし表現する者は結局自分自身をさらすことを避けられない。身を切り裂き、骨まで見せて人の心を揺さぶる。

その、人間の真実の叫びと作品や演技の創造された姿との間に、いわゆる「虚実の皮膜」があるのだと思う。

嘘だけど、本当。本当だけど、うそ。

俵万智は作品の中で、恋を作ろうとした。だから、特に「サラダ記念日」で歌われた想いは、人形の気持ちみたいなところがある。その、若い女性の熱気を押し隠した、作り物めいた軽さが、人々の心を捉えた。

「恋文」では、そのような道を選び胸を張ろうとしている生き様を、作品にしようとして、作品になりきらなかった。

いずれにせよ、告白としてならば一時はもっとセンセーショナルな話題を呼んだに違いない。しかし、文学として記憶されることはなかったと思う。

sakuraさんが

>>それを文章にしたり

>>歌にしたりすると

>>たちまち

>>それを読んだ女は対極に立ってしまう

と書いたことも、きっとこのことと関係がある。

作り物にしたから共感され、時には作り物にしたから忌避される。

でも結局、表現者たちは自分を人々の前にさらしている。恐れずに、繰り返し何度でもそうせずにはいられない。

そんな気がした。

週末の思い出

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 先週末から日曜にかけて、年寄りにははかなりハードなスケジュールだった。

 23日金曜日午前中は特注の依頼にこたえて出勤。午後、友人の車に同乗して、3時間走って、墓参。

 故人のご主人と三人で午前1時半まで飲む(医者の助言に背く)。

 土曜日午後帰宅。

 夕方、プチスポーツ大会に参加。久しぶりに汗をかく。その後、あるグループのプチ同窓会。

 脂の乗り切った30代女性三人と飲む。時々私にかまいながら、がんがんやっているのを好ましい思いで眺めつつ、また飲んだ。

 しゃれた小料理屋から、15年位前まで私もよく行っていていたような風情のスナックへ。三人とも、カラオケボックスよりここで歌うほうがいいようだ。

 私も、しっくりきて雰囲気も懐かしく、デュエット3連発。そこへ、誰かが呼び出したようで、いけめん若者二人登場。彼女らのアッシー君(古い言葉だ)兼用らしい。

 私はいじけたわけではなく、かわいい雰囲気の中年ママさんとカウンター。はかに客もいないしなじみの店なので、三人組(5人組)は勝手に飲んでカラオケ連発。

 私はひたすらママさんと昔話。狭いこの地方都市で生まれ育った彼女の思い出話に登場する人物の何人かが、私と面識のある人間で、例えば私の一時期の部下が(とっくに転職して今は東京付近にいるらしいが)彼女の高校時代の彼氏だったとかが分かって。

 「彼氏といったって、その頃は今と違って、やっと手をつないだくらいだったけど。」そんな話がやたら懐かしかった。

 午前一時を過ぎた頃、「おさきに」と、突風のように5人は帰っていった。おいおい、私はどうするんだと思ったが、まあいいか。

 私は、ママの離婚話や、その元夫が、苦労した母一人子ども二人の子育ての終わった今頃に、謝ってきて復縁を求めてきて、といった話を聞きながらいい気持ちで飲み続けていた(医者の警告は完全無視)。

 初対面なのに、共通の知人が何人もいることで、なんとなく旧知の間柄みたいな気分になっていた。

 今度昼の喫茶店経営に乗り出すプランも彼女にはあって、そんな話しもいっぱい聞いた。

 気付いたら午前三時。本当はもっと早く店を閉めたかったに違いない。ごめんついでにコーヒーを一杯所望して、退散。

 翌朝(というかその朝)9時に事務所で金曜日の仕事の続きがあったことを忘れていた。9時に目が覚めて家を飛び出し、20分遅れで仕事に参加。サービス労働とはいえ、社会人失格。

 午前中に無事仕事をこなし、午後家事。夕方、二日間実家で母親の介護をしてきた妻を迎えに出かけ、こういうときの習慣で、いつものようにファミレスで夕食。ちらりと前の週の日曜日の食事を思い出した。今日の支払いは妻の仕事。

 二日続けて飲んで食べて睡眠不足の話をしたら、妻が少し小言を言った。

 今週一週間持つかどうか不安だが、年寄りの悲しさで、昨夜9時に寝たら、今朝は3時に目が覚めた。

 今4時50分。すでに疲れている。

彼岸の日に

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泊りがけで、少し遠いところに住んでいる古い友人の奥さんの墓参りに行った。


とても強い女性で、私を含めて友人の仲間は皆彼女を畏敬していた。

正義感が強く好奇心にあふれ、しかも限りなく優しい心を持っていた。


長い闘病の末、あっけなく亡くなったが、彼女らしいさっぱりとした逝き方だった。


墓は小高い台地を開いた霊園に、友人が買って建てた。

湖が林の向こうに見えた。


久しぶりに都市郊外のこういうタイプの霊園に来たが、墓石の様子が私の住んでいる地域や、昔見た墓地のものと全く違っているのに驚いた。


例えば 「ずっと一緒」と低くい横長の黒い墓石の右肩に彫ってあり、下方の中央に「R子」と故人の名前だけ。

あるいは、「永遠」とか「永久に」とか「悠久」とかの言葉を中央に彫っただけの墓石。

葬られた「故人」への墓石建立者の思いが素直に形と言葉に表されたお墓がなんと多いこと。

一家と一族の祖先を祭るという従来の発想との際立った隔絶。


友人の奥さんの墓も、いかにも生前の彼女が見たら喜びそうな墓だった。


それでも、家に帰ってからお茶を入れながら友人は言った。

何で墓なんかつくらなければいけないんだと思うんだよ。

ずっとこの家においておいてやりたい。


居間に飾られた写真と白い花と小さな香炉と。

半年前に旅立ったはずなのに

まだ彼女はそこにいた。

下弦の月

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下弦の月を見ながら、久しぶりに馬刺しの店に出かけた。

テレビで「電車男」最終回をやっていた。

私の妻や娘はまるきりの作り話として相手にしないが、妻のための白い胡蝶蘭はもっとささやかだけど似たような話から形になった。彼女らはそんなことは知らない。


電車男のドラマを見ている私に、オヤジは仕切りとアメリカの航空機事故のことを言う。

私は今夜はテレビを見ていないので何のことか分からなかったが、ちゃんと解説してくれた。

どうやらアメリカに新たなヒーローが生まれたらしい。

ディシプリン…続き

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ディシプリンという言葉はその雑誌では性的な意味を持って使われていた。訓馳すること、調教すること。苦痛や恥辱を受け入れたりそれに耐えるだけではなく、快感として感じ与えられることを望むようにすること。

それなしでは生きていけないようにすること。


しつけ。私たちはそれを、人に施し、人から施される。そうすることにひたむきな者とそうすることは忌避する者と。そうされることを自ら望む者と、いつまでも抗う者と。


いわば、縛りあうことが好きか、嫌いか。


話は変わるけど、今朝の(昨日深夜かな)「【 MOON 】いつまでも」の記事を読んで思った。きっとmoon_catさんは、俵万智にはがっかりしたかな。注文までして取り寄せたのに「なあんだ」とか、「違うな」とか感じさせたとしたら、何度もログに書いた私としては、ごめんなさいっていいたい気持ちだ。

もちろん、ラーメンにもステーキにも一人ひとりの好みはあるから仕方ない。

一口食べて口に合わなければ、残していいと思うので無理しなくいいけど、休みに読んでみるのなら、そしてもし書けたらその感想を。


たまたま、先日十代の女性と話す機会があったから「俵万智って知ってる?」てきいたら知っていた。「教科書に載っていた」と言う。どう?と聞いたら、「ちょっとね」というこたえだった。

そういえば20年近く前のデビュー当時これを読んでいた30代の仕事バリバリ既婚女性は、「まあ目新しくはあるけど、じきに普通になると思う」と言っていた。


ディシプリンの話から横にそれた。


今日は、お手伝い人間の仕事にふさわしい極めて小さなプロジェクトが、有効性を発揮してよい結果をもたらした。昔なら、朝飯前の仕事だったが、そして、人々はその結果の如何についてそれほど気にしていなかったが、私は少し喜び、心の中で小さなガッツポーズをとった。

やるときはせっせとやる、という風に私はしつけられている。


午前1時を過ぎた。

昨夜はひどく眠たくて、テレビを見ながら9時前には転寝。妻に起こされて、そのまま寝室の布団に転がり込んだ。すると午前0時になる前に目が覚めて、それから、書斎に入りブログめぐり。やがて猫がやってきて、一度私のひざの上に乗り、今は足元で熟睡。20分ほど前に妻が起きてきて、「寝なさいよ」と入り口で声を掛けてからまた戻っていった。


気がつくと私はまだ何かを待っている。

とっくに芝居の幕は下り、小屋の中は静まり返っているというのに、私一人が客席に座っている。

学生時代に、映画の深夜興行が始まって、池袋の名画専門館へいった。五味川純平原作「人間の条件」の6篇一挙上映、今で言えば「朝まで映画」だ。

えらい混みようだったが、連れとも別々になって何とか前のほうに座って…2編目くらいから爆睡。

何かを感じて目が覚めたら、劇場内は空っぽで、掃除のおばさんがすぐそばで床をはいていた。どうやら彼女が、私の肩をそっとたたいたらしい。人影のない映画館の入り口を出ると、外の陽射しがまぶしかった。(数日後にキャンパスで会った連れの男に聞いたら、お前の姿が見えなかったので探さずに帰ったよということだった。)

そのときの感覚に似ている。


桐野夏生の「村野ミロシリーズ」第一作「顔に降りかかる雨」の参考文献に『夜想29「ディシプリン」』が挙げられていた。

dis・ci・pline : 訓練[育](する); 訓練[学習]法; (情欲の)制御; 規律, 風紀; 懲戒(する); 【宗】修行; (大学の)学科, 学問分野.

この本は、10年前、久しぶりに出かけた八重洲ブックセンターで見かけて買った雑誌。あの頃はまだ、こんな本に手が伸びたのだ。今なら、ネットのサイトで簡単に手に入る情報や映像に初めて出会って、いくつか目を開かされたのだ。何度か読み返したが今は例によって書架の奥にまぎれて見つからない。
それにしても桐野夏生のこの小説が書かれた頃には、さぞかし衝撃的だったのだろう。


とっくにドラマは終わっているのに、私が待っているものってなんだろうと思った。




俵万智の恋について、私が知らないだけで、いろんなことがとっくに知られていることだったので、大急ぎで追加します。


今日は一日お休み。午前中に、ほんとにつまらないことで妻と喧嘩。昼に関係はいつも程度に修復。胡蝶蘭の効き目か、お互いに復元力が生まれているようだ。昼食は私のホットサンド。

午後は用足しに町中へバイクで。

金融機関で一月の生活費を下ろし、新聞広告で気になる記事の紹介のあった週刊誌を本屋で買う。ここまでは妻の依頼。私は、町の図書館へ。

俵万智の歌集「チョコレート革命」と小説「トリアングル」を借りるため。

「チョコレート革命」は検索ではあるはずなのに書架に見つからずあきらめた。「トリアングル」はあった。ついでに、思いついて「恋文」を探したが、書架では発見できず、もう一度蔵書検索にかけたら、共著者の荒木とよひさで出て来た。

荒木とよひさは、「四季の歌」「時の流れに身をまかせ」「哀しみ本線日本海」などの作品で知られる作詞家。(この本のプロフィールで知った)

そして、この「恋文」は俵と荒木の共著による書下ろしで、男と女が恋愛関係に入ってからやり取りした手紙の抄録の形をとっている。男と女が俵と荒木だとはどこにも書いていないし、男は脚本家女は詩人としてあるので、共著のフィクションだといえば言えないことはない。しかし具体的な行事や出来事がこの二人の行動や俵の歌と合致すれば、男と女が誰を指すかは明らかだし、二人はそのことがこの本で明らかになることをもはや恐れてはいない。

携帯やメールの時代の手書きの手紙というスローライフを味わってくださいと、俵万智のHPには紹介してあった。


目次の裏ページの紹介は写真の通り。


まだ全部読んでいないが、いまそちこちで読ませていただいているブログと寸分たがわない心の動きが交互に書かれた手紙で示される。以前、思いつきで「今はブログの中に俵万智が溢れている」と書いたが、改めてその感を強くした。


匂いに気をつけること、ネクタイを贈るときは、もともと持っていたブランドにあわせること、そんな「女」の気遣いは、すでに私がいろいろ、今書き込みをしているこの場所で見知ったことだった。


しかし、この本は公然と出版され、彼女が歌った歌が何を喜び誰を慕っているのかは、もやは高らかに宣言されてしまった。


この交情の記録の早い部分で、「女」がこう書いている。

「私はこの恋を世界中に恥じるつもりはありませんし、神様にだって邪魔されたくありません。けれど、何の罪もない善良な人々を、わざわざ絶望の谷間に突き落とすようなことはしたくないのです。

あなたがよき夫であっても、よき父親であっても、私がこの恋から得られる幸せは、減るものではありません。けれど、あなたがよき恋人であることは、彼女や彼らの幸せを、確実に奪うのです。」


 俵万智がこの「小説」の「女」の現実のモデルとすれば、彼女の一件慎ましやかでかえって傲慢な矜持は、彼女が一人で生きていけるという自信と実力の裏づけによって支えられている。

しかしこのことによって、「善良な人々」と呼ばれた者たちは、あたかも恩恵を授けられたかのように感じていっそう屈辱感にまみれはしないだろうか?それならばまだしも、血みどろになって男の愛と体を奪い合いたいとは思わないだろうか。


私はそう思いながら、ますます俵万智に惹かれている。

そして、いつものような卑しい心で、

 妻という安易ねたまし春の日の たとえば墓参に連れ添うことの(『チョコレート革命』)

 焼き肉とグラタンが好きという少女よ 私はあなたのお父さんが好き(『チョコレート革命』)

と歌われた荒木の妻と娘にあってその思いを聞きたい気もするのだ。

 文学とはそのように読むものではない、とのセオリーは百も承知で。
恋文