rinndaさんから、私が愛していると言わない(言えない)ことについて、コメントをいただいた。このことは、以前にも一度書いた

 そういえば、昔から妻は「どんな料理を作ってもおいしいって言わないから、あなたは張り合いがない」とよく言っていた。私は、「さまざまの工夫の入った料理を、『おいしい』の一言で済まされるほうがずっとさびしいじゃないか。僕の食べてる様子でどう思っているか感じなさいよ」と答えていた。

 共働きだし、子どもも育ち盛りの頃は手のあいたほうが料理をしたので、私も週の三分の一とか半分は夕飯を作ったが、そういうときに妻が律儀に口にする「まあおいしそう」とか「ああおいしかった」とかいう言葉は、特ににうれしくもなかったし、ことさら必要な言葉とも思えなかった。

 私も他人の料理にはいくらも、そういったのに。


 私たちの世代は、言葉の大切さを知っているというよりは、気持ちを素直に言葉に表すことに対して臆病なのだ。だから、今のみんながどんどん気持ちを口にするのはすばらしいと思うのだけれど、でもあまりにも、

大切な言葉が気楽に使われているような。

 例えば、英語の辞書で「mansion」を引くと「大邸宅」と出てくるのに、和英辞典で「マンション」を引くと「an apartment house」(=アパート) と出てくる。日本の不動産屋が、言葉の意味を安くしてしまった。

 そんな一面もあるかなと思う。


 何ヶ月か前に読んだある女性のブログで、不倫の深刻な後遺症として、『「男」と「愛」が信じられなくなったこと』と書かれていた。実は不倫でなくとも、例えば破綻した恋愛や結婚の後でも、人は同じ思いをすると思う。

 でも、不倫関係の破綻の場合は、単なる恋愛関係や結婚生活の破綻と違って、そのような不信が宿命的だといえる理由がある。それは、不倫関係の当事者特に女性はは必然的に強く心理的な逆風を受けており、それに抗するために、通常の恋愛や結婚生活以上に、いつも強く「愛」に頼らざるを得ないから。

 男の場合は、もちろんケースバイケースだが、それほど「愛」依存症にはならない。それは、不倫関係に起因する心理的風あたりが歴史的にも社会的にも、男にとっては女性ほど強くないから。

 この差については、女性は(相手にそれほど風が当たっていないなんて)どうしても実感できにくい。


 男と女が口にする愛の重さの違いも、もしかしたらあるのかも。男は何人もの女性を同時に「愛」せる(人もいる)。

 以前にこのブログで取り上げた 、かの田中角栄は「愛人が何人いても、俺は同じように大切にしてちゃんと面倒を見ている。何も疚しいことはない」と言い張った。でも、それぞれの女性には「中でもお前が一番」と思わせたと思う。それが「思いやり」だし、「大切にする」の中身だ。


 これは一般論で、しかも論証できない仮説で、一人ひとりには機械的に当てはまらないことはあたりまえ。

しかも私が今まで何度も言ってきたことの焼き直し。

 だからこんなに長くだらだら書いたけど、実際には、もっともらしいだけで全く価値のない評論でした。


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言葉にすること

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昨日は 分かれるということについて思いを書きたいと、不確かな記憶で佐藤春夫の詩を書き始めたら、妻が呼んだ。そのときの用事がなんだったかはもう全く思い出せないが、先ほど書き継ごうとして念のためにもとの詩にあたったら、二行目は「思ひつめたる風景は」だった。「悲しい」とか「切ない」とかの言葉は、使ってしまえばそれまでだから、彼らはあえて使わない。


愛してるとか好きだとか口にすればその場ではいかにも確かなように思えるが、形にしたものは必ず崩れて消えてしまう。だから、本当に大切なものは口にしたり書いたりしたくない。

でも、結局は、言葉にしか頼れないし、言葉にすがるしか確かめるすべはない。

うたかたのような言葉に一喜一憂せざるを得ない。たとえ本当のことが見えていてもいなくても。


今もって一生に一度も誰かに愛しているとか言ったり書いたりしたことの無い私は、考えてみればとてもさびしい人生なのかなあ。でも私たちの世代には結構多いと思う。


今の世を見渡せば、愛の氾濫。

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不安の真っ只中で

テーマ:

明日(イヤ今日か!)中 に仕上げるべき仕事の段取りがまだ立たず不安の真っ只中で、ブログめぐり、ブログ書き。

いつか書いた、しつけの悪い我が家の猫は、私に付きまとい今は足元で白川夜船(古い)。


昨日、お昼を食べに入ったおいしい蕎麦屋。少し早めだったのでまだ空いていた。隣の席のおしゃれできれいな奥さんと、GパンTシャツの小太りオヤジ。中年夫婦だ。が、蕎麦のできるまで奥さんは携帯をじっと見つめている。オヤジはビッグコミック。

不意にいくつかのブログを思い出し、空想が心の中で広がった。


 <奥さんは、目の前のご主人以外の誰か大事な方の定期便を読んでいる。ダンナはいまさら妻との話題も なく、漫画に夢中。>


蕎麦が届いた。二人で黙って食べている。奥さんはさすがに携帯をしまったが、ダンナは横目で漫画を見ながらだ。

食べ終わって蕎麦湯さしを回すときに、それまでのお互いの全く無関心に思える様子とは打って変わった、なれた感じのやり取りが、ごく自然行われた。

食事が終わると二人は立ち上がり、奥さんが「おいしかったわよ」と厨房の奥に声を掛けて代金を払う。

夫婦だろうなと観測したことが間違いなかったことが、奥さんの支払いで判明。

別に仲が悪い夫婦とも思えない。私たち夫婦のしぐさを鏡に映したようだ。


それでも、白昼夢のように私の心に浮かんだ妄想の風景は消えなかった。

夫以外の男性を愛している女性の表情は、案外夫の前であんなふうに静かで優しいのかな、とおもった。


妄想にとらわれながら明日の不安におびえている、いや、明日の心配そっちのけで、妄想に浸っている愚かな私。


やばい

テーマ:

帰省している娘がパソコンを貸してというから、ノートパソコンを貸した。私が寝た後、もちかえった仕事をしたり、誰やらとmailのやり取りをしたりしたらしい。居間においてあったのを朝になって取り戻し、書斎にもってかえった。午後になって何気なくDVD/CDドライブをあけたら、なんと「特集!援助交際」云々というDVDディスクが入っていた。ようやく思い出した。10日以上も前にずっと年下の知人と飲んだとき、そんな話題になって「見ますか」とその場で貸してくれたものだ。翌日ちょっとかけてみたがほとんど興味をそそられず、すぐ止めてそのままにして、全く忘れていた。

何事もなくドライブ収まっていることが、事態をよく示していた。私のパソコンのデータは基本的に外付けのHDDに入れている。それをはずして渡したから、このブログの記事のコピーなどは見ていないが、パソコンはあちこち覗いた違いない。このディスクもしっかり確認して、そのまま戻しておいたのだろう。

独り者とはいえ20代の後半にもなる娘だから、こういう媒体には別に驚かないだろうが、いつも偉そうに立派なことを言っている父親のパソコンに入っているのを見たくはなかったろう。それ自体は別に非合法なものではなかったが、私も娘に見られたくはなかった。

以前、loverさんが、お父さんのことを書いていた。「見たくないものを見せなかった」という点でも敬愛しているといったような意味の言葉があったと思う。

それが思い出されて、自分を省みて、ほんのちょっとだが、へこんだ。

思わず

テーマ:

ブログだから。

ブログなのに。


分かっているつもりだったし、それなりに気をつけているつもりだったのに。


えらそうに、お説教を書いてしまった。


娘が小さかったころ、「ネバーエンディングストーリー」を映画館で見せた。

お話を信じる人がいないとお話の世界が消えていくという話だった。

タイトルバックが流れる中、まだ暗い映画館に娘の声が響いた。

「最初から私に言えばいいのに!」


子どもだからそれでいいけど。


思っていても、口に出したり書いたりしたらかえって、かすかなあるかないか分からないつながりさえ消えて

しまうかもしれないのに。書いても何の足しにもならないのに。

いい年をして、思わず「お願い」してしまうなんて。

一週間くらい前だろうか、テレビで端唄を取り上げていた。近陽子が本城某の三味線で唄っている。その本城某の新作。

「香水に お願い 彼をあきらめて」 

俵万智の句に曲をつけたものだ。どういうことか、私にはどうもぴんと来ない。なんだか解説が欲しくてネットで検索。

俵万智のオフィシャルページに遭遇した。問題の句には出会わなかったが、「チョコレート革命」の中のいくつかの歌に改めて心を打たれた。

 妻という安易ねたまし春の日の たとえば墓参に連れ添うことの(『チョコレート革命』)

 焼き肉とグラタンが好きという少女よ 私はあなたのお父さんが好き(『チョコレート革命』)
 シャンプーを選ぶ横顔見ておれば さしこむように「好き」と思えり(『チョコレート革命』)

「サラダ革命」は読んだ後はあまり近づかなかったけど、彼女が未婚のまま出産したことは知っていた。

自作の年賦を読んで、「2003年11月3日、男児出産」というさりげない記事に、これらの歌の思いが重なる。

一人で生きる決意と能力があってのことだと思う。

それでも「妻という安易ねたまし」と、わざと「安易」という言葉をつかったあたりで、彼女の切ない思いが、技巧でありながら技巧を超えて伝わってくる。

 

そして私の興味と関心は俵万智から、その男児の父親の妻に向かうのだ。そこにも、もう一つの、歌に読まれるべき悲哀と喜びがあるはずだと思うから。

 狭い家なので、すれ違いざまに妻の胸に触れたりする。ずっと何の意識もしていなかったが、最近思いついて、時折腕を伸ばしむずとつかんだりした。「やめなさいよ」と妻は必ず言う。「そういう癖をつけると、いつか町中で不意に通りすがりの女の人に触って痴漢騒ぎよ。」

 昨夜、娘が遅い夏休みをとって帰ってきた。私は駅前に寄り合いがあって、いつになく酒の量がいき、妻が娘を迎えに出た時間に合わせて、席を辞して駅まで歩いた。改札口のある跨線橋を超えているとき、改札口から若い女性が出てきたが、視野の隅でちょっと捕らえただけで気にもせず歩き続けた。気がつくとその女性が私の横をつかず離れずに歩いている。階段を下りるとき彼女が少し前に出たので仔細に観察したら、見覚えのある後姿。声を掛けたら紛れも無く私の娘だった。私がちらりと彼女を見たので、もうすっかり気づいていると思い、ついて歩いたという。

 それほどに酔っていたので、家に帰ると娘の話もあまり聞けずソファーで転寝。

 妻が紫蘇ジュースをもってきたのでごくごく飲んだ。そのあともういっぱいくれというつもりで、つい、妻の胸をわしづかみにした。

 娘の目を気にした妻はとても驚き、私の頭を平手で5発もペチャペチャたたいた。娘が何を見て何を思ったかは知らない。

 妻と娘はその後食堂に移動して、半年振りの話題をごちゃごちゃ話しこんでいる。私はしばらくまどろみ、寝室に移動した。

妻と娘に声を掛けたがなにやら生返事が帰ってきただけだった。

苦しみと悲しみ

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人を好きになったり愛したりすることが、誰かを苦しめたり悲しませたり時にはその人々に憎しみを持たせたりするということと分かちがたく結びついているのは、私たちが必ず他者の命を糧として生きているようなものなのだろうかと思うことがある。


時にはそれが命あるものの一部であったことを見ないようにして食べ、時には狩や漁のように、自ら喜びを持ってその命を捕らえ、勝鬨さえ上げる。


金子みすずはいわしの大漁の景色を「海の中では何万のとむらいが…」とうたった。しかし、私に「食べられる魚はかわいそう」ともうたいながら魚を食べないわけにはいかなかった。


切ないのは、愛し合う二人が苦しむことではなく、なすすべもなく悲しみ苦しむ人がこの情景では必ず必要とされていることだ。


それでも恋や愛を誰も否定できない。