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最近情報

テーマ:ブログ
2010-12-04 15:49:07

最近思う事


最近、わが人生において最も大きなプロジェクトに時間を取られ、ブログを書く暇がなかなかみつからない。


何をはじめたかとというと、外国の航空会社を日本に持ち込み、その総代理店として、航空会社に近い事を

開始したのである。


この年になってやめればと再三思ったのがだ、なかなか相手側との交渉等で時間を取られ、思いついたら

もう足を抜けないところまで来てしまった。


こうなれば、腹をすえて、この巨大なプロジェクトを成功に導かねばならない今日この頃である。


B767-300ERという250名乗りの大型航空機を、週、6本、世界遺産のあるアンコールワットに3本、バリ島に

3本、年間で運航するのである。

旅行業界でこのようなびっくりする大型プロジェクトを試みるのはわが社が初めてである。


他人様はこの業界の先駆者となって欲しいというが、多分、この業務はやった本人とそれを助けてくれる

社員等しかわからないほど、大変である。


お蔭様で、大手旅行会社を始め19社程度がこのプロジェクトに賛成して販売協力をしてくれているが、

ここにくるまで、1年間この新規事業に全ての手足、頭も取られ、全く余裕が無い毎日を過ごしてきた。


何とか、関係官庁の申請事項も殆ど済み、後は飛び立つところまで来ているが、何せ、旅行会社とは違い、

航空機のパーツのように、多岐にわたって多くの人々と交渉が必要である。名詞は沢山たまってゆくが、

それと並行して毎日がストレスの真っ只中。


願わくば、のびのびになった、初便が就航する事を希望しながら筆を置く。

この次、ブログを書く時は、多分就航便が成田から飛び立った時でしょう。

一生一大の大事業とはこのことか?


暫く、ブログもかけないかもしれないので、その時は”ビジネスエアー”の項目で私野動きを推察して欲しい。


Life is too short, you had better to use your knowledge until last minute of this world.

Nothing is left for the persons who lost " dream ".

Until you finish your life, keep a big hope with you.

Nobody knows what happes at next few seconds.



「山内一豊」の呼称は「やまのうちかずとよ」と考える

テーマ:ブログ
2010-10-10 22:39:30

第68回

外国人からよく「お前には侍スピッリットがある」と言われる。

そうかもしれない。私には何か祖先のDNAが流れているような気がする。何を隠そう、私は某TV局で放映された「山内一豊」の家系である。


記憶に新しいと思うが、数年前大河ドラマ「千代と一豊」が放映された時、「山内一豊」は「やまうちかずとよ」と呼ばれてた。

我が家に残っている、家系図によれば、一豊の父である「山内盛豊」から「山内一豊」に実線が引かれ、さらに「一豊」から当家の初代「山内家」に実線が引かれている。 しかも、「山内」は当初から「やまのうち」と呼ばれてきたとある。

これまで、歴史書等において、山内一豊は「やまのうちかずとよ」と呼ばれていたが、某TV局の大河ドラマでは、突然「やまうちかずとよ」と呼称されるようになった。我が家の記録によれば、「一豊」が掛川城に転封された同時期から310年以上も、当家の祖先が掛川に居住していたと我が家の記録にある。

さらに、その記録によれば、鎌倉時代、行基の作による「観世音大菩薩」が我が家に残されており、これは「一豊」自身の守り本尊であったと記載されている。当時、掛川で居住していた我が家までは「殿道」があったと記録が残っている。 これからして、当時の掛川城は「政務所」として使用、掛川城と我が家を、馬又は輿で行き来したのではないかと考える。

もともと、「やまのうち」の祖先は藤原家の流れであり、鎌倉市には、当時広大な山ノ内庄があった、そして今日でも「山内町」として、その名が残されている。

掛川城主になる以前、織田家の軍記にも、山内盛豊、一豊親子は「山内」と周囲から呼ばれていたと書かれている。これは当時も「山内」という漢字を「やまのうち」と呼べず、「」を入れた記録である。 近江時代から、掛川城主時代においても「一豊」は「やまのうち」と呼ばれていた。

それが、土佐に転封後、突然、何らかの理由で「やまのうち」という呼称は「やまうち」に変わった。歴史の流れに従えば「やまのうち」が本来の呼び方と考える。「やまうち一豊」と呼ぶのはおかしいと考えた私は大河ドラムを放映中のTV局に抗議の手紙を再三、出し、呼称の変更をお願いした。

TV局によれば大河ドラマ放映にあたって、豊臣秀吉の側室、(淀君)の待女が「山内一豊」を「やまうちかずとよ」と仮名で残した理由で「やまうち」と呼ぶことにしたという事であったが、この解釈には納得し難い。なぜなら、100名に「山内」という漢字をどう読むかと聞けば、異口同音に「やまうち」と返ってくる、誰一人として「やまのうち」とは呼ばない。

土佐藩の流れをくむ、「山内」家は「やまうち」と呼んでいるが、これは一豊の死後、「寛政」年間に、山内家の家臣が幕府に「山内」を「やまうち」と提出したからと伝えられている。

「一豊」は、土佐に転封されるに当たり、万一の場合を考え、掛川に最も身近の者を残したと伝えられている。しかし、武士の身分で残せば、幕府より「謀反の疑い」をかかられる為、自分の血を分けた者の存在をあえて隠し、出家、僧侶の身分として掛川に残したのではなかろうか。

我が家の家系図で、4代目の長男を祖先とする、当家の流れを汲む「山内」家が掛川に居住している。 掛川ではこの場所は「山内の本流が住んでいた所」と言い伝えられている。我が家の邸宅があった頃は、「高森山」という山が存在、ここに邸宅があったと記録にあるが、今日では、住宅地として開拓され、当時の面影は全てなくなってしまった。

当家に残された「一豊」自身の守り本尊が当家の邸宅に残されたいた事など、歴史に書かれている事実とは異なった現実が当時存在していたのではなかろうか。

安政年間に掛川では、大きな地震が起こり、掛川城は大火で消失、調度品はもとより、それまで、「やまのうち」家に残る詳細なる書類、記録等を殆どなくなったとある。

我が家の記録によれば、この大火で史実の多くを亡くした事が残念で仕方ない、何とか、後世にその真実を伝える為、書き残すと記録にあった。

このような事実からして、掛川城主時代、現在、一般に伝えられている、伝説とは違った「一豊」の一面があったのではないかと考える。何らかの真実が歴史の裏に故意に埋没されてしまったのではなかろうか。

掛川では大河ドラマが開始される前に「山内一豊は今後、「やまのうちかずとよ」ではなく「やまうちかずとよ」と呼称を統一するようにという通達があったと、ある市の職員から直接聞いた。今でも、何らかの圧力が働いたのではないかと考える。

新しい世界、ワールドカップへ

テーマ:ブログ
2010-10-02 10:47:02

67

これまで、色々な外国人とのつきあいでゆるぎない信頼関係を構築してきた。

その中でももっとも親しい関係にあった一人がフィファ公認の会社社長であった。当初は彼がフィファ

の中枢部と強い関係にあることは知る由もなかった。

1998年、フランスのワールドカップで、日本の旅行会社は、どこも見るも無残な状況であった。約束されたチケットが大幅に不足するという事態が起こったのである。

わが社も、フランスワールドカップで1000名程度の宿泊とチケットを取り扱った。しかし、弊社は

1枚の事故も無く、約束されたチケットが日本に届いた。チケットには全てフィファ公認のマークが入った市販されていない、プラチナチケットであった。チケットを某大手業者に見せた時、まだどこにも入場券は手元に届いていないと驚いていた。

日本の多くの旅行会社が大変な状況になっているというニュースは、会社にいる時、突然、友人から連絡が入ってきた、複数の大手旅行会社が報道関係に向けて、チケットが入手できなかった事を今、テレビ会談行っているとの連絡であった。



その直後、テレビ局の報道社員が3名突然、事務所に訪れてきた。聞くと成田で、取材しているうちに、お客が弊社取扱のチケットを持って、搭乗口に向かったのを目撃したという。

彼らは、会社に着くなり、突然、私にカメラを向け、色々な事を聞き始めた、私は「同業他社がめちゃくちゃになっている時、弊社だけ、全員、無事故でチケットが入手できた」などを口にする事は出来ない、と頑強に取材を拒否した。

2002年には「日韓共催のワールドカップ」を取り扱う事が出来た、メキシコ、アルゼンチン、スエーデン、アメリカ等から1000名近い外国人招待旅行客を取り扱ったのである。宿泊施設が大幅に不足した状況で、この大型団体を受け入れるには大変な苦労をした。何とか、プリンスホテル、ワシントンホテル、京王ホテル等に大型団体を受けいれるだけの部屋数を確保した。

優勝戦は横浜スタジアムでドイツとブラジルの戦いであったが、ドイツとブラジルのサポーターが赤坂プリンスホテルに宿泊した。そして、優勝戦当日は15台の貸切バスを横浜に連ねた。

ブラジルが優勝したが、ホテルに帰ってきたブラジルサポーター達の喜びと、反対にドイツ落ち込みは大変であった。優勝戦の前日、突然チャーターで来日したグループであった。

2006年「ドイツワールドカップ」では、フランクフルトのホテル9,000室の宿泊とそれに伴う3000という大口の入場券を確保する事が出来た。この大事業はおそらく、これが世界で最初の快挙であり、又、世界で最後であると思う。このような快挙が出来たのは、海外公認会社の社長のおかげであったと感謝し、“人の信用”というものがいかに重要であるかを痛感した。  つづく

自分への戒め

信頼を築く事の重要性をこれほど感じた事は無い。特に、外国人は一旦、信用すると、口コミでその友人につながってゆく、そして、又、そこから新しいビジネスが始まる。信頼を勝ち得る事の重要性、再度認識せよ。



http://www.sunworldtours.co.jp


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