スリランカはインドの下にあるちーさな島です。


「輝ける島」という意味からスリランカという名前がついています。


そこに私は去年、「植林ボランティア」という名目で

行きました。


町で走るバスはすべて日本車。


ものすごくふるいもので、「横浜スイミングスクール」

なんて書いてあるバスもあるんですねー。


周りを見れば「木」。


しょ、植林・・・か。


っとしかし現地の方から説明が。


「緑に見えるのはほとんどが紅茶畑やココナツ園デス。

特に多いのが住民による無許可の薪採取デス。

また住民たちの焼け畑農業は現在禁止していますが、未だに

取り締まりに苦しんでイマス。」


へぇー。セイロンティーと住民によって木がなくなりつつ

あるのね。ほー。


と思っていつつ、植林1週間スタート。

(真ん中の白い小さいのが私たち。木いっぱいだよね・・・

 でもどんどん木がなくなっている。

 ちなみに、日本は植林できないらしい。

 なぜかって?重度の環境破壊が進んだからです。

 もう戻らないとのことです。)


もう8回くらい参加しているベテランもいれば、

私のように今回初めてもいる。


団体の中に俺より少し若いくらいの男性一人。


男性は

「植林って何本植えられるんですか。

 それって意味あるんですか。

少ない本数植えてもぜんぜん意味無いんじゃないんですか。

 どうせなら行ってホテルじゃなく現地の人の家に泊まりたいし。

 自分で穴掘って埋めたほうがいいし。


ムカっ。


何しに来たんだよー。


そう思いつつも私は現地の小学生と

「木を植える」ことに没頭した。


時間はすぐ過ぎて、いつも帰るのがいやだなぁって

思った。

最初はどうやったら話せないシンハラ語を

あれこれ使って仲良くなれるかに夢中で木を植えた。


しかし、

4日目。

毎晩欠かさずつけていた日記にこう書いてある。(ほんとに抜粋)

「ボランティアとは?植林活動とは?

 正直ボランティアじゃないような気がする。

 小学生とかとの交流を含めた

 ”植林活動を通しての文化交流”なんじゃないかな。

 だって、奉仕してる気はまったく感じないしね。

俺の捉え方の問題なんかなぁ。

ボランティアかなあ。違うと思うんだけどなぁ。


5日目

排気ガスを出しながら走る日本車のバス。

数本しか植えられない植林活動。

日本が汚してるんじゃないのかな。


日記にはこんなこと書いてある。

「人の振り見てわがふり直せ」


最終日

「植林ボランティア」を通して感じたことを

チームでまとめる。で、発表する。


私はチームに4日目に書いた日記を元に

もやもやしていた思いのたけをついに


ぶつけた。


こんな答えが返ってきた。

「植林の意味を考えたら大変よ。

 植えた後誰が管理するとか、

 こんな数本植林して意味あるのかとか。

 

 でもさ、植えたじゃん。

 

 で、子供たちがさ、あとがんばって育てます

 って言ってたよね。

 ジャガットさん(環境保全財団法人オイスカのスリランカ支部の方)が

 管理しますって言ってたからさ、

 

 信じようよ。


 植林という活動自体をその人、その子供に

してあげる、一緒にするってことが一番大切だと思うよ。」



一週間色々考えてきて、論理的に考えようと

してたけど、なんか飲み込めた。


わかんない、もやもやしてても飲み込めた。


そう信じたかったのかな。




ポイ捨て、

環境問題への取り組みをテーマにした番組、

はてはap bank band。


自分たちが汚したって誰もがわかってるんだよね。


それでも、それでも、ほっとかないんだよね。



どこまでがボランティアでどこまでが偽善かは

私の手では引けないみたいです。



もやもやを抱えてもなお、

やらなきゃいけない、木を植えるということを

知らない子供たちに教えなきゃいけない、


って思ってやった。



みんな同じ思いを1週間抱えて、

みんなで話した。



論理的に、これがこうだから、これでこう、

ボランティアの定義はこれで・・・


ってうまくいえないけど、


マザーテレサの

「やさしさの反対は、無関心です。」

が心に響きます。





ジャガットさん、元気ですか。


ときどきメールしてますけど。


私があげた電気ブランはおいしかったかな。


またジャガットさん、メールしますね。