『中世の人間』J・ル・ゴフ編から[21]


○芸術家


(1)歴史的な問題点

 A.現代人が中世をイメージするにあたって、多種多様な建築物・芸術作品(例:彫刻,モザイクor多彩なステンドグラス,金銀細工,極彩色の書物,象牙彫刻,青銅製の大扉,七宝,壁画,タペストリー,刺繍,玉虫色のユニークなデザインの布・織物,金地に描かれた絵などで満ちた教会堂の白壁)にあたることができる。しかし一方では、ごくわずかの芸術家の名前しか挙げられない
 B.この現象について、近代芸術家の自己中・虚栄心を嘆くために「中世の工芸家の献身・謙譲・徳性」を持ち上げ、さらに「中世の人間は神の報いしか願わず、名前の顕示を嫌い、慎ましく無名のままで満足し、ただ信仰を高めようとする集団での努力に参加したいだけだった」とする見解があった
 C.実際には、上記B.のロマン派的見解が現実と異なっていることを示す事例は数多く見られる
〈例〉多くの作品の作者名が判らなくとも、保存されている中世芸術家の名前・署名は多い。さらに「中世の芸術家にしっかりとした自尊心が存在し、名声が無名と対立していた」ことが多く証言されている
 D.だからといって、中世芸術家がいかに自尊心・誇りを示していたとしても、彼らが一般的に謙譲さを備えていたことをハッキリと否定することはできない。中世芸術家の態度は「多くの点でそれ以前orその後な芸術家とはかけ離れている」という

【古代の芸術家(中世との比較)】
 E.古代の芸術家の「身分,職人身分との違い,社会的地位,経済事情,処遇」についての共通した見解はまだ得られていない。「a.芸術家が一般にどの程度評価されていたのか」「b.反対にどれほど卑しい者と見なされていたのか」「c.多くの芸術家の署名は現存しているが、陶工の署名にはどんな意味があったのか(署名は自尊心の証拠?コピーライト?)」
 F.古代の多くの史料は、芸術家の名前を伝えて序列化し、ある芸術家には特に賛辞を送っている。しかしプルタルコスの『ペリクレス伝』では「芸術家になりたいと思うような若者は良家にはいない」とされている
 ⇒「古代」として一緒くたにされる長い長い期間を通じて、芸術家の地位に対する統一した評価などは存在しない。時代・地域ごとに状況は大いに異なっている(例:紀元前5世紀のアテナイで仕事をした芸術家と、紀元前4世紀のアレクサンドロスの宮廷で仕事をした芸術家の違い)。もちろんギリシアとローマとの違いなどもある


(2)古代から中世へ

 A.古代世界の芸術家の状況以上に、中世の芸術家については曖昧だった。それは「中世が1000年にもわたっていること(そこには深い多様性がある)」「調査が古代世界ほど進んでいないこと」が理由
 B.古代世界の危機によって状況が変化した。趣味の高い裕福な収集家が消えたせいで、古い重要な中心地(芸術においても中心だった)では作品制作がほとんど止まった。別の土地では、かなり規模が縮小しながらも継続したが、発注者とその身分は変わった
 C.芸術作品の機能・概念も相当変化した。絵は「現世のことを対象とする,異教文化に関係する,偶像崇拝の疑いがある」限り、相当な憎悪が生じた。そして次第に「キリスト教とその使命,贖罪と救済の計画を伝える」ことに奉仕するようになり、さらに「文盲にとっての読み物の代わり」と見なされた(教皇グレゴリウス1世の言葉より)
 D.中世では「絵を見るより読書の方が高尚・高級な活動」であり、当然「絵を描く人よりも文字を書く人の方が尊重された」。そして一般的に「手仕事に従事している人は見下された」
 E.しかし手工芸を擁護する意見もあった。プロティノスは著書『エンネアデス』において芸術家を擁護した(3世紀)。彼の思想は中世文化に影響を与え、芸術活動に対する特別の敬意を生んだ


(3)芸術家への評価をみる

 A.中世の文献史料には、現在の「芸術家」に相当する言葉はなく、'artefices' は職人と芸術家を表した。だから『ベレンガリウスは見事なarteficesだった』という記述(1050年頃:シャルトル大聖堂の過去帳)からは、彼がどのような「芸術家」として腕を振るったかは分からない
 ☆ベレンガリウスは、火災(1020年)後に大聖堂の修復を監督した建築家だったようだ
 B.芸術家という言い方がときには文献史料に登場するが、これは(現在の手工芸に関係する者ではなく)「自由学芸:文法学・修辞学・論理学の3学、および算術・幾何・天文学・音楽の4科」を研究or実践している者のことだった。「特殊な技能を有する人」という意味を与えられるのは遅かった(13世紀末)

【芸術家への評価】
 C.建築家は芸術分野の中でも格別に評価されていた。しかし言葉が示す意味は多様であり「設計と現場監督(古代~カロリング期)」「石工であり設計者(7~13世紀)」「建築家=建設者(理論的活動・設計の仕上げよりも現場活動を優位とみなす)」などであった
 D.諸技術の境界は越えることができたから、多芸に秀でた芸術家が史料に登場する。他方では「金細工師やガラス細工師の地位は高い」(理由は単純-難しい技術に長じているから)。また、若干の画家が激賞されている
〈例1〉ジョヴァンニ:オットー3世によりイタリアからアーヘンへと招かれた画家
〈例2〉ロンバルディア人ニヴァルドゥス:修道院長ゴスラン(ユーグ・カペーの庶子で、豪勢な発注者として知られた)からフルーリ修道院(サン‐ブノワ‐シュール‐ロワール)で仕事をするよう頼まれた
 E.芸術家が文学作品の登場人物として最初に現れたのはトスカーナ地方(14世紀初~)だが、これは極めて先進的なエピソード。中世の芸術家について調べるには普通、諸々の史料(修道院・司教の年代記,大修道院・大聖堂の過去帳,司教と修道院長の書簡)が用いられる
 ☆芸術家の名を伝えるものには、他には署名・銘や証書(支払い,契約,組合資格に関するもの)がある

【建築家に対する2つのイメージ】
1.「ランフレドゥスという名の建築家は当時(12世紀?)、フランスでどんな建築家にも優るという称賛を受けていた。しかし彼はノルマンディーのイヴリー城の塔を建てた後で首をはねられた。それは『彼が同じような塔を2度と他所で建てられないようにするため』だという」
2.「ある有名な『石彫り師』が、自分の設計に文句をつけた修道院長に向かって答えた-『私の設計がお気に召さないなら、他の職人を探していただきたい』」

【署名】
 F.中世初期にはなぜか芸術家の署名が消滅した(例外:硬貨に刻まれた彫刻家の署名)が、復活するのは伝統豊かなイタリアにおいてだった。芸術家は基本的に、図式として「発注者と並んで鑿と槌を振るっている姿」を彫りたかった
〈例〉ウルスス・マギステル:
1.「弟子のユヴェンティノとユヴィアノとともに、サン・ジョルジオ教会堂(ヴァルポリチェラ地方)の聖体容器に署名を残している」(712年)
2.「フェレンティロ修道院(テルニの近く)内の祭壇の正面にもこの銘が見られる。これは発注者ヒルデリクス・ダギレオバ(おそらくスポレート公イルデリック:739年)の記述で署名が許されたようだ」
 G.「マギステル」という言葉から想定されるのは、彼は「大勢の者(見習い・各種の手伝いまで含む)で構成されるチームを統率していた」ということ

【聖エロアの場合】
 H.聖エロアは「偉大な金細工師,硬貨製作者,メロヴィング宮廷の重要人物,ノワイヨン司教」であったが、彼の伝記には芸術活動は特別には扱われていない。伝記作家の意図は「物質的な手仕事よりも知的な仕事の方が優れている」という点にある
 I.伝記では、エロアの芸術面での才能・深い信仰心だけでなく、彼の社会的地位と威厳を示そうとしている。そのため「彼の芸術の技量を感激しながら」語り、さらに「金銀細工作品,彼の敬虔さ,慈愛の深さ,君主たちとの親密さ」「貴族に相応しい長い指,豪華な衣装」にも触れている


(4)金銀細工師について

【著名な金銀細工師】
 A.彼らの社会的地位は、技術的難易度ゆえに高かった。ミラノの聖アンブロシウスの金の祭壇を見ると、製作者ウォルウィヌスは作品に署名している。さらに「発注者(大司教アンギルベルト2世)が聖アンブロシウスから戴冠される」のと同じように「発注者自身が聖アンブロシウスから戴冠される」様子を表現している
 B.ただし大司教の方は、聖者の前に祭壇を捧げながら跪く時「頭部に四角い光輪」が見えているのに対して、製作者の方は「光輪はなく手は何もしていないので、跪く姿がいっそうハッキリと描きだされている」という違いがある
 ★中世では芸術家と発注者との関係は(当然ながら)同等ではない。発注者が「より高い身分で、経済力があり、教養において芸術家を圧倒している」ほど、芸術家の地位は引き下げられた
 C.著名な金銀細工師アデルレムスは貴族出身の聖職者であり、クレルモンの大聖堂(※現在の大聖堂の前のものを指すようだ)を設計し「石・金の細工に優れていて、過去の芸術家の中で最高と知られていた」「クレルモンの有名な聖遺物箱は彼の作であり(当時復興しつつあった)彫刻の手本となった」人物である(10世紀)
 D.聖ダンスタンも聖職者であり、修道院改革者にして政治家だった。さらに「ハープにも歌にも優れた」「彫刻家・金細工師・青銅鋳造師・画家・達筆家だった」。亡くなる時にはカンタベリーの大司教を務めていた

【金銀細工】
 E.何世紀にもわたり「金銀細工」は、中世芸術の偉大な技巧の1つだった。優れた芸術家たちは技術を試み、それは彼らにとって最重要な仕事であり、最も先進的な挑戦となった。「芸術作品はその素材より優れている」と繰り返し言われた(しかしこの考えとは矛盾することも多い…下記参照)
 F.金銀細工の作品は「発注者から神へ・聖母マリアへ・守護聖人へ捧げる最高の表敬」と考えられた(経済的な価値,その輝き,そこで読み取れる多くの聖書的内容に意味があった)ので、発注者は最も優れた金銀細工師に頼まざるを得なかった
 G.芸術作品に実際の費用が銘記されている事例もある。さらにいかに立派な芸術家による作品であっても、必要に迫られると作品を溶かして金属材料の現金価値だけが求められた(芸術作品は一種の貯蓄となった)
〈金額を銘記した例〉
 マインツ大聖堂の十字架には「金600リーヴルが使われた」と銘記されている。スタブロ大修道院長ヴィボーが発注した(1148年)祭壇には、使われた金銀の費用と制作費が銘記された

【ムーズ川流域地方の金属工業】
 H.この地方では、大商業地の発展(12世紀初)に伴って、金属の溶解技術・金銀細工技術が目覚ましく発達し、工芸活動が盛んになった。そこで活動した代表的な人々は、顕著な役割を果たし、技術に対する評判が高かった
〈例1〉
 サン・バルテルミー教会(リエージュ)の青銅洗礼盤(1118年)の製作者ルニエ・ド・ユイは都市貴族階級に属していた。彼はリエージュ司教に奉仕していた(※家人出身)ようだ
〈例2〉
 皇帝ハインリヒ3世が作らせた「聖セルウィツィオの聖遺物箱」の作者が発注者の怒りを買ってしまい、作者(=皇帝お抱えの金銀細工師たち)は投獄された(聖遺物箱は聖者の目を宝石で作っていたが、それが斜視になっていた)。ところが夜中に聖セルウィツィオが皇帝の前に現れ「作者たちは、自分が神から与えられた通りの姿を表現したのだ」と証言した→この奇蹟のおかげで作者たちは釈放された
〈例3〉
 サン・ドニ大修道院長シュジェールは、この修道院の部分的再建(1140年頃)のために6・7名の金銀細工師を修道院に呼んで仕事を依頼した(ステンドグラス,金銀細工,彫刻,青銅の扉)。シュジェールはこれら作品について素晴らしさを伝えるが、作者の名前には全く触れていない(作品の銘にはシュジェールの名を残している)
 I.シュジェールは芸術家の人格を全く考慮しなかったが、それとは反対に「金銀細工師と発注者が特に親密な関係を保っていた」きわめて特異な証言も伝わっている。スタヴロ修道院長ヴィボーと、偉大な金銀細工師ゴトフロワ・ド・ユイ(と推測される)の書簡(1147年):
 ☆「修道院長は他の仕事を断って自分の依頼に専念してくれるよう、金銀細工師に要請している」のに対して、金銀細工師は「自分の財政的窮状を訴える」一方で、勢力ある修道院長の催促に「修辞学的技巧・皮肉・洗練された文学的教養でもって」答えている
 J.ゴトフロワ・ド・ユイに関して、ヌフムスティエ大修道院(彼が名誉役員を務めていた)の過去帳には、貴重な聖遺物箱の寄贈者として「当代、比類無き金銀細工師」と記されている。リエージュ司教たちの伝記(13世紀)では「金銀細工の巨匠」「古今東西を問わず最高で、最も優れ、最も巧み」と評されている
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