雪 ブログにお立寄り頂きありがとうございます わんわん


星私のブログ記事内容

皆様に少しでもお役に立てればとの思いで考え方の記事に

する様心がけております。

又、心の琴線に触れる記事に書ければとの思いでいます。さくらんぼ

星シンジアイアイとは

知りたい方は【こちらへ】 をクリックして下さい。


星 認知行動療法 おひつじ座

出来ごとに対する解釈(考え方)によって、感情の表出が

違って来ます。

考え方に着目した心理学が認知行動療法であり、自分の

考え方を知ることが、貴方とってプラスになるのではないで

しょうか。


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  • 20 Aug
    • 時間を下さい。

      ブログのUPを止めてから二カ月間が過ぎたにも関わらず少人数の方が『お気に入り』で訪問して頂いていることに対して、本当にありがたいと思います。 訪問を頂いている方に感謝し、何か感謝の気持ちを表さなければとの思いに至っていますが、以前の様に毎週 記事のUPが出来ない状況には変わりありません。毎週を隔週又は毎月のUPに変えたところで定期的にUPできる自信を持てる状況ではなくその点は申し訳なく思うところです。 不定期でも良いから、感謝の気持ちを表せないかと考えています。ただ『考え方』には拘った記事にはしたいとの思いは変わりません。 話は変わりますが、現在 リオでオリンピックが開催されており、いよいよ閉会式を迎える時期に来ました。 そして、女子レスリングの吉田さん銀メダルで終わってしまいましたが、彼女が担った責任感は、猛台風の暴風が来ても、ビクともしない重責だったのだと思います。 その点、私の担っている責任感は、吉田さんの責任感と比べれば、そよ風で飛んでしまいそうな責任感でしかないと思います。 そんな そよ風で飛ぶような責任感で悩んでいる自分のスケールの小ささに自分でも情けないないとは思います。 情けない自分でも、現実の自分なのだから受け入れるしかないと思っています。もし、情けない自分を受け入れなかったら自分の存在価値は無くなるとことになる。 そんな思いを強く持っています。 少し 話は逸れてしまいましたが、ブログのUP について、今後どのようにすべきかを決めかねています。訪問されている方には 大変申し訳ないと思いますが、時間を下さい。  ブログに対する思いシンジアイアイへと  

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  • 05 Jun
    • ブログへの思い(3)

      ブログ記事にお立寄り頂き有難うございます。 皆様に少しでもお役に立てればとの思いより 考え方に関する記事をUPして来ました。 前回の約束通り、詩の紹介を行います。 大きな事を成し遂げる為に力を与えて欲しいと 神に求めたのに 謙遜を学ぶようにと弱さを 授かった。 より偉大なことが出来るように健康を求めたのに よりよきことが出来る様にと病弱を与えられた。 幸せになろうとして富を求めたのに 賢明であるようにと貧困を授かった。 世の人の称賛を得ようとして成功を求めたのに 得意にならないようにと失敗を授かった。 人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに あらゆることを喜べるようにと生命を授かった。 求めたものは一つとして与えられなかったが 願いはすべて聞き届けられた。 上記詩は、家内の友達の御主人の言葉です。 それでは、しばらくの間ブログUPのお休みを 頂きます。 ブログに対する思い シンジアイアイへと

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      テーマ:
  • 29 May
    • ブログへの思い(2)

      ブログ記事にお立寄り頂き有難うございます。 皆様に少しでもお役に立てればとの思いより 考え方に関する記事をUPして来ました。 前回の記事で、今後のブログをどうするかに ついて1週間考えて来ましたが、結論が出せ なかった為、当分の間ブログUPを休ませて 頂きます。 但し、ある詩を紹介したいので、次回のUP 後にお休みを頂きます。 今後の対応については、しばらく考えてみたいと 思います。 楽しみにされていた方には申し訳ないと 思いますがご容赦下さい。 尚 私に聞いてみたいことがありましたら ブログにコメント頂ければ、私の個人メール をお知らせを行う等の対応したいと思います。 1週間に1回の割合で、自分のブログ確認を 実施することで対応します。 ブログに対する思い シンジアイアイへと

      テーマ:
  • 22 May
    • ブログへの思い

      ブログ記事にお立寄り頂き有難うございます。 皆様に少しでもお役に立てればとの思いより 考え方に関する記事をUPして来ました。 後1ヶ月後に、ブログのUP始めてから7年目を 迎えます。これまでの活動は事前に下書きを行い 話の内容に応じて順番にブログにUPする方法で 遣ってきました。 しかし この2か月間と言うもの、下書きさえ 作成することが出来ない状況になりました。 この2か月間悩んだ末、今までと違う方法での アプローチが必要なのではとの考える様に なってきたのです。 その為にも“ブログの在り方を変えなければ ならない時期に来ている”のではないかとの 思いがしています。 しかし どの様に変えるか悩んでいます。 もう少し考えたいと思います。 話を変わりますが 私がブログを始める様になったのは カウンセリングの勉強を始めたことが キッカケでした。 ブログを始めた時の思いは 『読む人に“シンジアイアイ”になって頂ける様 願いこめて』始めたものです。 そしてブログをUPするために、常に心掛けていた ことは下記の2つです。 ① 困っている人に届いているか? ② 小さくても良いから立ち直るキッカケに なっているのか? 上記2つのことを考え、文章を作成しては 確認を行い、この文章を通して何を 『言いたかったのか』を 意識しながら続けてきました。 ブログのUPを初めて頃は、自分の言いたい ことを紹介していました。 しかし 年数を重ねるごとに、本当にこんなことを 記事にして紹介しても良いのだろうか? 疑問を持つようになり、何のためのブログなのか 考える様になってきました。 そして ブログをUPする毎に、 本当に困っている人の心に何かを残せた だろうか? 本当は何も届いてはいないのではないか? そんな疑心暗鬼の状態で、今日までUPして これたことが不思議でもあります。 以上の様なことを考えながら、今後のブログ をどうするか考えたいと思います。 ブログに対する思い シンジアイアイへと

      テーマ:
  • 15 May
    • 居場所(4)

      ブログ記事にお立寄り頂き有難うございます。 皆様に少しでもお役に立てればとの思いより 考え方に関する記事をUPしております。 前回の記事で“自分は自分、相手は相手” と分けて考える習慣をつけることも大切との 紹介を行いました。 そこで 少し考えて頂きたいのは 自分は自分、相手は相手 と分けて考える ことですが、その分け方として 他人との関係 では 理解しやすいと思いますが、身内 特に子供に対して混同される場合が多いのでは ないでしょうか。 例えば 両親が子供の教育に熱心な場合、子供の ためにと言いながら“両親の老後考えて いる”場合などです。 要は 両親が得する場合なのです。 子供にすれば、両親の老後の為の存在で しかなくなり、言い換えれば“子供の為” になっていないことです。 子供を通して、両親の将来の課題の 解決を図ろうとしてすることは子供の 課題になっていないことです。 それは 間接的に両親の課題を解決 しようしているだけのことになりませんか? “この課題を解決することは誰が得する” の誰が得するには“課題を解決する人が 得をしていますか”ということを 示しており間接的に得する人では 無いことを理解ください。 子供の勉強は、子供の課題であり 両親の課題ではないのです。 更に考えて頂きたいのは、勉強することは 子供の課題であることです。 何故勉強を行うかは、子供に決めさせる ことでは無いでしょうか。 但し 勘違いしないでください。 子供に勉強をさせなくて良いいうことでは ありません。 何故勉強が必要なのかを両親として 説明し理解を得ることは必要と思います。 でも 決定は子供に任せることではないで しょうか。 自分の居場所は、自ら創るしかなく その為のも 自分の課題、相手の課題 を分けて 考えることも大切な一つの方法では ないでしょうか。 ブログに対する思い シンジアイアイへと

      テーマ:
  • 08 May
    • 居場所(3)

      ブログ記事にお立寄り頂き有難うございます。 皆様に少しでもお役に立てればとの思いより 考え方に関する記事をUPしております。 前回の記事で“相手の課題を自分の課題として 捉えないことも大切”との紹介を行いました。 相手の課題を自分の課題として捉えることは 相手の行動や考え方を、自分に合わせようと する(相手をコントロール)ことに他ならない ことになります。 相手をコントロールしようとすれば、全てが 自分の思い通りにはならないどころか かえって反感をさせることにもなります。 その為 自分がストレスを抱えることになり それが イラダチとなり自分を見失う 行為へと繋がっていくことになるのでは ないでしょうか。 そのことが、結果的に“自分の居場所が 無い”との思いにつながると考えます。 自分の居場所を創るためにも、相手の 課題は相手にあり、自分の課題では ないと考えることです。 その為には 以下の様に考えて見ては いかがでしょうか。 “この課題を解決したら誰が得するの” 自分が得することが無ければ “相手の課題”と判断すれば良いと 思います。 それでも、相手にもの申したい時は 次の様に対応することも一つの 手段ではないでしょうか。 私だったら、貴方の今の課題に対して ○○の様な対応する。その理由は ◆◆だから、私の意見を参考に 後は貴方が決めて下さい。 そして、相手が決めるまで待つしか ないと思います。 そして その後は、相手が何かを 言ってくるまで“何もしない”ことが 大切な場合もあるのではないでしょうか。 自分自身が落ち着いた対応することが 相手の居場所を創ることに繋がる 場合もあるのではないでしょうか。 自分の居場所は自分で創る。 その為には 相手に冷たいと思われても “自分は自分、相手は相手”と分けて 考える習慣をつけることも大切では ないでしょうか。 ブログに対する思い シンジアイアイへと

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      テーマ:
  • 01 May
    • 居場所(2)

      ブログ記事にお立寄り頂き有難うございます。 皆様に少しでもお役に立てればとの思いより 考え方に関する記事をUPしております。 前回の記事で“自分の居場所を創る”に ついて考えて下さいとのお願いを致しました。 私は次の様に考えています。 自分の居場所は“自ら動いて創るしかない” と考えています。 例えるなら 家が欲しいと願っても、願うだけでは 家を持つことが出来ません。 家を持つ為には、現金収入を得ることから 始めなくてはならず、その為には仕事を することになります。 それは時として、自分が遣りたかった 仕事ではなく、遣りたくない仕事を 選ぶ場合もあるのではないでしょうか。 それは“自分の希望する仕事を選ぶ”のか “自分の居場所を得る”かのどちらかの 選択を迫られることになります。 人の人生は時として人に厳しい判断を 迫ることを常としているのではないかと 思えてしまうことがあります。 ただ、どちらを選択するにしても “自分の居場所”を創ることは出来ると 思っています。 その居場所は、仲間であったり、家と云う 場所であったりしますが、どちらも 自分の居場所になると思います。 但し 場所であっても、人とのつながりで あっても、全てが自分の希望する形には ならないとと思います。 何故なら、人は一人一人違う様に、家を 造ることを優先する人と 人との繋がりを 優先する人では考え方が違うからです。 自分の想いを通そうとすると、相手との 想いと衝突し妥協できなくなるからです。 上記でも述べた様に 自分の仕事を優先する人と、家を持つことを 優先する人では、仕事に対する考え方が おのずと違ってきます。 “どちらが正しい”のではなく“どちらも 正しい”のです。それは本人が選択し決めた ことですから。 ですから、相手の問題や課題を自分のこと として捉えず、相手には相手の考えがある から相手に任せるとの思いで、妥協する ことも必要ではないでしょうか。 ブログに対する思い シンジアイアイへと

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      テーマ:
  • 24 Apr
    • 居場所(1)

      ブログ記事にお立寄り頂き有難うございます。皆様に少しでもお役に立てればとの思いより考え方に関する記事をUPしております。 “自分の居場所”について考えたことがありますか? 今 熊本では地震が頻発しており、地震にあわれた方は大変な思いをされていることだと思います。特に自宅を倒壊や土石流で失った方は尚更のことだと思います。 又 家族を失ったことは尚更に心痛な思いになるのではないでしょうか。 自分の住処(居場所)が無くなることは精神的にも非常に辛いものです。 自分の居場所と言っても色々な形があると思います。 自分が住む場所(家や部屋等)もあり家族や地域としての中の一員友達や同じ趣味仲間の一員そして 一人になることでの癒しの場等、現物と心の両面にわたり、多岐に居場所があると思います。 自分が居ても良い場所を持つことがいかに大切かを地震に合われた方は痛感されているのではないかと思います。 そして 地震に合われていない方で自分の居場所が無いと考える方も居るのではないでしょうか。 自分が自分らしくいられる場所は日常生活の中では、意外に見えないもので意識しないと見えてこないものだと思います。 それは“自分の居場所ない”と思う前より先に「『自分の存在価値が無い』と考え込んでしまうのではないでしょうか。 大勢の人たちの中、家族などの少数の中一人の時等に“自分が自分らしく居られる場所”が一つでもあれば、人は精神的にも助かるのではないでしょうか。 自分の居場所をどうすれば創れるかを少し考えて見ては頂けないでしょうか。  ブログに対する思いシンジアイアイへと 

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      テーマ:
  • 17 Apr
    • 自分を許していますか(3)

      ブログ記事にお立寄り頂き有難うございます。 皆様に少しでもお役に立てればとの思いより 考え方に関する記事をUPしております。 前回の記事で『完璧になれない・なりたい』 シーソ状態をどの様に対処しますか? との問いを行いました。 私は以下の様に思います。 『完璧』を求めた努力をするのではなく 『完璧』に近づく努力をすべきではないで しょうか。 『完璧』を求める行為には『完璧な状態』が 前提となります。 『完璧』に近づこうとする行為には『完璧に 対して距離を持つ状態』が前提になり この“距離”が大切になると考えいます。 何故なら、距離が在ると言うことは『完璧な 状態では無い』との意味を持つからです。 少し極端な表現になりますが 『完璧でないのが当たり前で、完璧である方が おかしい』と言っているのと同じです。 『完璧を追い求める』ことは、矛盾を無くす ことに対して戦いを挑むことになり、そのことが 行き詰まり状態に陥り、病むことにつながる のではないでしょうか。 『完璧に近づく』ことは、矛盾と戦うのでは 無く‟矛盾を矛盾として受け止めること”に つながり、矛盾と共生することにつながる のではないでしょうか。 矛盾と共生することは『出来ない自分』を 受け入れることが前提になると考えます。 『出来ない自分』を受け入れるためには 出来ない自分を許さない限り 出来た ことにはならないのではないでしょうか。 今回の記事のまとめとして『共生』とは 『種類の違う生物が互いに利益を交換 しながら一緒に暮らす』ことと辞書に 紹介されています。 矛盾と共生するとは 矛盾を抱えながらも、矛盾に対して、 何らかの対応を進めて行くことを示して いる様に思いますが、貴方はどの様に 思いますか? ブログに対する思い シンジアイアイへと

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      テーマ:
  • 10 Apr
    • 自分を許していますか(2)

      ブログ記事にお立寄り頂き有難うございます。 皆様に少しでもお役に立てればとの思いより 考え方に関する記事をUPしております。 前回の記事で“理想を追い求めることが、 矛盾した状況に陥るのでは”との紹介を 行いました。 より身近な状況として、彼氏(彼女)に 片思いをしていたとします。 その時、彼氏(彼女)に告白すべきか 殆どの人が悩むのではないでしょうか? “告白して断られた”と思う反面“告白を しないと相手に思いが届かない”との 思いが交差し、結局告白できなかった。 そんな経験をされた方もいると思います。 そんな告白できない自分を『自分は駄目な 人間だ』と“自分で自分を責める”ことに なるのではないでしょうか。 仕事の面でも、先輩に『お前は要領が悪い』 等を言われると、自信が無くなり 『自分は駄目な人間だ』と思い込んだ経験が あるのではないでしょうか。 希望を胸に抱えて選択した仕事なのに“ダメ出し” をされる自分が『悔して悔しくて堪らない』との 思いに陥ることになると思います。 恋人もできない、仕事でもダメ出しをされる となれば“自分に対して自分でダメ出し”を することになり『ダメ人間』との思いが更に 強くなるのではないでしょうか。 そんな“ダメな自分”と思っている人に “自分を許してあげて下さい”と言っても 理解してもらえない様に思います。 何故なら“ダメな自分を認めたくない”との 思いが強いからではないでしょうか。 そこには“ダメな自分”を理想と『しないし ・したくもない』と考えるのが人の性では ないでしょうか。 ある意味“完璧な自分像”を描いていると 言っても過言では無い様に思います。 でも“人は神様ではないので完璧ではない” と理解しているにも関わらず“完璧な自分像” を理想として追い求めています。 ここにも矛盾を抱えていると思いませんか? 『人は完璧なれない』と理解しながらも 『完璧』を追い求めている。 それは『完璧になれない』との思いと 『完璧になりたい』との思いの シーソ状態ではないでしょうか。 貴方なら、この様な状態のとき、どの様に 対処しますか? ブログに対する思い シンジアイアイへと

      テーマ:
  • 03 Apr
    • 自分を許していますか(1)

      ブログ記事にお立寄り頂き有難うございます。 皆様に少しでもお役に立てればとの思いより 考え方に関する記事をUPしております。 “人は神様の様に完璧ではない”ことは 誰しも知っていることであり、理解して いる事柄だと思います。 人は、神様の様に完璧でなくとも、完璧で あろうとする理想を求めることは、人として 大切な行為であり、忘れてはならないこと だと思っています。 特に日本人は物造りで、より完璧なものを 造ることに対して、同じ造るなら更に良い 物へと思いが強い様に思います。 そして理想を追い求めることが、矛盾を 抱え込むことになり、それゆえに病むことに なる場合もあるのではないでしょうか。 例えば 要求品質に答えるためには、製造精度を高める 必要があり、その為には製造設備を新しくする 必要がある場合、その購入資金どの様にして 確保するのか、又 設備を更新したとして償却 出来るか 等の課題を抱えることになります。 償却出来なければ倒産もありうる場合は、従業員 の生活を考慮する必要があり、尚更 慎重に対応 することが求められ、大きな課題を抱え込むこと になります。 他の例として 直属の上司の意向に反して密かに実施していた 事柄が会社としての成果につながった場合、 その成果を直属の上司の成果にされた場合など、 怒りがこみ上げてくると思います。 でも そこで“上司に貸しをつくっておく” 又は 直属の上司の上司に訴えるのか 等を 考え悩むことになるのではないでしょうか。 上記状況を言い換えると、決断はシーソに似て いる様に思います。 一方を立てれば、もう片方が立たない状況になり 矛盾した状況と言えるのではないでしょうか。 上記状況は、少し特殊な例かも知れませんが 普段生活する中で自分が理想とする姿を追い 求めることが、シーソの様に矛盾した状態をつくり だしていることがあるのではないでしょうか。 『理想』を追い求めることについて、少し 考えてみて頂けないでしょうか? ブログに対する思い シンジアイアイへと

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  • 27 Mar
    • 自己との対話(6)

      ブログ記事にお立寄り頂き有難うございます。 皆様に少しでもお役に立てればとの思いより 考え方に関する記事をUPしております。 前回の記事で、自分を愛するためにも 『自分自身との対話』が重要との紹介を 行いました。 自分を知るうえで、『自己との対話』は 大切な行為ではありますが、自己との 対話だけに終始すると弊害も生じます。 その弊害とは、自己中心的思考に片寄って しまうことになることだと考えています。 少し話は逸れますが、交通事故を起こしやすい 人の傾向として“交通ルールを守るべきだ” との思いが強い人の割合が多いと言われて います。 その背景には、 “交通事故を起こさないためにルールが あるのだから、歩行者を含めて交通ルールを 守るべきで、自分はルールを遵守している” との思があるとのことです。 言い方を変えれば“交通ルールを守らない方が 悪い”と考えていることになるのではないで しょうか。 その一例として、信号が“青”に変わると共に 車両を発進させる傾向が強いため、信号無視した 車両と事故を起こしやすいと言われています。 反対にルールを破る人は“自分もルールを 破るのだから、他の人がルールを破っても 仕方ない”と考え、信号が“青”に変わっても 周囲の状況を確認しながら車両を即発進させる 傾向が強いため、事故の発生率が少ないとの 統計があるそうです。 上記例は『自己との対話』で片寄った一例では ないでしょうか。 以上の様に『自己との対話』は、身勝手な思考に なり易い傾向を持っているとも言えるのでは ないでしょうか。 私がお願いしたい『自己との対話』は自分の 思いに固着(執着)する為にではなく、 自分を知ることで、他人との違いを知ることに つなげて頂きたいとの思いがあります。 そのことが、新たな自分を知るとことになり 新たな自分の可能性を創り、広げることに つながると考えています。 『自己との対話』を、自分自身の為だけではなく 自分と相手の為になる様な対話に心がけて頂き たいと願っています。 ブログに対する思い シンジアイアイへと

      テーマ:
  • 20 Mar
    • 自己との対話(5)

      ブログ記事にお立寄り頂き有難うございます。 皆様に少しでもお役に立てればとの思いより 考え方に関する記事をUPしております。 前回の記事で“天使より”又は“悪魔より” のどちらかの選択を多くすることは、その人の 人生に影響する との紹介をさせて頂きました。 “天使より”又は“悪魔より”のどちらかを 迷いながら選ぶにしても、選んでいるのは 自分自身であることには違いないのです。 時として、その判断を周囲の人に任せる 場合があったとしても。 自信が無いから、 親の言うとおりにしておけば間違いない 先生に言うとおりにした方が良いかも 等 自身以外の判断に委ねたとして 『委ねる』との判断をしたのは自身では ないでしょうか 『委ねる』ことが全てに於いて悪いことだ とは言えません。時には必要なことです。 問題なのはむしろ『私は意識して委ねている』 との意識を持っているかどうかにあるように 思います。 自己との対話について4回も記事をUPして 来ましたが“自己との対話”で『判断を行う』 面に特化した内容を紹介したに過ぎません。 自己との対話で判断を行うとき、常に迷って いるのが当たり前で『迷わない判断なんて あり得ない』と私は考えています。 『迷うから失敗することがある』と常に 自分に言い聞かせている様にしています。 自己との対話について、前回の記事で “裁判所”を例にとって紹介しましたが、 検事役、弁護役、裁判官、裁判員 と色々な 役割を果たす人がいる様に、一人の心の中に 色々な役割を果たす人いるのだと思います。 (役割の思考とでも呼ぶべきかも) そして 矛盾を抱えている、迷っている自分を 含めて、全てが自分自身であるとの自覚を 持つべきではないでしょうか。 上記行為も“言うは易し、行うは難し”ですが 自分を愛するためにも『自分自身との対話』で 自分を知ることも重要と考えています。 ブログに対する思い シンジアイアイへと

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      テーマ:
  • 13 Mar
    • 自己との対話(4)

      ブログ記事にお立寄り頂き有難うございます。 皆様に少しでもお役に立てればとの思いより 考え方に関する記事をUPしております。 前回の記事で“『現実逃避』を行うのも、 人のDNAとして宿している”との紹介を 行いました。 『現実逃避』を行うのも、ある意味“自己 との対話”の結果であり、DNAの影響が あると考えるのも当然の様に思います。 そして『現実逃避すること』が全てに於いて 悪いことだとは思いませんし、必要な場合も あると思います。 しかし、人は『現実逃避』を続けていると 必ず『このままではいけない』と思うように なる時期があるのではないでしょうか。 『このままではいけない』と思うことも “自己との対話”の中で生まれた考えでは ないでしょうか。 言い換えると“自己との対話”の中には 『現実逃避したい』との考えと 『このままではいけない』との 相反する考えが同居している状態にあると 言えるように思います。 ある意味“自己との対話”は矛盾を含んで いるのが必然的と言っても過言では無い様に 考えます。 それを例えるなら、自分の心の中に“天使”と “悪魔”が同居している状態とも言えます。 では、自身の中にいる“天使と悪魔”の言い分 に対して、誰が“天使と悪魔の”言い分を選択 することを決めているのでしょうか? この状況を現在社会の仕組みに例えるなら 裁判所が該当するように思います。 検察側と弁護人側の言い分を聴き、裁判官が 判断を行います。 裁判官も一人では判断が難しい場合は、 一人ではなく、複数人おり、更に裁判員も いる裁判もあります。 言い換えると、一人の個人の心の中にも “天使”“悪魔”“裁判官”そして“裁判員”も いるとなれば、決断を行うのも複雑極まりない 状況にあると思います。 そう言った状況が一人の人の心の中を表して いるとすれば、決断したくとも、決断できない 状況に陥ることはが当然に思えますし、常に 迷っている状況にあると言えます。 そんな迷っている状況で、天使と悪魔の言い分 に対して判決を行う場合、楽な方を選択する のが人間の性と思います。 楽になる結果を選ぶことは“天使より”又は “悪魔より”のどちらかの選択が多くなることに なり、清原選手の場合、今は転落人生の結果に なったと言えるのではないでしょうか。 あなたはどの様に思いますか? ブログに対する思い シンジアイアイへと

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  • 06 Mar
    • 自己との対話(3)

      ブログ記事にお立寄り頂き有難うございます。 皆様に少しでもお役に立てればとの思いより 考え方に関する記事をUPしております。 前回の記事で 何故清原選手は『今の俺は本来の俺ではない』 と思うようになったのでしょうか? との問いかけを行いました。 私事になりますが、以前 私は開発部署で 仕事をしていました。仕事柄、仕事の標準化 は大切なツールであり、そのツールを私は リーダーとして仲間と共に会社としての ツールに仕上げたことがあります。 今でもそのことを忘れることが出来ない と言うより、自分として華やかだと思う 時期のことを思い出し、生きていた証を 感じていようと思うことから、今でも時々 振り返し思いだすことがあります。 清原選手も同じ様な心理状態にあった のではないかと思います。 ある意味、華やかな自分であった時期が 生きていた証になって居た為に、今の 華やかでない自分の現実を受け入れたく なかったと言い換えることが出来るのでは ないでしょうか。 それは今の自分を受け入れることをしたくない との思いが強い状態であり、『現実逃避』を していると表現できるのではないでしょうか。 前回の記事の内容に戻りますが、現実逃避を してまで“今の自分を認める”ことが出来ない 困難さを示したニュースの様に思います。 そして『現実を直視しなさい』と言われても “言うは易し、行うは難し”との諺がある様に 難しいことだと思います。 しかし、清原選手も『現実逃避』をせず、現実に 真正面から向き合っていれば、困難な状況で あったとしても“今の様な転落した人生 とは違っていたのでは”と思うのは私だけで しょうか。 『人は生きていた証』の時期を懐かしく 思うものかもしれません。そのことが 『現実逃避』に陥る要因ではないでしょうか。 しかし、清原選手もすべてにおいて『現実 逃避』をしていたわけではないと思います。 子供の養育費を捻出するために自宅まで 処分しています。 ただ 物事を判断するときに『現実』と 『生きていた証』を天秤に掛けた時 『生きていた証』を優先し過ぎたのだと 思います。 そして 私も同じ様なことに陥る可能性を 十分持っていると考えています。 そして『現実逃避』を行うのも、人のDNA として宿していることの様に思います。 ブログに対する思い シンジアイアイへと

      テーマ:
  • 28 Feb
    • 自己との対話(2)

      ブログ記事にお立寄り頂き有難うございます。 皆様に少しでもお役に立てればとの思いより 考え方に関する記事をUPしております。 前回の記事で“何故 人同士は比較するのか” との紹介を行いました。 ここからは私の勝手な推測なりますが そこには“競争意識”があるように思います。 人の祖先は“捕食される側”にありました。 そのため、捕食されないためにも、逃げ足の 速さが求められたのではないでしょうか。 以下に早く敵を察知できるか。 逃げる場所はどの様にすべきか。 何処を生活の拠点とするべきか。 速く走るためにはどうすべきか。 等と深く思考したとは思いませんが、似た様な ことを行い、自分の身をどの様に守るか等の 差別化を図ることが、結果的に“競争意識”を 遺伝子として残したのではないかと考えて います。 言い方を変えれば、同じ捕食者同士としての 競争意識の遺伝子が人同士の競争意識の背景に あるとも言えるのかも知れません。 上記内容は、あくまでも私の勝手な推測に なります。 以上の様に、競争意識は人のDNAとして 受け継がれたもので、私も対象外で無いと 考えています。 人の中のDNAを無くそうとしても無くせる ものではないので、受け入れる以外に 他の 方法がない様に思います。 “自分には競争意識が宿している”と思えば 自分自身の“競争意識の在り方”について 考えることが出来る様になるのではないで しょうか。 競争意識の在り方を考えることは、競争意識を “認めた”からこそ出来る思考ではないで しょうか。 “自分を認めなさい”と言葉にして書けば、 簡単に出来る様に思われますが、実際に 行動に移すとなれば大変な思いをすることに なると思います。 少し話は変わりますが 少し前まで多くの報道機関に取り上げられて いました 清原野球選手のことですが、一部の 報道内容で次の様なことが言われていました。 華やかな野球選手時代が忘れられず『今の俺は 本来の俺ではない』との思い強かったのでは ないでしょうか との内容で、報道内容に対して正確ではない 部分があると思いますが、私はそう感じました。 では何故清原選手は『今の俺は本来の俺ではない』 と思うようになったのでしょうか? 少し『自分事として』考えてみて頂けないで しょうか? ブログに対する思い シンジアイアイへと

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      テーマ:
  • 21 Feb
    • 自己との対話(1)

      ブログ記事にお立寄り頂き有難うございます。 皆様に少しでもお役に立てればとの思いより 考え方に関する記事をUPしております。 シンジアイアイの思いはブログにも紹介して いますように『自分を真に愛する』ことを 願った造語です。 自分を愛するためには5のステップがあると 考えています。 1)自分を知ること。 2)自分を理解すること。 3)自分を認めること。 4)自分を好きになること。 5)自分を愛しいと思えること。 上記ステップで一番難しいのは 『愛しい』と思えることですが、意外に 難しいのが『自分を認める』ことだと 考えています。 自分を認めることは 『自分が自分で良かった』と深く実感できる 状態だと考えるからです。 この『自分が自分で良かった』と思える そんな場面を人生の中で多くを経験することは 無い様に思います。 もし感じられるとしたら“周囲の人との関係” でしか感じられることは無い様に思います。 『自分を認める』ためにも、上記で紹介した様に 先ずは『自分を知ること』が大切になってきます。 自分を知るには、周囲の人との比較も一つの 方法ではあります。 でもその比較では、自分が優れている事柄や 劣っている事柄を感じ取ることが出来ますが それは現象の優劣を捉えているに過ぎない様に 思います。 確かに“現象”も事実の一つであることには 間違いはありませんが、問題なのは“現象”に 捉われすぎることにあるのではないでしょうか。 現象とは 見たり、聞いたり、感じたりできる、表面上に 形として現れたものを言っています。 例えば 像の鼻は長いけど、人間の鼻は小さい。 “人も像の鼻の様に長ければ良いのに”とは 思いませんよね。 同じ鼻だけど、比較などしませんよね。 だけど、人同士の鼻になれば比較をします。 何故、人同士の場合は比較をするのに 人と動物では比較しないの? 人も同じ動物ではないでしょうか。 何故 人同士は比較をするのでしょうか? 少し考えてみてください。 ブログに対する思い シンジアイアイへと

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      テーマ:
  • 14 Feb
    • 願望(4)

      ブログ記事にお立寄り頂き有難うございます。 皆様に少しでもお役に立てればとの思いより 考え方に関する記事をUPしております。 前回の記事で“絶望は志望に変えられる”と 言えるのではないでしょうか。 との紹介を行いました。 上記考え方は、発想の転換に相当します。 話を少し変えますが、マーガレット・ ミッチェル氏が書いた長編小説の 『風と共に去りぬ』があります。 その映画を見た時に、私の心に残っている 言葉で 『神よ、お聞きください この試練に 私は負けません・・・・・ 神よ誓います。二度と 飢えに泣きません』 との言葉があり、 特に『負けません』との言葉が強く印象に 残っています。 絶望の中で、主役であるスカレットが発した 言葉です。 この言葉の背景には凄まじい程の『生きる』 に対する強い意志が込められています。 その後のスカッレトは『形振り構わず』との 形容が示したような人生を送ることに なります。 興味ある方は、DVDでも良いので是非観て 頂きたい。 小説とはいえ、これほどの『生きざま』を 表現するには、それなりの経験が無ければ 書けない内容ではないでしょうか。 小説では、スカッレトはこの言葉 “神よ、お聞きください この試練に私は 負けません・・・・・・二度と飢えには泣きません” との言葉を発することが、 “絶望”を“志望”に変えた瞬間であり その志望する事柄に対して 『誰にも・何に対しても負けない』との 強い意志なり、そのことが強い志望に なったのではないでしょうか。 又 小説家のマーガレット氏は、この 小説を書こうと意識した時が、彼女の 一つの転換期でもあった様に思います。 絶望を絶望のままにしておくことも 絶望を志望に変えることも 貴方が絶望を“どの様に捉え、どう対処 しようとするか”と考えることで 決まるのではないでしょうか。 “決めているのは自分”との認識を もつことが大切ではないでしょうか。 ブログに対する思い シンジアイアイへと

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      テーマ:
  • 07 Feb
    • 願望(3)

      ブログ記事にお立寄り頂き有難うございます。 皆様に少しでもお役に立てればとの思いより 考え方に関する記事をUPしております。 前回の記事で『見直しを必要と 紹介しながら 見直しを行わなかった と矛盾していますよね』 との問いを行いました。 絶望を感じている人に対して、望みを変え なかった場合には『絶望を抱えていろと 言っているのか』との お叱りを受ける ことになると思います。 以降の内容もお叱りを受ける内容かも 知れませんが、『絶望』と感じている場合 『絶望に捉われている』とも言えるのでは ないでしょうか。 周囲の人は、本人の意識と異なり“あの人は 絶望状態にある”と思ってくれることは極まれ なことで、殆どの人はそう考えていないと思います。 それより“他人ごとであり無関心”と言える のではないでしょうか。 少し話は逸れてしまいましたが、 『絶望』状態にある と考えている人に対して 『絶望』を考えることを止めなさい と言っている訳でもありません。 むしろ『絶望』に向き合ってください。 と言いたいのだと思います。 ある意味“絶望状態にある人に対して 更に自分を傷つけ、更に絶望のどん底に 突き落として下さい”と言いているのと 同じだと解釈して頂いたほうが良いのかも 知れません。 それは“毒をもって毒を制する”と同じ 意味合いのことを伝えたいと考えたからです。 でもその時に考えて頂くことは『絶望状態に ある』と考えるのではなく『何に対して 絶望しているのか』を考えて頂きたいのです。 それは『何に対して』が重要なのです。 その『何』が分れば、打つ手は色々あり、 そして、心の問題であれば、選択肢の中に 『認知行動療法』や『個人心理学』等の方法が あります。 一つ考えて頂けませんか? “ピンチはチャンスでもある”と言われて います。 ならば “絶望は志望に変えられる”と言えるのでは ないでしょうか。 あなたはどの様に思いますか? ブログに対する思い シンジアイアイへと

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  • 31 Jan
    • 願望(2)

      ブログ記事にお立寄り頂き有難うございます。 皆様に少しでもお役に立てればとの思いより 考え方に関する記事をUPしております。 先週は愛用のパソコンが壊れてしまい、ブログを UPすることが出来ませんでした。 ご心配をさせたことに対して申し訳なく 思っています。 前回の記事で『絶望』を感じることは本当 に良くないことなのでしょうか? との問いを行いました。 私は次の様に考えることにしています。 『絶望』を感じている時は“神様が 今の貴方の望みは叶えられない。だから 今の望みを見直しなさい”と考えるように しています。 私は、神様を熱心に信仰している訳でもなく、 神様がいるともいないとも常日頃考えている 訳でもありません。 ただ、引き寄せの法則はあると考えています。 又“望みを見直しなさい”の『見直し』は “今の望みを捨てなさい”と言っている訳では ありません。 話は少し脱線しますが、物事の考え方として 『在り方』と『遣り方』があります。 『在り方』と『遣り方』を理解するための 例えとして『富士山の頂上に登りたい』と 思っているとします。 “富士山の頂上に登る”は『在り方』になります。 富士山に登る為には以下の様なことを検討する 思います。 ① 時期は何時登るのか? ② 登時に必要な装備品は? ③ 富士山の天候が急変した時の対応は? 等考えることになり、登るための具体的方法が 『遣り方』になります。 “在り方”は自ら描いた望みであり “遣り方”は望みを達成する手段 になります。 見直しとは 『在り方』を変えることもあります。 『遣り方』を変えることもあります。 『在り方』『遣り方』の両方を変えることも あります。 私は『絶望』の時以外でも、例えば行き詰まった 時等にも“今の自分の望み等を見直しなさい” と考えられる様になりました。 でも、見直しを図ろうとして見直さなかった 望みもあります。 だから全てを見直しにより変えている訳では ありません。 少し考えてみて頂けませんか? 見直しを必要と 紹介しながら 見直しを 行わなかった と矛盾していますよね。 何故 矛盾するのかを ブログに対する思い シンジアイアイへと

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