鳥肌音楽 Chicken Skin Music

WRITING ABOUT MUSIC IS LIKE DANCING ABOUT ARCHITECTURE.


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(not second a time先輩からコメントで貴重な情報をいただきあらためて調べていく中でレココレ増刊の「ザ・ビートルズ・ソロ・ワークス」が自宅にあることに今頃気づき、その中のレコーディング・セッション・リストなどを参考に更に追記および動画の追加を行いました。)

$鳥肌音楽 Chicken Skin Music


ジョン・レノンのファンであればご存知かとは思いますが1973年の10月から1975年の1月までジョンとヨーコは別居生活を送っています。現在「失われた週末Lost Weekend」と呼ばれる期間なのですが、一般的な理解としてはジョンがヨーコと別れLAに出向きニルソンやリンゴやキース・ムーンと呑んだくれて放蕩の限りをつくしていたが、さすがに自分の愚かさに気づきヨーコに謝罪しよりを戻す迄の時期というものなのではないかと思います。

僕は「愛と平和」の使者=ジョン・レノンというのはジョンの死後にヨーコによって必要以上にデフォルメされたものだという考えを持っていて何度かこのブログでもそのことを書いてきました。同じようにこの「失われた週末」もジョンの死後、いやその前からジョンの正史からはできるならば削除してしまいたい期間としてジョン・サイドというかヨーコ・サイドからはほとんど語られる事が無かったように思われます。実際ヨーコの発言の中に「失われた週末」における最重要人物であるメイ・パンのことがまったく出てこないというのはあまりにも不自然な気がします。男性による女性差別について「女は世界の奴隷か」という歌をジョンに歌わせたくらいの「超フェミニスト」のヨーコですからメイ・パンをジョンの「慰安婦」として帯同させたなんて、そりゃ言えないですもんね。

まぁメイ・パンの言っていることも100%真実であるかどうかは神のみぞ知るなのかもしれませんが、それを考慮するにしても現在の「失われた週末」に対する情報はあまりにも少なく偏りすぎている気がずっとしていました。そこで、手持ちの資料にはなりますが、「失われた週末」の期間に一体何があったのかを時系列に沿ってかき集めてみました。

こうして見ると音楽家ジョンという観点から眺めるとこの「失われた週末」という期間が如何に活動的で実りの多い期間であったかということがお分かりいただけるのではないかと思います。決して「失われて」なんかはいない、そう思いませんか・・・


1972年11月7日
マクガバンが大統領選挙に破れた夜、ジョンとヨーコはジェリー・ルービンのパーティに招かれる。NY中のリベラリストが集まった様なパーティでジョンはしこたま酔っぱらいとある女性とロッカー・ルームに閉じこもってしまう。ジョンと女性の行為は薄い壁を筒抜けでヨーコは強いショックをうけます。この出来事によってジョンとの間の「何か」が失われてしまったと感じたヨーコは自分の気持ちの整理を付けるためにジョンと別居し冷却期間を置くことを考え出します。

1973年3月
合衆国出入国管理当局から国外退去が命じられる。ジョンの68年の麻薬不法報所持による。

1973年3月
自身で何度かデモ録音していた「アイム・ザ・グレーテスト」をリンゴ・スターの新しいアルバム『リンゴ』に提供することを決め、サンセット・スタジオの『リンゴ』セッションに参加。メンバーはジョン(P、Vo)、リンゴ(Dr)、ジョージ・ハリスン(G)、クラウス・ヴーアマン(B)というほぼビートルズなメンバー。この歌ジョンが歌っていたらシャレにならないですもんね、リンゴで正解(笑)。

1973年7月~8月
アルバム『ヌートピア宣言Mind Games』のためのセッションがNYのスタジオ、レコード・プラントで行われる。プロデューはジョン自身。

☆そして、ここから「失われた週末」が始まります。

1973年10月
ヨーコの提案により別居生活に入る。ヨーコ曰く「愛するがゆえに分かれる」。

『アンソロジー』のブックレットによればベッドの中でヨーコはジョンに告げます。

>”私たちはふたりともまだ若くて魅力があるのに、結婚しているというだけの理由でおたがいのなかに閉じこもってしまうなんて、とんでもないわ、そんなの私はいや。私たちらしくないわ、そうでしょ。離れてみて、どうなるか見てみましょうよ。””ロスへ行ってみるのはどうかしら?昔ビートルズのツアーで行って、楽しかったって話していたじゃない・・・。」

ヨーコの提案をしぶしぶ受け入れたジョンは最初の4日間は有頂天になっていたが5日目には早くも泣きを入れてきたとヨーコは回想します。

>”もう十分だ、家に帰りたいよ”私は笑い飛ばしました、あまりに早すぎたからです。

メイ・パンの著書「失われた週末」によれば、別居の始まりはこんな具合です。

>ある朝早くレノン夫妻の住むダコタ・ハウスの中にあった私の仕事場に、ヨーコが入ってきました。ヨーコは私に、ジョンと「うまくいっていない」ことを打ち明けました。<中略>ヨーコは続けてジョンは誰かほかの人と一緒に暮らすことになるだろう、その相手は「ジョンをうまく扱うことのできる人」であってほしい、と言いました。<中略>ヨーコはさらに続けました。「あなたボーイ・フレンドいないわよね」。私はペンとメモ用紙を落としてしまいました。聞き間違いではないかしら?私はヨーコに、こちらの一方的な勘違いかもしれないけれど、私はジョンに対して特別な感情はいだいていません、と念を押しました。ヨーコはそれは承知だと言いながらも話をやめませんでした。「あなたがジョンと一緒になるといいと思うの」。私は呆然としてしまいました。お断りします、私にはできませんと何度も言いました。でもヨーコはすっかり心を決めているようでした。「ジョンから誘われたら断らないようにね!」というヨーコの言葉には、単なる提案以上の強さが込められていました。

この半月後位にエレベーターの中でジョンに抱きしめられ、キスをされ「こうなる日をずっと待っていた」と告白されます。何度かジョンの誘いを断ったもののジョンの強引さに負け関係を持つことになります。そうしてNYで二人の関係が始まりますが、ある日ヨーコがフェミニストの会合に出席するためにNYを留守にした時に、たまたま弁護士のハロルド・シーダーもLAに向け出発しようとしていました。ジョンは突然思いついたように”NYを離れ二人で暮らそう”といいハロルドに同伴しLAへ旅立ちます。

鳥肌音楽 Chicken Skin Music

1973年10月
メイ・パンと共にLAに赴いたジョンはビル・ワイマンとアンドリュー・オールダムと会います。アンドリューはベルエアのルー・アドラーの家を借りていたが、ロンドンに戻るのでそこに住めるようにルーに交渉し、ジョンとメイは約2ヶ月そこで暮らすことになります。

1973年10~12月
LAスにて『ロックン・ロール』のための録音を開始。プロデュースはフィル・スペクターに依頼。過去のフィルとの共同作業はアスコットやNYのスタジオというジョンのホームで行われましたが、今回はフィルのホームであるLAでの録音。NYと違うルーズさでジョンはいつも呑んだくれた状態でスタジオに入り、フィルもその奇人ぶりを遺憾無く発揮したためセッションは混乱を極め、手を焼いたジョンはアルバム制作を一時棚上げにしてしまいます。
この時のセッション・メンバーはジェシ・ディヴィス(EG)、ホセ・フェリシアーノ(AG)、リオン・ラッセル(Key)、ジム・ケルトナー(Dr)、ニノ・テンポ(Sax)、ゲストにスティーヴ・クロッパー(G)、ハル・ブレイン(Dr)、ジェフ・バリー、バリー・マン(Cho)というもので、きちんとやってくれていたらなぁと思うのは僕だけ?

1973年10月
『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』の評論家からの酷評、売上の低迷に凝りていたジョンは積極的に発売間近の『ヌートピア宣言Mind Games』のプロモーション活動を開始します。ロスで再会したアップル・レコード総支配人トニー・キングの忠告もジョンに影響を与えていました。曰く”今、世間は君のことを批評ばかりする過激なやつだと思っている。それではレコードの売上も期待できない。必要なのは昔のように陽気で、ユーモアがあって、みんなから愛されたジョン・レノンに戻ることだ。”。そしてトニーはジョンのイメージ回復の手助となる効果的なインタビューの機会ををセッティングしている。

マインド・ゲームス (リミックス&デジタル・リマスタリング)/ジョン・レノン
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1973年10月
息抜きをかねてジョンとメイ・パンはラスベガスへ小旅行。トニー・キングやマイケル・ヘイゼルウッドを呼び寄せファッツ・ドミノ(前座はフランキー・ヴァリ)のショウなどを楽しみます。この時ラスベガスのステージに立つフランク・シナトラに歌わせたくて「愛の不毛Nobody Loves You When You're Down And Out」をジョンは作ります。


John Lennon - Nobody Loves You When You're Down And Out


1973年11月2日
アルバム『ヌートピア宣言』発売。

1973年11月2日
リンゴ・スターのアルバム『リンゴ』発売。ジョン、ポール、ジョージが楽曲を提供しミュージシャンとしても参加。4人揃っての共演はないが大きな話題となる。

リンゴ/リンゴ・スター
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1973年12月
LAのジョンとメイ・パンの元へ離れて暮らす息子ジュリアン・レノン(10歳)と前妻シンシアが訪れる。この時ジョンは4年近く息子とあっておらず最初は気まずさも感じる再会でしたが、この再会がきっかけとなりジュリアンはたびたびジョンの元に訪れ親子の関係は修復されていきます。

鳥肌音楽 Chicken Skin Music

この時にジュリアンとジョンがお遊びでモーリス・レヴィの管理楽曲である「YaYa」を録音。「カム・トゥゲザー」での盗作判決の穴埋めとして『心の壁、愛の橋』に収録されることに。

1974年1月
”これまで、僕はビートルズの話をするのが嫌だった。だが今ではそういう気でもなくなってきた。現在、どんなことでも起こりうる可能性がある。近い将来、我々4人で何か素敵なことをするかもしれない。”ロサンジェルス・タイムス紙のインタビュー。『リンゴ』の発売もあり、再結成の噂がまことしやかに囁かれる。

1974年2月16日
メロディー・メイカー誌が”ビートルズ・トゥゲザー・アゲイン!”という特大見出しでビートルズ再結成を予測。ポールの再結成を匂わす発言、ジョン、ジョージ、リンゴがアレン・クラインを馘首したこと、1月に4人がニューヨークで一同に会した(噂のみ)ことがその理由。

1974年3月
ニルソンらとともに泥酔し暴れたためロスのトゥルバドール・クラブからたたき出されたことが記事になる。出演中のスマザーズ・ブラザースに悪態をつき、ウェイトレスに暴行を振るったとのこと。

1974年3月 
NYのプロモーター、ビル・サージェントがビートルズ再結成の一夜公演に42億のギャラを申し出る。ジョンもポールも無視。

1974年3月28日
ジョンがプロデューサーとなりニルソンのアルバム『プシー・キャッツPussy Cats』の録音がLAのバーバンク・スタジオで開始される。この日の夜遅くNYに来ていたポール・マッカートニーとリンダがひょっこりと姿を見せます。ジョンとポールはビートルズ解散後、最初で最後のジャム・セッションを行います。途中からはスティーヴィー・ワンダーも加わったというこのセッション、テープが回っていればなぁ。

(追記:と書きましたが、しっかりテープが回っていたようで、過去に『A TOOT AND A SNORE IN '74』というタイトルのブートレグも出たことがあるようです。ジョンとポールにスティーヴィー・ワンダー、ニルソン、ジェシ・ディヴィス、ジム・ホーンが参加してのジャムのようです。演奏はかなり荒いですが音源がアップされていましたのでどうぞ)

Lucille~Stand By Me




鳥肌音楽 Chicken Skin Music

1974年4月or5月
ミック・ジャガー(Vo)、ダニー・コーチマー、ジェシー・デイヴィス(G)、ジャック・ブルース(B)、アル・クーパー(Key)、ジム・ケルトナー(Dr)、ハリー・ニルソン(Vo)というメンバーによる「トゥー・メニー・クックス」をプロデュースする。この音源は永らく未発表のままでしたが2007年に発売されたミック・ジャガーのソロ活動をまとめたベストアルバムに収録され陽の目を見ています。

ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー/デヴィッド・ボウイ
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1974年5月
LAで行われていた『プシー・キャッツ』のセッションですが、スタジオ内はセッションかパーティか分からない状態で、結局、きっちりとした仕事のできる慣れ親しんだNYのスタジオ、レコード・プラント・イーストにスタジオを移動し完成させることになります。その後NYのRCAのケン・グランシーのオフィスに赴きアルバムを必ず発売することを確約させます。ジョンは願いを聞いてくれるならアップルとの契約が切れたらリンゴを誘って自分もRCAに移籍するとまで発言したとか。確かにリンゴはRCAに移籍しましたが・・・。

NY滞在中ジョンとメイは東52丁目434番地のペント・ハウス・タワーBというアパートで暮らします。ベッド・ルームには当時最も大きかった27インチのソニー・トリニトロンTVを設置し二人はそこで心からリラックスできたようで「夢の夢」のヒントもそのベッドの中で生まれました。この部屋にもポールとリンダなど多くの友人たちが訪問していますが、ジョンにとって一番の訪問者は離れて暮らす息子ジュリアンでした。メイの写真には少年期(11歳)を迎えた息子と海でたわむれる父親ジョンの姿がとらえられています。

鳥肌音楽 Chicken Skin Music

1974年6月
メイ・パンと暮らすLAの借家で新曲のデモ録音。多くの曲はアルバム『心の橋、愛の壁』の収録曲となる。中にはリンゴに提供される「グッド・ナイト・ウィーン」も。(この時期、ジョンはNYにいたと思われ「LAの借家」というのは引用元のレココレ増刊「」ビートルズ・ソロ・ワークス」の間違いか?)

1974年6月
『プシー・キャッツ』を完成させた後、『ロックン・ロール』のセッションを再開しようとしますが、フィルがLAで録音したテープを持ったまま行方不明状態に(オートバイ事故で入院していた)あったため断念。そこで書き溜めていた新曲を元にオリジナル・アルバム『心の壁、愛の橋Walls And Bridges』の録音に取り掛かります。キャピトルはジョンの子供時代に描いた画を使い『ロックン・ロール』のジャケを制作していましたが、むしろ新しいアルバムにぴったり来るということでジョンはこのデザインを『心の壁、愛の橋』に流用しようと考えます。しかしキャピトルはジョンのアルバムだとひと目でわかるポートレイトを使うことを主張し、それを呑んだジョンはメイ・パンを使ってフォト・セッションを行います。ところがアート・ディレクターの要望する写真が素人カメラマンであるメイ・パンのカメラでは取れないということになり、最終的にボブ・グルーエンによる写真がジョンの画とともに使用されることとなります。

鳥肌音楽 Chicken Skin Music-鳥肌音楽 Chicken Skin Music


1974年7月17日
合衆国司法局より60日以内の国外退去を命じられる。ジョンは控訴。

1974年7月中旬
NYレコード・プラント・イーストでニュー・アルバムのためのリハーサル・セッションがスタート。ジョン(G)、ジェシ・ディヴィス(G)、クラウス・ヴーァマン(B)、ジム・ケルトナー(Dr)。この時の音源は『アンソロジー』で聴くことができる。

1974年8月
ジョンがプロデュースをしたニルソンのアルバム『プッシー・キャッツPussy Cats』発売。

プシー・キャッツ/ニルソン
¥2,500 Amazon.co.jp

1974年8月
先のリハーサル・メンバーにエディ・モットー(AG)、ケン・アッシャー、ニッキー・ホプキンス(Key)、リトル・ビッグ・ホーンズ(Horn)が加わりレコード・プラントで『心の壁、愛の橋』セッションが行われる。後半ではエルトン・ジョンも参加し「真夜中を突っ走れ」が録音される。

1974年8月9日 
ウォーター・ゲート事件によりニクソン大統領が辞任。

1974年8月下旬
『心の壁、愛の橋』のレコーディングを終えたジョンはLAへ飛びリンゴの『グッド・ナイト・ウィーン』のセッションに参加。デモ録音していた「グッド・ナイト・ウィーン」を提供し、カバー曲「オンリー・ユー」(最高!)のアレンジ、ガイド・ヴォーカル録りを行う。

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1974年8月31日
司法局の国外追放命令はニクソン政権による不当な圧力によるものとNY連邦裁判所に訴える。ジョンがベトナム反戦運動の指導者の一人であり72年の党大会を阻止しようとしたことに対する共和党の報復だというもの。アビー・ホフマン、ジェリー・ルービン、ジョン・ビールといった急進的な活動家との交流もありダコタ・ハウスのジョンの部屋には複数の盗聴器がしかけれていたという。

1974年9月
74年はビートルズのアメリカ上陸から10年にあたります。この年キャピトルはビートルズに脚光を当てたキャンペーンを行なっていました。そんな中、元ビートルズのジョンのニュー・アルバムが発売されるとあって、キャピトルは最大限のプロモーションを行うことになります。題して「この~を聴け(Listen To This ~)」というキャンペーンでListen To This ~というコピーが上段、中段にはジョンの目許の写真、下段には「ジョン・レノン 心の壁、愛の橋」の文字というデザインが様々な場所に描かれました。「この~を聴けの」の~には媒体に合せ”ポスターを聴け”や”雑誌を聴け”、”バスを聴け”(バスの車体広告)、”Tシャツを聴け”といった具合です。TVコマーシャルも作られ、リンゴ・スターが出演、このお礼としてジョンは『グッド・ナイト・ウィーン』のTVCMに出演します。


1974年9月14日
”ジョン・レノンなんて全然革命的じゃない。奴は呆れかえる程の大馬鹿、白痴だ。ただ革命、革命って叫んでるだけで、行動ときたら・・・・だもんな。人の気も考えて欲しいよ。皆あいつには気分が悪いんだよ。”メロディ・メーカー誌によるトッド・ラングレンのインタビューより。

1974年9月26日
”貴方が私に対してアタマにきている本当の理由は分かっている。LAのレインボウであなたと一緒になったとき、私が貴方を誰だか分からなかったからなのだ。メロディ・メーカー誌によるインタビューより。

1974年9月
『ヌートピア宣言』発売の際に貴重な忠告をくれたトニー・キングをアメリカに呼び寄せます。そしてリンゴとともにEMI/キャピトルのCEOバスカー・メノンに手紙を書きキャピトル内に立派なオフィスを設けさせます。ジョンは信頼していたキャピトル副社長でヒットを探す達人アル・コーリー、トニー・キング、メイ・パンを集めアルバムからのシングル・カット曲を検討します。最有力候補「夢の夢」をはじめ「予期せぬ驚き」から「ようこそレノン夫人」まで候補に挙げられますが最終的にアルが選んだ「真夜中を突っ走れ」に決定されます。ジョンはこの曲のヒットに半信半疑でしたが、結果はアルの耳の正しさが照明されることとなります。

鳥肌音楽 Chicken Skin Music

1974年9月
メイ・パンは第1回ビートルズ・コンベンションに赴きます。『トゥー・バージンズ』がこれ以上市場に出回らないように買い占めるようにジョンから頼まれていたメイ・パンは会場でドイツの写真かユルゲン・フォルマーによる61年にハンブルグで撮られた写真を見つけます。ジョンにそのことを電話で報告すると旧知であるユルゲンにぜひとも会いたいということになり後日ユルゲンは当時の写真を持ってアパートに訪れます。『ロックン・ロール』のジャケ写はこうして決まったというわけです。

この再会の後メイ・パンと知り合いのレストラン・オーナー、リチャード・ロスのが所有するNY州エレンビルにあるロッジでジョンとメイ・パンは休暇をすごすことにしました。気持ちのいい秋の日ジョンはお気に入りのアイリッシュ・ニット・セーターを着てリチャードの飼い犬を連れ山道を散歩します。前を歩くジョンに声をかけ振り向いた瞬間を、メイ・パンが写真に撮ります。この写真を気に入ったジョンは75年10月24日(メイ・パンの誕生日)にイギリスで「イマジン」のシングルが発売される際にジャケ写として使用しています。

鳥肌音楽 Chicken Skin Music-鳥肌音楽 Chicken Skin Music


1974年10月4日
シングル「真夜中を突っ走れ」とアルバム『心の壁、愛の橋』を発表。「真夜中を突っ走れ」は11月16日にソロになって初めての1位曲となる。録音にはエルトン・ジョンが参加。その時にもし1位を獲得したらエルトンのライヴにゲストで出演するという約束が交わされていた。

1974年10月
アルの努力で無事取り戻されたLAでの『ロックン・ロール』のテープでしたが、ジョンはそのテープを封印し新たに『心の壁、愛の橋』のミュージシャンを使いセッションを再開することを思い立ちます。それを聞きつけたモーリス・レヴィは自分の農場をリハーサルのために提供、『ロックン・ロール』セッションが再スタートされます。

1974年10月21日~25日
レコード・プラントに閉じこもり5日間で『ロックン・ロール』を完成させる。ジョンがこの時期いかに充実した仕事をしていたかは、この辺からもうかがえると思うのですが・・・。また『心の壁、愛の橋』でいったんボツにした「ようこそレノン夫人Move Over Miss.L」を再び取り上げアルバムから3月にシングル・カットされた「スタンド・バイ・ミー」のB面曲として収録(UK盤)。

1974年11月
ジョンとポールの二人は一時期の険悪な雰囲気は消え昔の仲を取り戻しつつありました。それにともないビートルズに対してもセンチメンタルな感情を持つようになっていました。ジョンは、友人ロバート・スティグウッドがプロデュースしていたオフ・ブロードウェイ・ミュージカル「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド・オン・ザ・ロード」にも積極的に関与していきます。リハーサルを訪問し助言を行なったり、あらゆる機会に作品を絶賛。はてはBBCが撮影するプロモ映像への出演も快諾しNYの街角を歩き市民と触れ合うジョンの姿が撮影されます。

この時の映像はYOUTUBEにアップされている「マインド・ゲームス」の動画(これオフィシャルのプロモなんですかね、誰かご存知ないですか)で見ることができます。そう思ってみると3分19秒あたりからミュージカルの劇場前の風景や、ミュージカルのステージでおどけるジョンの姿が映っていますよね。

John Lennon / Mind Games


1974年11月28日
NYのマジソン・スクエア・ガーデンで行われたエルトンのコンサートに飛び入りで参加。「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」「真夜中を突っ走れ」「アイ。ソー・ハー・スタンディング・ゼア」をエルトンと共演。「アイ・ソー・ハー~」を歌う前には”親友ポールの歌を歌います”というMCをつけていた。このステージがジョンにとっての観衆を前にしての最後のライヴということになった。

Here & There/Elton John
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このコンサートにはヨーコも訪れておりジョンとの再会を果たしています。

>YOKO”まずエルトンが出てきて歌ったの。<中略>そこへジョンが出てきたら、あのマディソン・スクエア・ガーデンのホールが揺れるの。みんなが飛び上がったり、拍手したり、叫んだり、わめいたり、とってもすごかったのよ、本当に文字通り床がふるえていたわ。<中略>でもその時見たジョンはわたしの知っていたジョンとは違って、ほんとうに淋しそうな孤独な感じだったのよ。”

>JOHN”聴衆の中に彼女がいるとは知らなかった・・・・彼女が来ると分かっていたらとても僕は行けなかっただろう・・・・ステージから戻るとそこに彼女がいてね、お互いをじっと見たんだよ。まるでインディカ・ギャラリーの場面の再現みたいで、それでその晩から僕たちはまた一緒になった。あの時期は幸福な想い出ばかtりだよ。

この時エルトンのコンサートにジョンが飛び入りすることを知って、ヨーコをその場に行くように教えたのは他ならぬポール・マッカートニーだったことをヨーコは2010年になって初めて明かします。

1974年12月16日
英国デイリー・メール紙がジョンの国外追放命令は前大統領ニクソンとホワイト・ハウスによる陰謀だったという記事を掲載。ニクソンの個人的な判断により国外追放の司令を政府関係期間に発していたという事実が明らかにされる。

1974年12月19日
すでに解散状態にあったビートルズですがEMIとの契約の関係もあり法的にはまだ存続していることになっていました。実質的な解散から4年で法的な問題はほぼクリアされ解散のための書類にリンゴは既にイギリスでサイン済みであったので残り3人がNYで集まりサインをすることになっていました。ジョージはダーク・ホース・ツアーでNYに来ており、ポールとリンダもこのために渡米し、席につきましたがNYに住んでいるジョンが現れません。しびれを切らしたジョージがジョンに電話をいれますが電話に出たのはメイ・パンで、ジョージはジョンへの文句を述べたあとジョンがマジソン・スクエア・ガーデンでのジョージのコンサートに飛び入りするというプランも必要ないと伝えます。

翌日ポールとリンダがジョンを訪問します。ポールに諭されたジョンは書類にサインをすることを承諾します。

ジョンに対して激怒していたジョージですが、クリスマスに合せジョンの元へ訪れ、ジョージのコンサートにもやってきたジュリアンに対しジョージはすべてを水に流すからパーティに来てくれる旨を伝える電話をジョン宛にさせます。そしてコンサート後のパーティではジョージとジョン、ポールが固いハグを交わすこととなります。

鳥肌音楽 Chicken Skin Music

翌日からジョンとジュリアンとメイ・パンはクリスマスをフロリダで過ごすため旅立ちます。

1974年12月21日
シングル「夢の夢No.9 Dream」全米チャートで最高位9位となる。”9という数字が好きだ。自分の生まれた日だし、数字の中で一番大きいし”。

1974年12月29日
フロリダのジョンの元にアップルの弁護士から解散のための書類が届きます。その書類にジョンがサイン、この瞬間ビートルズは法的にも解散します。

1975年1月
メイ・パンによればエレンビルから戻ったジョンはそれまで以上に精力的に仕事をこなしていきます。『心の壁、愛の橋』のプロモーション、『ロックン・ロール』のレコーディング、エルトン・ジョンのコンサートへの飛び入り、デヴィッド・ボウイと「フェイム」を共作、そしてニュー・オリンズでポールの『ヴィーナス・アンド・マース』のレコーディングに参加する予定まであったようなのです。結局は時期尚早ということで見送られたようですが、もし・・・・。

ジョンはロング・アイランドでメイ・パンと住むための家を不動産業者に探させていたといいます。そして物件は見つかり2月には仮契約を結ぶ手配になっていたとメイ・パンは回想しています。

1975年1月
上記のメイ・パンの回想とは矛盾しますが、ジョンはヨーコの元に戻ります。”別居はうまくいかなかった”とはジョン・レノン談。

☆☆ これにて「失われた週末」はエンドとなります。

1975年1月
ポール・サイモンがジョンのグリーン・カード獲得闘争を精神的に支援すると表明。

1975年2月17日
アルバム『ロックン・ロール』発売。

1975年3月
前月に発売された『ロックン・ロール』のプロモーションのため「スタンド・バイ・ミー」「スリッピン・アンド・スライディン」のビデオ撮りのためレコード・プラント・イーストで生演奏を行なった。



余談ですが、このプロモがジョンの死を伝えるニュースとともに最も流されたことが、「スタンド・バイ・ミー」がジョンの代表曲となるのに一役をかったに違いありません。なんでこの曲だったんでしょうね、本来であれば『ダブル・ファンタジー』の曲であっても良かったのに。まぁ「イエスタデイ」が流されるよりはずっとマシですけど、多かったですもんね、ジョンの曲を流せよってちょっと頭に来てました。

1975年3月5日
デビッド・ボウイのアルバム『ヤング・アメリカン』発売。NYでジョン・レノンとともに録音された「フェイム」「アクロス・ザ・ユニヴァース」が収録されていた。

ヤング・アメリカンズ/デヴィッド・ボウイ


1975年4月18日
ATVのスペシャル番組「サリュート・トゥ・リュー・グレイド」の為に生前最後となるライヴ・パフォーマンスを行う。8人組のバンドを従えアコギを弾きながら「スタンド・バイ・ミー」と「スリッピン・アンド・スライディン」「イマジン」を歌う。6月の放映時には「スタンド・バイ・ミー」はカットされていた、残念。(not a second time先輩、情報ありがとうございます。)



 「イマジン」はコチラから 

1975年10月7日
裁判所により国外追放命令は破棄され3年に及ぶ闘争は終結(76年7月27日グリーン・カードを取得)。

1975年10月9日
ヨーコとの間の第一子ショーンが誕生。


こうやって見てみると、この時期運命の歯車がもう一回りしていたらビートルズの再結成、そこまでいかなくてもジョンとポールの共作っていうのがあったかも知れないですね。あっそうかそれが失われたのか(笑)。誰のせい?


以上。

参考文献、引用元は 
メイ・パン著「ロスト・ウィーク・エンドInstamatic Karma」
アンディー・ピープルズ著「ジョン・レノン・ラスト・インタビュー」
シンシア・レノン著「ジョン・レノンに恋して」
ミュージック・マガジン増刊「ジョン・レノンを抱きしめて」
レコード・コレクターズ増刊「ザ・ビートルズ・ソロ・ワークス」
ジョン・レノン・アンソロジーBOXブックレット
ウィキペディア(日米) 他です。

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