社会人になって

仕事をしてきた中で

心がけてきたことのひとつに

「引き出しを増やす」ということがある。


これは仕事だけじゃなくて

人としても大事だなって思うことの一つなのだけど。


会社に居る時間(仕事をしている時間)が長くなり

毎日顔をあわせる人間も決まっていて。


そうなってくると世界が狭くなるというか

刺激が少なくなってくる。


そうすると、自然とモチベーションが下がって

後ろ向きな不満や愚痴が多くなり

何もかも色あせてくるような恐怖。


お客様とお話する話題も狭くなって。

笑いをとることが難しくなったりする。


自分の中の引き出しが

どんどん少なくなっていくような

そんな感じ。


自分で自分の可能性を狭めてしまうというのかしら?

ここまで、っていう領域を

無意識に持たないようにしたい。


そのために、引き出しを増やす。

話のねたとして。

あるいは、自分の興味の範囲を満たすために。


じゃあ、どうやって?


学生時代にいわれたことは

できれば1日に一冊本を読みなさい。ということ。

なかなか難しいことだけれど

ハードブックに限らず

雑誌、漫画、小説、週刊誌など

あらゆる活字をちょこっとだけでも目にすること。

これだけでかなり違う。


もしくは、お金をかけずに

ウインドウショッピングに出かける。

ショーウインドウに飾ってあるもの

季節もの、定番商品

そして、街行く人の服装や持ち物をチェックすること。

デパチカの食品街をうろつくこと。

試食をしまくること。

電車やバスの吊広告に目を配ること。


年代の違う飲み友達をつくること。


情報を集め

興味の持ったものを調べ

自分のねたにストックしておく。


重ねていくことによって

マニアックな知識が増えたり。

広く浅い情報が手に入ったり。

世の中の動きに敏感になってくる。



そんなことを新人に

熱く語ってしまった一日。

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「絶対的な存在」と「自我」について

記事にしたところ

結構、反応があってびっくり。


「絶対的な存在」について

もう少し書きたくなったので

つづってみる。


知人Tさんと話した

「絶対的な存在」という言葉において。

この場合の言葉の定義としては

それはきっと宗教的な観念でいう

「全知全能の神」

この世を作ったお方のことを指すんだと思う。


キリスト教において、それはイエス・キリストになるのか

キリストをこの世に送り出した大いなるもの?

それともキリストの父、ゼウス?になるのか?

(ゼウスはローマ神話だっけ?)

旧約聖書と新訳聖書と異なるのだっけ?

宗派によって違うのか。


あまり私も知らない分野なので

曖昧な知識でごめんなさい。



この「絶対的な存在」が

ヨーロッパ文化に多大な影響を与えてきたし

与え続けている。


「科学の発展」と「絶対的な存在」の関係。

天動説しかり、ダーウィンの進化説しかり。

(その辺りを、時間のある時に調べてみたい。)


何もかも、その「絶対的な存在」によって

説明できるということはどういうことなんだろう?


それは、畏敬するべきもので

神と呼ぶべきなのか?

それとも、大いなる意思を持った何か?


それよりも、万の神という日本的な概念のほうが

私にはわかりやすい。

もしくは、妖精とか・・・


京極夏彦本における

中国と日本の妖怪に対する考え方のように

「説明しずらいこと」や

「闇に葬りたいこと」などを

一定の名前をつけた「妖怪」に容どり

不思議な現象を「妖怪」という装置に置き換えて

説明してしまうという観念のほうが。


この考え方においては

まず、何かしら科学的根拠や事実があって。

それを曖昧にするための装置としての

「言葉」や「名前」がある。


「絶対的な存在」という考え方においては

まず、「絶対的な存在の意思」という

曖昧なものが前提にあって

そこから科学的な根拠や事実がある。


東洋的な考え方と西洋的な考え方は

根本的に逆のスタンスに立っているようにも

思えてくる。



海の神、山の神、地の神、川の神、・・・便所の神様まで

ものにはすべて、魂がともっていて。

神様がそこにいる。

なんとなく、そういった考えのほうがほっとする。


「絶対的な存在」の前では

輪廻転生は否定されるの?


命は回りまわるもの?

それとも回らないもの?

曼荼羅の宇宙は?

カルマは?


「絶対的な存在」というものがあるのなら

もしかしたらこの世の中は

誰かの夢の中、頭の中の空想の一部であるかも。


そんな恐怖心を覚えるのである。

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色んな人とお話して。

学生時代の勉強の仕方とか

どんな本を読んでいたとか

どんな知識を得たとか

振り返る機会が最近多い。


そういえば・・・といいながら

当時はあくまで勉強という知識でしかったなかったものが

社会人となった今、その知識を使いこなせれば

また違ってくるのかしらと思うこともある。


書くことによって

自分の理解している範囲があからさまになって。

足りないところを埋めるために

また新しい知識を勉強して。


例えば、50字のニュースなり論文なりレポートを書くには

最低でも500字書ける情報量や知識が必要だったりして。

それを、精錬して余計な部分を削り落として

シャープの文章にしてあげる。

そんな作業が50字の価値となる。


これは私の尊敬するある人からの受け売り言葉。

とっても心に深く刻みこめられた言葉。


知りたいことがあるならば。

そのことについて知るために

まず1冊の本を読む。

たぶん、それで理解できないだろうから

同じテーマの本、違う著者の本を10冊読めば

完全に理解できるようになる。


時間があればできることだけど

時間がなくとも、10冊は無理でも最低3冊読むことによって

知識は確実になり、膨らむ。


本当は10冊というところにも意味があるんだろう。

解釈の仕方が人によって違うから

1冊だと偏った知識になるかもしれない危険性がある。

10冊読めば、偏らずそのテーマに関する問題点や

学説の分立、解釈の仕方、場合によって移り変わっていった

時代背景など・・・・・

見えてくることもある。



その人に散々口をすっぱくして言われたこと。

よく飲みながらお説教されていたことが懐かしい。


7年という歳日の時間的ハンデ・経験的ハンデがあるのに

追いつけられるはずがないじゃんと

逆切れしたこともある。

追いつきたい、認められたいと思い必死だった。

特別に思われたかった。

他の女と違うよねと。

湯水のように、吸収しようとした。

学生時代の思い出。



「あなたの知識は甘すぎる。

語るにはもっとちゃんとした知識にしなさい。


①言葉(概念)の定義

②使用例(どんなように使うのか?)

③反対語(概念)・学説

④類似語(概念)・学説


この4つをきちんと説明できて

初めてそのことを知っていると語れるんだよ。」


最近、そのことを忘れていたことに

改めて気づいた。

やっぱりちゃんと習慣づけられていないところに

自分に対する甘さがでているのだろう。


「あなたはそういうところが、だめなんだよ。」


今、彼にあったならそういわれて

「頑張りなさい。」といわれるだろう。

追い越すことが目標だったのにね。

すっかり忘れていた記憶。


イミダスとか現代用語辞典とか小六法

最近買ってないしなぁ。

ちょっと反省しなきゃ。


<読みかけ、もしくは買ったままで読み終わっていない本>

・「ミクロ経済学 入門・学習書」

・「マクロ経済学 入門」

・「囚人のジレンマ」

・「アメリカの鏡・日本」

・「ゲーム理論」

・「千畝」

・「文芸春秋における昭和史」

・「ランチタイムの経済学」

・「将棋入門」

・「一人でうまくなる将棋」

・「簡単な微分積分入門(経済学用)」


その他、ごろごろ。

経済学関連と歴史関連ばかりだΣ( ̄□ ̄;)

数学が途中から、ついていけなくなったので

経済学関連の本は進みが遅い。

理解するのに何度も何度も立ち止まるから

途中でいやになって投げてしまっている本が多い。

本棚に並んでいるだけじゃ、意味ないじゃんね。

並んでいることで満足にならないように。

もう一度、数学から勉強しなおそうかな。



<欲しい・欲しかった本>

・ハーバート・ビックス, 吉田 裕昭和天皇(上)

・ハーバート・ビックス, 吉田 裕昭和天皇(下)

何か他にもあったはず?!



<書きたいもしくは気になるもの>

・歴史バトン

・パレート最適(パレートの法則)

・硯・筆・顔真卿 ・書道のあれこれ

・罪刑法定主義と法の不遡及、経済との関係


う~ん、時間とお金と集中力がほしい。

他にもいっぱい誘惑がある。

飲みにも行きたい。

ボードにも行きたい。

一日寝てだらだら過ごしたい。

図書館にも行きたい。

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自分の中で「自我」というものが生まれたとき

何で「私」は「私」なんだろう・・・

そういった疑問を抱いた。

確か小学生2年生くらいのときかな?


とても観念的で説明しづらいのだけど。


心というか、魂というものが人にはあって。

それがどこかで他人に繋がっている

そんなイメージを持っていた。


みんなが自分のことを「私」っていう。

そして「私」はいっぱいいる。

同じ「私」なのか、違う「私」なのか。

なぜ、同じ「私」ではありえないのか。


そして、なぜ言葉でないと伝えられないのか。

頭の中のイメージを人に伝えられないのはなぜか。


木の根っこのように

心とか魂がみんなどこかで繋がっていて。

そうすれば、イメージが伝わるのに・・・。


そんな疑問を抱いた。

小さいときの記憶。


お酒を飲みながらそんな話をした。


「その疑問って答えが出たの?」

知人Tさんに聞かれた。


まだ、答えは出ずにいる。

きっと考え続けるのだろう。


ある程度、年齢を重ねて行った上での

考え方の違いや価値観の違い

これは、育ってきた環境や状況によって

変化していくということはわかりやすい。


でも、まだ幼いとき

(生まれ育つ環境の違いはあるにしろ)

これから、経験を重ねていくという前段階で

違った「私」という自我が明確にあるのは

なぜなんだろう。


ずっと疑問に思っていたこと。

お酒が進むにますます饒舌になってくる。

そして、理解してくれる相手がいて。

ますます・・・・ね。


Tさんは、教会という背景があるので

(どういった宗派なのかはまだ知らないけれど)


「やっぱりそこには『絶対的な存在』があるということによって

説明できるんじゃないかと思う。

それ以外に、説明できないかなって思うんだよね。」


何か、人の英知を越えた部分

自然とか災害とか宇宙とか生命とか。

そういったものをつかさどる部分に

何か、絶対的なものがあるんだということは

おぼろげに感じることはある。


ただ、それが「絶対的」で

「無二」な存在といわれてしまうことに

個人的に抵抗がある。


その「存在」を理由に

どんなに多くの争いが起こり

正当性を主張して

破壊や略奪がされてきたことか。


何かを容どり、名前をつけて

わかりやすくする「装置」は必要だけれど

それをどのように「扱う」のか

そこに人の怖さや弱さがある。


何かを信じることによって

心の安寧や核なる軸ができること

それはとても素晴らしいことなんだけどね。

それを理解できないと

理解できない文化や芸術もある。



お酒を飲みながら

そんなことを話せた時間

とっても貴重だった。


そして、きっとずっと

「絶対的な存在」と「自我」について

永遠に考え続けるのだろう。

そして、何かにつけて語り合うのだろう。

答えがでるまで。

今年も残すところ、あと1ヶ月。

営業のお仕事としては

15日(週末ですと17,18日)までが

勝負ですね。


最近、CS向上について

全社を挙げて取り組んでいるのですが

これがなかなか難しいのです。


5段階評価で

「満足」では、だめなんですね。

「とっても満足」と

お客様にいってもらわなくてはいけない。


「没不満」ではなく

「大満足」ということを目指す。


あれこれ、改善策を考えて取り組んでいるんですが

基本は、接客業なので

きていただいたお客様に

スタッフ全員が興味を持つことが

大事なんですよね。


なかなかできないのですが

手持ち無沙汰にしているお客様がいたら

声をかける。

常に、気にして行動をする。


こちらがお客様を迎え入れる準備を

(心の準備と物質的準備)

常に整える。

これが、人間だからなかなか難しいのです。


それができて、初めてプロなんですよね。

お客様の行為によって

初めて私たちのお給料が出ているので

プロに徹しなくてはいけない。


そのためにも

スタッフの雰囲気やコミュニケーションは重要。

ぎすぎすした人間関係だと

それがお客様に伝わってしまう。


忙しく、仕事をしつつ

人間関係も円滑にして

なおかつ、自分も仕事を楽しまなきゃ。


色々、課題も多く

個人的な課題も数多くありますが

残りあとわずか、頑張りましょ。


久々に?!前向きなstraycatsでした♪