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>2つ前の記事と>1つ前の記事から続きます
おふたりの文章で私が気づいたことと、私(ステップあや)自身について、書いておわりにします。
摂食障害の多くの人にあてはまるのですが、コチラで紹介したおふたりの文章からも、コミュニケーションが驚くほど下手で、それによって膨大なストレスを抱え込んでいて
そのストレスが、摂食障害の「苦しみが付きまとい、沢山のものを失ってでもやせることで得る安心や、苦しみが付きまとう過食で曖昧になる作用がある「症状」が必要な状態につながっている、
ということに、二人とも少しずつ気付き始めた、という共通点を、私は感じました。
「コミュニケーション」とは、自分の気持ちを言葉で伝え、相手の気持ちを聞くこと。
って言葉で書くととても簡単そうですが、これ、実は簡単じゃないの。
言いたい放題いっているように見える人でも、大切なことは全然さっぱり伝えることができていなかったり、
相手の話を聴いているようでも、実際は自分の中にある自分自身の心のフィルター(思い込み、当たり前として刷り込まれた価値観)を見ていて、相手の話を全く聞けてなかったりすることも多多かったりします。
私自身もそうだったよ。
そんなコミュニケーション下手によるストレスが、痩せることや食べるコトへの依存という症状に出ていた。
ストレスが皮膚疾患に出る人もいれば、喘息に出る人もいるように、摂食障害の人の場合は、摂食障害の症状に出るのです。
↑
この仕組みの詳細もっと読みたい方は
*コミュニケーション下手の具体的な例は、「ステップあや コミュニケーション 下手」
でグーグル検索するか
*このブログの「ブログ内検索」でコミュニケーション 下手 で検索するか、
*ブログのトップにつけた「リンク集その2」をクリックすると、目次#14に私がPICKUPした関連記事が読めます。
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ふたつ前の記事のふみさんは特に「コミュニケーション」という言葉は使われていませんが、「お疲れ様過食」について、こう書かれています。
本当は、誰かに今日あったことを話して、うんうん、って聞いてもらって、抱きしめてもらいたいんやろうなって思います。
だけど、当たり前の話、人は自分の思う通りの反応はしないし、家族にその話をするのは年齢的にも更に自分が嫌になりそうだし。
って。
一つ前の匿名Aさんは
いつからこんなに言いたい事を飲み込み、感情を抑えるようになってしまったのだろう…
って書かれているね。
ふたりとも、状況もタイプも違うけれども
「気持ち」を言葉で伝えることができない。自分ひとりで抱え込もうとしてるっていうコミュニケーションの癖の部分が似てるな、って思ったよ。
言葉で伝えることができない癖は、表面上の見え方は様々です。
・一見、”はきはきと自分の意見を言っている”ように見えるけれども、本当にしてほしいこと、してほしくないこと、本当はどんな”気がして”いるのか、本心何一つ言葉にしていないため、何一つ伝わっていないし相手のことも何ひとつ分からない状態になっている人
・逆に自分の気持ちを言い過ぎているように見えるけれども、”伝え方”が 指令や命令になっていたり、自虐の形(どうせ私なんて~だよ!)になっている場合も、本心は伝わらず、だからこそ募る怒りを爆発させている人
・表面上はニコニコ取り繕って”コミュニケーション上手”のつもりだけど本心は全く伝えていない人
・伝える目的が”自分の思い通りに相手を変える”ことが目的なので、相手の気持ち聞いたり理解したりしようとは全くしていないために、「私は大切に扱ってもらえない」という誤解に苦しんでいる人、
・「どうせいっても聴いてもらえない」「自分の気持ちを話すと過剰に心配されてああしたらこうしたらと干渉されるのが嫌」と、心のシャッター閉めて、何でも自分ひとりで解決しようとする人
・「命令」「暴言」で他人を振り回す人も、大切なことは何一つ伝えておらず相手の話もきいてないからやっぱりコミュニケーション下手なのです。
などなど、その形はいろいろです。
どのタイプのコミュニケーション下手のひとも自分の想像の中で怒ったり傷ついたり、とてもストレスフルな毎日。
何かしらの症状が出てもおかしくないくらい、ストレスを抱えています。
確かに、ふみさんのおっしゃるように、人はいつも理想の反応をしてくれるわけじゃない。
だから私は、ここのブログや本に、理想の反応じゃない場合でも、そこにある人の温かさに気付けるようにちょっとこんな角度でみてみようか、このように伝えてみようか・・っていうていう提案も書いてきては、いる。
それも本当に大事。
けど、一人でグルグル考えてても、苦しい考え方って変わらない。
なぜなら、”考え”って、自分を苦しめる考えもそうでない考えも、対人関係の中で体験し実感しながらできるものだからです。
そう、何度もかいてきたように
コミュニケーションて
他人と自分の共同作業。
自立っていうのも
一人でなんでもやることじゃなくて
困ったときは人の力を借りながら
自分でできることをする
ってことなんだよ。
だからもしもね、おつかれさまって自分をラクにさせてあげること、自分でする努力も必要なことだし、私もそのことを書いてきてるけれども
自分の気持ちと向き合って
見えてきた自分の気持ちを伝えて
それに対する相手の気持ちを聞いて
その繰り返しの中で、
人にもらえる協力を増やしていく
それも、(今までしてこなかった人は)、そこをやっていくことも、必要だと思うよ。
例えば、
たとえば話聴いて欲しいとき
アドバイスはいらないときは
それは明確に伝えてみると
相手もわかりやすいよね。
それいわないで、話しはじめて何か気に入らないアドバイスされたら、怒ったり傷ついたり、やっぱりわかってもらえないって傷つく、
っていうのを繰り返してるときは、そこ(アドバイスはいらないこと)が伝わってないのかも。
抱きしめて欲しいときは、
抱きしめてってお願いするのも
頼ること、協力をお願いする、
のひとつになるとおもうよ。
「ふつう、私を思ってくれてるなら私がいわなくたって、わかってくれるはず」って、自分が自分の「ふつう」を相手に押し付けてしまうと、苦しいよ~っていう感覚が教えてくれます。
↑私もこれたまにやる(笑)
でも、こんなこともあるんだと知ってると、「あ、私の怒りや傷つき、作ってたのは相手じゃなくて私だった^^;」
って気付ける。
いたとたん
「相手に大切にされない私
話も聞いてもらえない私、
いつもわかってもらえない私」
っていうストレスフルな現実が、ふっと、違ったなーって気づけてラクになうこともあるんだよ。
もちろん毎回じゃなくてそういう「こともある」だけど。
その、「こともある」程度のことを重ねていくとびっくりするほど大きな変化が訪れます。
抱きしめて欲しい人がいたら「ハグして」「抱っこして」ってお願いしちゃってもいいよねってかいたけど
もっといいのは
自分から抱きしめちゃうこと(笑)
コレ、思い切ってしてみると凄くラクだよ。
抱きしめて欲しい人を
抱きしめるときって
抱きしめられるのと同じくらい温かいのです。
「この年齢で・・」ってかかれてたけど、抱きしめてもらいたいって思う気持ちに年齢なんか関係ないと思うな。
むしろ大人になってからのほうが、子供とか、抱きしめることはあっても「ただ 抱きしめられる」ってあまりないから必要なんじゃないかなって思ったりする。
特に、私は子供のころにお姉ちゃんだから、って大丈夫なふりして抱きしめられる機会を自分から断ってしまったこともあって、ハグが欲しくてたまらなかったみたい。ずっと欲しくないふりしてたけど、ほんとうは欲しかった。
母がなくなる前、大分大人だったけど、最後の最後に、母に抱きしめてもらったよ。
ちっとも病気のことも私の「個性」や生き方も、理解はしてくれないひとだったけど「私本当はぎゅってしてほしかったんだ」って気づいたから、がんでやせ細った母に泣きながら、お願いした。
「お母さん、本当はわたしずっと抱きしめて欲しかった」っていったんだ。
それまでは、
愛なんてこの世にないし、
見えるものしか信じない
っとかって目に見えないものを、鼻でわらうのが私だと思ってたんだけど、違ったみたい。
▼それはこの記事にかいたのでよかったらどうぞ。
>男・セ ックス&ヤセたい願望・食べたい願望 (恋愛依存)
母はその時もう死ぬ間際で、やせ細っていたけど、力なく、かよわくだけど、抱きしめてしてくれた。
私も母もただ泣いていて、それ以上、話はできなくて、言葉にならないけど、とても心が温かくて癒されて、何か、涙がとまらなかったんだ。
▼そんな母のことは、この記事に書きました。
>母のこと(心の傷)
今でも、もう二回も成人してるような年齢だけど(笑)、私はハグがないと生きていけない。
私きっとアメリカ人だったんだわ。
っていうのは嘘(笑)。
ただ、私の心が、そういってるのを感じる。
心開ける相手、ハグして、ハグしたいっていえる相手、私も最初からいたわけじゃないよ。
この病気の回復途中で、心を開くってことしてきて、一人ふたり見つけてきたから今、数は少ないけれども、いるんだ。
旦那でも友達でも、抱っこして欲しいときは抱っこーしてー!って自分からいうよ(^-^)
してくれなかったら、相手の腕をとって自分に絡ませるよ(笑)
それもしてくれなかったら、私が相手をぎゅーってして勝手にあったかさ感じるよ。
ハグにかかわらず
昔は、こういうのができなかったんだ。
自分が何をしてほしいのか
どんなことでほっとできるのか
自分のことなのに知らなかったし
これをしてほしいと思っても
突き放されるの怖くていえなかった。
ひとりで寂しさかかえて
ひとりで傷ついて、
私には誰もいない、何もない、
ってひとりで抱えて、
ひとりで、真っ暗な人生歩いていたんだ。
そんななかで、苦しさを伴う過食嘔吐の刺激や苦しんででも痩せる安心は、トゲだらけでつかまるほど痛いけれどもボロボロの私を支えてくれる唯一の杖だった。
手放せなかったも、当然だったんだよ。
みんなもさ、自分ひとりで頑張ろうとしないでいいよ。
ただ、自分にも限界があるように
他人も限界はあるから
自分の思い通りの反応を要求したり、
自分の「ふつう」を押し付けてしまうと
相手も苦しく余裕がなくなる。
そうなれば自分(あなた)を受け止める余裕もなくなり、結局は自分も「支え」や「協力」が遠のいてしまうから、
頼ることと、
命令することの区別は
つけて行く必要があります。
相手に「思い通り」をおしつけないで、コミュニケーション(伝える&聞く)をしていくことは可能なのです。
ただそうはいっても
自分の気持ちを無視して世間や他人、親の「~べき」「べきでない」を自分に押し付けてきたひとは、他人や世間の顔色うかがうのは得意でも、自分の気持ちはさっぱり分からなくなっていることが多いから、いった自分が何を伝えたいのかすらもわからないのだと思います。
だから、私の本とかブログみて何かを感じる人は、「そうそうそうそう」って初めて自分の気持ちが言葉にしたり、「それはどうかな、わからないな」って感じながら、自分の気持ちを確認したり、、そんな作業をしながら自分の気持ちを言葉にしてるのだと思います。
ごめん長くなったね。
もっともっと、気づいたこと、あるんだけど、どうしても文章だと長くなるのでどうしようかな。
あとは、ワンポイントレッスンふうに、超簡単に、かこうか。
一個前の匿名Aさんの
>本当は働きたくないのかも・・
これはね、こう思うからこれが本心、とはかぎらなくてね、ご本人にも伝えたけれども、その気持ちになるのはなんでかな?
って堀りさげてくともっと別の「本心」が出てくるんじゃないかな。
本当はやりたいのに我慢してやってないこと
本当はやりたくないのに我慢してやってること
本当は仕事云々のその先にもっと”怖れ”ていること
があるんじゃないかな。
▼これについては、その後のメールでこのような気付きをされてました
本当は仕事をやりたくないのかも知れない…頑張って掘り下げてみました。
私は一般的な能力がない、続かない、
常識のない人間だから今の
自営の仕事をやめたら生きていけない、もっと辛い目に合う。
他者と程良い距離感を保てず、他人の態度や言葉に極端な反応になってしまう(必要以上に自己を抑え合わせる、もしくは反発 )。
感情を揺さぶられる事に疲れる。
それならいっそ仕事をしたくない、働きたくない、こんな私では働けない…
世間と自分自身が怖い。
そして両親と本音で会話が出来ないこと、、などが出てきました。
自己肯定感の低さ、強い自己否定を感じました。
あやさんとお話しさせて頂いてから、本当に変えていきたいもの、変える為の取り組み方、方向性が見えてきたような感覚があります。
今迄は過食嘔吐をやめたい、仕事を嫌だと思う考え方を変えたい、だけでした
セッション後から、もうこんな私でもいいや(投げやりではなく)、これも私なんだ…と、自分自身に静かに降参する気持ちが出てきています。
・・・だそうです。
方向性が見えてきて、よかったね。
でもね匿名Aさんも、これを読んでる皆さんも頑張り屋さんが多いので誤解のないようにいっておくと
病気を治すために
「考え方を変える」っていうのは
自分をまったく
別の人間に変えるというよりも
変わらない自分でいいコトに気づくこと
自分の「特徴」にバッテンつけず
そんな変わらない自分のままで
ラクに楽しく生きるために
必要な考え方や生き方を自分で取捨選択していく、
というかんじだよ。
多分、ソレが伝わったので
>結局私は、自分で決めて責任をとる事が怖い、逃げたいのだと思います
って書かれていたのかもしれない。
コレに気づくのもすごいけど、それを認めるのってとても勇気がいることなのに、ありのままの気持ちを書いてくれて、すごいなあ…
って思った。
だって、自由に生きると決めたら、
親がああいうからとか
世間がああいってるから、とかって
自分の不幸を誰かのせいに
できなくなっちゃう。
それはそれで怖い。
私もやっぱりこわかった・(゚ーÅ) ホロリ
で、おそらく、こう考えるかもしれない。
自信がつけば自由に生きられるようになる、のではないかって、
でもそれは違うの、逆なの。
大丈夫だなんて自信がないまま、自分がどうしたいかしたくないかで、人生を自分で決める。その結果、失敗しても成功しても辛くても嬉しくてもそれをうけてまた、自分がどうしたいか何ができるか、自分できめる。
ひたすら、それを続ける。自信がないまま。
そのうちに、ふと気づいたら、世間(親)はああいうけど、私はこうだ、っていう自分の芯=自芯=自己肯定感=自尊心が強くなてってきてるな、、と気づく時が来る。
という順番なのです。
体重のことでも、そうだったよね。
究極の選択も、
その時々の自分にきいて、
自分が決めること。
幸せになるにも覚悟がいる
▽詳細はこちら
>摂食障害治して○キロまで痩せられますか?/ 治すときの「究極の選択」
上記の記事を書いた当時も「ビックリした!」っていうメールが一杯届いたのでした。
***
最後に、、昨日の記事に書いたけど一瞬、削ろうか悩んだ、私のセッションなどについて好意的なことを書いてくださったの部分について、「私には過剰な褒め言葉なきがして」ブログにのせるときに一瞬、削ろうと思ったって昨日書いたけど、あれもポイントなんだ。
なんか「消したほうがいい」と思った気持ちの下にある本心はなんだろう、何でそう思うんだろうって自分の心と向き合ってみたら、あったよ。
書いてくださったようには思わないって思う人に、色々いわれるのいやだな」って思ってたみたいΣ(゚д゚lll)
これ私自身も、よくかいてる↓コレ↓でした。
>今の自分を肯定する言葉はよけて避けて脇に置き否定的な言葉ばかり取り入れて来なかった?
↑
これは、いい言葉だけうけいれるって意味じゃないのでご注意下さい。
否定も批判もいったん受け入れる。けど、受け入れるの意味は
「批判されるから批判されないように自分を変える」って意味じゃなくて、どんな意見も、いったん心のクッションで受け止めて、そのあとは結局、私が、私の中で、それについてどう思うのか考えて私がそれもそうだなと思えば取り入れるし、私は違うと思えばやらないし、そのようにして自分で自分の人生を決めるんだよ。
↑
これはコミュニケーションの方法としても、そう。
相手の考えや意見も、いったん心のクッションで受け止めて、それに対してどう思うかを自分にきいて、私はこう思うと伝えるだけ。
相手を「分かってくれる人」に変えるためじゃなくて。ただ伝える。自分が伝えたことに対して相手がどう思うかも、相手の自由なのです。
ソレが、怖いんだけど、そこは怖いから、相手に合わせるOR相手を自分に合わせさせる…をしてても、生き辛さは強くなることこそあれラクにはならないと思う。
**
何かあれもこれもと、一杯詰めすぎてすみません。
今回2つのメールだけでも、もっともっとかけそうだけれども、どんどん長くなるので、きょうはこの辺でおわります。
ちょうど、眠くなりました。おやすみなさい。
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