A Wizard, A True Star

『好きな物を作るためではなかった。
私は自分の嫌な物を時代遅れにする為に、自分の才能を爆弾に使ったのだ』



・19才、関西在住 同志社大学法学部二回生 浅田悠介です。

マジシャンのパフォーマー/クリエーターとして頑張って活動中。


・京都三条木屋町にありますマジックバー「LQS(エルクワイス)」にて定期出演中!

「LQS」http://elyou.net/

直近の出演日はhttp://elyou.net/calendar になります。

一週間前に日程が決まることもありますので、お手数おかけします。

もしよろしければ、来てやっていただけると僕が喜びます。


・クリエーターとしてはマジックマニアに向けた研究発表の意味合いの強いマニアックな物になりますが、

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ペンは剣よりも強し、という言葉がどうなのかは分からないけれど、言葉は武器だと思う。
自己表現のパフォーマンスとして言葉が何にも勝っている、というのは事実だろう。

かといって、誰もかれもが”剣より強い”言葉を無尽に振りかざしても良いわけではない、と感じるときがある。
強い武器には、それを扱うだけの力量が必要だとも言えないだろうか。
極論、己の意志を押し通せる最高手段である原爆のスイッチを誰もが持つことを理想的だと思えるだろうか。

少なくとも過去には、読み書きは一部の階級だけのものであった。
そう、その力を行使しうる立場の者だけが、行使しえたのである。
もちろんそれが良い悪いという話ではない。

では現在はどうか。
まずその特徴としてあげられるのが、電脳世界だ。
そして、急速に広まったインターネットという存在と言葉は、相性が良すぎるように感じるのである。

言葉はネットの登場と共に、安易に動き過ぎている、ような気がする。
誰も彼もが、受信出来過ぎてしまうし、発信出来過ぎてしまう、ということだ。

以前、有名人がツイッターでファンとやり取りをしているのを見て、悪手ではないだろうか、と考えたことがある。
それは有名人の仕事の一つに、「遠いところにいること」が含まれているような気もしたからだ。
誤解はしてほしくないけれど、もちろんそれは各人のスタイルによる。

本当に述べたいのはここからで、
自分は、有名人に非常に安易な言葉を投げかける行為について思うところがあるのである。

ええと、これまた偉く誤解を招きそうなので、もう少し詳しく書くと。

まず、有名人だからと言って偉いわけではない、特権階級ではない、というのが一つ。
もちろん有名人も一般人だ。

ここでは、「普段は簡単に会えないし、気安く声もかけられない立場の人」という意味で有名人、
という言葉をあえて使用していると述べておく、芸能人ではない。

そして、そうした人にメッセージを送る行為を非難しているわけではない、というのも一つ。
そういうことが可能であるからには、礼儀をもってして彼らにコンタクトをとることは別になんら悪い事ではない。

けれども、「可能である」ということと「やっても良い」ということは別だと自分では思っている。
システム上は、送信可能であるからと言って、誰に何を送っても許されるわけではない。
ネットの世界も現実の一部、ということで現実同様の気遣いは不可欠だと思う。

以前に、
「誰でも送ることができるということは本人も自覚してるハズだから、
そのシステムを許可している以上、何を送っても許される」
のような論理を聞いたことがあるが、自分には違和感のある言葉に思えた記憶がある。

確かに、「友人の友人」や、「全体」からのメッセージを受け取ることを許可する設定も存在する。
けれど、そのシステムを熟知ぜずに大雑把な設定をしてしまっている人もいるだろうと思う。

もちろんそんな設定を怠った方が悪い、とも言えるだろう。
けれどもそれを知っていてあえて利用するのもどうかと思う。

あるいは皆に現実世界のようなモラルを期待していたら馬鹿を見る、というだけの話なのだろうか。

フェイスブックの流行を見るに、一部ではネット上の匿名性が薄れていく方向性は見て取れる。
これだけで、そんな理想論を皆が望んでいた、ということの証拠にするには根拠希薄だろうか。

極論、良く知りもしないのに、なんとなく”つながった”人が、
自分の知らない間に、自分の友人たちに辺りかまわずメッセージを送りつけていても、
その友人たちが”悪い”のだろうか。

その友人たちが”友人の友人まで”設定にしていたというだけで。

違うだろう。
現実世界で、そんなことがあってはストーカーにしかならない。
「会える方が悪い。手紙を受け取る方が悪い」という論理にはならない。

その論理やモラルをネットで平然と失える意味が自分には分からない。
これも旧式の発想なのだろうか。

だとしたら自分には、もうついていけない。
現実と違いすぎる世界なんて自分はいらない。

・・・っと、以前友人がネットストーカーに遭ったので、少し筆が走ってしまった。
話が少しずれてしまった。

とはいえ、これは極端な例で、そうした事をわきまえた上で連絡を取る分にはセーフだと思う。
それがネット世界には、相互監視が存在しないから、
モラルだとかいう個人の主観に頼らざるを得ないのが辛いところだけれど。

ただ、十分にわきまえなくてはいけない、のだと思う。
そして、有名人、目上の人に対しては一層謙虚になる必要があるとも。

本来、「自分が会いたくても会えない人」には、会えないものである。
それは単純に自分がそのレベルにいないから、だ。

もしもその人と話したくなってしまったら、血のにじむ努力をして、
その人のステージに近づいて、何かの拍子にお会いできたときに。

「はじめまして、僕はあなたの背中を見てここまで来ました」と挨拶するのが全うではないのだろうか。
ようやく自分もそのとき、彼に近づけるレベルにまで昇華した、ということになる。

それが今や、非常に気楽に人生の先輩に軽口を発信できるのである。
もちろん、それを喜ぶ人もいるだろうけれど、単に大人な対応をされているだけのこともある。

自分はこのことに非常に違和感を感じる。
本当に指先の軽いフットワークだけで、
「そのまま生きていては絶対に会えない人」に、何の努力も無しに言葉を投げかけられるのである。
しかしそれも時代の波、上記のように、悪い事でもなくなってきているのだろうか、とも考えられる。

けれど、そうしたことを勘案した上でそうした行為をする事と、
全くなにも考えずにそうした行為に及ぶこととは雲泥の差である。

というよりは、その意識の有無が明らかに言葉に出てくるのが分かる。

明らかに、「投げかけるべきではない言葉」を目上の人に何も考えずに投げかけている場面に遭遇する。
本来現実世界では持つべきの謙虚さを、画面を通しては失ってしまっているのである。

もう一度言う。
たぶんだけれど、ネットというツールを扱うにはある程度のレベルがいる。
とはいってもそのレベルというのは、現実世界を生きていく上での社会的知能となんら変わりはない。

けれど、そうしたことを見失ってしまいがちな未成熟な人物でも、
安易に手を出し安すぎるが故のことなのだと思う。

そして、それはその人物だけが悪い、ということでもない。
それを教えない現実や、それを許可する現実も共犯者だとも考えられるからだ。
それがネットの中の裸の王様を量産する。

『言葉を扱うには相応のレベルがいる』

そう思ってしまうようなことが、言葉の氾濫の中に見て取れる。
言葉を行使しうるものは、その武器の前により一層謙虚であらねばならない。



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昨日電車にのっていて、ふと前に目をやると、全員が携帯を手にしていて恐かった。
何が恐かったのかというと、自分の手元にも携帯が握られていたからだ。

「電車の中で携帯ばっか触りおって」という先人の言葉を最近は聞かなくなった。
前はどこかで聞いていた気がするのだけれど。

確かに電車の中で携帯電話を触るのはマナー違反だという意見も共感できる。
というか、自分もそちら側の人間な気がする。
それは、何の側なのかと問われれば、「時代についていけないノスタルジィ集団」なのかもしれない。

けれど、電車の中で携帯を触る行為はマナー違反だとは言えないだろうと思う。
車内で化粧をするような、「人前で見せるべきではない恥ずべき行為」だとは言い難いからだ。

誰かと密に連絡を取り合い、ネットで情報を収集する行為もプライベートな行為だとは言えるけれど、
それは新聞や本を読む行為となんら変わりが無い。

今や人間は体を固定させながら、同時に世界中にアクセスできる時代にある。
体、行動範囲、という概念が、少し前に比べて圧倒的スピードで拡大しているように感じる。
以前はせいぜい車や飛行機だったのに。

だから、電車の中で携帯を触る行為も、時代の流れ、新しい波だとも言えるだろう。
それを「以前は誰もやってなかったから」という理由だけでマナー違反とするのは論外だ。

けれどもそう簡単に割り切れる話でもなく、電車の中での携帯という行為に異常を感じてしまうのは止められない。
これも、もはや「テレビは白黒」だとかいうのと同じ旧式の考え方なのだろうか。
この違和感が違和感でなくなるときを望めば良いのだろうか。

もしくは、あえて言うなれば、この違和感こそが、人間に備わっている危機察知本能だとも言えないだろうか?
現実から目を背け過ぎることへの警鐘だとは言えないだろうか?

「誰にも迷惑かけて無いだろう」
「別にマナー違反でもないだろう」

確かに論理としては全く持って正しいと思う。
けれど、それでも何かを感じてしまうのは、遺伝子が本能的な危機を教えてくれるからではないかとSFしてしまう。
そうでなければ、ただの旧人類の郷愁だ。





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先日も友人と、とある議論をした。
なかなか個人的には興味深かったように思っている。

少し前のことなので、記憶も劣化しているので時系列も確かではないだろうが、記してみる。
そーいうのも大事だと思うからだ。

そもそもの始まりは、
「大学生で先輩が後輩に奢る」という行為は、はたして正当なのかというものだった。

別にケチくさいかとかいう話ではなく(いや、ケチくさいか?)、
大学生が数年の上下だけで、奢る、奢られをする行為が、ある種の”ままごと”に見えないか、ということである。

まだ社会に出てもいないのに、自力で生活を回せているわけでもないのに。
それなのに、いっちょまえにポーズだけは大人のまねごとをしてみせる、という。

友人は即座に「別にかまわないだろう」と言った気がする。
奢る、というのは”上下関係”それだけなのだから、と。

確かに、奢るという行為は上下関係を明確にするためには必要な気もする。
というよりは、「上にいると思いたい人」と「下にいると思いたい人」を明確にするのだろう。

しかし、個人的にはやはり「お前が稼いだ金じゃないだろう」というのが一番引っかかりを感じた。
それをもってして行う奢るという行為は、なんかカッコ悪くないか?と。

「じゃあ拾ったお金で後輩に奢るのもナシか?」と問われた。
「それはアリな気がする」と思った。
そして「でも拾ったお金も、君が稼いだものじゃないだろう?」という返しに窮した。

でも、「両親が生活費として振り込んでくれたお金を、後輩に良い顔をするためだけに使用するのはどうか」
と考えると、それはやはりよくない奢り方に思えてしまう。

しかし、逆に親が「たまには後輩に奢ってあげなさいな」と渡してくれたお金ならば、
なんの罪悪感も無しに使用できるだろうとも思う。

そして、それらをパチンコで使ってしまうのがアウトだという感覚は共通のものだろう。

そう、これは「俺がもらったものなんだから、俺がどうしようと勝手だろう」の論理につながるのだろうと思った。
友人に大切にしていた本をあげて、目の前でビリビリにされても文句は言えないのだろうか?

ここで自分が至ったのは、「全ての行為には、暗示された期待が込められてる」という考えだった。

親が渡すお金には、「十分な生活を送ってくれ」との期待が暗示されているし、
自分が友達に本を渡すときにも、「大切にしてくれ」との期待が暗示されているのである。

その”物”自体の受け渡しの行為のようでいて、”期待”も実は込みで発送されているのである。
そしてそれに著しく背いた時にこそ、上記の論理トラブルが起きる。

この考えを使用するならば、やはり自分のお金でない生活費を持ち出して後輩に奢る行為は、
もちろん条件にもよるが、ある種の親への背信行為だともいえないだろうか。
そのお金は、「十分な生活を送ること」を担保された縛りつきのお金だからだ。

さらに例えるなら、母親が作ってくれた弁当を誰かに蔑にされたとする。
そのときに感じる怒りは、自分の期待を裏切られた、というよりは、
その弁当に内在する母親の期待を蔑にしてしまったからではないだろか。

その弁当を友人に恵んでやるつもりで渡して蔑にされた場合は、
さらに自分の期待の裏切り分も加算されることになるだろう。

そしてそれらの暗示される期待は、その物自体の物質的価値に比例しない。
それがトラブルのもとになることもあるだろう。

「アンドリューNDR114」で彼女が怒ったのも、
木馬に込められた期待を壊されたからなのだろうなとふと思った。

そして、この物に込められた行為の期待、という考え方で自分は落ち着いた。
えっと、頑張って思いだしたけれど、論理的に飛躍していないだろうか心配だ。


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