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2010-02-17 00:00:00

バレないように

テーマ:生活水準

 邦明の死体を目の前にして、まず思ったのは「邦明にバレないようにしないと」ということだった。その発想に既視感みたいなものがあり、それを手繰っていったら、幼い頃の記憶に辿り着いた。

 邦明の部屋だった。足繁く通い詰めていた部屋だから、今でも細部まで頭の中でイメージすることができる。シールが乱雑に張られた小さな箪笥とあまり使われていないらしい整頓された勉強机と恐竜の絵柄の散りばめられたふかふかの布団とベッド。そして、ベッドの下には大きな玩具箱があり、そこには邦明所有のたくさんの玩具が収められている。

 邦明はその時、何か用があったのか、部屋に僕だけを残して、姿を消していた。しばらく僕はベッドの上に座って見慣れた部屋の様子を退屈しながらぼんやり見渡していた。しかし、途中から明確に自分のお尻の下にあるはずの、玩具箱のことが気になりだした。邦明は僕の持っていない玩具をたくさん持っていた。僕が玩具を買ってもらえるのは誕生日の時だけだけれど、邦明は新商品が出る度に買ってもらっていた。僕が今一番欲しいと思っている合体ロボも邦明の玩具箱の中には入っているはずだ。そう考えると急にそわそわして、落ち着かなくなった。誰もいないことを確認するように息を潜め、周囲の様子を探ってみる。邦明が戻ってくる気配も、家の人が近くにいる様子もない。僕はそっと、足元から玩具箱を引き出した。

 やっぱり合体ロボはそこにあった。邦明にしても最近のお気に入りなのか、一番上に置いてある。細部の金や銀のメッキが重厚感を醸していて、さすがの貫禄だ。テレビで毎週巨大化した怪人たちをやっつけるだけのことはある。僕は思わず手に取った。がっしりとした巨躯。ひんやりとした温度。部屋に差し込む西日でグリーンの目が輝いて見える。もはや、僕はその合体ロボに夢中だった。関節を動かしたり、刀を持たせた腕を振ってみたり、ロボのパンチを自分の体に当ててみたり。

 嫌な感触が、瞬間的に伝わった。何かが床に落ちて、カランと鳴った。それはロボの頭に生えた角だった。僕は慌ててそれを拾って、ロボの頭部にあてがってみた。当然つくはずもない。角は金メッキ加工が施され、頭と繋がっていたはずの断面は白い素材がむき出しになっている。それは要するに折れたということで、折ったのは紛れもなく自分だということだった。

 元に戻らないとわかって、今度は「これをどうやって誤魔化そうか」と考えを巡らした。焦っていたこともあり、幼い僕の頭では一切妙案は浮かばず、結局その間やっていたのは、戻らないと判断したにもかかわらず、ひたすらロボの額に角を擦り付けるという不毛な行為だった。

 やがて足音が部屋に向かってきているのが聞こえ、僕は角をズボンのポケットにねじ込んで、ロボを玩具箱に放り込んで、ベッドの下に押しやった。何も知らない邦明が部屋に入ってきて、何か話を始めた。テレビの話だったか学校の話だったか全然思い出せない。ただ、自分のポケットに収まり悪く突っ込まれた角がチクチクと僕の太ももを刺すその感触だけが、リアルに今も思い返される。

 当然、玩具で遊ぼうということになった。「今日は外で遊ぼうよ」とでも言っていれば、その場は逃げられたかもしれなかったが、僕はもうそんな抵抗をする余裕を失っていた。邦明の手によって玩具箱が引き出され、合体ロボが露になる。「ほら、見ろよ。この前買ってもらったんだぜ」、僕はその時初めて合体ロボにお目に掛かっているはずだったから、邦明はそうやって自慢をした。そして一拍おいて、「あれ?」と邦明の情けない声がした。

「しんちゃん、これ知らん?」

 邦明は合体ロボの額を指差している。僕はただぼそぼそと「知らん」とだけ答える。邦明が「これ、頭の角がないやん。なぁ、テレビでしんちゃんも見とるで知っとろう?」と今にも泣きそうな声で説明をする。僕は「うん、うん」とか細く相槌を打つ。「何でないん?何で。昨日まではあったのに」邦明の声もどんどん僕の声みたいにボリュームを小さくしていく。僕は邦明の顔を見ることができなかった。じっと、合体ロボの緑の目を見ていた。

 最後まで僕は知らぬふりを通した。その日は帰ってすぐに、ポケットに入っていた角をティッシュに包んでゴミ箱の奥のほうにぎゅっと押し込んで捨てた。邦明は別れ際までずっと「しんちゃん、本当に角のこと知らん?」と僕を問いただした。

 僕は邦明の死体を前にして、同じことを思っていた。「邦明にバレないようにしなきゃ」。邦明にバレないように邦明の死体をどこかに隠して、邦明がまた泣きそうな声で「しんちゃん、本当に知らん?」と言うことのないようにしなければと僕は真剣に思った。僕は生気を失った邦明の顔を覗き込んだ。目は見開いていて、それは合体ロボの緑の目と同じで、驚くほど何も語らなかった。

 


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2010-02-10 00:00:00

水曜フリスビー部

テーマ:生活水準

 平日の昼間にもかかわらず、この河川敷は人が多い。散歩をする老人、ゴルフクラブの素振りをする中年男性、座り込んでゲームに興じる学生服の集団。たいした娯楽施設もないから、自然と皆この河原に集まってくる。透き通る川面だけが唯一の誇りみたいな町だから、日差しを受けて煌く水面は見ていて心地よいし、川から吹く風は周囲に溢れる自然の芳しさを絡めて、香ばしい匂いを届けてくれる。今日は雲の欠片もない空だった。その青に、蛍光色のピンクが弾ける。

 葵の放ったフリスビーは綺麗に風に乗って、ふわりと上空に舞い上がると、やがてしかるべき相手に届く。「葵、やっぱうまいなー。プロになんなよ、プロに」そう言いながら、奈々子がそれをキャッチする。ソフトボール経験者らしく、しっかり腰の据わった安定感のあるキャッチ。すかさず向き直って、奈々子は鋭いパスを送る。「さあ、これが取れるかな!?」調子付く奈々子に、「あんたしゃべり過ぎ」と冷静に葵が諭す。低空を勢いよく飛ぶフリスビーを体勢を崩しながら、辛くも補給に成功した神田は「三宅さん、早いのはいいけど、変なとこに投げないでよ」と文句を言う。「あんた年下で後輩のくせにその口の利き方何よ!」奈々子は大げさに怒ってみせ、早く投げるよう指図する。神田はしぶしぶといった感じで、手にしたフリスビーを放った。大きく弧を描いた円盤は、狙い澄ましたように千草の手にすっぽりと収まった。それでも彼女は「きゃっ」と声を上げる。呼吸を落ち着けて、何度もフォームの練習をした後、千草の手からフリスビーが飛び出した。それはシュルシュルと間抜けな音を吐き出しながら、葵の遥か頭上を越えていき、茂みの中に消えた。「あー」攻めるような調子で奈々子が低い声を出す。その様子を見て葵が苦笑する。当の本人は、今にも泣きそうな顔を浮かべている。「俺取りに行きましょうか?」と言う神田を奈々子が制す。やがて、千草は変に気の抜けた鳴き声を上げながら、草むらに分け入っていく。

 葵は「先週もこんなじゃなかった?」と呆れながら言った。それに対して、奈々子が「そりゃそうだって。私たちずっとこんなじゃん」と、当たり前に言ってのけた。

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2010-02-03 00:00:00

吐き続けている

テーマ:生活水準

 大学入試の模試だった。十二月だったから、センター直前のとても大事な時期だったのだと思う。私はその時間を一切動くことなく過ごした。トイレに直行して、延々と吐き続けた。

 トイレから出ると、ちょうど部屋で携帯の着信音が鳴っているのが遠くに聞こえた。階段を駆け上がって部屋に入って携帯を手に取る。受話器から聞こえてくるのは奈々子の声だった。

 奈々子は私の相槌があろうとなかろうと、構わず一方的に喋り続けた。バイト先の新人である神田君が今度私達の週課であるフリスビーに参加するかもしれないということと、参加することになった原因はフリスビー部のメンバーの千草にあるということと、奈々子はそのことがとても許せないということを、私に伝えた。そして、「葵はどう思う?」と、ここでようやく私に発言権が回ってきた。

「私?」

「うん、前に神田君のこと嫌いって言ってたじゃん」

「そんなこと言ってないって。ただ長く続かなさそうって言っただけ」

「どっちでもいいや。とにかく、神田君がうちらの関係に土足で上がりこんでくることについてはどうなのよって話」

「そりゃあ、あんまり気が進まないけどさ」

「でしょ?でしょ?ちーちゃん本当何考えてんのかな。うちらの関係壊す気?って感じ」

 奈々子はすぐに「うちらの関係」という言葉を使う。高校で知り合って、卒業して二年経つ今も同じ居酒屋でバイトを続ける奈々子と千草と私は、確かに周りが入り込めない結束で繋がっていると思う。何をやるにも三人で、数はそれ以上にもそれ以下にもならなかった。

 そして、奈々子のこれまでの発言を考えてみるに、どうやら彼女は、その「うちらの関係」とやらに一番依存しているのが千草なのだと思っているらしい。千草は一見引っ込み思案でドジな部分もあって、奈々子が引っ張っていったり、私がサポートする場面も多々ある。しかし、本当に依存しているのは奈々子である。事ある毎に「うちらの関係」と言うし、千草は自分がいないとダメなんだと思うことで安心している節が、彼女にはある。反対に、千草はさほど私達との関係に執着していない向きがある。引っ込み思案に思える彼女の行動は、実際には人との係わり合いをそれほど求めていないことから来ているような気が、私にはする。

 奈々子との電話は、一時間ほど続いた。話は流れて高校時代の思い出話にまで発展した。携帯を閉じると、部屋に奈々子のネチネチした声が残響していた。私は慌ててラジオのスイッチを入れた。

 深夜のFMラジオを聴きながら、私は歴史の参考書を食い入るように見ていた。参考書の紙面上では、参勤交代の長い行列が歩き回り、それを黒船に乗ったペリー提督が見て笑っていた。坂上田村麻呂が伊能忠敬に蝦夷までの道のりを尋ねている姿もあった。私はそれらを懸命に凝視した。今日の模試を白紙で出すことになったのは、自分の勉強が足りなかったのだ。そう言い聞かせて、もう丸暗記してしまった参考書の文章を何度も読み返した。そうして、気づくとラジオからは「おはようございます」という挨拶が聞こえ、カーテンの向こうが白んできていた。そして、私は認めた。自分は弱いと。それで、受験はやめにした。

 なんとなく、今度の水曜、千草はフリスビーに来ないんだろうなと思った。そして、奈々子は怒り、私は吐き続けるのだろうと。

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2010-01-27 00:00:00

手洗いうがいは忘れずに

テーマ:生活水準

 手榴弾のように肥大した鼠が一匹、視界を横切った。一瞬身体がびくんと反応したが、バイト上がりの疲れた私の脳はそれ以上の動きを指示しない。

 日中どんなに睡眠を摂っても、仕事を終えてお店を出て、白んできている街並みを見るとどっと神経に負荷がかかる。居酒屋の店内で立ち回っているときは、お客の熱狂に持ち上げられて何も感じないのだけれど、制服を脱ぎタイムカードを押して外に出て朝日を浴びると、どこか物陰に隠れていた疲労感が一気に奇襲を仕掛けに来る。自分なりに懸命に働いてきたはずの一日がまるで無かったことのようにされる気がして、バイト明けの朝日が私は嫌いだ。

 閉店作業が粗方終わり、ロッカー前でエプロンを外していた私を、遅れて現れた奈々子が捕まえた。「ねぇ、ちーちゃん」彼女の第一声が嬉々とした響きを持っていたか、鬱々としたものかは、すぐに判別が出来た。

「神田君をフリスビー部に誘ったんだって?」

「あ、うん」

「何でそんなことしちゃったわけ?」

「え、だって、神田君がやってみたいって言うから・・・」

 奈々子の開いたロッカーの扉が、ギチチと鳴った。

「ちーちゃん、そういうのやめてよね。神田君来てもうちら困るって」

「ごめん。でも、別にいいかなって思って」

「とりあえず、ちーちゃんに任すけどさ。じゃあ私帰るね」

 いつもは一緒に帰る家路だが、奈々子は機嫌が悪いと決まって一人先に帰る。充分時間を空けて、私も休憩室を出た。

 家に帰ると、ちょうど玄関で革靴を履く父親と遭遇した。

「おう、おかえり」

「ただいま」

「今日は焼酎ないのか?」

「そんなに毎回持って帰れないって」

「そうか、ははは。」

 そう言って父は、私の横をすり抜けて、出て行った。

 洗面所に行って手洗いとうがいをする。几帳面な私は、手洗いとうがいをしっかりしないと落ち着けない。うっかり忘れたり、やり方が甘かったりすると、ソファでテレビを見ていても、部屋のベッドに寝そべっても、菌が手や喉を繁殖していく様子が自然と思い描かれ、居ても立ってもいられなくなる。だから、そうならないよう、今日も熱心に手を擦り、喉を鳴らす。

 あー、疲れた。洗面所で目を閉じてうがいをしている時、私はいつもそう感じるのです。

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2010-01-20 00:00:00

休憩室の十五分

テーマ:生活水準

 休憩室に入ると、そこにはすでに先客がいた。備え付けの小さなブラウン管のテレビは二時間サスペンスを流していて、彼はそれをBGMにコンビニ弁当を食べている。

「神田君、あと休憩何分?」

「あと十五分す」

 箸を加えたまま、私の方を見ることもなく彼はそう答える。彼は最近この居酒屋のアルバイトに入ったばかりの新人で、私よりも二歳年下だった。同僚で高校の同級生である葵の言う通り、確かにそんなに長くは続かないかもしれない、と私は思った。

 部屋の隅に置かれた2ドアの小さな冷蔵庫から、自分の名前をキャップに書いておいたお茶のペットボトルを取り出し、口をつける。居酒屋のホールは、騒がしい客の声にかき消されないようにオーダーを通さないといけないから喉に結構な負担が掛かる。今では慣れたものだが、最初の一週間くらいはバイト上がりには声がガラガラになっていたし、今でもこまめな水分補給は必要だった。元々声の出し方は自覚があるくらい雑で、カラオケにいけば二時間も経たずに私の喉は音を上げるのだった。その点、一緒にバイトに入った千草は吹奏楽部で慣らした腹式呼吸で、小柄な割りに頼もしかった。

 神田君の正面の椅子には座ったものの、話しかけてもどうせ彼の視界にも入れてもらえないだろうと、私はテレビの方に身体を向けて、ぼんやりその内容を追った。どうやら話はクライマックスで、探偵役のOL三人組が犯人を突き止める決定的な証拠を見つけたようだった。三十過ぎの女優三人が神妙な顔つきで、こちら側を覗き込んでいる。三人の視線の先には証拠の品があるはずなのだが、何だか私と神田君のことを観察されているようで居心地が悪い。

 私が三人の視線に耐えかねてロッカーの中のバッグから先週買った雑誌を取り出そうと立ち上がった時、神田君が不意に私の方に顔を向けた。

「そういえば三宅さん、最近フリスビーやってるんですよね?」

 突然の質問にびっくりしながらも、私は答える。

「ああ、うん。渡辺さんと河野さんと」

 いつもは「ちーちゃん」と「葵」なのだが、この後輩に対しては何と言っていいか分からず、咄嗟に妙に余所余所しい言い方になった。

「へぇー、楽しいですか?フリスビーって」

 彼の喋り方は何となく鼻につく。文字に起せば「楽しいですか?」と聞いているだけなのだが、その印象は「そんなものどこが楽しいんですか?」とほぼ同義になった。しかし、その後の彼の発言で、それは本当に純粋に好奇心から聞いたのだと分かった。

「俺もやりたいなぁ。なんか体育の授業とかなくなったら運動しなくなっちゃって」

 彼は暗に、自分も混ぜてくれと言っているのだった。

 高校時代からの付き合いである千草と葵と自分の三人で、一ヶ月ほど前から「水曜フリスビー部」というのを始めた。全員毎週水曜に休みを合わせて、昼間から近所の河川敷でフリスビーで遊び呆け、終わったら駅前のバーでビールを飲む、という、要するに大学に行かなかった私達にとっての「サークルごっこ」なのだった。

「渡辺さんから聞いたけど、毎週水曜にやってるんですよね?俺来週の水曜暇なんで、行っていいですか?」

 神田君は厚かましくもそう言った。私には、その心理がよく分からなかった。別に彼は人懐こいわけではない。さっきだって私をほとんど無視するような態度を取っていたわけだし。それが急に、一緒にフリスビーがやりたい、と。しかも、「水曜フリスビー部」はごく身内で楽しんでいるものなわけで、突然神田君のような、失礼な言い方をすると、「異物」が闖入して来られるなどとは想定していなかった。外部の人間を仲間に入れてはダメだという明確なルールはなかったけれど、入ってきた例がなかった。私はどう返答していいか分からなかった。

 そうして、私が口の中で返答をもごもごと練っている間に、敵は先手を打ってきた。

「昨日かな?渡辺さんからその話聞いて、俺もやりたいって言ったら『いいよ、いいよ』って言われたんで、もう行く気満々なんすけど。いいですよね?」

 何故神田君はこうも自信満々なのか。私がこうも狼狽した様子を見せ、彼を持て余している風にしているというのに。私は彼が分からなかった。しかし、千草がそう言ったのであれば仕方ない。私は了承して、また火曜日あたりに千草から詳細をメールで送らせる、と伝えた。

 丁度私が休憩室に入ってきてから十五分が経ち、神田君は仕事に戻った。テレビに映し出されるドラマはいよいよ犯人を追い詰める件となり、「もう言い逃れはできませんよ」とOLの格好をした女優がビシッと決めていた。私はとりあえず、また冷蔵庫に手を突っ込んで、ペットボトルのお茶を、これでもかというくらい一気に飲んだ。

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2010-01-13 00:00:00

水曜フリスビー部

テーマ:生活水準

 蛍光ピンクの円盤は回転による遠心力で己の身体を歪めながら、茂みの向こうに消えていった。その場にいた誰もが「あ」と赤ん坊のように言葉にならない音を発した。三人の視線にはもう空の青と群生した緑しか映っていなかった。

「今のちーちゃんだからねー」

 ちょっとしたズルを見つけて先生に言いつける小学生のような物言いで、奈々子がため息をつく。千草が「えー」と今にも泣きそうな表情を作って抵抗を示す。それを冷静に見ていた葵が「いや、でも確かに、今のは千草のエラーだね」と判定を下した。千草は諦めて、ゆっくり茂みに向かって歩き出した。「ふえーん」と嘆く千草の声は、この場に男でもいようものなら「俺が代わりに」と即座に名乗り出るくらいの「守ってあげたいオーラ」を纏っていたのだが、残念ながらここには気心知れたる奈々子と葵しかいない。誰も彼女の代わりに円盤を探しに行こうとはしなかった。背の高い雑草の中に分け入っていくと、小柄な千草の姿はすぐに見えなくなった。

 フリスビー部を作ろうと言い出したのは、奈々子だった。何もフリスビーに限った話ではない。この三人で何かを始めようと言い出すのは、いつも奈々子だった。スペインに闘牛を見に行こうと言い出したのも奈々子なら、今更たまごっちを皆で育てようと提案したのも奈々子だ。とにかく、奈々子はバイト上がりの二人を捕まえて、これから毎週水曜日は昼から河川敷に集まってフリスビーをやろう、と誘ったのだった。

「千草、見つけられるかね?」葵が半ば呆れた口調で聞くので、奈々子も「葵隊員、こちら出動の準備はできているであります!」とふざけて敬礼をする。これまでも何度もフリスビーは大暴投で雑草の海に遭難したが、その八割は千草によるものだった。奈々子は高校までソフトボールを続けていたし、葵はすらっとしたスポーツ向きの体型で、何をやらせても上手くこなした。千草はというと、ずっと小中高と吹奏楽部でオーボエをやっていて、運動神経は音感の代わりに売り払ってしまったような子だった。そのため、フリスビー部が創部されて今回が五回目の活動だったが、毎回フリスビーを何処かへやってしまうのは千草だった。さらに言えば、千草は普段から身の回りの物をすぐに失くす性質で、物を見つける能力が著しく欠如していた。電車に乗っていればかなりの確率で切符を紛失したし、折り畳み傘は月一ペースで新しいのに買い換えられた。これまでも、一応一人でフリスビーを探しに行かせるのだが、見つけてきた試しはなかったのである。

 奈々子と葵はやがて出るであろう千草の降参の合図を待ちながら、新人のバイトの評価をし合った。

 三人は高校で知り合った。まず奈々子と千草が一年の時に同じクラスになり、続いて二年生のクラスで千草と葵が意気投合した。その時から三人はよく行動を共にするようになった。三年生になり、周りが受験勉強を始める中、勉強の出来ない奈々子と千草はずるずるとその受験戦争から離脱していき、「フリーターも立派な社会人だよね」と互いに言い聞かせあった。葵は勉強も出来たので、そのまま良い大学に進学するものと二人は思っていたが、十二月のある日、奈々子と千草が遊んでいるところに突然葵が現れ、「私も、第一志望、君達と同じにするよ」と宣言した。それで三人は高校卒業後に、駅前の居酒屋のオープニングスタッフとして、まとめてお世話になることになった。働き出してもう二年以上になる。三人とも、気づけば一番の古株になっていた。

「神田君はどう?ワタシ的には将来性あると思うんだけど」

「あれは無理でしょ。もって二ヶ月だね」

「そう?ああいうのって意外としぶといよ。使えるようになるまで時間は掛かるけど。美穂ちゃんだってそうだったじゃん」

「美穂ちゃんは特殊だって。神田君はダメ」

 葵がきっぱり言い切ると、二人は一旦喋るのを止めた。間髪入れずに、茂みから「ななちゃーん、あおいちゃーん」と千草のSOSが発信された。「さて、レスキューに向かいますか」と奈々子は言い、葵は苦笑して歩き出した。


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2010-01-06 00:00:00

テーマ:生活水準

 ニュースで動物園の象が逃げ出したと報じていた。その動物園は僕の家から車で三十分くらいのところにあったので、彼女を誘って象を見に行こうと思った。けれど、電話に出た彼女は、「象なんてどうでもいいから」と僕の興奮を一蹴して、代わりに豆乳鍋を食べに行くことになった。

 白濁したスープがゴポゴポ泡を立てるのを見ながら、僕は彼女に象の話を聞かせた。象が一日にどれくらい干草を食べるのかとか、象の四本の足に掛かっている負荷がどれくらいのものかとか、死に際の象がどんな行動をとるかとか。僕は象について関心を持たない彼女の態度が俄かには信じられなかった。きっと象の情報を与えて刺激してやれば、彼女も「今すぐ脱走した象を見に行きましょう」と言うに違いないと思い、僕は有りっ丈の象にまつわるエピソードを披露した。

 けれども、彼女の顔は豆乳鍋の湯気の向こうでどんどん曇っていくばかりで、僕の期待した言葉は遂に出なかった。結局彼女は「つまらない」と言って、雑炊用のご飯と卵が来る前に帰ってしまった。その時僕は初めて、女の子がファッションや恋愛なんかに比べたら象のことなど毛ほども興味がないのだと理解した。

 僕は帰りの車でラジオを聴いていた。ニュース速報が入り、動物園を逃げ出した象が捕まったことを知った。

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2009-12-30 00:00:00

左折

テーマ:生活水準

 白線のカーブに引っ張られるように芳治の運転する車は進んでいく。小さい頃は何故自分の乗っている車が車道をはみ出さないのか不思議で仕方なかった。フロントガラスから見ると車体は両脇の白線を大きく踏み越えているのに、横から覗くとしっかり白線の中に収まっている。幼い頭で考えて、世界は計り知れないと神妙な気持ちになったことを覚えている。

 両親が共働きで土日も休みなく働いていたので、遊びに行く時は専ら芳治の親父さんの車に乗せてもらっていた。芳治の親父さんの車は大型のファミリーカーで車高も高く、乗り降りの際に軽くジャンプしないといけなかった。今芳治が運転しているのはそれに比べれば遥かに小さな車だった。

「今年は集まり悪いらしいな」

 犬巻町に入る手前の交差点で信号待ちをしている時、芳治が俺に訊ねた。

「まぁ、俺らも社会人三年目だからな。皆忙しくなってきてんだろ」

「小嶋も来ないんだろ?」

「うん。川ちゃんもアキも欠席だよ。女子は結構来てくれるんだけど」

 信号が青に変わり、車は再発進する。景色が次第に懐かしいもので彩り始める。

「じゃあ笹野さんは?」

「おいおい、お前、未だに『笹野さん、笹野さん』言ってんのかよ」

「いや、俺もう妻子持ちだぜ。そんなんじゃねぇよ。でも、やっぱ初恋の子くらいは押さえとくのが礼儀ってもんだろ」

「どんな礼儀だよ」

 俺は笑って窓の外を見た。風雨に晒されてボロボロになった木製の看板に「立ち入り禁止」の赤ペンキの文字がさっと視界を横切った。

 小学校高学年の頃から、俺と芳治は釣りに凝り始めた。芳治の親父さんが釣り好きで、それに影響された芳治が俺を誘ったのだった。だから、日曜はよく芳治の親父さんの車で、たくさんの池や湖を回った。立ち入り禁止区域も構わずズカズカ侵入する芳治の親父さんの後に続いて、俺たちは緑のフェンスを何度も飛び越えた。

 中学に上がると、自転車で近所の池を攻めた。確か丁度その頃に芳治の親父さんが亡くなったのだったと思う。

 釣りの最中は大半の時間が雑談に費やされた。多分昨日見たテレビの話とか、クラスの友達の失敗談とか、今となっては欠片も思い出せない他愛無いものだったと思う。しかし、二人とも思春期真っ只中だったから、ちょっと今思い返すと恥ずかしくなってしまうような、青臭い話もあったはずだ。そこには芳治の笹野さんへの不細工な恋の話も含まれるだろうし、俺の方でもその手の話をしたのだろう。それは今では笑い飛ばさなければ目も当てられない恥に塗れた内容だっただろうけれど、当時の二人の少年は真剣な眼差しを水面に落としながら、語っていたに違いない。

「そういえばさ。お前から奥さんの話あんまり聞いたことないよな」

「ん?そうか」

「そうだよ。なぁ、お前、奥さんのどこに惚れたのよ?」

 ウインカーの音と共に、景色が一気に左に傾く。ハンドルを捌く芳治の顔は、大真面目にも、無関心にも見えた。

「あー、いいケツしてるからな、そこかな」

「馬鹿野郎」

 芳治の車が居酒屋の駐車場に滑り込む。俺たちの姿を見て、駐車場で立ち話をしていた笹野さんたちが声を上げる。皆笑っている。俺も芳治も笑顔で返事をした。笑顔で皆の目は潰れていた。

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2009-12-23 00:00:00

私たち

テーマ:生活水準

「・・・僕も最近歳取ったなーってつくづく思いますよ」

「高橋君にそう言われちゃ俺立つ瀬ないよ」

「いや、でも本当に。若い女の子の区別がつかないですからね」

「ああ、なるほど」

「今年新しく入った麻衣ちゃんといづみちゃんも見分けるの三ヶ月かかりましたもん」

「じゃあ、モーニング娘。とかももう誰が誰だか分からんか」

「あー、もう全然ですね。それは」

 隣の席で、サラリーマン風の二人が話しているのを、私は頭の隅で聴いていた。三十前後の若い方が、四十絡みの中年に、歳を取ったという話をしていた。私は心の中で若い方の発言に同意した。

 若い女の子の区別がつかない。というか、自分と他の子たちの区別ができない。この居酒屋には、隣のサラリーマン以外にもたくさんの客がいて、若い女性も多い。フロアを忙しく回るアルバイトの女の子。仕事帰りと思しき、スーツ姿の女性客。雰囲気の良いお店だったから、カップルも多く、合コンをしているグループもいる。その女の子たちをどう区別していいのか、その中で自分をどう差別化すればいいのか、私には分からなかった。

 もちろん、違いはある。私は甘いものが好きだけれど、誰かは嫌い。誰かが可愛いと言った服を、私は欲しいと思わない。私が笑った映画が、誰かに涙させる事だってある。けれど、それは些細な誤差であって、決定的な違いではない。焦げ目や膨らみは微妙に違うけれど、メロンパンはメロンパンであって、クロワッサンの棚には置かれないのだ。

 私は今座ってモスコミュールを飲んでいる。けれど、別の私は客から注文を取っている。さらに他の私は仕事の愚痴を同僚に聞かせる。私は彼氏の話に笑い、私は男の肩にしなだれかかる。丁度店のドアが開いて、新しく私が入ってくる。

 私が飲む。私が歩く。私が喋る。私が笑う。今私の前に座って炙りサーモンを口に運ぶ男は、私のことが好きだと言うけれど、それは一体どの私を指しているのだろう。

 私が飲む。私が歩く。私が喋る。私が笑う。私が立ち回っている。目の前の男が言った。

「何か考え事?」

「ううん。なんかそのサーモンおいしそうだなぁと思って」

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2009-12-19 00:00:00

目次10

テーマ:目次

181.痛々


182.東京の夜


183.ビルディング


184.プールに沈むもの


185.蝉の死骸


186.台風前夜


187.バンジージャンプ×夢占い×人生


188.幸恵の性質


189.爆弾


190.フライングゲーム


191.写真展で見た女性


192.財布を忘れた男


193.財布を見つけた女


194.月の翻訳


195.遺書


196.俺の自転車


197.24時間マック


198.くぷくぷ


199.赤毛のチサと美容師フランク


200.地下へ

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