BOXING MASTER/ボクシング マスター

輪島功一選手の試合に感動、16歳でプロボクサーを志し、ボクシング一筋40年。ボクシングマスター金元孝男が、最新情報から想い出の名勝負、名選手の軌跡、業界の歴史を伝える。夢と勇気と感動を与えるブログ。


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日本のマチュアボクシング史上、オリンピックで金メダルを獲得したのは、2012年ロンドン五輪ミドル級の村田諒太(帝拳)選手と、1964年東京五輪のバンタム級で金メダルを獲得した桜井孝雄(三迫)選手の二人のみ。1968年7月に世界王座に挑戦した桜井選手に次ぎ、金メダリストとして約半世紀ぶりに世界挑戦した村田選手陣営から、よもや桜井選手の三迫仁志会長と同じ言葉が発せられることになろうとは。

 

 

村田vsハッサン・ヌダム・ヌジカム(仏)戦の判定は、WBA会長が即座に謝罪。ジャッジ二人を処分し、再戦を指令する異常事態を招いた。試合直後は怒り心頭だった帝拳ジム・本田明彦会長も、次第に冷静さを取り戻すと、「村田が負けたんじゃない。帝拳の負けなんだ。村田には悪いことをした。こちらの責任」と選手をかばった。

 

 

1968年7月2日、日本武道館。ファイティング原田(笹崎)選手から大番狂わせの判定勝ちで世界バンタム級王座を奪取したライオネル・ローズ(豪)は、初防衛戦で3位桜井選手=22戦全勝(4KO)=の挑戦を受けた。

 

 

試合は第2ラウンド、桜井選手が放ったサウスポースタイルからの左ストレートでローズがダウン。「パンチを貰わなければ逃げ切れる」。抜群のテクニックを持つ桜井選手にしてみれば、そう難しいことではない。

 

 

この試合のオフィシャルは、主審ニッキー・ポップ(米・日本在住)、副審は遠山 甲 、羽後武夫の二人。未知の第11ラウンドを迎えた桜井陣営の三迫会長は、勝っている事を確信し、ローズをかわす作戦に出た。

 

劣勢を意識してか前に出る王者だが、クリーンヒットは乏しい。しかし、挑戦者の手数も極端に減った。最終ラウンド。必死の形相で追うロースに対し、桜井選手はフットワークを駆使し逃げ切りを図った。試合終了。

 

 

8千人の観衆が固唾を呑んでポイント集計を待つ。そして、ニッキー・ポップレフェリーは赤コーナーを指差し「勝者、ローズ!」。挑戦者陣営は、「なぜだ!」と驚きの表情。三迫会長は呆然とリングに立ち尽くした。スコアは、主審ポップ72-71、副審遠山72-70、副審羽後72-72の2-0。

 

 

三迫会長は、「桜井が負けたんじゃない。俺が負けたんだ」と愛弟子をかばった。

 

ローズが王座を奪取した試合では、原田選手の攻勢点よりも、ローズのアウトボクシングにポイントが流れた。試合後は「引き分けでも良かった」との声も多かった。そして桜井戦後、「僅差で桜井の勝ちでも良かったろう」の声もあったのは確かだ。

 

無念の敗戦を喫した桜井選手は、約10ヶ月後、再び世界挑戦の権利を掴むために米国遠征。イングルウッドのフォーラムで、当時無敗のKOパンチャー、ルーベン・オリバレス(メキシコ)からダウンを奪ったものの6回TKO負け。以後、東洋バンタム級王座を獲得するも、再び世界挑戦のリングに上がることなく、リングを去っていった。

 

 

「村田は作戦どおり、完璧な仕事をした。あんなに作戦を忠実に実行できる選手はいない」(本田会長)

 

村田選手と本田会長のコンビは、新しい歴史を作るために再び動き出すだろう。今度こそ、歴史的瞬間に立ち会いたいものである。

 

30日、22時~”村田諒太・緊急出演!” NHK総合・「クローズアップ現代+」

 

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日本プロボクシング協会は、未公認の世界統括団体であるIBFとWBOへの加盟に向け、世界王座挑戦者資格の基準を改める意向を示唆。新基準は日本、東洋太平洋王座獲得経験者と、アマチュアの国際大会で3位以内に入った実績のある選手に限られる。


これは、現在公認しているWBCやWBAにも適用される。ただし、国内挑戦の場合のみの適用。挑戦者の乱造防止が目的。賛否両論、ご意見は様々だが、新シリーズ・”世界挑戦者の歴史”で、挑戦者の資格を検証していきたい。


日本人初の世界タイトル挑戦者は白井義男(カーン)選手。太平洋戦争でボクサー生活を中断。戦地へ召集された白井選手は、玉砕する事になる硫黄島への転進が決まっていた。しかし、輸送船の手配がつかず、幸運にも命令解除となり一命をとりつなぐ。白井選手は、海軍の特攻機整備兵として終戦を迎えた。


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カーン博士。


昭和23年7月15日。白井選手は学術研究のため連合国軍総司令部(GHQ)に招かれて来日していた、アルビン・R・カーン博士と出会う。博士の「一緒にやらないか」の言葉に、「ワラをもつかむ思い」であったという。二人は正式なマネジャー契約を結んだ。保証人は、アメリカ大使館。


すでに8回戦を戦う白井選手は王子拳道会ではコーチの肩書きもあった。しかし、カーン博士との練習は来る日も来る日も、「オン・ガード」と、「左ストレート」のみ。「かわいそうに」。周囲は、同情とさげすみの声に包まれた。


この時代、日本のボクシングは、「絶対に退ってはいけない。前に出て、打って打って、打ちまくれ」とされていた。だが、カーン博士は「攻めることだけを考えて、守りを考えなかったために、戦争で惨敗した国があるだろう」と笑った。


コンビを組んでの最初の試合が、日本チャンピオンへの”挑戦者決定トーナメント”。はるかに格上ばかりの相手3人に連勝し、白井選手は日本フライ級王座挑戦権を獲得した。王座への挑戦は、昭和24年1月、王者は花田陽一郎(帝拳)選手。


最初の王座獲得は昭和9年。今では考えられないことだが、花田選手はバンタム級、フェザー級、ライト級、ミドル級のチャンピオンクラスの選手と戦い、勝利している。白井選手も敗れていた。


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自信のない白井選手だったが、「右をフェイントに使って、左のアッパーをボディに。花田は、クリンチしてくる時、右ひじが一瞬空く。これで仕留めよう」。博士の言葉には強い暗示力があった。そして試合は、その作戦通り左ボディアッパー一発で終わる。


日本フライ級一番の男になった白井選手は、この年12月、日本バンタム級王座も獲得。博士の頭には、「世界」の二文字が浮かんでいた。


昭和25年はフライ級、バンタム級の両王座を防衛。26年になり、バンタム級王座は不本意な反則負けで明け渡した。しかし博士は、「次はダド・マリノとやろう」。マリノは世界フライ級のチャンピオンである。白井選手は、即座に「ノーサンキュー」とかぶりをふった。


だが、マリノのマネジャー、サム・イチノセ氏に渡りをつけていた博士は、マリノを日本へ招聘することに成功する。昭和26年5月21日、白井選手はノンタイトル戦でマリノに挑んだ。結果は僅差の1-2判定負け。敗れたりとはいえ、師弟は大きな自信をつかむ。


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左からS・イトウ先生、マリノ、イチノセ氏。


マリノ戦後、日本バンタム級王座を奪回。10月25日にフライ級王座を防衛すると、白井選手とカーン博士の二人はハワイに飛ぶ。11月1日にマリノは前王者テリー・アレン(英)を迎えて初防衛戦に挑む。そして、白井選手の試合出場も急遽決まった。


マリノはアレンを15回判定で破り、見事に王座防衛に成功。白井選手は、リチャード・サカイを2回でKO。日系人ファンを大いに喜ばせた。二人が勝利したことで、イチノセ氏は予定になかった両者の再戦を画策。試合は12月4日ホノルルで行われた。


この試合で白井選手はマリノを一方的に打ちまくり、7回TKO勝利。世界ランキング1位となった白井選手は、ついに世界王座を賭けた一戦に駒を進める。昭和27年5月19日、後楽園球場。



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「やるべきことは全部やった。今は全力をつくして戦うだけだ」


「自分のために戦うと思うな。敗戦で自信と希望を失った日本のために戦うのだ」


米国人カーン博士の言葉に勇気付けられた日本人挑戦者は、見事なアウトボクシングで世界チャンピオンの座を獲得した。


日本人最初の世界王者は、白井選手宅にジムを構えたマネジャー・スタイルであったことを付け加えておく。


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