V13王者・具志堅用高・誕生の裏側 | BOXING MASTER first 2006-2023

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輪島功一選手の試合に感動、16歳でプロボクサーを志し、ボクシング一筋45年。ボクシングマスター金元孝男が、最新情報から想い出の名勝負、名選手の軌跡、業界の歴史を伝える。

協栄ジム。金平正紀会長と海老原博幸選手、山神淳一トレーナーの3人で始まった店(とんきん)、いや、ジムは今年創設50年を迎えた。タイでのリマッチで世界フライ級王座を失った海老原選手は、海外でなければ再起戦はやらぬと金平会長に直訴。

その決意は固いと知った金平会長はついに折れ、ロサンゼルス遠征が実現した。昭和39年(1964年)春の事である。この地には金平会長が尊敬するジョージ・パーナサス氏が、プロモーターとして腕を振るっていた。「ボクシングに始まり、ボクシングに終わった」人である。


パーナサス氏の秘蔵っ子アラクラン・トーレスと戦った海老原選手。

ロサンゼルスとの関係を築いた協栄ジムは若手選手を送り込む。昭和42年暮、特別に背広をあつらえた西城正三選手は生まれて初めて飛行機に乗る。行き先はロサンゼルス。黒星スタートにもかかわらず、9ヵ月後には世界フェザー級の王座を獲得。シンデレラボーイは、「総理大臣からの食事の誘いも断っちゃう」程の人気を得た。


西城正三選手。

昭和46年9月。アントニオ・ゴメス(ベネズエラ)に王座を明け渡し、西城時代は幕を閉じた。翌47年、内緒で契約金1千万円を貰った上原康恒、晴治の上原兄弟が協栄ジム入り。元祖”沖縄の星”は華々しくデビューを果たす。

沖縄・石垣島の具志堅用高少年は、ボクシングとは無縁の人生を送っていた。父は遠洋漁業の船に乗り込み、「ほとんど母子家庭」という生活。地元の県立高校を受験するも、答案用紙に名前を書かなかった為、受かるはずの受験に失敗。すぐにカツオ工場にアルバイトに出されたという。

浪人覚悟の具志堅少年に、責任を感じた担任教師は那覇市の興南高校受験を勧めた。今度は無事合格。石垣島を離れる事に反対だった両親も折れ、那覇での高校生活は始まった。

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「最初の1学期はおばさんの家に下宿。学校が面白くなくて、もうやめようかなと思って夏休みに石垣島帰ったんですが、やっぱり高校だけは出ようと思って。興南はスポーツが盛んだから何か部に入ろうと」

「同級生にボクシング部に入ってるのがいて、これなら小さい自分でもやれると思って入ったんス。そしたらそこに中学の先輩の仲井真重次(現琉球ジム会長)さんがいて、俺が下宿している風呂屋へ来ないかと」

「そこで掃除なんかのアルバイトをすれば3食付で、下宿代は”タダ”だぞって」

両親への負担を考え、即座に決断した具志堅青年は、那覇市のお風呂屋さんへ下宿する事になった。”沖縄の星”上原兄弟の実家である。


バイト中の具志堅青年と見守る勝栄氏。

学校から帰るとバイトの日々が始まった。「風呂場掃除が一番きつかったスね」。夜遅く12時まで営業の銭湯が終わってからの掃除が終わるのは深夜。凄く当然に、「学校では居眠りばっかり」。(~~)


脱衣場が練習の場。

上原兄弟の兄勝栄氏が、開店前の脱衣場でボクシングを指導する。ボイラー室にはサンドバッグもあった。学校では金城真吉コーチの指導を受けた。放課後、机、椅子を片付けた教室がジムだった。スパーのロープは先輩達。ウッカリ下がると、足で蹴飛ばされるリング。


興南高校ボクシング部。

風呂屋のバイトも全てトレーニング代わり。1日2度の練習は具志堅選手の成長を早めた。インターハイ優勝も果たした後の目標は、オリンピック。大学進学へ心は動いていた。

金平会長との出会いは昭和48年11月。勝吉氏から、「うちにモスキート級で非常にいい選手がいる。フライ級でよくなると思うし、本人もプロに行きたがっている」との情報を得ていた。那覇市では上原兄弟凱旋試合が開催される。

フリッパー上原選手の相手。フェザー級元世界ランカーメミン・ベガ(メキシコ)のスパー相手を務めさせた金平会長は、目を見張る。「懐に入っていくのが非常にうまい。ショートレンジでいいパンチ打つし、ボディも攻めたんですよ」

「勝栄君、これはいい選手だから、ぜひ、うちへよこしてよ」

帰京した金平会長の下へ、「具志堅選手は拓大への進学を決めた」との情報が入る。「これはいかんと思って高橋勝郎マネジャーを石垣島へ行かせたんですよ」。

時のWBC世界Sフェザー級王者リカルド・アルレドンド(メキシコ)に勝利した上原康恒選手のキャンプを石垣島で行ったのである。「具志堅も参加出来るからね」。この辺の仕事は早かった金平会長。高橋マネジャーは、遠洋漁業で留守の父に変わって、母ツネさんの説得にかかる事になった。

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昭和48年岐阜。「沖縄から具志堅っていうのが行くから」。高校1年生で参加した大竹選手は、上原さんからそう教えられていた。

テレビ放映はNHKだけの石垣島。「ボクシングの事なんて、誰も知らない」(~~)。「息子が力道山なんかとやったら死んじゃう」というお母さんを説得できる訳もなく、高橋マネは白旗を上げた。

ここで諦めないのが金平会長のよさ。父用敬氏と渡りをつけると早速説得にかかった。「泣く事が許されなった」厳しい父は、「当人がやりたいんなら、当人の意志にまかせます」とうれしい返事が帰って来た。

しかし、具志堅選手は勝吉氏とも激しく衝突。ついに拓大を受験。学費免除の約束で合格通知も来た。東京までの飛行機代は、拓大鈴木監督から貰った。心は大学、オリンピックへとはやる。           

「今、具志堅が飛行機乗ったから」

勝吉氏から金平会長へ連絡が入る。

「高橋さん、迎えに行ってあげて下さい」。おそらく、こんな感じの物言いだったろう。そんな、金平会長である。

「羽田空港に着いたら拓大の人いないのよ。変わりに高橋さんがいて、車乗せられて協栄ジムへ連れて行かれた。そしたら、カメラマンがいて、翌日のスポーツ紙に『海老原2世プロ入り』って出てた」

「ホントは逃げようと思ったんスよ」(~~)


金平会長の指導を受ける具志堅選手。奥、高橋マネジャー。

「どうしても大学行きたかったら、うちから行かせてもいいと思ったんですよ。それで、学校が好きかって聞いたら、勉強は好きじゃないと」

シメシメと思った金平会長は一気に攻める。学費免除だったはずの大学から、どういうわけか入学金の払い込み通知が来ていた事も、具志堅選手の心に引っかかっていた。両親には迷惑かけられない。

「具志堅の勉強の仕方じゃ、博士にはなれないでしょ」(~~)

まんまと拉致に成功した金平会長は、「海老原2世」、「リングネームは海老原博幸」、「百年に一人」等とリップサービス。具志堅選手の資質もさることながら、心を迷わせない為との思いやりもあったのだろう。拓大関係者への不義理をずっと後悔していたカンムリワシ。


デビュー前の具志堅選手。

上原選手への契約金1千万円は、とてつもない打出の小槌となった。具志堅選手は13度防衛の名王者となり、その試合振りをTVで見た不良少年渡嘉敷勝男は、「アイツをやっつける」の一心で上京。全く偶然に協栄ジムに入り、僅かに3年で世界チャンピオンになってしまった。

「打倒具志堅!」。一途の想いが、素人から3年での快挙を演じた全てだと思うが、指導陣がその方法を知っていた事は、引き継がれた伝統だ。渡嘉敷選手をゼロから育てた福田先生(F・Iジムオーナー)も、金平会長の指示で海外トレーナー修行を積んでいた。

思いがけない偶然、幸運が舞い込むのも普段の気遣い、行動から。具志堅青年は、拓大へ逃げられなかった。「勉強は嫌いです」。素直な心が、世界への道を開いた。(~~)

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