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2007-09-05 01:34:05

「瀬島龍三」とは何だったのか

テーマ:社会

瀬島龍三氏が死去=伊藤忠元会長、政財界「参謀」で活躍



瀬島龍三


戦前、戦中、戦後を通じて政、財界の「参謀」としての道を歩んだ伊藤忠商事元会長の瀬島龍三(せじま・りゅうぞう)氏が4日午前0時55分、老衰のため東京都内の自宅で死去した。95歳だった。富山県松沢村(現小矢部市)出身。 


葬儀は近親者だけで執り行うため非公開。喪主は長女の緒方繁代(おがた・しげよ)さん。連絡先は伊藤忠商事秘書部。同社と亜細亜大学による合同葬を行うが、詳細は未定。 


1938年12月陸軍大学校卒、大本営陸軍参謀として太平洋戦争を中枢部で指揮した。満州で終戦を迎えたが、旧ソ連軍の捕虜となり、11年間シベリアに抑留された。 


56年に帰国。58年1月、伊藤忠に入社し、主に航空機畑を歩いた。68年専務に就き、いすゞ自動車と米自動車大手ゼネラル・モーターズ(GM)との提携を仲介した。72年副社長に就任し、安宅産業との合併を担当。副会長、会長、相談役などを経て87年7月から特別顧問、2000年6月に退任し、理事。航空機商戦を描いた山崎豊子氏の小説『不毛地帯』の主人公のモデルといわれた。  


81年3月、中曽根内閣の臨時行政調査会(第二次臨調)委員に就任し、故土光敏夫会長の下、「臨調の官房長官」と呼ばれた。抵抗が強かった3公社(国鉄、電電公社、専売公社)の民営化は、瀬島氏が政界や労働界を根回しした成果だった。中曽根康弘元首相のブレーンの一人で、故人の小渕恵三氏、竹下登氏、宮沢喜一氏、橋本龍太郎氏といった首相経験者ら政界要人に知己が多い財界人だった。半面、戦争に深くかかわった人物が政治の指南役となることに対する批判もあった。 


観光政策審議会会長、学校法人亜細亜学園理事長、西本願寺門徒総代などを歴任。84年勲一等瑞宝章を受章した。



東京裁判における瀬島龍三 東京裁判における瀬島龍三氏


富山県西砺波郡松沢村(現在の小矢部市)の農家に生まれる。富山・旧制富山県立砺波中学校、陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校を次席(首席は原四郎)で卒業。陸軍大学校を首席で卒業し、昭和天皇から恩賜の軍刀をたまわる。


太平洋戦争(大東亜戦争)時、大本営参謀としてガダルカナル撤収作戦、ニューギニア作戦などを担当。1945年7月、関東軍参謀に転出。最終階級・陸軍中佐。降伏後停戦交渉におもむくも、シベリアへ11年間抑留される。この間、連合国側から東京裁判に証人として出廷することを命じられ、1946年9月17日に草場辰巳、松村知勝とともにウラジオストクから空路東京へ護送され、ソ連側証人として出廷させられた。


シベリア抑留から帰還後、1958年に伊藤忠商事に入社。入社3年目にして業務部長に抜擢(1961年)。翌1962年取締役業務本部長、半年後に常務、1968年に専務、1972年に副社長、1977年に副会長、1978年に会長、1981年に相談役、1987年に特別顧問に就任。


1984年、勲一等瑞宝章受章。


帝国陸軍の参謀本部の組織をモデルにした「瀬島機関」と呼ばれる直属の部下を率いて総合商社化などに辣腕をふるい、2000年に退任した。


中曾根康弘政権(1982年11月27日~1987年11月6日)のブレーンとして土光臨調委員などを務め政治の世界でも活躍した。千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会会長として靖国神社の国家護持を求めていた。


山崎豊子の小説『不毛地帯』の主人公・壱岐正中佐、『沈まぬ太陽』の登場人物・龍崎一清のモデルであるともいわれ、『二つの祖国』では実名の記述が見られる。保守層を中心に支持者が多いが、証言が誠実でないとして批判もされていて、評価が分かれる人物である。


肯定的な立場はフジテレビスタッフ『瀬島龍三 日本の証言―新・平成日本のよふけスペシャル』や綱淵昭三『瀬島龍三の魅力―ビジネス・ステーツマン』などに見られ、保阪正康『参謀の昭和史』、共同通信社社会部『沈黙のファイル―「瀬島 龍三」とは何だったのか』などに否定的な見解がある。


なおソ連との停戦交渉時、瀬島が同行した日本側とソ連側との間で捕虜抑留についての密約(日本側が捕虜の抑留と使役を自ら申し出たという)が結ばれたとの疑惑が故・斎藤六郎(全国抑留者補償協議会会長)、保阪正康らにより主張されているが、ロシア側はそのような史料を公開していない。半藤一利はこの疑惑を否定している。本人も停戦協定の際のソ連極東軍事司令官ワシレフスキーと関東軍総参謀長秦には上記の密約を結ぶ権限がなかったことを用いながら反論している(『日本の証言』フジテレビ出版)。


1979年、昭和天皇の孫・東久邇優子(東久邇宮稔彦王第一王子盛厚王の子)が結婚する時、昭和天皇は瀬島に「瀬島は戦前戦後と大変御苦労であった。これからも体に気をつけて国家、社会のために尽くすように。それから、今度お世話になる東久邇の優子は私の孫である。小さいときに母に別れ、大変かわいそうな孫である。自分はこういう立場にいるので十分な面倒が見られず、長く心にかかっていた。このたび立派に結婚することができ、自分も皇后も大変喜んでいる。どうかよろしくお願いする」と言い瀬島は媒酌の役を引き受けた。


東久邇優子の結婚披露宴には皇太子明仁親王、同妃美智子(現在の天皇、皇后)をはじめ全皇族が出席した。


晩年、フジテレビの番組『平成日本の夜ふけ』に出演、笑福亭鶴瓶と南原清隆を前に自らの人生や日本のこれからについて滔々と語っていた。

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