1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>
2016-05-03 02:13:16

創作朗読

テーマ:無題
※ある朗読の企画に出演予定で創作したものですが、一身上の都合で出演キャンセルしてしまいました。
 文章だけは先にできていたので、こちらに挙げておきます。


※本来朗読用なので、視覚的に映えるような文言は一切用いていません。
 朗読したものも、下記のリンク先に挙げておきます。
https://soundcloud.com/sprawlworld/20160503sousakuroudokump3


※今回の主題をご存知の方には「何故この主題でこの内容なのか」と思われるところもあるかもしれません。
 当然、書いた意図としては主題の象徴化や抽象化は行っているのですが、一義的ではありません。
 「詩の本質は多義性」という言葉をいつまでも忘れることができないのですが、物語(フィクション)においても「多義性」は重要であると個人的には考えています。
 この先に目を通していただける方におかれましては、主題も特定の先入観も何も考えずに、自由に解釈していただければ幸いです。



ある水曜日、窓も扉もついていない狭い空間の中に、七人の少年だけがいた。
薄暗い中小さなテーブルを囲んで、発明家の少年、ピアノ弾きの少年、一番小さな少年、一番年長の少年、料理人の少年、科学者の少年、絵描きの少年が、一箇所に集まっていた。
「今起きていることを、これから説明するよ。」
科学者の少年が立ち上がって言った。
「まず、ビッグバンって聞いたことがあるかい。」
「名前だけは聞いたことがあるけど…、分かりやすく説明してよ。」
一番小さな少年が、食卓で膝を抱えて問い返した。
「この宇宙の始まりのことなんだけど、昔あるきっかけでこの宇宙という風船が膨らみ始めたんだ。」
「それがどんどん大きくなっていって、宇宙も大きくなっていった、というのが、教科書にも書かれていたことだよね。」
一番年長の少年が口を挟んだ。
「そう、そのままずっと風船は大きくなり続けると思われていたんだ、ついこの前までは、ね。」
「でも、本当の風船なら、いつか割れちゃうよね。」
料理人の少年は、フライパンを手にしながら言った。
「もしくは、風船から空気が抜けてしぼんでしまうか。
いずれにしても、永遠に膨らみ続ける風船なんてこの世界には存在しなかったんだよ。」
「それで、この宇宙という風船はどうなっていくんだい、この先。」
絵描きの少年が、筆を休めて尋ねた。
「僕の計算では、ちょうど一週間で風船は完全にしぼむ。
それと同時に、宇宙は完全に消えてなくなる。」
ピアニストの少年は黙って、ただ目の前の鍵盤を奏でていた。
「しぼむ風船から空気が抜けていくように、多分一日一人ずつ少なくなっていって、一人だけが宇宙の最期を見届けることになる。」
「僕からも、少しいいかな。」
発明家の少年が口を挟んだ。
「この話を前に聞かされて、残された日々を楽しく過ごすために、僕は二つのものを発明したんだ。」
発明家の少年は、手元の小さな箱のようなもののボタンを押した。
まるで本物の太陽があったときのように明るくなった。
「一つは、昼と夜とを作り出す機械だよ。
太陽があった頃のような移り変わっていく時間を、これで感じられるようになる。」
「もう一つは?」
一番小さな少年が尋ねた。
「もう一つは、うんと分かりやすく言うと、風船のつっかえ棒のようなもの、かな。
風船が縮んでいくのを止めることはできないけれども、昼の間だけそれを押し留めて、その分を夜にまとめて縮ませていく。
だから、昼の間は何も考えずに、好きなことだけをしていればいいんだ。」
その後、科学者の少年がもう一度付け加えた。
「風船の中に存在できるものは、どんどん少なくなっていくけれども、本当にやりたいことを残った時間でしていようよ。」
幾時間かが過ぎた後、薄暗くなり夜を迎えた。
水曜日の一日は終わった。


木曜日の朝が来て、食卓の上には六人分の食事が並んだ。
「さあさあ、温かいうちにどうぞ。
保存食はもう食べきれないほど作ったけれども、僕がいるうちは出来立てを出すからね。」
「とても美味しいよ。
食べるのがもったいないほどだよ。」
一番小さな少年が、料理人の少年に言った。
「消えてしまわなければ、材料はまだまだある。
喜んで食べてくれる人がいて嬉しいよ。
どんどん食べておくれよ。」
ピアノ弾きの少年の奏でる音楽も、朝の食卓に彩りを添えていた。
「どうやら、僕の最後の発明も上手くいったみたいでよかった。」
発明家の少年も笑顔だった。
「多分、あのつっかえ棒は風船がしぼみきるぎりぎりまで残るよ、僕の予想では。」
科学者の少年が答えた。
一足早く食事を終えた絵描きの少年は、大きなキャンバスにずっと向かっている。
そして時間は過ぎ、木曜日の一日は終わった。


金曜日の食卓に五つの皿が並び、食事のときを終えると、絵描きの少年は皆に言った。
「もしよかったら、僕の絵を見ておくれよ。」
ピアノ弾きの少年も珍しく手を止めて、大きな大きな絵の前に足を運んだ。
料理人の少年も、皿を片付けると大きな絵の前に立った。
描かれていたのは、空を飛んでいる色とりどりのたくさんの風船だった。
それぞれの風船の中には、色々な人々の生活や苦労や笑顔が描かれていた。
一つとして同じものがない風船の量と内容に、ただただ圧倒されるばかりだった。
「すごいよ、これ、いつまでもずっと、眺めていたいよ。」
一番小さな少年は身動きも忘れて、絵を眺め続けていた。
「確かに、宇宙はもしかしたら、たくさんの風船でできていたのかもしれないな。
この風船の他にも、どこかに別な宇宙があるのかもしれない。」
科学者の少年は、独り言をつぶやいた。
「みんなにこの絵を見てもらえて嬉しいよ。
そう言えば、この瞬間世界中、いや宇宙中の全員が僕の絵を見てくれているんだね。
けれども、この完成した絵を誰よりも楽しみにしていたのは、他ならぬ僕だったんだよ。
あと何日かしたら、この絵も僕も跡形もなくなるけれども、この時間が、いやこの瞬間が存在したというだけで、他に何もいらない。
もう、胸がいっぱいだよ。」
絵描きの少年がそう言い終えると、ピアノ弾きの少年はピアノの前に戻り、演奏を始めた。
風船の色とりどりの表情と同じように、ピアノの音色も多くの表情を伝えてくれた。
その日はもう、誰も絵の前から動かなかった。
そして夜がやってきて、金曜日の一日は終わった。


土曜日の食卓も、暖かい皿が四つ並んだ。
ピアノの調べも、部屋の中を柔らかく包んだ。
一番小さな少年は、科学者の少年に尋ねた。
「僕たちは幸せなのかな。
比べるものがないから、よく分からないよ。」
「僕の考えだけれども、今までの誰と比べても幸せな日々を送っていると思うよ。
今まで多くの人たちが、病や争いや事故や他にもいろいろな苦しみにあって最期を迎えてきたけれども、僕たちはみんな好きなことをしながら、最後の瞬間まで楽しくいられるのだから。」
料理人の少年もピアノ弾きの少年も、同意の表情を浮かべていた。
一番小さな少年は、笑顔でこう言った。
「比べることを忘れるぐらい、幸せっていうことかもしれないね。」
小さな空間の中のものは少しずつ少なくなっていったが、昼と夜を作る機械や大きな絵はまだ残っていた。
一番小さな少年は、何が先に消え、何が残るのかが、何となく分かった気がした。
そして夜がやってきて、土曜日の一日が終わった。


「最後の日曜日なんだから、ゆっくりしたら。」
一番小さな少年が、科学者の少年に言った。
「そう言えばそうだね。
長い間曜日というものを忘れていたよ。
でも、二人に伝えなくてはならない大事な話があるんだ。」
ピアノ弾きの少年も、手を休めずに話を聞いていた。
「どうも計算よりも速く、風船が縮んでいるようなんだ。
一日早まるかもしれないし、一人ずつでなく減っていくかもしれない。
もしかすると、明日三人一度かもしれない。
風船がしぼむ最後の瞬間は例のつっかえ棒もたぶん役に立たなくなると思う。」
「話はそれだけ?」
一番小さな少年は尋ねた。
「全然、そんなこと構わないよ
今までどおりに暮らしていこうよ。
それにしても、この保存食、ものすごく美味しいね。」
夜がやってきて、そして日曜日の一日は終わった。


「ねえ、僕は間違いなく世界で一番幸せだよ。」
一番小さな少年は、壁にもたれかかって座り、ピアノの演奏を聴いていた。
「僕は、このピアノが大好きなんだ。
この小さな場所で僕がずっと幸せでいられたのも、このピアノの音が聴こえていたからなんだ。
僕の独り言は気にしないで、ずっとピアノを弾き続けておくれよ。
他に誰もいないけれども、僕の体の中に一つ残らずピアノの音は入っているから。
夜が来ても朝が来ても、僕がいるうちはずっとこの中に包まれていたいよ。
あっ、大丈夫だよ。
少なくとも、僕だけが最後に一人残されることはないから。
理由は別にないけれども、間違いなくそんな気がするんだ。」
ピアノ弾きの少年はピアノの手を休めなかったが、一番小さな少年の独り言を一つも漏らさずに聞いていた。
やがて夜が来て月曜日の一日が終わっても、ピアノの音色が鳴り止むことはなかった。


火曜日、小さな小さな空間には光がなかった。
保存食も機械も、今まであったもののほとんどは消え去っていた。
ピアノとピアノ弾きの少年、それ以外のものはどこにもなかった。
誰も聴く人もいない闇の中で、少年はピアノを弾き続けた。
何かを目指すのでもなく、誰かのためでもなく、少年はピアノを弾き続けた。
闇の中でも全く乱れることなく、少年の指は動いた。
むしろ、何かが指を導いているかのようだった。
闇の中のはずなのに、少年の前には色々な映像が浮かび上がってきた。
ピアノの音色がより一層はっきりと聴こえ、しぼみきった後の風船の映像も浮かぶ。
少年は表情も変えずに、ピアノを弾き続ける。
指先の感触もだんだん分からなくなる中、ピアノの音だけは、絶えることなく続いている。
最後には、少年は自分が演奏しているということすら分からなくなったが、ピアノの音色は途絶えることがない。
火曜日の一日が終わったのかも分からなかったが、最後までピアノの響きは続いていた。


次の日、宇宙という名の風船は、完全にしぼんだ。
AD
いいね!(1)  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2014-07-04 20:13:44

ライブ告知

テーマ:ライブ
以前ライブレポをご覧いただいていた皆様、ご無沙汰しております。

まず、以前のようなライブレポですが、また記事を上げていこうと考えています。
昔の自分のライブレポを読んでみて、面白く読めたのが一番の理由です。
http://ameblo.jp/sprawlworld/entry-10353508858.html
上の記事は今でもそこそこアクセスがあり、書いておいてよかったと思うレポの一つです。

とは言え、無理のない範囲でないとレポが書きかけで行き倒れてしまうので、月に一度書ければ、というつもりです。
「書けそうなものを」「書けるタイミングで」記す予定です。
もはや期待している方はいないかもしれませんが、そのような感じです。
 
話題は変わって表題の件ですが、告知をするには遅い明日のライブです。

日時:7月5日(土)open 17:30 start 18:00
料金:\ 2,000(ドリンク別)
場所:高円寺Cafe&Bar U-hA(ウーハ)
出演:山田庵巳・yukaD・桂有紀乃・sprawlworld

出演順は私が最初で、トリが山田庵巳さんです。
一人40分の演奏時間と聞いています。
山田庵巳さんについては散々ブログでもtwitterでも記したので、これをお読みの方には説明不要かもしれません。
自分の企画でもないのに同じステージに上げていただけるのは光栄で、身の引き締まる思いです。

yukaDさんは元ostooandell(オストアンデル)で、曽我部恵一レーベルの方のようです。
https://www.youtube.com/watch?v=efrCc-SxSk8
上の動画でどんな方か確認して、大変なことになったと慌てふためいていました。
お二人のお客様に恥ずかしくない演奏をしなければと、先月から必死に準備しました。
持ち時間が長いので半分弱はインスト曲の予定ですが、こちらの方がむしろ出来はよいかもしれません。

一観客として、Cafe&Bar U-hA(ウーハ)はとても魅力的な店だと思います。
質の高い独創的な音楽・音楽家を発掘して、店自体にも常に新鮮な空気を入れていこうという意欲が感じられます。
おそらく、数年後には「外れのない」ライブが行われることで定評あるライブ会場になる予感があります。
自分の中では、サンジャックと鈴ん小屋の中間ぐらいの位置で続いてほしいと期待しています。

個人的な話に戻りますが、間に合えば明日、デモ的な音源を持参しようと計画しています。
いろいろな会場で演奏したものを繋いだだけのものですが、ご関心があればお声掛けください。

繰り返しになりますが、自分の企画でもないのにこのような(とんでもない)日にオファーしていただいたU-hAに深くお礼を申し上げます。
お時間・ご関心のある方は、私の演奏にかかわらず、この日の会場にお越しいただければ幸いです。

AD
いいね!(38)  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2014-04-05 15:43:02

It's a sprawl world vol.3出演者紹介文(アーカイブ)

テーマ:ライブ
終わった祭りのポスターを貼るようなものですが、3月の企画で配布した紹介文を残しておきます。


It's a sprawl world vol.3

2014年3月16日(日)
北初富Handwired Garage


出演者紹介

森川祐護
森川祐護さんの特徴を一言で記すならば、「行間を埋めるギター弾き語り」というところでしょうか。
通常であれば、音楽を聴くとき観客はフレーズごとの行間で思考し、自分なりのイメージを再構築します。
しかし、メッセージ性の高いギターフレーズが全ての行間に置かれ、観客にそれを許さない圧倒性がそこに存在します。
森川祐護さんのステージは、弾き語りの分野でありながら卓越したギターの技量を持ち思考する暇も与えない、圧倒的なステージです。
森川祐護さんはバンド活動もされていますが、ソロステージでフランクザッパのカバーをよく披露されます。
ネット上の動画については、国内より海外からの反応が大きいように見えます。
世界で十分通用するギタリストであることの裏返しとも言えるでしょう。

柳本小百合
柳本小百合さんは、通常のピアノ弾き語りのイメージ・枠組みを大きく外れているスタイルです。
あえて既製品を採用せず、一からの手作りにこだわっている音楽とも言えるでしょう。
柳本小百合さんを紹介するためのキーワード自体は確かに存在し、「現代音楽」「童謡」「舞踏」「芝居」などはそれに当たります。
しかし、どの領域においても盲信することなく、アウトサイダーとしての視点を残して世界の構築を図っているように見えます。
柳本小百合さんの作品には、日常的であるはずの主題が、閉じられた視点で展開されていくという面白さがあります。
柳本小百合さんの楽曲の中には、前衛性が前面に出ている作品のほかに、生活と音楽が結びついていたであろうはるか昔の時代の「しごとうた」「あそびうた」的な精神を感じる作品も多数あります。
キャベツを剥いたり、パンを焼いたり、といったような生活の場面を楽曲に昇華していくスタイルは、初期の矢野顕子的な音楽と生活との密着を感じさせていく要素があります。
親しみやすい前衛性の根幹として、きっとそのことが重要な要素となっているように思えます。


山田庵巳
山田庵巳さんは8弦ギターをオーケストラのように用い、歌と楽曲・ステージ構成はミュージカルのように、物語性と多様性を持たせる手法を採っています。
何かひとつではなく、全ての要素で高いクオリティを保っているので、初めてご覧になる方は圧倒されるかと存じます。
しかし、山田庵巳さんは、8弦ギターの弾き語り」というラベルだけで表すことは決してできない表現者です。
これは前回の紹介文でも記しましたが、山田庵巳さんがあくまでも「総合・統合」にこだわるのには理由があると思われ、「フィクションの生まれるさらに背後の世界を表現するため」ではないかという仮説を抱いています。
山田庵巳さんのステージは楽曲も演奏も格調高く素晴らしいのですが、演奏の「その奥に広がる広大な世界」を感じ取っていただけるかと存じます。
山田庵巳さんは多くのライブ活動をされていますが、この北初富HandwiredGarageのような、音質も空間の雰囲気も良質な会場で体感していただきたいと希望しており、私の企画の最大目的も実はそこにあります。

ジョンソンtsu
ジョンソンtsuさんは遠方からお呼びし、本日は4日連続東京(千葉ですが)公演の3日目です。
初日の落合SOUPでのライブでは、前回・前々回の来訪時と比べ原点帰りをしたかのような、容赦ない演奏力でさらりと凄いことをしてしまう、観客に緊張させずに非日常的超越を体感させる部分が前面に出ていました。
特に、最後に披露されたプログレ組曲とも言える「ドクナム」は圧巻でした。
ジョンソンtsuさんについては、あまり事前情報を書き過ぎない方がよいような気もしています。
歌詞については第一回にご出演いただいた辻隼人さんと同じ手法ですが、閉じていて美しい純粋な結晶化を行うのではなく、普遍性による伝達を意図しているところが大きな相違点となります。
そのため、プログレカバーをさらりと弾ける高い演奏能力が存在するにもかかわらず、特殊な音楽に詳しくない方々にも純粋に楽しんでいただけるパフォーマンスが存在します。
明日の公演が終わると、しばらく首都圏ではライブは聴けないと思います。
千葉にお呼びできたこの機会に、存分に楽しんでいただければ幸いです。

sprawl world
O.A、本企画主催、及び本紹介文文責。

AD
いいね!(2)  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2014-01-25 14:06:12

It's a sprawl world vol.2出演者紹介

テーマ:ライブ
It's a sprawl world vol.2
2014年1月25日(土)/ 北初富Handwired Garage
出演者紹介

双葉双一

 双葉双一さんは、東京だけでなく京都や大阪などでもワンマンをされており、なかなか千葉県で聴ける機会はない方です。記憶違いでなければ、5年程前の柏WUU「陰気な二人旅」での、知久寿焼・双葉双一ツーマン以来の、千葉県会場のはずです。
 双葉双一さんの作品世界については、あまりに採り上げられている領域が広いので、なかなか手短に記すのが難しいところがあります。一般的に「詩人」「文藝系」と冠せられることが多く、様々なテーマのフィクションを自らの美意識に沿って、研ぎ澄まされた言葉で歌にするのに長けた表現者と言えます。
 ただ、今「フィクション」という語を用いましたが、最近の楽曲は現実世界の深淵を見つめるテーマの作品も少なくないように感じられます。けれども、どの作品も「背筋の伸びる音楽」という点で共通で、格調と品位の高さが感じられます。同じようなアコースティックギターの弾き語り演奏者と大きく異なる要素がそこにあります。それは、半端でないインプットされた知識や教養からにじみ出ていると思われます。
 選び抜かれた言葉とその伝達を一義とする歌唱、ハーモニカや返しのストロークの音色の美しさ、そのたたずまいと演奏姿勢、それらの融合が双葉双一世界と言えます。演奏効果が高い派手な部分よりも、一見気付きにくいデリケートな部分に対してこそ、とても丁寧に表現しているように思われてなりません。その演奏を前にするとき、観客の側も今後、恥ずかしくない自らの人生を志向しようとするだけの気高さを持たせる力が感じられるはずです。
 双葉双一さんは、この日はトリでの出演です。オファーを受けてくださったのは素晴らしい方々ばかりですが、この季節に相応しい余韻で岐路に着けるのではないかと存じます。音質も雰囲気も双葉双一世界を損なわない素晴らしい会場なので、楽しんでいただけたら幸いです。

山田庵巳
 山田庵巳さんは、前回の紹介文でもいろいろと記したのですが、「8弦ギターの弾き語り」というラベルだけで表すことは決してできない表現者です。あまりにも独自に切り開いた部分が多いのですが、歌唱やギターなど何か一つだけを切り離して採り上げてみても、類を見ないクオリティの高さに驚かれるはずです。
 山田庵巳さんだけのクオリティがあれば、本来歌唱だけでも、ギター演奏だけでも、楽曲の創作だけでも、単独で表現者として通用するはずなのですが、あくまでも「総合・統合」にこだわるのには理由があると思われます。これは仮説ですが、フィクションの生まれるさらに背後の世界を表現するためではないかということです。
 山田庵巳さんは、自らの日常や気持ちをそのまま歌にするスタイルではもちろんありません。でも、それだけではなく、単なる物語のプロットを歌にして、体裁を整えるだけのことを行うストーリーテラーでもありません。物語系でも小品系でもその作品は全体で繋がりあい、「山田庵巳」世界構築の材料となっているかのようです。一つのステージ全体で、融合された表現を行っていると感じられると思います。
 それは、ガウディのサグラダ・ファミリアのような、途方もない壮大な作業のようにも見えます。ただ、特筆すべきところは、ステージの上で演奏している本人が、その教会の排他的な教祖でなく、神父や牧師のように聴衆と一緒になって「山田庵巳」世界を、育てていこうとしているように感じられるところです。
 山田庵巳さんのステージは楽曲も演奏も格調高く素晴らしいのですが、通いつめる観客の多くは切り離された作品ではなく「その奥に広がる広大な世界」を感じ取っているのだと思います。初めて聴かれる方々には伝わりにくい紹介文かもしれませんが、ぜひ一度生で聴いていただきたいと思います。私自身も含め、以降の人生に深い影響を及ぼす方も決して少なくないと思います。

みぇれみぇれ
 みぇれみぇれさんのステージは、音の小さなおもちゃをお店のように並べて、ギターやトイピアノを弾きながら歌うスタイルで、音的にはたま(特に滝本晃司曲)を一人で演奏している印象を強く持つかもしれません。実は同じスタイルの演奏家も少なくはないのですが、その誰とも近くない特徴もあります。
 一般的に、トイピアノなど耳当たりの重くない楽器類多用の演奏家は一つの個性だけで勝負しようとする「一点突破」型の音楽になりがちで、それがある種のアングラ感を生み戦略的には正しいのですが、長く続けていると飽きが来やすい弱点があります。しかし、みぇれみぇれさんの音楽は、すっと入るのに飽きが来ないという、珍しい印象を受けるはずです。
 それはインプットしてきた音楽の多様性と、丁寧に音を組み立てていこうとする職人意識が要因であると思われます。正しいピッチの歌唱と安定したギターでアウトプットされる独自色の強い音楽は、例えば渋谷系しか聴かないようなリスナー層にさえ面白く感じられるはずで、多くのライブの共演者から高い評価を得ているのも頷けところです。
 「みぇれみぇれ音楽とは何か」という命題に一言で回答するなら、「職人により丁寧に作られた手工品のおもちゃ」という比喩が適切かもしれません。誰の手にも取りやすく、長く手にしても愛着だけが湧いてくる作品の裏付として、決して流して大量生産を行わない美学が背後にあると察せられてなりません。
 この日の演奏は、コントラバスとのセッションです。会場の落ち着いた雰囲気によく合う演奏になるであろうと思います。丁寧に作られた音楽をのんびりと鑑賞することの喜びを、おそらく感じられることと思います。

kyooo
 kyoooさんは、ガットギターの弾き語りの方ですが、今回の企画でどうしてもお呼びしたかった方です。kyoooさんの存在がなければ、私自身が企画やO.A.をやることはなかったと思うからです。また、双葉双一さんにも山田庵巳さん両方に共演者として納得いただける方を考えたとき、最初に思い当たったのもkyoooさんでした。
 kyoooさんには、今回の他の出演者同様に半端でないインプットの集積があり、楽器も歌唱も多様な手段をこなす器用さを本来的には持っています。実際、現在動画で多く上がっている演奏とは異なる方向のステージを拝見したこともありますが、今のスタイルは行間の空気を大切にしているように思えます。
 現実社会と乖離した世界を描き透明感を出す表現者であれば、多分少なからず存在すると思われます。しかし、kyoooさんの面白いところは、扱っている主題や風景が日常の範疇にあるはずなのに、対象への意識の描き方や視点の置き所の絶妙さにより、非常に澄んだ透明感のある印象を持つ世界を構築しているところです。
 kyoooさんの場合、言葉の選択といった表面的技術でなく、音楽の中に籠めるべき文脈や行間への意識自体が、多くの方と異なっていると思われます。「嬉しい」「悲しい」など直接的心情表現は決して用いず、その気持ちや感覚がやってくる、その一つ前の情景を丁寧に表現しているように感じられます。これは実はとても勇気が要る作業で、分かりやすい言葉による輪郭線ではその場に置かれている空気を描くことができないと理解しているのだと思います。
 kyoooさんの志向する音楽は多くの方にとっても心地よいものですが、音楽も言葉も雑多なものを多く摂り込んでいる分、ステージ後に残る余韻も深く感じられると思います。kyoooさんはO.A.直後の出演順の予定ですが、澄んだ透明感ある世界で深呼吸していただければと存じます。

sprawl world
O.A、本企画主催、及び本紹介文文責。
いいね!(3)  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2013-05-05 14:35:48

It's a sprawl world vol.1

テーマ:ライブ
It's a sprawl world vol.1

日時:2013年6月29日(土)open:18:00 start:18:30
会場:北初富Handwired Garage(http://hwg.jp/)
料金:1000円+1drink(アルコール500円/ノンアルコール300円)


出演者について

山田庵巳(http://anmusic.main.jp/)

 今から3~4年前であっただろうか、ある弾き語りイベントのシークレットゲストとして、山田庵巳の名前が看板に刻まれたことがある。事前の告知も当然されておらず、他の出演者目当てで足を運んだ満員の観客のほとんどは、初めてその世界に触れたはずだった。自らの内面を表現するオーソドックスな「弾き語り」の演奏が続いた後、シークレットゲストの演奏が始まるとともに会場の空気は変わった。低音が充実した8弦ギターは単なる伴奏ではなく単独でオーケストラとして働き、日常から切り離された格調の高い紡がれた言葉と正確なピッチで発せられる天性の美しい声は確実に会場の全てを揺さぶった。特殊な楽器を用いての、語りを含んだ歌物語という形式を採用していながら、高いクオリティを全ての側面で保ち続けていた。それにもかかわらず、当時音源も作成せずライブ日程も告知せず、孤高の表現活動を継続していたのである。
 当然、そうした天賦の才能や 宝珠なる作品が放っておかれるはずはなく、「知る人ぞ知る」ところまでには認識され、音源も表に出ることとなった。そして「山田庵巳は天才」と公言するライブハウス関係者も多く存在するが、「天才」という言葉で本来片付けてしまってはいけない作品自体の緻密さがある。一つの言葉、一つの和音を選り抜くのに膨大な労力が費やされていることはたやすく想像でき、形になってからも職人のように作品を磨き続けていくのが通常のスタイルである。今より多くは知られていない頃、観客のほとんどが何らかの分野の表現者ばかりであったことは、おそらく当然であり、職人や芸術家の一つの範でもあった。
 表出されるテーマは個人的な感情というよりは、人間存在の普遍性に働きかける内容が少なくない。それは独自形式の「歌物語」の大作に限定されず、言葉少なに紡がれた小品にも共通している。表現として用いられるキーワードが小動物や野菜などであったとしても、それらを通した人間の深淵の部分が主題化されていることがほとんどである。決して軽くはないはずのテーマでありながら、芭蕉の言葉で言うところの「かろみ」が表現に感じられ、知らず知らずのうちに聴衆は深淵の傍まで連れてこられてしまうのである。
 O.A以外は魅力的な出演者が揃ったと自負する今回の企画であるが、この催しを行おうとした最大の目的は、この北初富の音の響きが素晴らしい空間に山田庵巳世界を融合させるということである。実際、どれだけこの2つの魅力が相乗されるのか、主催者としても予測が付かず、待ち遠しさに心が震えるばかりである。


松本裕(http://id27.fm-p.jp/26/zedangaia/)

 松本裕の演奏は、一見、正統派の弾き語りスタイルに見えるが、そのような表面上のスタイルに騙されてはならない。
 その演奏スタイルこそ「弾き語り」だが、最初から弾き語りの形で作品化されてはいないからである。一般的には弾き語りの場合、演奏される歌を終着点として想定され、歌詞や旋律が用意される。だが、松本裕の場合、歌とはまったく別の小説的な世界をいったん構築しているのではなかろうか。完成系として表出するということではなく、いったん絵画なり小説なりの歌とはまったく別の形式で自分の中で完成させた後、その全体像を「弾き語り」の形式に変換して表出しているような手法である。「弾き語り」の形式を採りつつも、行っていることは自分自身を一旦蚊帳の外において箱庭を組み立てていくことであって、最初から箱庭の中心に陣取って周囲を並べていく多くの「弾き語り」とは、その点で区別化されると言えよう。表現方法についても、直接的な原始的な言葉を避けて一歩引いた描写を心掛けているようであるが、その分だけ描かれた全体像が聴き手に飛び込んでくるのである。そのような理由から、ごく一般的な弾き語り演奏者の延長線上に松本裕の立ち位置は存在しないとも言える。
 ここ数年の代表作として「僕の生涯」が挙げられるが、この楽曲が観客の心に響いてくるのは重たい社会性のテーマのためばかりではない。実際、社会性のあるテーマを採り上げた作品は、数多くはないにしろ古くは反戦フォークの時代から一定数世の中に存在している。とは言え、それらはテーマが骨格のまま剥き出しになっている作品であったり、最大公約数の事例を要約した「ステレオタイプの再生産」の作品であったりと、優れた小説や舞台と比することなどできない触感となっていることがほとんどである。しかし、松本裕の「僕の生涯」には、皮膚感覚までもが感じられるほど詳細が伝わる丁寧な情景描写と、外からの力によっては穢すことのできない「主人公」の人間性の尊さが強く感じられる。フィクション・ノンフィクションにかかわらず、ありきたりな記号に逃げず、一つひとつオリジナルな世界を設定し、細かく描いていくのが本作品に限らず松本裕の大きな魅力である。
 今回の企画のステージでも、上述の松本裕の特徴となる世界は十二分に伝わるであろうと予想されるが、作品の幅も量も豊富であるので、できれば他の機会でもステージに足を運んでもらえたらと希望している。そこには、この日に顔を見せなかった別な松本裕の世界の表情が、必ず観客の前に現れるはずだからである。


辻隼人(http://www.hayatotsuji.com/)

 辻隼人の演奏スタイルを「人造言語と前衛的奏法を用いてのピアノ弾き語り」と記してしまうと、奇を衒った印象を観客に与えようとしているように誤解されてしまうかもしれない。実際、目の前に観客があることを想定してのパフォーマンスを行う演奏者は少なくなく、それがステージ上の演奏効果に繋がる結果となっている。しかし、辻隼人の場合は演奏面において、パフォーマンスのためだけのピアノや歌の一音も見出すことはできなかった。足弾きや内部奏法など、初見では大変衝撃的に感じる演奏についても、計算された必然的な意味合いを持っていることが、よく聴くと理解できる。ただ、このような容易には理解されない道を歩む表現者は決して多くはなく、この境地まで辿り着くまでの大きな孤独感が察せられてならない。
 先ほど「弾き語り」という語を用いてしまったが、本当はこの言葉は適切ではなかったかもしれない。もしも世界の終わりに、自分以外にたった一台のピアノだけが残されたとしたとしたら、本来「弾き語り」は意味を成さない。そこに「語る」べき相手がいないからである。だが、辻隼人の場合は異なる。自分以外誰もいなくなったこの世界でも、普段の日々と何も変わらない演奏を止めることはないであろう。
 辻隼人の行っていることは、自分と切り離された作品のみを他者に向けて表現・伝達完成させることにすることではなく、演奏する自分も含めた世界全体を提示することに他ならない。観客が目の前にいるという点で、絵画よりもパフォーマンスが優先されやすい音楽の分野において、辻隼人は稀有な孤高の表現者とみなすことができよう。


水井涼ノ佑(http://tosp.co.jp/i.asp?I=mizuiizumi)

 今年の3月、誕生日を迎えたばかりのライブ会場で終演後、この日の豪華な共演者達からお祝いの歌とケーキが水井涼ノ佑に贈られていた。四六時中音楽に囲まれている生活を送っていることもあり、水井涼ノ佑は多くの音楽仲間に愛されているように見える。だが、実は音楽仲間だけではなく、音楽そのものにも愛されていることを、演奏の端々に感じざるをえない。高音域の充実した中毒性のある声質や、力強さを感じさせながらも指のよく回るピアノ演奏も、他になかなか見かけない特筆すべき特徴ではある。だが、水井涼ノ佑の最大の特徴は、「全ての音楽に対する敬意」と「それに応えて音楽側からも受ける愛」が、そのまま演奏に表出されている点であると感じられる。
 「この世界にある少しでも多くの曲に、自分自身で光を当てたい」という意図が働いてか、水井涼ノ佑のステージでは多様なカバー曲も演奏される。また、自らは高い演奏力を持ちながらも、決して周囲の音楽を蔑まない真摯な姿勢を持ち続けており、嬉しそうに共演者の演奏に耳を傾けている姿をよく見かける。「すべての音楽が皆尊い」という意識がきっとそこにあるのであろう。だが、ひとたび自らの演奏に移ると、音楽の何かが憑依したかのような表情を見せる。それは水井涼ノ佑が歌を唄っているのではなく、まるで歌が水井涼ノ佑を唄っているかのような印象を与える。観る者を引き込んで止まない水井涼ノ佑のステージは、音楽が決して物理や数学だけでは構築されていないという当たり前のことを、今更ながらに気付かせてくれる。
 音楽的には、どの時代の音楽も分け隔てなく「よいものはよい」と採り入れているためか、斬新さのみならず懐かしさをも感じさせる。音符以上に言葉数の多い「りょーちんの浮世哀シミ節」などの自作曲については、80年代ニューウェーブの系譜を継ぐ形態にも感じられるが、懐古的なわけでもなく現在進行形をむしろ意識させる。練習を重ねなければ歌いこなせないだけの高いクオリティがあるが、それを軽々と演奏している姿には聴く者の魂も騒ぐはずである。


sprawl world(https://twitter.com/sprawlworld)

O.A、本企画主催


会場:北初富Handwired Garage(http://hwg.jp/)について

沿線住民以外に、あまり乗り降りする機会もないと思われる新京成電鉄。その乗降者数が一番少ない北初富駅にHandwired Garageは位置している。正直なところ、集客などの点でメリットがあるとは認められず、ビジネスだけを考えるのであれば決して選択されるはずのないロケーションである。
だが、一足踏み込んでみると、そこは特別な空間であると感じられるはずである。音響の専門家が自ら計算して配置した機器の数々。にもかかわらず、懐かしさと落ち着きを感じさせる時代物の調度品の配置。小劇場を思わせるような、カーペットの靴を脱ぎ上に膝を抱えて演奏を楽しむ観客席。全ては居心地よくライブを感じ取れる空間の要素となっている。他のライブハウスでよく味わう「演奏以外の雑音」的な要素は、この空間では排除されている。
特筆すべきところはやはり音質の素晴らしさであって、音量の大きなバンド演奏でさえもアルバム音源同様の繊細な響きを感じ取れる会場は、おそらく都内を探し回っても決して多くないはずである。遠方からレコーディングのためにこの会場を選択し足を運び、泊り込みで作業を行う音楽家もいると聞くが、それも頷ける話である。
 今年この会場に出逢い、多くの素晴らしい表現者に伝えたいと感じたのが、今回の企画を行うことにした最大の目的である。今後、より多くの人々にとっての特別な空間として根付いていくことを願って止まない。












いいね!(3)  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2012-01-11 04:49:22

ボンベイ/柏

テーマ:カレー
書けそうな内容から、ブログを再開したい。

柏のボンベイは、一度閉店している。
先代のボンベイはファンも多かったが、店舗の場所のビル化(現在の城南予備校の場所)の際に結局テナントとしてはいることなく、消滅してしまった。
大変残念であったが、マスターの高齢化により旧店舗の末期は確か月火水の昼営業のみであったので、テナントでの復活が難しいところもあったのであろう。
その後、マスター宅に訪れ幻のカレーを食することができたという話は身近でも聞いたが、マスターは間もなく亡くなり朝日新聞の地方欄でも大きく採り上げられた。

決して広い空間ではなかったが、それだからこそこの店は個人的な想い出とともに語られることが多い。
カレーを提供する場としてだけでなく、その時期過ごした時間までもが、通っていた客には記憶として刻み込まれている。
地理的な関係から、個人的には松戸の印度でカシミールカレーを注文することが多かった。
カレー目当てで一人で来店することが殆どで、マスターとは特に言葉を交わすこともなかった。
だが、そのような自分でさえ、訪れたときの味とそれに紐付く想い出は強く刻み込まれている。
一度でも移転して、ビルテナントで営業していれば少し違ったかもしれないが、店舗の建物自体がなくなってしまったがために記憶の結晶がより純化されたものになってしまっているのであろう。
国分寺のグルマンも、個人的にはそれに近い。

昨年、ボンベイが店舗としても再開し、今年になって訪れる機会をようやく持てた。
「昔のファンにも納得できる味」という情報は得ていたし、既に注文して満足したという声も直接聞いていた。
ただ、カシミール系以外は旧店舗でも注文したことがないので、それ以外のカレーは今後注文しても全く判断できない。
ただ、カシミールやチキンに関しては、「確かこのようなカレーであった」と、記憶の輪郭線をなぞることまではできた。

見た目は、カシミールとチキンとでそれほどの色彩の違いはない。
松戸の印度はチキン、インドが黄色だとすると、カシミールが橙色程度の違いがあった。
ボンベイのカシミールは、それほどの圧迫感はなく、実際一口匙で掬って味わっても辛さより美味しさが染み渡る。
だが、白いご飯にその液体をかけると、状況が一変する。
体調にも依るのだが、口にする度、涙と鼻水が止まらなくなる。
水を飲みたくなるが、初めて自分が師匠に連れてこられたときに「辛いカレーは途中で水を飲んではいけない」と諭され、今でもその教えは守っている。
胃液が薄まることや、後で辛(つら)くなることなど、理には適っている。
同行者はカレーをそのまま匙で掬って飲み、白いご飯は混ぜずに食していたが、それも一つの方法かもしれない。

カシミールカレーは、上野や銀座のデリーがおそらく発祥だが、それぞれの店舗でいろいろ手を加えている。
現在も存在するかは未確認だが(移転も含めて)、印度は松戸の他にも柏や八柱にもあった。
国分寺にも昔、印度十番館(一番館だったかもしれない)という似た献立の店はあった(これはすぐに閉店、野球選手の花などが開店時置かれていたので、その方面の何らかの関係者だったのかもしれない)。
肉の調理法が異なったり、野菜が見える形で加えられていたり、少しずつ相違があった。
ロイヤルホストの夏献立の、野菜がたっぷり入ったビーフカシミールも、それはそれで美味しい。
だが、おそらく、ボンベイのカシミールが一番手を加えている味と予想される。
一見薄まったようにも見える色彩の裏に、他の店舗のカシミール系との差別化がきっと存在するのであろう。
その正体は、もちろん現在は何も分からないが。

ジューシーさを残す鶏肉、懐かしい皿のロゴ、食後に泣きながらすするホットのデミタス、それらは初めて旧店舗に連れられたときの記憶を引き起こされた。
どこまで旧店舗の味に近く、そして遠いのか、現在もおそらく今後もその結論を自分は出すことができない。
旧店舗に豊富にあった裏献立(あかとんぼ等)も、全く同じというわけにはいかないであろう。
だが、旧店舗のマスター夫人(厨房に以前立っていた方であろうか)も味の監修を行っている現店舗は、柏ボンベイの味の系譜を継ぐ場として、今後も残って欲しいと願って止まない。


http://curryhouse-bombay.com/



いいね!(0)  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2011-08-27 17:39:10

日比谷カタン六弦似非弾き語りクリニック#0

テーマ:ライブ

最初に断っておくが、今回の記事はこの弾き語りクリニックの忠実な講座再現では決してない。
あくまでも、今回の講座を受講して、自らのフィルターを通した上で印象に残った事柄をピックアップし、感じたことを健忘的に記したものに過ぎない。
そのため、この記事を読んだところで受講するのと同じ効果が得られるはずもないが、一個人が今回の講座から何を吸収したのか程度の情報は伝わるであろう。


今回の講座は、5月にあったサンジャックでの森川祐護とのギター講座とセットで参加することにより、より深く理解できた気がする。
USTも流れたようだが、断片的に記憶に残っていることを箇条書きする。


・長渕剛(「夏祭り」をサラリと演奏)や尾崎豊あたりから入ったが、あるとき歌詞がダメになった(「歌詞なんかなければいいのに」となり、歌詞のない音楽へ)。
・渋谷系と呼ばれる音楽に接し、「これなら」となった。
・楽器も、DVに耐え抜いた今の楽器だからできた曲がある(よい音過ぎてダメだった楽器もある)。
・形から入る(森川祐護との対話で出てきた言葉)。
・ギターで演るから「変態」と呼ばれるが、同じことをピアノで演ったらそうは言われないはずである。
などなど。


USTでは流れていなかったと思うが、終演後に実際にどのように手を動かしているのか、観客に解説してもいた。
この5月の「講座」自体でギターの技術が高まるわけではないが、少なくとも日比谷カタンという弾き手の形成の一端は知ることができた。


当日、家でのんびりしていたら結構な時間になっていて、慌てて楽器を抱えて電車に飛び乗る。
ギターを弾き込んでからクリニックに向かおうと悠長なことを考えていたが、調弦すらせずにギリギリの時間に明治公園駅から会場に向かう。
いつものように会場は迷ったが、途中オトトイ(主催者)関係者に声をかけられ、時間直前に辿り着くことができた。
何でも、「今日の講座は分刻みでスケジュールを決めていて、かなり気合が入っている」とのことで、期待が高まる。
2階の部屋に入ると、2~3割ほどの参加者がギターを持参していた。
日比谷カタンに所縁のある、「ちゃんとした」ミュージシャンも数人受講していた(お忍びかもしれないので名は伏せる)。
遠くは京都の方面から、この講座を受講しに来た参加者もいたらしい。


今回、事前にアンケートがあり、質問やデモ演奏のリクエストなどの項目があった。
前から疑問に思っていたことがあったので、思い切ってそれをぶつけることにした。
その疑問とは、「日比谷カタンは、何故弾き語りという形式を採るのであろうか」ということである。
twitterなどで書き込みを目にする限り、日比谷カタンの視点はバランスが取れた上で理知的であり、視野も広い。
普通、このタイプの音楽家は神に近づいていくと鬼怒無月の方向性になりそうなものだが、そうではなく歌詞を自ら創り肉声で歌っている。
歌詞にせよ歌声にせよ、そこには神でない生身の人間の断片が少なからず残されることが避けられず、創るにしても磨くにしても多大な時間と労力が求められるはずである。
外に向けて分析を行い評論する精神が、自らの紡ぐ言葉や生み出す肉声にも向けられるであろうことは、想像に難くない。
「日比谷カタンに内なる評論家は存在しないのであろうか?」
おそらく、いや間違いなく存在するはずである。
いろいろな場面で立ちはだかるであろうそのうちなる存在に対して、どのように対峙し、どのように乗り越えて形にしていったのであろうか。
受講生として、内なる評論家を肥大化させすぎてしまった自己をこの場で明らかにしても、この一つの答えをこの機会に手にしたかった。


やがて、講座が始まる。
最初にホワイトボードをひっくり返すと、技術よりも精神的な面で役立ちそうな項目が既に板書されている。
「ギターを弾く参加者」に挙手させ、一人ひとりに普段の練習時間や方向性を問うた。
ギターも方向性もまちまちで、日比谷カタンと同じギターを持参したのはちゃんとしたミュージシャン一人のみであった。
一通り尋ね終わった後、「クロマチック」という言葉が出たので、基礎練習的な演奏をしながら講義を続けた。
正式な名称は知らないが、大学時代のギターサークルでは「ムカデ」と呼ばれた1ポジションから半音ずつ1弦ずつ移動する半音階のスケール練習で、当の日比谷カタンは「そうした練習はほとんどしない」というものであった(森川祐護とのギター講座でも同様の言葉はあった)。
「何でこれがやりたくないのかな、ということも考える」「敵と語る術も持つ」といった言葉もギターを弾きながら語られ、元来「合理化」が防衛機制として用いられるパーソナリティであると感じる。
また、「広く浅く」という言葉には、納得させられる。
実際は「浅い」ということはなく、事象の本質を抽出して抽象化された部分を獲得しているように感じられるが、どこまでいってもリアルな固有名詞に紐付いた世界とは無縁で、ここに日比谷カタンの詩人性との乖離がやはり感じられる。


ここで、事前準備の板書に話題が移る。
最初に、「遊ぶ」「いじる」時期は必要であること。
そのときに培ったものは、細胞レベルにまで入ってくる。
そのとき「どう遊んでいたか」が、後々に影響してくることを、外国の哲学者か誰かの名前を出して解説していた。
これは、理解できる。
全く「遊び」がなく、最初から「鍛錬」であった場合、音楽のみならずその方向性は一つのみであり、速さなどメカニカルな部分にしか目が行かないであろうことは容易に想像が付く。
「遊び」があるからこそ、そのメカニカルを何に生かしていこうかという創造性に結びついていく。
高校時代の友人が大学卒業後にホテルマンになり、「専門学校卒のフロントは真面目すぎて一つのやり方しかないと思っている。いろいろな対応方法があるのに、これしかやっちゃいけないと思っている」というようなことを語っていて、それが今も印象に残っている。
大学は広義での「遊び」を獲得する場であり、時間的な最短距離からは程遠いが、別な場面で応用できる冗長性は多く獲得できる。
もちろん、日常生活場面でその冗長性を獲得できれば教育空間は二の次三の次なのだが、純粋培養としてのメソッドのみで育った場合は「真面目な」ものしか生まれてこない恐れはある。
「アドリブも自分の中で培ったものしか出てこない」という日比谷カタンの言葉も、これにおそらく結びついていると思われる。


次の段階、人前で演奏するという段階について論じられる前に、アンケートが思いがけず紹介された。
先ほどの「内なる評論家」についての自分の質問であり、少々驚かされたが全文読まれたこともあり、せっかくなのでそのままここに記す。


今回の趣旨とは違うかもしれませんが、「弾き語り」のために言葉を紡いで世界を組み立てていく際に、「内なる評論家」が立ちはだかることはないでしょうか。根っからの詩人であればそういったことはないのかもしれませんが、自分の場合その「内なる評論家」が自由な創作を押しとどめて、前に進めないところがあります。


このアンケートを読み終えた後、「自分も全く同じ」であると語り、「2001年まで人前で歌ったことがなかったが、成り行き上、人前で曲を作って歌わなければならなかった」というときに考えたことが板書に示されたことであった。
この講座の写真がどこかにあるはずなのでそちらを参照してほしいが、「他のことは実はどうでもよくて」と最後に示されたのが「快楽原則」であった。
「快楽原則に従ったら嫌なことはしない」「快楽原則以外で人は動かない」という結論に辿り着き、約束してしまったので、「こんなことを書いているのではなく、曲を作らなければならない」と初舞台での曲を作り始めたとのことであった。
順序は前後してしまうが、講座の最後の最後にももう一度このアンケートの質問に対しての答えが語られた。
「自分も内なる評論家(批評家)が立ちはだかり、全く前に進めなかった」
「与えられた機会は強引に決めてしまった。自分がやりたい気持ちを持ちながら、この機会を逃したら次にいつ機会が来るか分からないと思い、やらなければいけない状況を強引に作り出した」
「そのとき、『ヘテロのワルツ』と『ブツブツ膏』しかなかったが、内なる評論家が『これだけを演奏したのでは誤解されるぞ』と囁き、『誤解を受けない』曲を3曲創り足してペンギンハウスで演奏した」
言葉の言い回しは少し異なるかもしれないが、そのような答えが返ってきて、納得すると同時に「自らがすべきこと」も自ずと理解されてきた。
他の受講者にとってはギターのデモ演奏と、「対話の可能性」冒頭の演奏解説が有意であったかもしれないが、個人的にはその前後のアンケートの質問の答が自分には大きかった。
場が異なれば一笑に付されるであろう質問に真摯に答えを出し共感的理解を示したこの講座は、日比谷カタンの音楽家としてではなく人間としての姿勢そのものの現れであり、高みから世界を鳥瞰する視点の指導者としての適性も示していた。


自分にとっては一番大きかったのが、この技術面でなく精神面の部分であったが、もちろん技術面も驚かせるだけのものがあった。
日比谷カタンを初めて目にした(「耳にした」ではなく、あえてこの語句を用いる)際に一番衝撃的なのは、「目の前で弾いているのに、何をどう弾いているか分からない」という部分であろうか。
代表的なのは、やはり「対話の可能性」であり、その和音の流れ、そしてストロークを5段階にステップアップさせて演奏して示した。
具体的には「スイープ」と呼ばれる空ピックの使い方の提示であり、仕組みを惜しげもなく披露した内容は興味深いものであった。
面白かったのは、ジプシージャズのカッティングは弾き下ろすのが速いが、速さが身に付いたのはジプシージャズからではなくデスメタルのバンド曲をアコースティックギター1本で演奏していた習慣からだというところである。
何がどういう形で役に立つのか、分からないものである。


「いびつな月のはからい」「終末のひととき」など、5~6曲ほどのデモ演奏もあった。
それは、演奏面と同時に、あの独特の和音がどういう狙いで定められたのかという解説でもあった。
ジャズの和音を用いながらもさらにありえない音をぶつけることにより厚みを加えたり、オープンハイコードでどこか開放弦の響きが残るように構成したりと、知識がないと難しい内容ではあるが「教科書どおり」の創作でないことは認識させられたはずである。
もちろん、これらは容易く真似できるものではない。
だが、一番心して傾聴すべき言葉は次の言葉である。


「最初に曲は弾けないところに置く」
「曲ができたときには弾けない(自分の曲なのにまだ弾けない曲がある!)」
「後は弾けるようになるまで練習する」


といった内容であった(また、言い回しは異なるかもしれない)。
正直なところ、デモ演奏よりもこの言葉のほうが驚かされた。
ここまでストイックな「弾き語り」という存在を、自分は今まで聞いたことがない。
「毎日毎日、曲が生まれる」という「生活を歌う弾き語り」ミュージシャンには、絶対にありえない姿勢である(もちろん、それを批判しているわけではない)。
冒頭の「快楽原則」ではないが、こうした「自分の心地よい場所」を音楽的にも技術的にも徹底的に準備し、それを納得いく形で示すことこそをよしとする美学が貫かれた言葉であった。
つまり、受講生は「日比谷カタンと同じこと」は行わなくても(オープンハイコードなど)、「日比谷カタンと同じ姿勢」で音楽に立ち向かうことはできるのである。
「指慣れの和音進行で、音符にJPOPの記号の言葉を当てはめていく」ような姿勢を何も感じない弾き語りは、それが出発点でもあり終着点でもある。
だが、もしどこかで高みを目指そうとして、その手段が皆目見当付かないのであれば、日比谷カタンの姿勢が何よりのきっかけになるはずである。


他にもアンケートに対する回答のコーナーもあり、弦の太さや衣装についての意識など、気になる受講生にとっては興味深い質問についても丁寧に答えていた。
少し時間をオーバーして終講した後も、生徒が囲んでのデモ演奏や解説は続き、参加した3人のミュージシャンの余興演奏も聴け、名残惜しいこのプレ講座は終わった。


今回のプレ講座は1000円で2時間10分(実際はそれ以上)、ギターを持参してもしなくても同額の、破格の企画であった(おそらく宣伝を兼ねた料金設定)。
一般人には敷居が高いと思われる日比谷カタンクリニックの本開催は、正直どれだけ集まるのか予想も付かない。
日比谷カタンと同種の音楽で「弾き語り」を行っている層も、さすがに多いとは思われない。
だが、ガット弦でも言葉で語らなくてもジャンルが異なっても、必ずこの講座の本開催は有意義であるのは間違いない。
何よりも、意識の面、メンタルな部分に多大に働きかけるからである。
その意味では、受講ではなく聴講だけでも意義があるとも思われる。
時間的・経済的・体力的にどこまで余裕があるのか想像も付かない我が身ではあるが、今秋の本開催の際には何とかこの講座に参加したい。




いいね!(0)  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2011-05-24 00:36:27

山田庵巳ワンマン/渋谷テラプレーン

テーマ:ライブ

山田庵巳ワンマン/渋谷テラプレーン(11/04/21)


1.命の傍らに
2.模範的な黒
3.ゼンマイ式天体師三百日物語
4.あまつぶ


5.山羊でした
6~8.タイトル不明小品3曲(椎名町、高円寺のアパート、鯖の缶詰)
9.赤い月~キャベツ畑でタリラリラ
10.赤い月~桃子は三度振り返る
11.冷たい指先のワルツ


12.ぱぷりかぁな
13.ロールキャベツ
14.スウィートポテト
15.かぼちゃのスープ
16.赤い月~マクロファージ2号
17.右手にたいまつ
18.旭を連れて
19.もしあなたが
20.春夏秋冬



気が付くと、このブログも今年まだ2回しか更新していない。
書き差しだけでも、とは思うが、何だかんだでTwitter以外は更新していない。
やはり詳細に残しておきたいことはあるので、手始めに直近の山田庵巳ワンマンライブについて記しておくことにする。


渋谷テラプレーンで昨年から開催されている、夢のような山田庵巳ワンマンの企画であるが、今回で4回目(テラプレーンでは)を迎える。
出演しそうなライブハウスを毎日チェックし、「山田庵巳」で何千も検索を日々かけていた頃を振り返ると(そのくらいしないとライブに辿り着けなかった)夢のような日々であるが、せっかくのワンマンなのにレポ一つ仕上げることができなかった。
Twitterではリストぐらいは記しているので(それすらない回もあるが)ご興味がある方はそちらを参照していただきたい(http://twitter.com/sprawlworld   まとめたものは、http://twilog.org/sprawlworld )。
本来であれば、全回しっかりとしたレポを記したいのだが、それではいつになるか分からないので、ひとまずここまでのリストだけでも並べておきたい。
また、この一連のワンマンの契機となった南條ゆういちとのツーマンのリストも記す。
このツーマンライブの企画がなかったら、一連の山田庵巳ワンマンライブも存在しなかったので、この日の企画者、共演者である南條ゆういちには大いなる感謝をしたい。



9/17ツーマン


1.模範的な黒
2.砂の道
3.水辺の妖精
4.命の傍らに
5.機械仕掛けの宇宙
6.春夏秋冬


7.窓辺のダンスホール
8.渚の係長
9.赤い月~桃子は三度振り返る
10.ぱぷりかぁな
11.かぼちゃのスープ


10/18第1回ワンマン


1.模範的な黒
2.砂の道
3.水辺の妖精
4.機械仕掛けの宇宙
5.旭を連れて
6.命の傍らに


7.つきあかり ほしあかり
8.月が僕らを見ている
9.赤い月~桃子は三度振り返る
10.冷たい指先のワルツ
11.あまつぶ
12.春夏秋冬


13.山羊でした
14.狼の夜想曲(やわらかおおかみ)
15.窓辺のダンスホール
16.アイサレー大佐フォーエバー
17.おいとまいたしましょう
18.ぱぷりかぁな
19.かぼちゃのスープ
20.もしあなたが
21.羊のアンソニー
22.高速バナナに飛び乗って


11/24第2回ワンマン


1.模範的な黒
2.砂の道
3.右手にたいまつ
4.道化師テルゼの月曜日
5.渚の係長


6.黒苺夫人(婦人?)の秘密の庭には
7.ダメダメだ大王
8.絵筆
9.ダンスパーティ
10.羊のアンソニー
11.月が僕らを見ている
12.冷たい指のワルツ
13.春夏秋冬
14.高速バナナに飛び乗って


15.水辺の妖精
16.機械仕掛けの宇宙
17.ぱぷりかぁな
18.かぼちゃのスープ
19.刑事キャノンボ
20.火の玉
21.赤い月~桃子は三度振り返る
22.プリンスポプリは振り向かない
23.もしあなたが


2/16第3回ワンマン


1.模範的な黒
2.つきあかり ほしあかり
3.春夏秋冬
4.アイサレー大佐フォーエバー
5.おいとまいたしましょう
6.刑事キャノンボ
7.もしあなたが


8.砂の道
9.絵筆
10.機械仕掛けの宇宙
11.命の傍らに


12.山羊でした
13.窓辺のダンスホール
14.ぱぷりかぁな
15.赤い月~キャベツ畑でタリラリラ
16.赤い月~桃子は三度振り返る
17.かぼちゃのスープ
18.右手にたいまつ(曲中に「北風」を挿入)


この一連のワンマンで、普段演奏される曲は一通り弾かれたように記憶している(思いつくところでは、サンジャックでの「カラスの半蔵」のみ未演奏)。
ワンマンでしかまだ聴いていない新曲も多く、定番化されるのも待ち遠しいところである。
なお、曲目の表記は原則として、mixiの山田庵巳コミュニティの中の「もくもくきょくもく」のトピック(http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29825010&comm_id=1781262 )を参照している。
2年前が最終書き込みであったが、トピックの冒頭がどうもこまめに更新されているようで、完成間もない「ゼンマイ式天体師三百日物語」も載っている。
また、「赤い月」の第3部も、ステージではまだタイトルを語っていないはずだが、なぜかこのトピックには記載がある。
明らかに正しくないはずのタイトルもあるが、一応オフィシャルに一番近い情報はここにあると考えて問題ないであろう。
ちなみに、定番曲に「完璧な紺碧」という曲があるが、この曲は寡聞にして知らない。
自分が一曲と認識している曲の、どこかの部分がこの曲なのかもしれない。


なお、第2回と第3回のワンマンは、下記のブログで詳細レポが上がっている。

http://blue.ap.teacup.com/keimag/666.html
http://blue.ap.teacup.com/keimag/683.html

一応、リンクの許可は頂いたので、ご興味ある方は参照されたい。


この日は「模範的な黒」でなく、「命の傍らに」で始まる。
3/11以降のライブでは、むしろこの始まり方のほうが多い。
テラプレーンでのワンマン第3回で「宗教団体から曲の依頼を受けて、失敗した曲」と、嘘か誠か紹介していた記憶があるが、「眠りから覚めて悲しみに包まれる」ような困難多き日々には液体のように身にも心にも染み入る曲である。
8弦ギターの低音弦が四分音符を刻み、広大な大地と若草茂る色彩がその光景として広がる。
その姿は、人によっては「失われた光景」かもしれないし、「遠い過去の記憶」かもしれない。
だが、一本の弱い葦である人間の下に必ず戻ってくることを予感させる光景であり、この大地と緑について元来人間が持っている信頼の原光景とも呼べるかもしれない。
「命の傍らに」は、十年後の音楽の教科書に載り、合唱曲として歌われてもおかしくないだけの、格調高くスケールの大きな曲である。
だが、その神のように大きな存在である大地を実感しながらも、弱き人間は悩み苦しみながらも生きていく姿を、実は主題にしている気がしてならない。
ともあれ、この日は「命の傍らに」で厳かに幕を開ける。


この後、指慣らしと喉慣らしの定番曲「模範的な黒」が演奏されるが、実はこの時点で客席の入りはまださほど多いわけではなかった。
「お気付きかと思いますが、こういう日の方が好きです」「今日はのっけから本気出す!」と語った後、「昔々のある国の~」という物語の冒頭に置かれる一節を歌い、ワンマンでは初めてとなる「ゼンマイ式天体師三百日物語」が演奏される。
Twitterでは書いたが、この曲は20分もの大曲であり、ライブの持ち時間によってはこの曲だけでほとんど終わってしまう。
夜空の月を生み出す職人「天体師」クロワの才能と勇気ある行動、そして三百日目の出来事が、眼前で映像化されるがごとく語られる。
あらすじをここで記すことはさすがに憚られるが、物語の終盤で三拍子の二つの主題がリフレインとして演奏される。
三百日目より前の段階で演奏されたこの二つの主題を、三百日目の場面でもう一度演奏することにより、聴き手は否が応でも過去の場面に引き戻され、それを回想させられる。
だが、それは単にリフレインとしての再提示でなく、何と最初の提示より再提示の部分の方が曲は長く、言葉も多く用いられているのである。
つまり、聴き手は最初に味わう場面の印象よりも、回想として振り返らされる追憶に多くの感覚を充てられ、想い出としての楽しき日々を中心に実感させられるのである。
そして、長い長いこの曲は、最後の最後の結末だけは、具体的に描かれていない。
放たれた矢はクロワに向かったのか、外れたのか、それとも国王に向けられたのか。
すべては、聴き手の想像に任されている。
「このへんで止めると気になってファンが増えることは分かっております」と、山田庵巳本人の言葉はあったが、それのみを鵜呑みにすることはできない。
「物語は結末を完結させるべき」という考え方もあるかもしれないが、個人的にはそうは思わない。
それは、「機械仕掛けの宇宙」「赤い月」が何度聴いても飽きを生み出さないのかにも繋がってくる。


前にも記した気がするが、詩は元来多義的なものであり、その多義性こそが本質であると、以前「詞から詩へ」で天沢退二郎が述べていたように記憶している。
その意味では、完全なる物語を歌にするのは詩の本質とは対蹠的なものであるはずであり、2回目以降の物語は多義性の欠片もない焼き直しになってもおかしくはないはずなのである。
だが、山田庵巳の「機械仕掛けの宇宙」や「赤い月」は全く飽きを生じさせず、それどころか聴くたびごとの喜びすら感じさせる。
もちろん、主題となる旋律やギターの奏法など、音楽を起因とする要素は大きい。
特に、「赤い月」の最後でも繰り返される主題の旋律は戦慄すら覚え、物語のクライマックスの高揚感を増長させるのに充分すぎる力が内在する。
しかし、飽きが来ない真の理由は、音楽のみにあるのではないのである。
一見物語的に思われても、言葉の綴り方、紡ぎ方が完全に美しい詩のそれなのである。


山田庵巳の客層は、自ら作品を創作し生み出している職人が多く、本人もそれを誇りにしているところがあるのをどこかで耳にした記憶がある。
だが、それは単なる偶然ではなく、自分が思うに必然に過ぎない。
本当は「赤い月」のところで記すつもりであったが、筆の勢いに任せて文字にしてしまうと、「赤い月~桃子は三度振り返る」の中で「濡れて崩れかけたダンボールの中に、小さな小さな~」という部分がある。
山田庵巳の言葉は、原マスミなどのように単語自体に破壊力があるわけではない。
一つ一つの言葉には手垢感こそないが、異次元の言葉という日常からの乖離性も有しない。
だが、この「濡れて~」という自然な言葉の連なりの中で、どれだけ多くの時間をかけて、どれだけの労力を割いて結晶化が行われたのかが、聴く者によっては強く感じられるのである。
おそらく、一行の詩の言葉を選ぶのに何時間も(あるいは何日も)費やし、苦しんだ経験のある人間には理解できるはずである。
山田庵巳にはその歌声と演奏の見事さに眼を奪われがちになるが、むしろ言葉にこそ目を向けなければならない。
山田庵巳の紡ぐ世界は、一つ一つが精密に磨き上げられた部品からなる、職人的な見事さを持つ集合体なのである。


山田庵巳を「天才」と呼ぶ音楽関係者はあまりにも多く(特にライブハウスのブッキング関係者)、インターネット上でも方々で目にする。
なるほど、未知の驚きに接した際の第一感の言葉としては至極妥当で、もしかすると本人も「天才」という言葉で片付け深追いしないでいてくれた方が好都合とでも考えているかもしれない。
だが、「天才」という言葉は、用いる人により定義も異なり、そうした言葉で片付けている限り本質には迫ってこない。
一種、思考停止的な評価を下す言葉とも思われる。
「天才」という言葉を別な言葉で説明するところから始めた上で、初めてこの側面からアプローチできるであろうが、自分の中では「天才」は「跳躍(飛躍、飛翔でもよいかもしれない)」という言葉に置換できるのではないかと考えている。
一から百まで階段を一段ずつ上るのではなく、どこかで大きく一度に飛び越して上るところが、「天才」という言葉のニュアンスに近いと個人的には考えている。
原マスミも双葉双一も「跳躍」を感じさせる部分があり、おそらく原マスミの用いる言葉は修業とか訓練とかいったレベルでは永遠に辿り着けないだけの天性のものがある。
それと比して、山田庵巳の言葉は気の利いた言い回しが含まれることもあるが、階段は踏み外しがなく驚く「跳躍」は少ない。
それどころか、1段目と2段目の間に1.4段や1.7段など、世間で許容されている間隔の間さえも緻密に磨き上げられ、それが完成形にも表れている。
下手をすると1階から2階まで登るのに10倍の時間と労力がかかる可能性すらあるが、上り詰めた座標からの景色はまるで別のものであるかのようである。
その完成体を惜しげもなくサラリと披露してしまうところが山田庵巳の美学であり、その緻密な作品と提示を言わば打ちのめされながら体感するのが山田庵巳支持層の求めるところなのだろう。
一つ一つの言葉や音にこだわりを持たない層にとって、どれだけ山田庵巳の魅力を体感するのかは全く分からない。
だが、時間と労力を莫大にかけ、一つの結晶体を生み出そうとする魂にとって、山田庵巳の姿勢と生み出された作品は、心を捉えて離さないだけの魅力を持ち続けている。
「天才」という要素もあるのかもしれないが、個人的には「楽屋を見せない職人魂」の要素を山田庵巳作品の中に強く感じる。
客層が前記のような集まりになるのも、必然なのである。


「天体師」に話題を戻すと、この曲は「機械仕掛けの宇宙」「赤い月」などと比して、異端なところがある。
「天体師」と異なり、この2曲は楽曲世界の最後のカギ括弧が閉じられていない。
結末はあくまでもプロセスであり、「塞翁が馬」ではないが、今後正にも負にも人生の振り子は振れていく可能性がある。
また、物語を一つの象徴としたとき、これは聴き手が自分自身に投影することが可能であり、「あなた自身の物語」と本人も語る内容が真実味を帯びる。
百人の聴き手が、物語から延長される百人の「もう一つの物語」を心の中に描くのである。
だが、「天体師」は異なる。
物語が、実線ではないがカギ括弧で閉じられ、なおかつより具体性を伴った分だけ物語自身の解放性が減少している。
その分、物語としての余韻は大きく、長編映画を味わった後のような感覚に浸れるが、先の2曲のような中毒性は多少犠牲になる。
仮に、クロワの結末を実線で描いてしまったならば、物語自体を繰り返し聴こうという欲求は減少してしまったことであろう。
結末に多少含みを残し、挿入歌「クロポワレチケ」に籠められた想いやメッセージを汲み取らせることにより、辛うじて他の山田庵巳作品のような価値を残している。
だが、先の2曲が「いつでも聴きたい曲」であるのに対し、「ゼンマイ式天体師三百日物語」は「特別な日に心して聴きたい曲」であるという程度の相違はある。


「クロポワレチケ」の一番のメッセージは、「夢が叶うより素敵なことは、夢がいつでも傍にいること」という部分であると考えるが、これはやはり身に心に沁みる。
出典をまるで忘れてしまったが、「夢は叶えるものではない、見るものだ」といった言葉をどこかで聞いたが、これに通じる(というよりも同じか)。
満たされること、成功することは、実は幸福と等価ではない。
明日に向かってしか人間は歩んで行けない以上、現在よりも未来に重心を置かねばならない。
その考えからすると、「全ての夢が叶ってしまうこと」は恐怖や苦痛以外の何ものでもなく、人生の終わりにすら等しい。
山田庵巳の語る物語は、一般的には決してハッピーエンドとは言えないかもしれない。
だが、物語の主人公や周囲の人々に「叶っていない夢が残り続ける」という点では、ある意味幸せな収束であると言えるのではないか。


やがて、曲が終わり、いつの間にかそこそこ客席も埋まり始めていた。
「1部が一番気合が入っていると思います」「竜頭蛇尾」という言葉が用いられるが、確かに気合は入っていた。
最後に、「あまつぶ」が歌われ、第1部は閉じられた。
ちなみに、いつもはなぜかアウェー感満載のワンマンなのだが、この日は比較的いつもの客も少なくなく、その点でも伸び伸びと演奏できたところがあったかもしれない。


休憩を挟み、そして、第2部となる。
最初に「山羊でした」が演奏されるが、よく続けて演奏される「狼の夜想曲(やわらかおおかみ)」はこの日は演奏されなかった。
その代わりに、曲後に語りが入り、「第2部は力を抜くことをテーマ」「今から間違った力の抜き方をデモンストレーションします」という言葉が伝えられる。
「3曲演奏した後、『これは力を抜いているんじゃない、手を抜いているんだ』と言うので、そしたら拍手してください」といったような内容のことを言い、実際演奏後にその通りとなった。
ちなみに、その3曲はいずれも聴いたことのない曲で、もしかしたらこのワンマン用に用意された曲なのかもしれない。
1曲目は「この世の楽園、椎名町」とのことで、おそらく椎名町を称える歌である。
2曲目は「高円寺の安いアパート」を借りたら、金縛りや無言電話が頻繁にあったという歌である。
どことなく、さだまさしのフォーク的な曲調であった。
この2曲は、Aメロが終わるとすぐにエンディングに収束される曲構成であったが、3曲目だけはもう少しだけ展開があった。
3曲目は「鞄の中にありったけの鯖の缶詰詰め込んで」という言葉で始まり、Aメロの後、多少盛り上げてそのまま収束した。
音楽的にも言葉的にもこの3曲目が一番面白く、壮大な物語の序章としてそのまま用いることができるのではないかとも感じた。
これらの3曲は、どれもオチを付けて一丁上がりの小品ではあるが、こうした作品にも曲の組み立てや歌唱などで心惹かれるクオリティの高さが感じられ、本人の意図とは逆に「手を抜いている」をいう印象は微塵も感じさせなかった。
これでも精一杯の力を込めて「手を抜いた」のかもしれないが、日常生活をテーマとする通常の歌い手の作品よりもむしろ緻密な描写を感じることさえできた。
3曲終えた後の拍手は、「約束どおり手を抜いた」ことによる拍手ではなく、「手を抜いても決して失われなかったクオリティ」そのものに向けられたのではないかとさえ感じられた曲であった。


そして、いよいよ名曲「赤い月~桃子は三度振り返る」が演奏される。
実は、第3回で「猫が好きか、犬が好きか」を会場に問うたところ、猫で拍手が鳴り止まず、犬で沈黙となった経緯がある。
「犬の方は誰も聴きたがらないので」と第4回では口にしたが、そのようなことはない。
ただ、猫の方はあまりに名曲なので外そうという気にならないだけのことである。
思えば、最初のテラプレーンのツーマンのときも、後半でこの曲は演奏された。
あの日も、半分ぐらいは山田庵巳と初めて出逢う客層であったはずだが、「窓辺のダンスホール」から「かぼちゃのスープ」に至る一番の峠の部分で演奏されたこの曲は、間違いなく会場全体を包み込んでいた。


話を第4回ワンマンに戻すと、この日は予告編として「赤い月」の第3部に当たる「飛べない青い鳥」を、未完成のため予告編として途中まで演奏して、そのまま「桃子は三度振り返る」に続ける流れを用いた。
実は、その前にも「鳥→猫」の流れで演奏されたことがあったが、そのときより作品は長くなった。
と言っても、物語が先までどんどん進んだわけでなく、むしろ途中の部分が膨らみ巨大化するような印象を持った。
このままだと、「天体師」以上に長い物語になる可能性すらあるが、冗長性を排除していく可能性もあり、全体像がどうなるかは余談を許さない。
先ほども記したが、この曲のタイトルは「キャベツ畑でタリラリラ」とmixiコミュにはあり、美しい羽を失った青い鳥がおそらくキャベツ畑で何かを経験するのであろう。
ちなみに、この完成形は連休明けにもお披露目されるはずであったが、作品が仕上がったという話は寡聞にして知らない。
時間をかけるだけクオリティが高くなるというわけではもちろんないが、納得いく完成形が披露された瞬間に立ち会えたときの喜びはやはり大きい。
最近では、池袋鈴ん小屋での「ゼンマイ式天体師三百日物語」の完成形初演がそれで、最初に予告編が始まった半袖の季節から長い間待った甲斐があった瞬間であった。
「赤い月」のシリーズとして、納得のいく作品になってさえくれれば、1年でも10年でも待ちたい。


そして、いよいよ「桃子は三度振り返る」の始まりだが、タイトルでも登場する「桃子」が一つ歳を重ねた。
「登場人物も我々とともに歳を取ります」などといったことを述べていたが、最終学歴まで変化したのは驚かされた(ちなみに、元は「美大」)。
これにより、猫の名前の必然性を犠牲にする代わりに、「口笛が上手になったこと」の必然性が増した。
通常のバージョンは出逢いから別れまでの日々をあまり語らず、音楽を中心に描き出していたのが今までの作品である。
笑顔も安らぎもギターのフレーズと演奏のみで表現し、曲調がマイナーになるところで訪れるその瞬間を予感させる。
ここまで完成された曲に、この日はあえて手を加えて中間部を言葉でも描写していた。
この日演奏されたバージョンもいつものものも、それぞれよい点があり、意図もある。
今後も、馴染みのバージョンも聴けるであろうし、また積極的な意図を織り込んでいこうという日もあるように予感される。
いずれにしても、このワンマンでの演奏のピークの一つはこの曲にあった。


最後は、「冷たい指先のワルツ」で第二部も終了する。
直前に、「すっかり切なさがなくなってしまった」ようなことを口にしたが、結局予定通り切なさの含んだこの曲で終えた。
結局、第2部全体を通しても「力を抜く」ことはあまり感じられず、渾身の演奏であったように感じられた。


第3部は、野菜の歌がリストに並ぶ。
昨年であれば、山田庵巳が「皆さん頑張っていきましょう」とありえないMCをした秋葉原ドレスのライブや、YouTubeで名演が観られる柏Wuuのライブで、野菜の3曲シリーズは演奏されている(ちなみに、柏は8/31の「野菜の日」)。
先に「ぱぷりかぁな」が演奏されるが、ギター演奏のクオリティそのものはこの曲は最近ずっと安定して高い。
テラプレーンの雰囲気にも曲調が合っており、それも意識されてかツーマンのときから「ぱぷりかぁな」は必ず演奏されている。
個人的にも、この空間で「ぱぷりかぁな」が聴けるのは楽しみの一つである。
設定としては、初恋の相手「渡辺ぱぷりかぁな」ちゃんについての想いを歌にしたとのことだが、印象としてはもう少し成熟したような像が浮かぶ。
そして、心変わりをテーマとした「ロールキャベツ」、別離を予感させる「スウィートポテト」、追憶が切ない「かぼちゃのスープ」の3曲が連続で演奏される。
代表曲である「かぼちゃのスープ」は別として、残りの2曲はこのメドレーでしか聴いたことがない。
だが、いずれも名曲であり、特に音楽自体は「スウィートポテト」は個人的にも惹かれて止まない魅力を感じる。
せっかくなので、柏Wuuの演奏を貼っておきたい。

http://www.youtube.com/watch?v=-c-a8GIwktk

「かぼちゃのスープ」については、ライブの最後に演奏されても素晴らしい曲である。
この曲がアンコールで演奏されたのを最初に聴いたとき、柔らかな光に包まれ、打ちのめされる感覚を味わったのを、おそらく自分は一生忘れることはない。
今まで、自分でもギターを弾いたり色々なライブに行ったりしていたのは、実は山田庵巳に出逢うための日々だったのではないかとさえ感じた。
長い長いこの歴史年表の中でこの瞬間に生を受け、広大なこの地球儀の中でこの場所に存在することができた喜びと奇跡には、感謝してもし尽くせない想いで溢れた。
曲に話を戻すと、やはり「かぼちゃのスープ」も職人的に丁寧に言葉を紡いだ、美しい調和がある。
それでも技巧に収束するのではなく、心の繊細な描写が聴き手の内面をも揺り動かし、自分自身が追憶を行っているかのような錯覚を覚える。
おそらく、この決して長くない曲も膨大な時間と労力を注ぎ込んでいることであろう。
だが、そのプロセスを示さず、山田庵巳は結晶だけを何事もなく提示するだけである。
ちなみに、山田庵巳は野菜や動物の歌が多いが、これは間接的には人間について表現しているとのことである。
その表現形態こそが、一般的な共演者の直接的な歌詞をつまらなく感じさせてしまうだけの差別化を持たせるのかもしれない。
新宿サクトでの共演者は、ギターは上手いが歌詞についてはJ-POPの延長線上であることが少なくなく(もちろん全てではないが)、声の倍音と歌詞の音素の周波数が楽器の音とともに脳で処理されるだけのことも少なくない。
代官山のイベント(alternative soloist)以来、山田庵巳のMCでも「J-POP」という言葉が用いられる場面がよく観られるが、代々木原シゲルの「最近のJ-POP」が印象深かったためではないかと思う(この歌詞はTwitterでは知っていたが、歌があるのはそれまで知らなかった)。
それはさておき、J-POPとはJ-POPの記号とも呼ぶべき幾つかの単語に置き換えて歌詞世界を積み上げ、聴き手の受容器でそれを強引に自分の経験などに結び付けて追体験しようとする、言わば力技の作業である。
一度最大公約数に情報を減らした上で、聴き手側でその画素やbitレートを補完しなければならない。
どうも、自分にはその受容器が欠如しているらしいことが分かってきたが、詩人や職人の言葉は周波数以外もきちんと入ってくることも分かった。
話を「かぼちゃのスープ」に戻すと、そうした意味でこの曲はJ-POPではない。
画素もbitレートも下げることなく、何も脳内で補完しなくとも映像も心象も浮かび上がってくる。
メドレーのこの日の演奏も素晴らしく、ここでライブが終わっても満足であったが、ここから御馴染みのリクエストタイムが延々と続く。


「長いのと短いのとどちらがよいか」などと、懲りもせずにこの日も客席に問いかける。
たいてい客席からは無茶なリクエストがあり、尋ねた側は余計な苦労を背負うのが常である。
案の定、「ポチ」という声も上がり、「赤い月」が全て演奏されることとなる。
長い曲2曲と、短めの曲2曲がリクエストで採用され、まず「赤い月~マクロファージ2号」から演奏される。
マクロファージ2号はシュレッダーで、人工知能や書類を読み取る機能の付いた画期的なシュレッダーのようである。
演奏が結構難しい曲の割には準備を存分にした日はリクエストがかからず、このような思いがけないときにリクエストがかかり、そうした意味では不運な曲である。
だが、会場の評判もよく、この曲がやっとワンマンで披露されたのは本当によかった。


そこで事件が起こる。
山田庵巳のみならずau携帯のユーザーが多いらしく(ちなみに私はPHSユーザー)、終曲と同時に地震予告の例の音がテラプレーンのあちこちから鳴り響き、直後にそこそこの揺れが地下の店も襲った。
ちょうど店内に地震の専門家の観客もいたらしく、「このくらいなら大丈夫」とのことであったが、しばらく地震の話題が続いた。


そして、この日最後の大曲「右手にたいまつ」が演奏されたが、この日一番の名演であり、観客の拍手喝采も他の曲の比ではなかった。
ワンマンの日は比較的時間にも余裕があるので、無理にテンポを上げずに丁寧に一音一音響かせることが多い。
そのため、ギターの音質もどちらかと言えば粒の揃った美音で奏でられる割合が多い。
だが、「右手にたいまつ」は何かが振り切れるかのように勢いよく演奏され、リミッターも取り払われたかのようにアクセントの楔も打ち込まれる。
この曲は、正真正銘山田庵巳にしか創れないし、歌えない曲である。
例えば、「アイサレー大佐フォーエヴァー」などは日比谷カタン的な影響もあるという声もあり、確かに高みからフィクションを構築しようというところは類推させられるところである。
だが、「右手にたいまつ」はそうではなく、「二の腕」という単語自体が主役として躍動する世界というのは、一般人にはなかなか思いつかないし、それを作品化するという発想すら浮かばない。
どこか創り手の使命感のようなものが突き動かし、このテーマを結晶化させたとしか考えることができない。
ちなみに、「ゆうこちゃんの二の腕もゆうこちゃんなんだ」という視点は、学術的には正しい。
詳細はリンク先のマンガを参照していただきたいが、「ゆうこちゃんの帽子」「ゆうこちゃんのリコーダー」など「生命のない対象物」でない限り、正常な方向性であることは間違いない。

http://yucl.net/man/24.html

歌詞の中で、主人公は光が射したかのようにこの境地に辿り着く。
一見笑いを取るためのコミカルな世界を予想させておいて、収束部で示されるあまりにも感動的な境地には身震いが抑えられない。
「君の体温を知ったときから(※修正済み)」からは確かに光が射し続け、心の向かうところもしっかりと道標が確認できる。
演奏自体も、なぜかこの曲には気迫が感じられて、自分自身が松明(まつあきら)君となり苦しみ、そこから解放される境地に辿り着いたかのような、そんな魂の叫びすら聴く者に感じさせた。
「旭を連れて」の高速のギター演奏を聴かせた後は、少し語りが入った。
震災の後に無力感を感じたことや、生活の中で自分のできることを少しずつ行うことで取り戻していった感覚など、間違いなくフィクションではない生の声が届いた。


リクエストの最後は心を込めた「もしあなたが」であったが、心を込めすぎたか、演奏自体に満足できず「これでは終われない」ともう一曲弾かれた。
「春夏秋冬」の前奏が奏でられ、これを聴きながら自分の心の中で小躍りをした。
この日は、「スウィートポテト」か「春夏秋冬」が聴けると嬉しいと思っていた。
リクエストはもちろんできる場であったが、個人的にはこのような機会は会場にあまり足を運べない観客のところに与えられてほしいとも思っていた。
「スウィートポテト」が聴けた以上(「右手にたいまつ」も名演であったし)、これ以上求めるのも、と思っていたら「春夏秋冬」である。
確か書いたことはなかったと思うが、個人的には一番好きな曲ではないかと思う。
切なさを感じさせる美しい曲は多いが、「春夏秋冬」は切なさ抜きに柔らかな光が当たり続けている。
聴くたび、この世界が美しく感じられ、自分自身も優しい気持ちで日々を送れるような気分になる。
たとえ自分が死んでもこの曲を聴きにライブ会場にいたいと考えるし、このような曲を創り歌い続けてほしいとも思う。
「もしあなたは」は思い通りの演奏ではなかったかもしれないが、「春夏秋冬」を演奏させるための神様のちょっとしたいたずらがあったのかもしれない。
いずれにしても、幸せな気分でこの日のワンマンも終わり、終電の車内の景色も違って見える感覚で帰路に着いた。


なお、このレポで採り上げた柏Wuuのあっくんとのツーマン、代官山のイベント、テラプレーンのツーマンは、どれも素晴らしく、本来しっかりとしたレポを記しておかなければいけないライブであった。
これは自分自身の力不足に他ならないが、いずれ何らかの形で振り返る機会が訪れれば、と思う。
そして、山田庵巳ワンマンが今後も聴ける日々が続くことを願って止まない。














いいね!(0)  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2011-03-24 23:42:14

Sactone-Proud!2011(山田庵巳/ELK/山切修二)/新宿SACT!

テーマ:ライブ

Sactone-Proud!2011/新宿SACT!(11/03/16)


出演:山田庵巳/ELK/山切修二


(山切修二)
1.月明かり
2.山頂
3.桜香る
4.僕にとって
5.レストタイム
6.NEVER SAY DIE
7.生きるという事


(山田庵巳)
1.命の傍らに
2.絵筆
3.もしあなたが
4.春夏秋冬
5.あまつぶ
6.月が僕らを見ている
7.羊のアンソニー
8.狼の夜想曲
9.窓辺のダンスホール
10.高速バナナに飛び乗って
11.かぼちゃのスープ


(ELK)
1.嘘っ八の現実よりも,自棄っ八の真実を行け!
2.BACKDOOR MAN
3.惚れた女は行方不明
4.五月雨月
5.サーベルタイガー
6.Jackson's cameleon
7.STEP ON IT
8.MIGHTY BEAY


9.電車に揺られて



あれほど忙しかった日々が、震災の日を境に嘘のように暇な日々が訪れる。
ブログも更新されないままであったので、直近のライブから少しずつ記すことにする。


この日は、3/11以降、新宿SACT!で初めてライブが行われた日であった。
直前までこの日は開催されるかが分からず、当日になって開催の確認ができてから食料や着替えなどを持って、東新宿の駅まで向かった。
節電で空調を切り、照明も暗く、献立も電気を使うものは外されていた。
また、チャージの半分が寄付に回るとのことで、計画停電で電車もまともに動かない中、最大限の配慮が行われていた。


共演者のギターの力量はどちらも素晴らしかったが、今回は詳細を記す時間と余裕がない(もしかすると追記する可能性はあるが)。
概略のみ記したい。


山切修二(http://blogs.yahoo.co.jp/yamagiri_shuji )については、前々月の同会場の共演者でもあり、リストもそのときのものに近い。
ギターを2本並べ、片方はオープンチューニングの開放感溢れる楽曲が続く。
声量もあり安定した高音は情感籠った響きを聴かせるが、いわゆる「ビジュアル系」に比して癖はなく、楽曲のメッセージが直接届くものである。
この日にある意味相応しい前向きな曲も多く、おそらくこの日であることを意識した選曲がなされていたように感じた。
音楽的には、「レストタイム」「生きるという事」などで披露した、一人で音を重ねていく楽曲は興味深かった。
ただ、なかなか見た目には慌しいところもあるので、しかるべきバックが付いた方が本当は別の表現に労力を割けてよいのかもしれない。
順列組み合わせのSACT!で、なぜこのような短いスパンで共演になったかは分からないが、なんとなく、また近い段階で共演があるような気がする。


ELK(http://www.geocities.jp/elkchaos/index1.html )は初聴であるが、ギター(ドブロも?)や集客力などおそらく一流の力はあると思われる。
最初の方の曲では日比谷カタンのような高速ストローク系の弾き手かと予想したが、弾き込んだブルース系の弾き手であることが徐々に分かってきた。
この日のコメントは、公式ページとほぼ同じ。
自分たちのような演者を「ピエロ」と称し、あえて特別でないリストに徹したのも、一つのプロ意識の表れであろう。
大きな織帽子に眼鏡をまとっていたので、素顔は分からない(あまりよい例が浮かばないがmcAT程度の露出度を想像すると遠くない)。
ただ、上京し、路上で歌い、寝泊りしていた時期もあるとのことで、「覚悟」のようなものが節々から感じられる音楽であった。
最後のアンコール曲「電車に揺られて」は、上京後の原点のような曲で、楽器の達者さにばかり目が行きがちな演奏の中で、唯一歌詞が前面に浮き出た印象を持った。


その二人の間の第2部が山田庵巳であったが、初めて出逢ったときやワンマンのとき以上に強く印象に残り、この日のステージを忘れることはおそらく一生ないと思われる。
何から何までが異例であった。


まず、先に書いてしまうと、この日は物語形式の組曲が一つもなかった。
物語系の全くないセットリストは、初めてである。
正直なところ、この日に何を持ってくるのか予想が付かなかった。
ありえるとしたら「機械仕掛けの宇宙」か「赤い月」の定番大曲だが、この日ばかりはそれもどうかという気もした。
そして、それはその通りになった。


始まり方も異例であった。
いつもは「模範的な黒」から始まるのが通例だが、この日は「命の傍らに」から物々しく始まった。
以前に二度ほど「模範的な黒」から始まらなかったことがあったが、いつもの前奏の途中から別の曲に繋がっていた。
この日は全く異なり、指慣らし的な速弾きパッセージで始めることなく、大地の重みを感じさせる四分音符の低音から爪弾かれた。
普段よりもよりテンポを落としているように聴こえた「命の傍らに」は、まだ現在進行形の出来事に対する鎮魂歌のようにも響き、この日に置かれるのに最も相応しい曲の一つであることは間違いなかった。


歌を歌うのもギターを弾くのも、機械ではなく生身の人間である。
「あれを聴きたいこれを聴きたい」と考えるのは客の勝手だが、演奏する側も現地からの報道に接して同じような(またはそれ以上の)衝撃を受けているのは間違いないはずなのである。
だから、個人的にはこの日は1曲でステージが終わっても構わなかった。
あとは雑談でも音合わせでも、もう何でもよかった。
「命の傍らに」をこの日にこの場所で聴けて、もうおつりが来るくらい満足であった。
本当は、1曲も歌われることがなくても会場に足を運ぶつもりでいた。
だから、もう充分過ぎるぐらいであったのだ。


だが、曲は続き「絵筆」が歌われる。
もの憂げな前奏から始まり、途中で突然木洩れ日が射してくる印象である。
この曲から数曲、楽曲の中に光があった。
数日来の暗闇の中を照らすかのような柔らかで優しい光が、声からも音楽からも溢れていた。


MCを全く入れず、「もしあなたが」が続く。
「命の傍らに」に劣らず、この日の心には沁みる。
歌詞には当然入っていないが、「もしあなたが」今回のあまりに重過ぎる出来事に巻き込まれてしまったら、「僕は何になりたい」と呟くのであろうか、と思わずにいられない。
人間は一本の小さな葦である、それを感じさせる日々であった。
思いやりも優しさも、そうした弱さから生まれてくるのであれば、この「頼りない」一本の葦が同じように「頼りない」一本の葦に向かって思いを向けることによって「もしあなたが」の世界は生まれる。
自己犠牲にも似た強い想い、それらが溢れたこの曲もまたこの日の選曲で相応しく、おそらくは準備されたものであるはずである。


そして、「春夏秋冬」が続く。
音楽以外ではこの日重い口を開き、「どこからどう見てもJポップシンガー、故にデニムオンデニム」と、定型句に近い台詞が漏れる。
個人的には一番光を感じる楽曲なのだが、このような日には、美しい追憶を綴った曲のように感じられ、聴きながら胸騒ぎのような感覚が生じる。
この曲の「春夏秋冬」と口にする部分でアルペジオでなく、ベースラインごとギターの響きが動いたのはよいアクセントに感じられたが、あとは冷静に分析できる余裕はなかった。


軽い音合わせの後、「あまつぶ」があり、このあたりまでは山田庵巳の一つの要素である「切なさ」を緩和した曲群が並んだように思える。
「あまつぶ」もそれ自身儚げであり、もしかすると人間自体を象徴し歌い込んだのかもしれない。


「ずっと皆さんと同じことを考えていました、多分」
「音楽は無力なものだと断言します」
「音楽が力を持つのは今じゃないなと思います」と、重い口を開く。
この日、避けて通れない話題であろう。
目の前の客に演奏を聴かせるという信念のみから会場に向かったと語り、「その信念がなければ、今日自宅で寝ておりました」と付け加えた。


そこからしばらくは、「眠れない」ことをテーマとした歌に続き、光より切なさに主題がグラデーション的にシフトしたように感じた。


「月が僕らを見ている」は、「涙は人を強くするために生まれる」という言葉が残る。
「羊のアンソニー」で、「しかるべききたるべき時」についての考えを訴えていた。
「狼の夜想曲」は2種類の歌詞があったように記憶しているが、「柔らかな~子守唄聴かせて~」のあるバージョンであった。
どれも、掘り下げるといくらでも記すことはありそうだが、今回はこのくらいに留める。


「窓辺のダンスホール」「高速バナナに飛び乗って」で、曲調だけは明るさを取り戻す。
そこで日常の人工灯の明るさを取り戻し、生活が還ってきたかのような連想を持ったが、輪番停電は続く。
最後にもう一度、深い深淵に沈むこととなる。


「かぼちゃのスープ」は正真正銘の追憶曲のバラードだが、この日このタイミングで聴くにはあまりにも重い。
「あなたがいない訳を考える」の言葉が、あまりにリアルに身に迫ってくるのである。
おそらくは、もう一つの「かぼちゃのスープ」が、数え切れないほどに存在しているはずである。
今はスープを飲む暇さえないかもしれないが、いつか追憶の中で同じ想いを抱く未来は必ず訪れるはずである。
魂を奪い去られる想いを持ちながらも、誰も悪くなく、運命のみによって永遠に離れ離れになる実感と諦念。
淡々と柔らかな声で歌い込む分だけ心への浸透力は大きく、少なくとも聴いている間は物語の主人公になり、汲み尽すことのできないほどの切なさを溢れるがままにするだけであった。


「素敵な夜更かしを、いえ早く寝ましょう」と言い終えて、ステージは終了となる。
余韻という言葉で片付けるには、あまりに大きなものが体内に残るのが分かった。


Twitterで、この会場に足を運ぶ際に「心の栄養を」という心ある言葉をある方から頂き、最初とてもよい言葉だと考えていた。
だが、実際は「心の栄養」というのとは少し違った。
自分が山田庵巳のライブに通う理由も、おそらくそれに近い。


山田庵巳の音楽も歌声も美しく、一流であることは間違いない。
ただ、そこから「元気を貰いたい」のでも「癒されたい」のでも、実はなかったことに気付いた。
求めていたのは、ただただ、山田庵巳に「打ちのめされたい」という一点だったのである。
終わった後、何も言葉にできず、立ち上がることさえできない瞬間が、何度かのライブの後には必ず訪れる。
この日はそれが顕著であり、打ちのめされた心と体が回復するのに次のステージ分まるまるかかった。


この日は、山田庵巳本人のライブ感覚としては、過ぎてしまえば「一つのライブ」に認識されるのかもしれない。
だが、客席にいた何人かの心には「特別なライブ」として刻印されたことであろう。



ブログ更新は久々で、リハビリ期間のため、今回はこのくらいで。


いいね!(0)  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2011-01-25 22:21:36

さるハゲロックフェスティバル'11/新宿LOFT

テーマ:ライブ

しりあがり寿presents 新春! (有)さるハゲロックフェスティバル'11/新宿LOFT(11/01/15)




しりあがり寿主催の12時間ものイベント(但し前売り3000円で格安である)であるが、今回が5回目、最初は身内の忘年会から始まった企画とのことである。
毎年、店内で出店が出ており、今年も大会を勝ち抜いた武蔵野カレーが出店しているとのことであるが、残念ながら食してはいない。
Twitterで抜粋して記したが、少し加筆したい。


まず、この日は「たまの映画」の昼公演初日であり、近くのテアトル新宿に足を運んだ。
こちらの感想はいずれ書き留めたいと考えているが、明日水曜日は最後の1000円ディなのでお薦めである。
ちなみに、知久寿焼を筆頭にこの映画の出演者が実際にこの後LOFTで演奏するという豪華な繋がりで、映画を観るタイミングとしては理想であった。


長時間イベントなのに会場出入り不可(除関係者)なので、映画の後近くのビルの最上階のタイ料理屋でバイキングを食する。
レッドカレーやトムヤムガーのヌードルなど、定番的な献立以外にもタイ風おでんなど珍しいものも見られた。
アイスやタピオカ、ゼリーデザートなど、スイーツ系の充実は嬉しい。
妊娠24ヶ月のお腹になるまで頑張ったが、シンプルな炒飯に具をトッピングする料理が一番美味しかった。
1050円程であった記憶があるが、持ち帰り用の容器に入れるテイクアウトが500円台だった覚えがあり、こちらの方がお薦めである。
この日は体がすっかり苦しくなり、LOFTの店内では一切食指が動かなかった。


「イベントものはオープニングが面白い」とのことで、開演に間に合うように到着し、意外と空いている前方に場所を確保した。
オープニングは、天野天街主催の劇団少年王者舘によるアクトであった。
例の衣装を身にまとい、少なくともフロントの3人の少女は例の髪型で「さるハゲ~」と踊る姿は、天野天街の芝居のポスターからそのまま飛び出してきたかのようであった。
おそらく、この日のこの場面のためだけに念入りに準備されたアクトは新宿の繁華街の会場を忘れさせ、この日の企画に相応しかったと言えよう。
最後は、白い大きな布を前方に被せ、影絵のように踊る中、サッと布が取り外され、イリュージョンのように主催者のしりあがり寿が登場した。
最初のセッティングが終わるまで、挨拶や紹介、雑談などがあり、メインステージでの催しが始まった。
その後、禁煙であるメインステージでしばらく聴いていた。


「BLACK CRIMSON」はメタルとのことだったが、音楽的に昭和歌謡的な要素(沢田研二のTOKIOあたり)が感じられ聴きやすくはあった。
「花井美理とアーバンギャルズ」は、グラビアアイドルがボーカルで客入りはよかったが、テクノカラオケといった印象であった。


そして、目当ての一つ「奇声クラブ」になり前方に移動する。
オープニングアクトを務めた女性達も前方にいたので、そういった嗜好なのかと考えたが、後から思えば石丸だいこの踊りが目当てだったのかもしれない。
個人的には、事情により十数年ぶりにクリスマスも大晦日も原マスミライブに行かない年末を過ごしたので、少しの出番でも演奏を生で聴けるのは嬉しかった。
「奇声クラブ」は原マスミ、坂本弘道、白崎映美の3人だが、なぜか公式では白崎映美の名前が伏せられ「あの人」と記載があった。
白崎映美は2曲目からの登場で、1曲目の「海のふた」は二人での演奏であった。
名前が出るだけで権利関係がややこしいのかもしれないが、理由はよく分からない。
このイベントか分からないが、何年か前のZABADAKのブログで「身内のイベントで全くその企画と関係ないこの曲を原マスミが演奏し、会場中を引き込んだ」ような記述があったように記憶している。
最新アルバム以降の曲群の中では、最も大曲であり最も名曲とも言える「海のふた」は、坂本弘道のチェロも加わって一気に会場中を引き込む力を持った。
「仕度」は、原マスミがまだ二十歳の頃に生み出された曲であるが、この世界観、表現力など天性の詩人であることを実感させるだけでなく、細い身体の中に無限の海の深さと広さを抱えていたことをつくづく感じさせる。
本当は原マスミ自身が歌ってくれるのが最高なのだが、この完成された世界は誰が歌っても十二分に伝わってくる。
ちなみに、「伴奏でこの曲を弾く機会が多くなり、客観的に聴けるようになった」ということで、一昨年かその前かの大晦日に演奏されたことがあったが、嬉しかった。
「仕度」では、石丸だいこが歌詞に合わせて踊り(次曲も)、イベントならではの演出を魅せた。
最後は、古い歌謡曲と思しき「もう一度会いたい」が、おなじみ坂本弘道の火花ショーとともに演奏され終了。
ダイブ禁止のLOFTだが、白崎映美が興に乗りすぎてステージから落ちかかるハプニングがあった。


「金星ダイヤモンド」は、あっという間に終わった曲だけが印象に残った。


「柴草玲」は、「ホテルおぎくぼ」がキーボードで、「さげまんのタンゴ」がホーナーのアコーディオンで演奏された。
「ホテルおぎくぼ」は、よかった。
会話のような語りで自然と始まり、柴草玲のポーカーフェースの淡々とした歌い方の中に、リアリズム的な情景が水彩画のように浮かび上がってくる。
多少踏み込んだ歌詞になっても品を落とさずに作品化させるところが柴草玲の職人的な技術であり、この曲にはそれがふんだんに感じられた。
「さげまんのタンゴ」は、この絶妙の均衡を犠牲にしてでも針を振り切った熱演を披露したが、後で会場にいる柴草玲を目にすると本当に華奢な身体のどこにその力が籠められているのかと感じさせられる。
音楽的には展開の多い大曲であるが、個人的にはバックの音が増えた編成の方が歌詞世界とのコントラストが浮彫になり、好みではある。
日比谷カタンとの共演のサンジャックのユーストリームを年末に楽しんだが、この曲以上に針を振り切った曲もあるようである。
だが、名曲「金魚」や「ホテルおぎくぼ」などのこの雰囲気、均衡は、柴草玲にしか出せない音楽世界であり、この方面で新曲が生まれないかとひそかに期待している。
それにしても、最近のリストに見当たらない「ローランドカークが聴こえる」はもう演奏されないのであろうか。


石川浩司とつながりの深い「突然ダンボール」であるが、何故か6曲も演奏された。
途中弾き直しもあり、曲が短いわけでもなかったので、終了後会場を移動したら「echo-U-nite (エコーユナイト)」が始まっていたのは最大の誤算であった。
「突然ダンボール」は、最近女性のコーラスが脱退して4人編成であったが、想像していたより普通の音楽であった(石川浩司の「ボケ」のような曲を想像していた)。
もしかすると、兄弟の兄が亡くなる前はそういった方向が前面に出ていたのかもしれないが、少なくともこの日のイベントではそれが感じられなかった。
ボーカルの声質のせいか、歌詞が別の楽器の音にかき消され全く聴き取れなかったのも残念であった。
そういった意味でも、女性コーラスが脱退したのは痛手ではないかと感じた。


「echo-U-nite (エコーユナイト)」は聴いたことがなかったので、この日一番楽しみにしていたのだが、最後の2曲と途中からの1曲だけしか聴けなかった。
本来セカンドステージで演奏するべきバンドではなく、観客は満員で溢れていた。
滝本晃司は名古屋でライブであったため不参加であったが、他のメンバーは先ほどの映画でおそらく一番口を開いていたと思われ、ライオンメリーがワンピースのような衣装で演奏される曲はこの舞台でも披露され感慨深いものがあった。
楽曲には南米的な華やかさが感じられたが、数曲でこのバンドを判断するわけにはさすがにいかない。
ボーカルの音域的には、サード・クラスなどが近く感じられたが、いずれワンマンでも観る機会があればとは思う(いつになるやら)。


その後、「知久寿焼」ステージのために椅子を確保するためだけにセカンドステージに居座ったが、2つとも楽しめたので大収穫であった。
「本日のDJ NOGUO」は、前半が80年代の曲を次々とメドレーで流し、話芸を聞かせる。
テンポよく進み、続編かと思っていたら、かとうけんそうが出てきて、昔の歌を口ずさみ途中で歌が変わるといった芸を3本披露した。
時間が短く感じるほどテンポよく進み、次の企画の準備に繋がる。


「IMO(イチロー・マリック・オーサダハル)」というふざけた名前のバンドは面白く、ノーマークだっただけに充実した時間を過ごせた。
人民服を着た3人が登場し、アコースティックギターで「ライディーン」や「テクノポリス」に勝手に歌詞を付け、歌う。
クイーンのカバーや別の日本人(誰か忘れた)のカバーも演奏されたが、最初コミカルな部分を強調した上で最後の2曲でエレキギターのしっかりした演奏を聴かせたので、かなり驚かされた。
バックのアンデス(ピアニカの変種)やトイピアノ、スネアを腰に抱えたドラマーは最後に火花ショーも魅せた(ここでも火花とは予想外であった)。
時間が多少あり、披露された「ABCの歌」もよかった。
作りが自然で物語性があり、こじつけでない本来のアルファベットの響きを尊重する構成が印象に残る。
おそらく、次の出演者目当てと思われる観客が次々と入り、椅子席は前に詰めることになったが、その多くの観客を前にしても遜色ない立派な出し物であった。


さて、セカンドステージに最も相応しくない「知久寿焼」であるが、「あがたさん観たいでしょ」とのことで、始まりも終わりも少し前倒しであった。
意外だったのは、持参マイクの持込で、生音でも何でも道具を選ばない印象があったのだが、最近製作したギターも含めて「理想の音、状態」を実は自分自身の中に持っていて、あまり前面には出さないものの譲れない部分が実はあるのだろうと感じた。
演奏であるが、他の出演者には申し訳ないが、別格のクオリティの高さがあった。
知久寿焼の演奏はいつ聴いても安定しており、これが「いつ聴いても同じでつまらない」という印象を与えかねない諸刃を内包しているのだが、こうして共演者がいると歌や演奏の質の高さが身に染みる。
いつものように、6弦を下げに下げて「らんちう」が演奏される。
間奏は「おじいさんとおばあさんが澄んでいました」バージョンで、予想どおりである。
「電車かもしれない」で、石丸だいこが呼び出される(実は直前のIMOでも少し踊っていた)。
演奏に合わせて踊りが披露されたが、その風貌と動きは、この曲を用いた近藤聡乃のアニメーションの世界を想い起こさせるものであった。
元々この曲に特別なイメージを持つ聴き手にとってこの世界がどう映るかは分からないが、NHKであのアニメーションを視聴して曲に接した層もあることであろう。
そういった観客にとっては、この日のステージはとっておきの演出であったと言えるのではないだろうか。
この日は新しいギターだけの演奏で、普段のウクレレは使わず。
だが、演奏することのなかった口琴が、何故か台の上に置かれていた。
「月がみてたよ」「いたわさ」で終了する。


メインステージに移ると、「あがた森魚」の演奏に合わせてタンゴの踊り手がペアで踊っていた。
何でも、それに相応しい弾き手がたまたまいて、ライオンメリーがアコーディオンで急遽参加することになったらしい(さすがにバンドネオンではないが)。
何曲演奏されたのかは分からないが、とりあえずこの曲と、最後の「俺の知らない内田裕也は俺の知ってる宇宙の夕焼け」はとりあえず聴けた。
この最後の曲は、タイトルだけで内田裕也からイベントの誘いがあり、来年出演すると返事をしたそうである。
あがた森魚は目黒美術館の「原マスミ大全集」の企画で、「佐藤敬子先生はザンコクな人ですけど」のみ聴いたことがある。
どちらもタイトルが長く、よく聴いたわけではないが私小説的な自己の中に大切に持ち続けているものを語り、歌っているという勝手なイメージがある。
目黒美術館のイベントでは、「とにかく頭のよい人」というイメージばかりが印象に残っている。
この回の「闇の中で浮かび上がる幻想(といった言葉だったと思う)と、その前の回の「描かれる作品にアイキャッチがない」という言葉は、(自分勝手に)原マスミ世界を理解するのに本当に役立った。
目黒美術館の関係者の方々には、本当に感謝している。
代表曲「赤色エレジー」は、演奏されたのかどうか分からない。
この曲が生まれたときのことも目黒で語られていたので、いずれ聴いてみたい。
本人には関係ないが、HARCOがあがた森魚のバックで演奏することもあるようなので、少し期待してキーボードを眺めたら女性であった。
少しだけ期待したが、まあ仕方がない。


ここで、ほぼ目当ての演奏家は出尽くす。
あえて言えば、これまた時間が被った「パンチの効いたブルース(かわいしのぶなど)」と「ヒカミンツフルーツ(遊星ミンツなどの融合、ケラが一曲歌ったらしい)」ぐらいだが、これを聴くと終電ギリギリになる。
それを過ぎると朝までコースで、そのまま翌日新宿まで徒歩通勤をすることになる(しかも、その後の出演者はほとんど分からない)。
一応、次のメインステージの「80年代時代」は聴いた。
香山リカとその弟が二人で登場し(弟と紹介されたのは全部の演奏後)、「ライディーン」などのテクノ曲が独自の色付けで演奏されたが(公式の「ニューウェイヴロック」は羊頭を掲げただけ)、前のあがた森魚ステージとの落差があまりにも大きかった。
演奏者の弁護を先にしておくと、決してテクノとしての技術が低いわけではなく、出し物の出し方によってはどうにもなったとは思うが(それでもあがた森魚以上にはならないが)、あまりにも打ち合わせ不足である。
香山リカはメガホンのような拡声器を手に持ち、歌うとも話すとも付かない中途半端な立ち位置で舞台を歩き回り、弟は自分のペースで淡々と演奏し続けるだけで、観客も反応に困ったところはあった(ように感じた)。
身内の忘年会であれば許されるところだが、それまでの実力のある出演者が全力で演奏するのを目に耳にした後では、もう少し頑張ってほしかったと感じざるをえなかった。
セカンドステージに観客は流れていったようだが、仕方のないところはある。


ここで新宿LOFTを後にしたが、値段に見合わずよいイベントであった。
実際、12時間ネットカフェにいるのとどちらが得かを考えると、体力・気力などがあれば朝まで楽しむのはお薦めである(最後にもう一度最初と同じメンバーのアクトがあったはずである)。
会場移動型のイベントは苦手ではあるが、逆にこうした催しでなくてはありえない共演も存在する。


今後もこうしたイベントが盛り上がっていくことを期待したい、という紋切型の定型句で、この手短なレポに終止符を打ちたい。




いいね!(0)  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>

AD

Amebaおすすめキーワード

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス

ランキング

  • 総合
  • 新登場
  • 急上昇
  • トレンド

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。