「Light of Wisdom~スピリチュアルセラピーの現場から」の別館ブログ


本館「Light of Wisdom~スピリチュアルセラピーの現場から」より、

主に過去生関連の記事のみ抜粋して、こちらアーカイブ(別館)としてまとめています。


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9/11記:

すみません。コメントへのレスを書くと、背景と文字が白くなり、文章が読みづらくなってしまっています。アメブロの既存テンプレートデザインではなく、デザインをいじれるCSSを使用しているのですが、何処をどういじればコメントとレス欄の背景色や文字色を修正できるのか分かりませんっっっ 何しろCSSはほとんどわからずネットで調べても「?」な状態です。大変申し訳ありませんっっっ

6/7記:

本館から抜粋した記事のみ掲載しているアーカイブです。

なので掲載していないものも多数あります。

こちらに掲載しているのは一部の記事だけですので、

全部を読みたい人は本館にどうぞ足をお運びください。

  • 16 Jan
    • 今更ながらのTwitter開始と魔女入門連載中

      んー 飽きっぽいから続くのか不明です。それよりブログ書きなさいよってハナシもありますしっっ汗https://twitter.com/yamato_mahoぼちぼちどうでもいい戯言を呟き中良かったらフォローしてくださいそれから、友人ローズマリーさんのサイト「ALPHA占い館」で【魔女アルマの魔女入門】を執筆しています。ダイレクトなアドレスは「Angelic Blessings」よかったら読んでください。今年一年間は続ける予定です。スピリチュアリズムの講座や瞑想会はお休み中ですが、魔女講座も希望があればやるかも新米。あくまで希望者がいれば、ですが。

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      テーマ:
  • 30 Dec
    • S・C・F番外編「嫉妬は時空を超えて」

      友人の話です。本編は、許可をもらっているのでそのうち書きます。まずはその周辺の話から。友人がとある場所から戻ってきた直後、「なんかヘン。ふらふらする。 みんな(仕事仲間)にも様子がおかしいって言われる。 おまけに胸にぽっかり穴があいたみたい」ちなみに音楽家である友人は、仕事で地方に行くことが日常茶飯事だったりします。チャットで会話している限りでは、離魂病を起こしているのかなあ?とも思ったので、とりあえず足裏マッサージとか受けておいて~…とアドバイス。ごく初期の、軽度のものだと、それだけで改善することも多いので。シャーマン体質の感じやすい彼女のこと。まして彼女にとって曰く付きの場所に行くことになるので、(そのあたりは本編にて) なんかしら大なり小なりのトラブル予測はついていましたが。でも、これまで自力で何とか乗り越えてきた人だったので、私が手助けするほどではないかなあ、とも。実際、彼女は胸にできた穴の原因ではないかと思われる過去の出来事に対して、セルフヒプノを試みたそう。そして二つの過去生にアプローチして書き換えをし、それで解決と思いきや…「おかしい…なんかスッキリしない」で、結局お客さんとして来ることに。彼女が仕事帰りだったので、まずは「夕飯を食べよう」とうどん屋に。顔を見た瞬間、「ありゃ」と思いましたけども。海老アレルギーのある彼女。かき揚げに海老が入ってないことを、店員さんに何度も確認し、注文するも、食べ始めるとなんと、桜エビが入ってるっっそれに気づいたものの、取り除いて食べようとする。フリーズする私。「エピペン持ってるの?」と聞くも、「持ってない」「ぎゃー!(心の叫び)」自殺行為や。とりあえず、少し粘膜が腫れる程度で済みました。落ち着いてから、さてセッション。問題の本質である過去生はセルフヒプノしたから、とりあえず今回必要ないとは言うけれど、どうしても気になることがあったので、色々とチェックしていくと、前回セルフヒプノした二個の人生のパーソナリティが、書き替えられた人生(彼女が創った新しい物語)にどうにも納得していない様子。本編に書くのでここでは省略しますが、ようするに、その物語って今生の彼女の視点で作られたもの。過去生の彼女の視点ではないわけです。あくまで私の友人が「こうだったらいいな」と思う過去なわけで、過去の彼女が納得する自分の人生ではないわけです。過去生と言えども、今生の彼女とは別人格。同一人物であっても同一人格ではないので、同意見、同じ性格というわけにはいきません。まして現代に生きる私たちとは置かれた環境や時代、そして価値観や倫理観が違います。過去生を昇華させようとするとき…すなわち過去生ヒーリング(解放)をするときには、このことに留意しないといけません。ぶっちゃけ、霊を上げる(成仏や浄化)させるときと同じで、その人を納得させ、説得する視点でないと失敗します。今生のその人が納得する過去のストーリーではなく、過去のその人が納得するその人のためのストーリー。それを一緒に紡いで、導いてあげないと、なのです。とりあえず、友人が創ったものではない、新しい、過去生の彼女も、現代に生きる友人も納得する物語を、もう一度創り直して、とりあえず一段落。でも、その後がメインだったり。☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆さて、過去生ヒーリングやヒプノセラピーをするときには、いきなり本題に入るのは危険です。過去生をいじるということはエレメンタルをいじるということで、なおかつ書き換えをするときには、大量にエーテルバイタリティー(氣)を消費することになるので。事前と事後でマグネティックヒーリングをしないといけません。でないと、時と場合によってはクライアントの心身にダメージを与えたり、最悪の場合には心神喪失や精神的危機に招くことになります。ベッドに横になってもらって、友人に氣を流しながらマントラを唱えると、彼女の中に一時的に寄生した「ソレ」が出てきました。このあたりの話もかなりはしょりますが、「ソレ」というのは霊ではなくて、エレメンタル。さっき書き換えをした彼女の過去生のとき、三角関係で彼女の彼に横恋慕していた人物の、数百年の時を超えても未だ残る嫉妬と憎悪の気持ちでした。当時男性だったその人は女性に生まれ変わってて、その人が作ったものを食べちゃったんだそう、友人。(当然ながら覚えてないです、その方。今生の恋敵さんはまったくそんな意識なく、彼女の過去生のパーソナリティである男性が今生の友人に仕掛けた攻撃(サイキカルアタック)です。うーん…複雑。想定外のBL。勉強不足かも)「ソレ」が友人に、アレルギー物質を食べさせるよう仕向けた模様。まあ大事には至りませんでしたが。とりあえず、「ソレ」を出して、始末つけました。そして物理的にもいっぱい彼女には出してもらいました。エクソシストみたいな緑色の液体ではないです。トイレでゲーゲー それで済みます。何しろアレルギー物質吐いたほうがいいし。吐くのも体力消耗するし、しんどいですけどね。教訓「嫉妬は男も女も怖い」てな感じでしょうか。まあ、昔から魔術や呪術の世界では、食べ物に何か仕込むのは(毒じゃなくて)、よくあるお約束でありますから。それに作り手の「氣」が入るのは確かだし。なので自分を(が)嫌いな人からの食べ物やギフトは絶対に受け取らず、まして相手が創ったものは食べてはいけないってハナシ。物質以外のもので何入れられてるかわからないから。この日はそんなこんなで憑依したものを引っ張り出して、とにかく氣の補充、補充、補充。そしてその後、別の日に第一チャクラの掃除が必要だなって、始めたら濁流のようにドバドバと色んなもの出て、ビックリした。で、エーテルダブルにたまっているゴミを何とかするのに、幽体離脱させられてた友人…(ヒーリングにはそのほうが都合がいい。20cmくらい浮かされてたそう、リアル実況してくれた)。耳元で宇宙人のような奇妙な話声がすると。それは怪音波のような幾何学的な変なものだと…「バッハの、宗教音楽で、パイプオルガンのパラピレパラポリラ~♪ みたいなあっちこっち音階が飛んでいるような曲じゃね?」と言ったら、そんな感じかも、と。はい、それは一部の人がエノク語と呼ぶものです。なんてラッキーなんでしょう。それは大天使たちの話声です。滅多には人間の耳で聴きとることは出来ませんのよ。滅多つーかほとんど、だけど。ヒーリングには大天使たちの関与が必須ですからね。(彼らが手伝ってくれないと肉体の修復はできないし、それが彼らの役割でメインワークだから。そう、命を創ることが大天使たちの仕事。人間の願いを叶えることなんか彼らの眼中にはない。多くの天使は理想化されたファンタジー。人々の幻想が創り出した妄想の産物でホンモノじゃない)大天使たちの言葉は人間の言語とは違う、ぶっちゃけ「音」ですから。向こうにこちらの意志は伝わっても、彼らの言葉を人間が解することはほぼ不可能です。※バッハの宗教音楽の音階は天使の言語に極めて近い。とくに歌なしパイプオルガンのソロ?天使と会話するための音楽って感じで。彼ら(天使)を鼓舞し、呼び寄せ、コミュニケートし、喜ばせるためにああいう曲調なんだと思う。私は音楽としては聴くことができないんだけどね。まぁ、バッハは天使の存在を認識できる人だったからさ。それを聞くことができた友人は超ミラクルラッキー。聞きたいと思っても聞けるものではないんで。もしくは聞いても、それと気づく人もいないんで。とりあえず友人の状態は無事回復。年末の多忙な仕事もなんとかこなせている…のかな?そして本編を書くのはいつになるんだろう。。。

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    • 人生の宝石

      人は決して一人では生きていくことが出来ない。★ ★ ★ ★ ★唐突ですが、皆さんには友人と呼べる人たちが何人いますか?そしてその中に、親友と呼べる人はいますでしょうか?気の置ける友人や仲間、一緒にいて楽しい人、会えないことが寂しい人。何も話さなくても安らげてリラックスできる人。会うだけで元気をもらえてハッピーになれる人。本音を打ち明けて、感情の裏表もすべてさらけだせて、イヤな自分もダメな自分もお互いに見せ合って、喧嘩もできて、本気で自分を叱ってくれる人。自分のために一緒に泣いて笑って怒ってくれる人。何かあったときには駆けつけてくれて、黙って傍にいてくれる、自分を大切にしてくれる人。優しさだけでなくキツイためになるアドバイスをくれる人。様々な感情や同じ時間を共有して、色んな事を話して、ともに年を取って、未来への展望や夢、昔話を懐かしめる人…など。★ ★ ★ ★ ★まぁ、それはノリコがいけませんよわかいのにおばあさんみたいですおぎょうぎのよい優等生みんなニガテねおしゃれやB・Fやスターの話とても楽しいおしゃべりです私なんか学生時代 寮を抜け出してシナトラのコンサート行きましたよみんないっしょでそれは楽しかったわ友達を作らないのは 宝石を捨てるようなものですよby 「有閑倶楽部」一条ゆかり★ ★ ★ ★ ★話代わって、人の幸せってどこにあるんだと思いますか?何が人を幸せにしてくれるのか知っていますか?お金でしょうか? 恋人(パートナー)でしょうか?地位でしょうか? 仕事でしょうか? 名誉でしょうか?健康? 物質? 成功? 権力やすべてを手に入れること? それとも心配や不安のない状態でしょうか?自分の望みがすべて叶うこと?愛が人を幸せにすると答える人は多いと思います。でも、その愛というのがなんであるかと問われると、答えられる人は少ないでしょう。人の幸せは「愛」にあるといえばそうだけど、厳密には「愛」がある状態が幸せといったところで。でも、愛されることが幸せというのでもないのです。そもそも愛を与えられて幸せになるものではなく、愛することの意義と意味を知ったとき…愛を幸せと感じることができるわけで、人を愛する喜びの中に「幸せ」を見いだせるって感じです。とはいうものの、私たちの云うところの「こころ」は、実際のところ「幸せ」という感情を味わうことができません。つまり「こころ」というものは、「幸福感」の疑似体験ができるだけで、それは一時的な満足感なだけであって、残念なことに永続的なものではないんです。真の意味での幸福感は、感情レベルで得ることはできないのです。なので、一時的に満たされても、恒久的なものではないから、すぐ飢餓状態に陥ってしまいます。ようするに、感情を満たすことは「真の幸福感」を得るにあらず、幸福の疑似体験を一時的に与える麻薬のようなものです。物質的なものから得られる満足感は感情を満たします。ですが、これは本当に一時的なもので、すぐに次の感情を満たすものを探さないといけなくなります。男女の恋愛もまた、感情を満たすだけの、真実の愛とかけ放たれたものがほとんどです。だから信頼関係も壊れやすく、気持ちも醒めたり、かんたんに相手を嫌ったり憎んだりもしがちです。恋は誤解、愛は理解といいますが、誤解から始まって、一時的な感情の麻薬に中毒し、それを愛と錯覚して繋がっている人は多いです。(それが悪いということはありません。そうしたところからスタートする関係にも意味はあります。恋愛や結婚という関係は、個人を成長させ、変化をもたらし、互いにとって人間関係での大きな学びになるからです)さて、では人の「真の幸福」というのはどこにあるのでしょう?それは喜びを分かち合うということ。感情を「シェア(共有)」し、あらゆるものを他者と分かち合うことに、「幸福」への近道があったりします。そして、自分を犠牲にすることなく、他人のために生きることができたとき…他人のために生きることこそ「喜びである」と…魂の奥底で実感し、知ることができたとき、人は真の意味での「幸福感」を味わうことができます。でも、それは「他人のためにやってあげてる」とか「他人のためになることをすれば自分は幸福になれるんだ」などという視点で行っても、到達できる領域ではないのです。そこに至るまでには、踏まなければいけないステップというものがあります。まず自分のために人生を生きること。これができなければいけません。エネmeになって、他人の支配下の中で自己犠牲を強いられて、搾取されて奴隷のように生きる人生は、決して「他人のために生きる喜びを得られている人生」ではありません。他人を差別・虐待してはいけないと同様に、自分のことも差別・虐待してはいけないのです。他人も幸せにするなら、自分も幸せにしないといけません。自分を幸せにすることが、私たち一人ひとりがこの世に生まれた主たる目的なのですから。(もう一つ、その人のお役目を果たすことすなわち、自分自身のカラー=創造性を表現する生き方をすることが、魂の充足感と幸福感を得る必須科目たる条件でもありますが)他者のためになることをして、自分が満ち足りた充足感と幸せを感じられる。ぶっちゃけ、この状態に達することは「悟り」を開くことと同意語です。まあ、はっきりいって難しいですし、自分にはまず無理~!って思う人も多いでしょう。とりあえずそういう人はそれでいいんです。今生でやり遂げようと焦る必要はありません。急にそこまで高尚な目標をいだき、その高みを目指さして、無謀な精神修養に走らなくても、人類みな輪廻転生を終わらせるために、誰しもいつかはその山の頂に到達しなければならないので、来世とか来来世とか、後100回生きればとか気を長く持てば。数万年先かも知れませんけど。手っ取り早く、簡単というか、誰にでもできることで、その学びや機会を得るためには、「仲間」や「友人」を作り、「親友」を持つことです。人は人の中でしか学べず、成長できません。普通の人間関係、社会というコミュニティでもまれ、自分を形成していくことも大事なんですけれども、それとは別に、「友愛」という、「こころ」と「こころ」で結ばれ、繋がっていける関係を育てていくことです。もちろんパートナーを持って、「恋愛」という関係性から「愛」や「人間関係」を学ぶことも素晴らしいことです。でも、家族ではなく、血肉の縛りのない他人同士。同性異性の性別、職業や世代、肩書や利害関係を超えたところでの、共に支えあい、助け合い、色んなことを分かち合い、互いからあらゆることを学び、与え与えられる、友人そして親友(心友)といった関係作りは、なかなか容易なものではありません。失敗もするし、裏切りと思えるようなこともあるし、恋愛と同じで相思相愛でないと上手く行かないし、気の合う人、心を許せる人と出会える機会は、そうそう人生であるものではありません。だからこそ、縁を大切にして、たくさんある出会いの中から、自分にとってしっくりきた「ご縁」を見出して、大切に育てて、縁を紡いでいく努力が必要になります。結局、そこは男女間の恋愛も同じなんですけども。確かに、友人関係から得られる感情的満足、色んなことをシェアする感覚も、一時的に感情を満たす疑似的幸福感には違いありませんが、それでも、物質的な事物や肉体的感覚、性的な興奮やクスリから得られるエクスタシーやエコイムズを満たすだけの疑似的充足感よりも、はるかに本物の幸福感に近く、なおかつ私たちの霊的な成長を促進させてくれる人生の特効薬といっても過言ではありません。何よりも、歌のセリフではありませんが、誰かと繋がっている、「独りではない」という状態は、心の平穏と安心感に繋がり、孤独を和らげますから。とはいうものの、ニセモノの、偽りの関係では意味がないのですが。(妥協して相手にへりくだり、好きでもなく尊敬のない相手に迎合し、従属している関係からは何も生まれません。その逆で相手を縛り付け、相手を認めず軽蔑等あるのに、力や義理で支配しようとするような関係でも同じです。)でも、いつわりの自分ではなく、本当の自分を生きられるようになったとき、似たもの同士は引き合うので、本物の出会いもやってきます。自分の力を取り戻すことさえ出来れば…。FBくらいしか私はやってないのですが、SNSやツイッター、そしてLINEなどが流行り、スマホ依存なんかがあるのも、「誰かと繋がっていたい」という、皆孤立することに恐れを感じているという証拠だと思うのです。自分に関心を持ってもらいたい(愛されたい欲求でもあり)、人と話すことで寂しさや孤独感を埋め合わせたい、…なんかまあ、それも飢餓感かな。今の仕事ではなく、占いの仕事をしていたとき、友達がいれば済むようなたわいのない話を、わざわざお金を払ってしにくるお客さんもいました。占い師に依頼する内容というより、世間話。友達にするようなちょっとした相談話とか。もちろん、身近な人だから言えないこと、悩みもたくさんあるでしょうが、決してそのようなものではなく、お金を払ってまで(大枚はたいて)いう話なのだろうか?と疑問に思うような話なんかも多くされたものです。時に命の電話にかけるような深刻な話などもあったりしましたが。みんな孤独で、自分の話を聞いてもらいたい、存在や小さな思い、気持ちを分かってもらいたいんだな、と…そういうのは、今の仕事に移行してからも、あったりします。友達がいない、友達が欲しい。そういう悩みを聞くこともありましたよ。★ ★ ★ ★ ★憎しみや怒りより、“孤独”が人間を加害者にも被害者にもさせ、人間をダメにもするby 岩井志麻子★ ★ ★ ★ ★豆知識になりますが、スピリチュアリズム的には、人っていうのは、今所有している身体すなわち、肉体(3次元)・感情体(4次元)・思考体(5次元)の3つの身体では、実のところ、「幸せ」を感じることができません。幸福を感じる、味わえることができるのは、精神体(6次元)という、私たちが上記の身体を用いて育てなければならない身体です。知恵(思考体)を愛(感情体)を用いて、行動・表現(肉体)していかないと、この精神体は育ちません。愛のない知恵を用いて行動してもダメだし、愛だけで行動しても、そこに知恵がなければダメです。知恵と愛だけで、行動や表現をしないというのもダメ。真の意味の「幸福」を知っているのはこの身体です。そして、この身体が育たないことには、幸福感と充足感を得られず、いつまでたっても何か物足りず、何をしても満たされず、どこかに虚無と欠落感があり、ゴールが見えず、魂の飢餓感のある、彷徨える人生を生きることになります。(物質的なものは肉体を満たし、感情を満足はさせますが、精神と魂は決しておなか一杯にはならないのです。物質的な成功をしてもどこか虚しく、精神は満たされず、不幸な人がいるのはこのためです。愛=愛する存在が身近にいるということだけではないので。なぜなら愛は得るものではなく与えるものだから。愛は外から与えられて満たされるものではなく、自分の内側にある愛に気づけないと充足に至らないのです)精神体は6次元の身体(解脱した身体、悟りの状態)ですから、ある意味でワンネスの場所とも言えます。私たちが日々求め、欲している「幸せ」は、この6次元にこそ存在します。ですが、私たちはリアルで、3次元(物質界)と4次元(想念の世界)と5次元(思考の世界)にしか、身体を所有していず、この3つの次元にしか存在していません。残念ながら、「真の幸せ」は、今私たちが意識を向けている物質界たる3次元にはないのです。それでも自らの身体、「肉体」と「心」「思考」を大切にし、愛や知恵を育み、それらを物質社会で行動して自らを表現していき、自分と他人の境界線をなくして考えたり、感じたり、(他人の身にに起きていることを、まるで自分のことのように感じたり、考えたりできるようになって行動できるようになること)他人と感情や思想、考えなどを共有し、共に生き、あらゆるものを分かち合い受け入れていく中で、様々な事物や他者に対する理解を深め、与えたり与えられたりする過程において、自らが幸せになり、他人の幸福も喜べるようになり、そして、そのような日々を一進一退で繰り返しながら、いつの日か他人のために生きられる人生を、それが自分の喜びであると…他者に与え、支え、尽くし、他人のためになることをすることが、その中に自分の喜びがあると気づけたとき、人の真実の意味での幸福にたどり着けたことになるのです。ようするに、人は決して一人では「幸せ」になれないのです。その「幸せ」を分かち合う誰かがいないことには。より多くの「悦び」をシェアできる人々を得られたとき、人は、自分にとっての「幸福」を感じられる場所に、もっとも近いところにいけるのです。「孤独」はもっとも「幸せ」に遠いところです。「幸せ」になりたいなら、「孤独」から脱出しないといけません。「独り(ぼっち)」のままではダメなんです。ですから、まず一歩としての、周囲の人との関係、友人、パートナー、家族との関係性、その中で「共有できる喜び」を見いだせる人がいるなら、その可能性を大切にしてください。あなたの幸福のタネです。相手が日々元気でいてくれて、幸せでいること、満たされていること、そして相手の笑顔を見れたことに、悦びと感謝を覚える気持ちの中にこそ、あなたを幸せへと導く道があります。見知った誰かの幸せを嬉しいと心から感じられたとき、見知らぬ誰かの幸せを嬉しいと心から感じられたとき、それを心から喜び願い祈ることができたとき、知る人知らぬ人問わず、誰かの幸せのために働くことができたとき、私たちは大きく霊的に成長していくことができます。★ ★ ★ ★ ★大切にしたい人がいるなら、大切にできる間に大切にした方がいい。仲良くしたい人がいるなら、仲良く出来る間に仲良くしておいた方がいい。人間なんて、本当にふとしたきっかけで二度と会えなくなったりしてしまうものだから。驚くほど簡単にどこかへ行ってしまったりするものだから。★ ★ ★ ★ ★一緒にいて楽しい人ではなく、一緒にいられないことが寂しく、傍にいてあげられないことが寂しい人を、友人に選びなさい

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      テーマ:
  • 29 Dec
    • 何故、不貞はいけないことなのか

      浮気をしない男性は全体の2割程度に過ぎず、結果、ほとんどの男性というものは、機会さえあれば浮気をする生き物なのだと言う。女性も男性ほどではないにしろ、仕事を持つ既婚女性の3割は浮気の経験ありで、専業主婦では2割程度、独身女性も3割程度とやはり、同等数の割合で不倫の経験者はいるものであると…。こうした統計値がどのようにして取られたものなのか、その信憑性、真偽の程は分からないが、上記の理論で言うなら、男女の比では男性は女性の倍以上の数が浮気をし、主婦人口の1/3、3人に一人は浮気の経験ありという事か。そして、浮気をする女性の割合が少ないことを考えれば、同じ相手と関係を続ける、ということは少なく、(浮気する)女性は全体の中で偏っていて、その偏りの中にいる女性たちは生涯を通じて、複数の男性と関係を持つ割合が高い人たち・・・・・・ということになる。もしくは男性の場合、同じ既婚者を相手にするより、パートナーのいない独身者を相手に選んだり、風俗などで割り切った関係を結ぶケースが多いのかも。いずれにしても、男性のほうが浮気、不倫をする確率は広範囲にて高く、女性の場合、不倫人口には偏よりがあるというわけだ。何故、男性のほうが浮気する確率が高いのか・・・男女のこうした関係性は、しばしば、「花とみつばち」に例えられる。男性は、子孫を高確率で残そうと、あちこちで種まきをし、女性は、男性を引き付けるために甘い蜜で誘惑を仕掛ける。また、そればかりでなく原始的な本能のなせるわざで、男は自分の子孫にとって最適な「母」になるような女を求め、女は優秀な子孫を産むための種の持ち主を厳選し、さらに子育てに最適な環境と自らの食い扶持を確保してくれる、いわゆる三高な男性を他のメスと奪い合い、獲得し、縛ろうとする。はてさて、男性のほうが共有を気にせず、女性のほうが他者のものを奪い取ろうとする意識が強いような?男は女の最初の男になろうとし、女は男の最後の女になろうとする…らしいが。まあ、いずれにしても、浮気をしない男性は少数派ということなので、貴重かつ希少価値のある生き物かも知れん(なんだかー)。統計なんて誤りで、もっと少ないものだと信じたいですが。 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ 私個人としては、他人のものにはまったく触手が伸びないというか、興味が湧かない人なので(芸能人とか憧れの人は別)、相手が既婚者だとかパートナーのいる人となると、「人のもん」つかその人の付属品にしか見えないので、そーゆー経験はないが。彼氏がいると知ってて誘ってくるヤツなんか、「なんだこいつ」としか思えなかったですしねー(若い頃の話ですぜ)ただ、確かに周囲にはそういう状況はあった。友達の中にも不倫や浮気をしている人はいた。割り切って既婚者と付き合ってるのとか、相手がいるのに、行きずりで遊んだーとか、その心情を理解してあげることは出来ないんだが、わりとよくある話と言えばそう。占いの仕事をしていたときでも、不倫のお悩み相談はてんこもり、でしたし~。今でいうところの「サレラリ」話。昔、知り合い(三人の子持ち主婦)だった人で、旦那さんとレスとかで、あちこちで恋の花を咲かせてる人がいた。ちょっとどうなの?と目を細めてはいたものの、そこまで親しい関係ではなく、子供たちにとっては良き母親であったから、何かそれに対して注意をすることはなかったけど。そのうち、不倫相手の子を妊娠してしまったことで、さすがにいい加減、関係を終わりにして中絶すべきでは?と口を挟ませてもらった。けれど、彼女は「命は大切なものだと思うから産む」、自分の生き方を応援して欲しいとのこと。して、旦那さんに正直に話して謝罪し、ケジメをつけて離婚し、子育てするならいざ知らず、旦那さんの子として育ててもらうつもり(托卵か)・・・と。私は「あなたの生き方を応援することは出来ない」そう伝えて、ご縁を断たせてもらったかな。他、旦那さんとの関係性が冷え切ってて、離婚を申し入れたものの受け入れられず、その後で好きになった人もいて不倫関係になって、慰謝料を払うから別れてくれとお願いしたものの、それでも離婚してくれず、仕方なく子供のために再構築している人もいる。それと、不倫小説の教祖みたいな某作家さんのとこには、その世界観に酔いまくった不倫願望の強い女性たちが、たくさん押しかけて大変だった、と聞いたことがある。(据え膳食ったかは謎)そして、何故か不倫体質の人っているのよねー他人のモノにしか興味を持たず、次から次へと既婚者に手を出す人が。なんだかーなんだろーな、まあ、そんな風に、身近なところでもそれなりにそうした話はあるので、困ったことに浮気、不倫、不貞、不義密通etc...は結構ある話で相変わらず減らない話でもある。2chなんかではホント、この手のネタ尽きないしね。 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ただ、人の心って当人にとっても予測不可能なことで、結婚してしまってから、本気の恋に落ちることもある。出会うべき時期を間違えた、みたいなの。複数の人を同時に愛せる人もいたりするし、複数の人から愛されないと満たされない人もいるし、その逆で誰の事をも愛せない人もいる。恋愛フェロモンは2年が限界と人の言う。気持ちは冷めるものでもあるし、結婚して一緒に暮らしてから、現実を前にして、相手に抱いていたものが妄想であり、誤解であったことに気づかされることも多々。いつまでも最初の頃の、出会った当時の気持ちのままでいられるなんて幻想。歳を取ってくると、男性はハゲるし、お腹も出てくるし、臭くもなる。女性も身体の線が崩れ、容貌も衰えて、オバサン化する。(相手にいつまでも綺麗で若くいて欲しいなら、相応の努力と金銭、生活の余裕が必要だったりする。それを与えずして芸能人と同じレベルを求めるなかれ)恋は誤解、愛は理解ではあるが、恋に落ちたその日には、誤解しかなく、相手の良いところしか目に入らないもの。すべてを良いように取ってしまうなど、盲目化現象に際限はない。結婚前には両目をしっかりあけて相手を見て、結婚後には、片目をつぶって見ないようにする。ともいうけれど。育ってきた環境も価値観も異なる二人だもの。受けた躾、教育だけでなく、趣味とか嗜好とか共通点とか、合わないこと尽くしなのに、「好きだから」というだけの理由で無理に合わせていれば、気持ちが冷め、夢が終わった瞬間には、日常は悪夢となる。で、その時、どうするか・・・なんだけど。結局は、結婚てそういうことも想定しておかないと、なんだよね。気持ち・・・恋愛感情が、自分あるいはパートナーのほう、双方に無くなってしまったときにどうするか…どのように協力関係を維持できるのか。共同生活者としての相手をどう位置付けて、どのような関係系を築き上げることが出来るのか。いつまでも相手に「恋」していられたらいいし、相手も、自分に「恋」してくれてたらいいんだけども、もしくは「恋」から本物の「愛」の関係を育てられてたら、家族としての人と人との絆を、育めてたらいいのだけど。(いわゆる「聖なる結婚」てやつね)でも、人の気持ちほど不確かなものはない。人生に絶対はないという意味で。人の心ほど、あてにならないものはないのだ。先の事など、誰にも、自分にも分かりはしない。パートナーがいるのに、その人よりももっと好きな人が、大切と思える人が出来てしまったのなら、それはもう仕方がないように思う。心を止めることは出来ないだろう。どちらも大切とも思い、今のパートナーに対する気持ちも嘘ではないが、それよりも別の人への気持ちの方が大きいと、明らかに恋だったり、愛だと確信できる場合など。その気持ちを責めることは誰にも出来ないだろう。互いが独身同士であれば、ことは簡単だ。別れを選んで、より強く大切だと、恋心を感じた相手の方を選べばいい。(但しそれで上手くいくとは言えないし、婚約していた場合は手順が必要だが)だが、それが既婚者なら?自分または相手がそうであったなら?そして、子供がいる夫婦だったら?ことは簡単ではない。結婚は社会的な責任を共同で担う、契約そのものだからだ。子供がいるのであれば、子に対する養育義務を持つ親同士の関係でもある。 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ 不貞がいけないとされるのは、それが契約違反であり、信頼を裏切る行為そのものだからだ。恋愛にしても、結婚生活にしても、すべては人間関係なので。相手の心も人格もおのが所有物ではなく、自らの利己的な欲望や願望を叶えるための奴隷や便利屋としてでなく、別人格として尊重し、畏敬の念を持って接せれるか否か。男女の枠を超えた、精神的な愛があればなおよし、ではあるものの、それは難しいことで、とりあえずは上記さえあれば十分であろう。他の人を愛することが罪なのではない。気持ちには、心には罪はない。パートナーがいるのに、誰か他の人を好きになってしまった、その心を裁くことなぞ、他の誰にも出来ることではない。パートナーが、配偶者がいる人を好きになることが罪なのではない。そこには罪はない。その人を素晴らしいと、素敵な人だと評価し、心奪われてしまうのは、異性としての深い愛情を抱くことは、自然なことで、ごく普通のこと。現実を考えたときに、その人は結婚している、という事実があるだけ。それはハンデでしかなく、相手が結婚しているという事実は、相手が障害者であったり、異性ではなく同性であったり、相手の家族に問題を抱えている人がいるとか、その人が経済的に自立できていないとか、そういうのと何ら変わりがない。相手を愛(恋)することを止める理由にはならない。ただ、現実を前にして、そのハンデが乗り越えられるものなのか、乗り越えられないハンデなのか、そのいずれか、なだけ。そして結婚している人であるならば、その人とは結婚できない理由があるってこと。恋愛対象にしてはいけない人だって、それだけ。その人のことが好きで、愛しているという気持ちは、胸の中に大切に収めておくしかない。互いが独身同士であれば問題ないが、そうでないならば、お互いの人生を、人間関係を壊すような関係を築いてはならない。肝心なのは、どう行動するか。結婚した後に、他に心惹かれる人に出会ってしまうことは、それは不幸とも言える出来事なのかも知れない。他に愛する人を見つけてしまったとき、今のパートナーとの関係をどうすべきなのか・・・大いに悩むことになると思う。今の関係を解消して、心に素直になるべきなのか、理性で抑えて、これまで築いてきた人間関係を、家族との関係を選択すべきなのか…問題はこの順番なんだろう。誰かに心を奪われたことを「浮気」という人もいる。肉体的な関係性がないのなら、プラトニックならば、それは不倫とか不貞とは言わない…という人もいる。けれど、肉体の浮気は赦せても、本気になられるほうが赦せないという人もいる。継続的な関係でなく、一度限りの過ちなら赦せるとか、風俗ならば仕方ないという人もいる。風俗もダメだし、女性とご飯を食べるだけでNGという人も。(なかにはsexの相手をするのが嫌なので、愛人を作って他所で性欲を満たして欲しいと・・・そのような正妻もいたりするし、妻が他所で恋愛するのを楽しみとする夫もいるので、夫婦がそれでよしならばそれはそれでいいのだろう。が、こういうのは双方の価値観が一致していればの話)そこは各自個別の価値観なので、それをこう考えるべきと裁定したり、間違っている正しいとも他人が言えることではないけど・・・さりとて、心霊科学の視点からは、やはり人間関係を損ねるものであるか否か、がポイント。属する社会の法や規範(この場合は日本)に従って考えるべきで、相手に対して不実な態度を取るべきではないってスタンス。つまり、どうしても他に好きな人が出来てしまい、そのことで結婚生活を続けることが不可能であると、心に正直になりたいのならば、結婚生活を解消したいと、誠実に相手に申し入れるべきで、その際に己が果たすべき社会的責任を道義的に果たし、その後で、好きになった相手に気持ちを伝えたり、関係は持つべきである。いずれにしても、法的配偶者がいるうちは、性的関係を持つのはNGということ。配偶者以外の人を愛してしまう気持ちに罪はないけど、不義理かつ不誠実な行動を取るのが罪ってことなのです。人としての道に反しているか否か、なんですよね、すべては。プリン脳やラリは、物事の筋道通していない人がほとんどで、そもそも筋道通せる人だったのであれば、プリン脳やラリにはならないのであろうが・・・とあるコラムニストの人が、俳優の旦那が浮気したとき、「私の作ったご飯を食べて、私が干した布団で寝て、 私が選んだ服を着て、私が洗ったパンツを履いて、 彼女に会いに行くのは止めてちょうだい」荷物をつめたボストンバッグを放り投げて、そう云ったそうだ。なるほど、本当にそうだ。妻は家族ではあるが母親じゃない、他人だ。自分の世話をしてもらうための一方的な存在ではない。相手の想いを踏みにじっていい理由など何処にもない。不倫は不義理以外のナニモノでもない。あともうひとつ、不特定多数の人と性的関係を持つのがよくないって理由がある。性病の危険性があるからってことではなくて、心霊科学的な視点から、ね。Sexって、エネルギー的交流でもある。お互いの第一チャクラを通じて、クンダリーニのエネルギー的交換が行われるんだな。(詳細を知りたい人はクロウリーの性魔術書とかインドのタントラとかカーマスートラとかでも読んで。ちなみに相手から性氣を奪ってダメ人間にしてしまうための房中術という、それに特化した性的技能の暗殺術もある)普通に、二人あるいは複数の人間が同じ空間にいると、互いのオーラ的領域の空間を通じて、エネルギー(エーテルバイタリティーすなわち氣)が交じり合って、互いに吸い取られたり吸ってしまったりがある。(3m四方もあれば十分で、時間にして約2時間。10mでも共に過ごす時間が長ければ確実に影響を受ける。都会の狭いアパートなら隣、上下の部屋からもお互いに)まして、イチャイチャしてお互いの身体に触れ合い、Sexという行為を通じて、エネルギー交換が行われると、マイナスの意味でもプラスの意味でも、色んな影響を相手から受けることになる。これが単一の相手とならいいんだけど、同時期で複数の相手とそういう関係性を持つと、第一チャクラがぶっ壊れることも多々。性的関係が乱れるというのはまさにエネルギーが乱れるってことで非常によろしくない。結果、色んな相手から、色んなものをもらっちゃうわけです。この場合、現実的な肉体の病気もしかり、目には見えない良くないものもたくさんもらうことになる。相手の第一チャクラの中にあるものとかね。(ちなみに第一チャクラは先祖のお荷物とかある場所だからさ)生活のためとか、それしか出来る仕事がないとか、色んな事情で風俗や性的産業で仕事をしている人もいるから、それは否定しない(本人が覚悟決めて本気でやってることなら)。けど、目に見えてる身体だけでなく、目に見えない身体も壊すことになる仕事だから、あんまり長期間従事しないほうがいいとは思う。当人の心身の健康のためには。そういう意味で、愛情や心の寄り添い、互いに対する"情"や慈しみのない性的行為は、オーラやチャクラ、エーテルダブルなどのエネルギーとしての身体をダメにする行為でもあるから、むやみやたらとするもんじゃない。恋人にしてもセフレにしても、その期間、そういう関係を結ぶ相手は一人ってのがベター。あんまし、あちこち飛び回るものではないってのはアリ。どんな相手とSexをするかってのも、大事だったりする。(だからホントにサゲ○○とかアゲ○○とかあるよ)気持ちの良いSexって言い方もヘンなんだけど、自分のエネルギーを高めてくれる、良い氣の持ち主を性愛のパートナーに選ぶことって大切。だからこそ、愛し、愛されている相思相愛のパートナーと、人間関係を大切にして、その間はその人だけってのが正解。恋多き女でも男でも、パートナーが随時入れ替わる人であっても、その時期は相手が一人だけってのであれば問題なし。独身の人でも複数の人と同時進行ってのはあまりよろしくない。(相手がそういう人と知らず、つき合っている人は、エネルギー的にも相手から悪いものもらって大変だ)そして、浮気、不倫てのはどこかで背徳的な罪悪感があり、そこには常に負の意識がつきまとう。互いに割り切っていたとしても。また、そうした行為に対する「怒り」や「憎悪」のグループエレメタルも、そこに反応して集まってくるしね。つまりは負のエネルギーがいっぱい集まってくる。純粋に「本気の恋愛」から始まった関係ならまだしも、性的な行為に耽溺していたり、遊びとしてのそれは、さらなる負のエネルギー、退廃的なエレメンタルも呼び寄せて、どんどん悪いものが集まってくることになる。どちらかのパートナーの信頼を裏切り、踏みにじり、他人を傷つけている行為には違いないから、そうしたカルマのレッスンも背負うことになるしね。どこかで、それは戻ってくることになる。背負ってしまった負債から逃れることは出来ない。他人の心を傷つけた、踏みにじってしまった罪。人間関係を壊して、信頼を裏切ってしまった罪。いつかそれは自分に戻ってくることになる。他人にさせた思い、味合わせた感情は、必ず自分も味わうことになる経験だったりするから。それがカルマの法則というもの。あなたが他人にすることは、すべて未来の自分に対して行っていることなのだから。魔女の書の第一節に書かれた言葉。"誰かを傷つけることなく、汝のしたいことをすべてしなさい"この言葉に恥じ入ることなければ・・・それは咎にはならないけれど。果たして、あなたの恋は、あなた以外の誰かを傷つける恋であろうか否か。今一度自分の胸に問うてもらいたい。"愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず。高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、苛立たず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない"    コリントの信徒への手紙Ⅰ 13-4-8本当の愛はあなたを決して傷つけることなく、誰のことをも傷つけることはない。

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  • 28 Dec
    • ふたなりとトランスジェンダー

      "魂"のことを説明するのは難しいが、とりあえず、理解しやすいように、この三次元(~五次元)、物質世界(思考と想念の世界)に存在し、表現される私たち(一パーソナリティ)の原型、元データとしておく。この"魂"には性別はない。男でもなければ女でもなく、そのどちらの性別であるともいえる。性別とは、あくまで物質世界において与えられた肉体の特質であり、現実社会を生きる上で、肉体的特質による役割分担が必要という理由で、便宜上、二つの性に別れたに過ぎない。それは、子供を宿し体内にて成長させ、産み育み保護するに適した性と、獲物を捕り住処を作り外界の敵と戦い、家族を守るに適した性。哺乳類において、この二つの目的を両立させる肉体は難しい。(魚や一部の鳥類、植物は雌雄同体の種も多く単為生殖も可能だが)この二つの性がともに協力しあって、互いの性特有の欠点を補完し合うため、助け合って生きるという友好的かつ協力関係を維持するために、物質的存在(個体)としての肉体から、次の生命を生み出すための行為が快楽を伴って存在するとも言える。(こういう固い言い方をすると身も蓋もないけれど)胎児は「人間」の形骸を要するまでに様々な変態をするが、その過程において、染色体の配列に従い、メスのままでいるものと、メスからオス化するものとに分かれる。つまり最初はすべて「メス」であって、「オス」は変態によって「オス化」した性なのである。そして稀にその変態の過程で「オス化」に失敗するものがある。染色体の配列に異常(キメラ)があって、そうなるものもあるし、宿り主である母親の精神的ストレスによって、「オス化」が上手く行かないこともある。この「オス化」の段階が何処で止まってしまったのか…それによって「メス」であり「オス」でもあるものになったり、性同一障害など心と身体の性の不一致に悩む者が生まれる。男性のほうが女性に比べて精神が脆く、ストレスに弱いのは、変態時に「オス化」によるダメージによるものらしく、生物学的な理由によるものとのことだが真偽は定かではない。(確かに心が女性なニューハーフのほうがゲイの人より、精神的に逞しい←限りなく女性寄り、なのは納得がいく)男性脳、女性脳といった、脳の使い方の特質も、肉体の違いも、外界の危険や敵を見分けて、食べ物を確保し、社会において有利に生き抜く方法を模索するのが男性の担当で、その男性の子を産むことで自分の安全と食料を確保するなど、優秀な子孫を残し、周囲からの庇護を得るために、コミュニティを形成していくのが女性の担当という、性別による役割分担があるが故のもの。さてとりあえず、それは置いておいて、ではなぜ、両方の性を持つ者や、肉体の性と心の性が一致していない人が生まれるのか、という話。不幸な事故的巡り合わせでそうなってしまうのか、何かの功罪なのかカルマ的な罰なのか…   ★ ★ ★ ★ ★  ★ ★ ★ ★ ★その前に、人は女性にも男性にもどちらにも輪廻転生をする。たまたま男性ばかりの人生を生きている人もいるし、女性としての人生の方を数多く生きている人もいる。女性になるか男性になるか、それを決めるのは当人の意志やカルマの導きであり、それはその人が学ぶべきレッスンだったり、果たすべきその人生でのお役目が、どちらの性であるほうが都合がいいかって、それだけだ。正しくは、その性に生まれる、というより、器として、その性の肉体を選んでいるというだけ。だから、その「家の子」になりたい、というところでは選ぶことは出来ず、その「家の子」として生きることになる人生が、その人の今生の目的やカルマのレッスンに沿っているか。性別もその要素のひとつ。(とはいうものの、どの「家」「両親」というのはかなりランダム)ジェンダーによる差別や優遇、社会的境遇の差がある限り、人は男性としての人生も女性としての人生も、どちらも等しく経験しなくてはいけない。だから男性はずっと男性ということはないし、女性もずっと女性の人生を生きるということはない。ある一定の霊的成長を遂げたならば、その者が「神聖なる計画」の一員として、どちらの性であったほうが、人類同胞に対する奉仕をするのに、都合がよいかどうか、判断して生まれてくるであろうが、輪廻転生の輪の中にいるものは、自分では決められない。では、男でも女でもない第三の性にあるものは?肉体の性に心の性が順応できないものは?そこにはカルマのレッスンが存在している。男でもない女ではないもの、男であり女でもあるもの、その第三の性を受け入れるということが。どちらでもなく、どちらでもあるという事実を受け入れ、その肉体の性に縛られずに、ただ一人の人間として、性によって限定されず、しかしどちらの良さも持ち合わせる、性のない、ただ肉体を持って存在する人格として、それが本来の人間の究極に目指すべき目標であるという、進化の先を行くアイコンとして生きるべきカルマが。さて、肉体が男であるのに心が女性であるもの、肉体が女であるのに心が男性であるもの…の場合、一言で言えば、その不一致のあるままに生きる必要性があったりする。何故ならば、その不一致によって経験することすべてが、その人にとってカルマのレッスンを学ぶ道だから。女の心を持ちながら肉体は男でないと出来ないこともある。男の心を持ちながら肉体は女でないと出来ないこともある。そのための性の不一致だから。だから、手術によって性別を変えてしまうことはよくないこと。事故や病気によっての性器損傷は致し方ないが、意図的に持って生まれた性別を変えてしまうのは×。気持ちは分かるけど。それは自分に対しての罪になる。カルマのレッスンからの逃避で、その性のままで生きるべき人生、成すべきことを放棄していることだから。整形手術も多少はやむなしだけど、根本は同じで、必要のない整形や過度なものはNG。性別にこだわることは、執着以外のナニモノでもないんです。その性別で生きる人生にこだわっている限りは、それは本能のまま、欲望のまま、物質的価値に縛られて生きていることなので。肉体は男でも心は女なら、女の心を持った男として生きる必要があり、女の心を持つ男にしか出来ないことをして生きるべきなの。性別が男であることを利用して。その逆もまたそう。肉体は女でも心が男なら、男の心を持った女として、男の心を持つ女にしか出来ないことをして、自己表現をしていくべきなんですね。その人たちがそのような状態に生まれたのには、ちゃんとした理由があるので。自分の肉体の性を、ちゃんと受け入れて、身体を愛する必要があるんです。その性である自分の肉体に違和感を覚えたとしても、その性として生まれた自分を受け入れて、その性を生きる必要性が・・・。でもって、パートナーが異性同士でなければいけないということはない。同性を愛することは罪じゃない。誰に罰せられることではない。愛し合うことに性別は関係ない。だって、今の人生で女であったとしても、過去の人生では男性で女性と結婚していたり、今男性でも女性だった、ってのは当たり前なんだから。過去生でのパートナーが今生で再会したならば、同性に生まれてたとか、親兄弟姉妹や子だったとか、その逆で同性の親友だった人に再会したらば、異性として現れたとか、そういうのもよくあること。子孫を残すという生物学的な種の保存の目的を考えたとき、異性間の性愛、パートナーとの恋愛関係のほうが望ましいだけ。でも心から深く愛せる人が同性だったならば、それ以外の人で愛せる人がいなかったのなら、また相手も同じ気持ちで自分のことを求めてくれるのであれば、ええじゃないか。と、私は個人的にそう思う。だって星の数ほどもいる人間の中で、愛し、愛される関係の人と巡り合えるのってなかなかないよ。それがたまたま同じ性別だっただけ。でも、まあ、自分と同じ性別しか愛せないというのは、ちょっと違う問題でもあったりする。その人の中身を愛しているのではなく、その性たる「器」しか愛せないっていう問題だから。ここにはその人が克服したり、向き合わないといけない問題の胤が隠れてる。ようするに、相手の心や精神を愛しているわけではなく、なおかつ自分と同じ性を持った人以外、違う性の人間に対する拒否感があるってことだから。ナルキッソス的で排他的な自己愛が隠れていたりしてね。受け入れられない一方の性に対する愛の欠如があるわけで。健康的とは言えないんだな、これが。女性の身体が嫌い。男性の身体が嫌い。愛情を与える対象にどうしても思えない。ここは多分、あと何回か輪廻転生を繰り返すうちに、自分が受け入れることの出来ない性を持つ、人間(存在)に対しての偏見と拒絶反応、愛の問題etc..カルマのレッスンとして、必然的に向かわせられることになる。そう。次の人生でゲイの人は女性の肉体を持ち、レズビアンの人は、男性の肉体を持つなどしてね。自分が否定し、嫌悪感を抱き、受け入れられない性を、愛すべき肉体として、所有して生きる人生を与えられるかも。うん。性愛は否定されるべきものではないけど、人の愛は性愛だけでなく・・・・・・だから。とはいうものの、SEXは欲望を満たすためだけものではなく、具体的な愛情の表現のひとつでお互いの肉体を慈しむ行為。動物の毛づくろいにみられるような、相手への愛情を示し、伝えるボディランゲージでもある。相手を悦ばせ、自らの悦びを分かち合うためのもの。異性同士でなくてはいけないということはなく、同性同士だからと言って、してはいけないということはない。霊的には何ら問題はない。そこに禁忌など何処にもない。ただ、相手の同意のない、一方的で無理やりな行為は、相手を踏みにじる行為であり罪以外のナニモノでもなく。欲望を満たす対象としてのみ相手を見ることと、快楽という名の肉欲に溺れることが問題なのだ。   ★ ★ ★ ★ ★  ★ ★ ★ ★ ★冒頭のほうに書いたように、魚や昆虫、鳥類などは雌雄同体だったり、単為生殖をするものが多かったりする。オスが少なくなったから、オスたくさん創るぞ、もあるし、メスの割合が減ったから、私オスになります…みたいなのも。そして人間の場合、戦争や自然災害、特にジェノサイドや空襲下など、死の恐怖と隣り合い、生存を脅かされる状況になると、己が子孫を残そうという行動に出やすいのだそうだ。腹立たしいことに戦場下における集団レイプもそうで、地震など被災地の緊急時でもそのような被害は増える。戦場では、単にそれだけでなく、敵国の女性を集団レイプし、老人や子供を惨殺するのは、ここは既に自分たちの縄張りで支配下にあるという、マーキング的に力を誇示する行為らしいけど、これは動物界にはよくあることで、ライオンやサルなどが行っていることと同じだ。つまりはこういう行為に及ぶ人間は、理性も知性もない、本能に忠実な動物と同等なんだな。また、妊娠している女性が、戦争や災害による死と隣り合わせの恐怖を味わうと、胎児はストレスを受け、ナーバスな精神状態となる。そして、何故か生まれてくる子のほとんどは、異性を愛することが出来ないという、第三の性で生まれてくるケースが多くなる。そして、戦後は女性の出生率のほうが高くなるそうだ。何故なんだろうね?男、だと戦争に行かなければならないから?純粋な「オス」は攻撃的な本能が強く、戦争を好むから、肉体は男で男性の仕事が出来ても、心が女よりで、戦争という破壊行為を好まないタイプの性を、母体としてのメスが強く望むからだろうか…。男を作り、育てるのは女だと人の言う。原初、男性は皆受精したその時、女性であった。社会を構成する必要性に応じて、メスが自分たちを守るためのナイト役として、力仕事をさせるために特化した性としてのオスを作った、自らの体内で「オス化」と言う変態を起して。旧約聖書ではアダムの肋骨からイブは作られたというけれど。しかし、オスとメスの比率を決めているのは、メスなのである。オスがオスになれるかどうかは、オス化が成功するか否かは、メスが妊娠時に受けるストレスにも左右されるのであるから。女王蟻や女王蜂が、自らに奉仕させ、使役させるために、奴隷として、労働者としての働き蜂や蟻、兵隊蟻などを産みだすように。ある意味で、女性でもなく男性でもなく、そのどちらでもあるもの、女性であり男性の心を持つもの、男性であり女性の心を持つもの、性別を超えたところで愛し合うことの出来るものが増えていることは、それだけ人々が争いのない社会、世の中を望んだ結果かも知れない。女性であることで屈辱的な立場に甘んじることを強要されることや、男性であるがゆえに死地に赴かされ、重責を負わされることなど、それぞれに与えられた理不尽な状況を改善し、無くすための、何か意図的な力、大きな意志の働きかけ故なのかも知れない。極端に、男性的な力が優位になりすぎたことで、社会が負うことになった、バランスの悪い側面を正すために、必然的にそうなっているのかもなあ・・・と思ったりします。この争いの多い、破壊的な、いつまでたっても、愛の足りない時代と世の中を鑑みるに。

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  • 26 Dec
    • 自立のための利用は依存にあらず

      最近、「日本の神託カード」というのを買いました。「神様カード」ではなく、「神託カード」のほう。タロットカードは仕事道具でもあるので、コレクションしていたこともありますし、今も複数のデッキを所有しています。確かに以前にも、この手のメッセージカードを所有していたことはありますが、実用的でないと思い、手放したことがあります。でも、今回たまたまよく行くショップに置いてあり、このような、御御籤的に引く、ポジティブッメッセージも、時に人には必要かも知れないと思ったりして、ひとつくらい手元にあってもいいかなと考えたのでした。そうですね、友人が集まったときに余興になるし、クライアントさんやGレッスンの参加者とか、ワークショップとかそういう時になんか、楽しいかなって。日本に住んでいるし、身近な日本の八百万の神様なので、日々の暮らしを見直したり、瞑想したときに内省や振り返りのヒントを得るのにもいいかなーと。書いてあることが現実の自分の身に「起こる」ことだと、そう信じ込むような未来予知的な使い方ではなくて、一日一枚引いてみて、そこに書いてあるメッセージやアドバイスを元に、ちょっと自分の日常や行い、考えを振り返ってみる。書いてある事柄について、瞑想して、考えてみる。私の場合、そういった使い方をしています。書いてあることが、真実であるか否か、自分の身にこれから起きる「吉兆」であるか否か、たぶん書かれている「いいこと」を拾い集めてたくて、書かれている「いいこと」が自分の現実に現れる・・・と、そう期待してしまうと、人は自分が現実化したいことが書かれているカードなど、望む答えが得られるまで何枚も引いてしまうのでしょう。そんな風に予言めいた占いを期待してしまうと、依存になりやすいのかも知れません。引いたカードに「いいこと」が書かれていたら、それで気分を良くして、その「良い気持ち」で明るく日常を過ごせれば、たぶん運気もよくなるけど、何か突然の棚ぼたがやってくる「吉兆」と信じて、訪れる幸福に過剰な期待を抱くのがよくないのかなー。それだと他力本願で。だから、まあ こういうのは、モノは使いようというか、付き合い方ひとつだなあ、と思います。上手く付き合って、楽しく活用すればいいだけのこと。書いてある内容に振り回されて消耗するか、書いてあることについて考えて、我が身を振り返る時間にするか、どう利用するか、だけなのだと思います。所詮、使うのは人であり、起きている出来事に意味付けをするのは、いつだってその人の心の在り方次第なのですから。===============================================心理学にしても、占いにしても、民間のボディヒーリングやワークにしても、エネルギーヒーリングや、スピリチュアルなワークやセッションにしてもそうです。(学ぶことも含めて)他力本願で、相手に頼って依存してしまうのと、自分主体で利用するのとでは結果も異なります。占い師やチャネラー、セラピスト、施療家が自分の問題を解決してくれる・・・この人にお願いすれば、奇跡が起きるとばかりに、相手の能力にすがりついてしまうことから、誤解や間違いが起こりやすいのだと思います。「レイキのアチューンメントを受けたけど、それで別に人生がよくなったわけではない」とか、「○○さんに観てもらったけど、言われたアドバイスは今の私には難しいし、無理。結局、お金と時間の無駄だった」みたいな。でも、どんなスピリチュアルなセッションも、クライアントさんが積極的に参加してくれないことには、何も始まらないんですよね。セッションというくらいですから、クライアントさんとの二人三脚なので。主役は、あくまでクライアントさんであって、セラピーを提供するほうはナビゲーターであり脇役。状況を説明する解説者にしかすぎません。ヒーリングにおいて、ヒーリングが成功するか否かというのは、ヒーラーの能力というより、クライアントさん側の問題が90%だと言われています。セラピーとかもそうですね。確かに心理療法やカウンセリングなんかでは、話の誘導や質問の仕方、話を上手に聞けるか、そうしたことも大きいんですけども。でも、クライアントさんが自分の問題を丸投げで、ただここに来れば何とかしてくれる・・・といった他力本願的なスタンスでは、どんな名人でも、その人の力になってあげられません。クライアントさんの方で、その方法、その相手のやり方が有益であると判断した上で、自分が抱えている問題を解決するために、その人の提供しているサービスを「使う」のだという意識で、あくまで利用する側がきちんと自らの問題意識を持ち、サービス提供者に歩み寄り、積極的な姿勢て取り組まないと。そうじゃないとセッションの結果は出せないし、その試みは成功しません。こちらから何か言わなくても相手が自分に必要なことは全部言ってくれるだろう・・・と座っているだけだったり、してもらえることを受け身にされるがままになっているだけで、それだけで現実が変わることを期待するだけだったり、このセッションを受ければ、すべての問題が解決するかも、この人なら、自分の人生に奇跡の癒しをもたらしてくれるかも・・・と、結果だけを望んで、奇跡や魔法の一振りやクスリを期待しても、自分の人生に一発で利く、特効薬のような方法はないのです。占いやスピリチュアルなワークやセラピーだけが、世の現れた人生の問題、目には見えない問題を解決し、その人を変え、見方を変え、生き方を変えるための、すべての方法であり、唯一無二の、たった一つの道というのではないように。逆を言えば、これらは付き合い方、どのように使うかといった利用の方法次第で、自分を変え、視点を変え、人生を・・・そして運命(未来)を、変えることの出来る道具であり方法となりうるのです。自分が何を解決したいのか、どうしたいのか、何をどうなりたいのか、ちゃんとそこが分かっていて、そのためのアプローチの方法として、どのやり方を選んで、そのやり方でどの範囲のこと、どこまでのことを自分にしてあげようと思うか、そのための自己投資(予算)をどうとらえるか、各自の価値観で判断すればいいと思うのです。自分の人生を変えるために、人生上の問題を解決するために、トラブルを引き寄せたり、人生を邪魔するものを問題を引き起こす性格的な問題に取り組むために、心理学や啓発セミナーにしたって、スピリチュアルなことにせよ、そうした場や方法を利用することを有益と思うか否か、スピリチュアルなサービスに対して今お金を使うことが、自分のこれからの人生にとって価値のあることと思うか否か、自分でそれが信じられるかどうか。もちろん、胡散臭い詐欺まがいなものもありますから、情報収集も下調べも大切だと思います。相手を信頼できるか、相性も図るべきですし。誰かにとって、名医だったり、素晴らしい人だと知り合いが推薦してくれたとしても、自分にとってどうか、で判断するべきですから。提供するサービス側の技量というよりは、やはりクライアントさんのスタンスや心持ち、意志の在り方が、そのセッションを成功させるか否か、90割方決めているっていうのは、責任逃れと言われても、実際のところ、そうなのは否めなかったりします。自分で何かを見つけよう、相手から答えをもらおう、そういう気づこうとする・・・何かヒントを見つけよう、もらって帰ろうっていう、貪欲な積極性がないと、たいていクライアントさんは消化不良で返ることになるから。(言ってもらいたい言葉を相手から聞き出すというのでなく)だから、払ったお金が無駄になるか、後でその人の人生に豊かさとして戻ってくるか否か、それもまた、受けたクライアントさんが決めることになりますね。もちろん、どんなセラピーもセッションも、ヒーリングも何もかも、万能なものはありません。だからこそ、自分の人生に責任を持ち、自分の人生に積極的に参加していく姿勢が大事なのです。その態度が結果を作ることになり、受けたセッションが実になるかどうかを決めるのです。というわけで、自分がスピリチュアルなワークやセッションに頼ろうと思った時、それが依存なのか自分の弱さなのかどうか迷いを感じたなら、自分は自分が抱えるこの問題(悩み)を解決することに対して、積極的に参加したいと思っているのか、誰かに丸投げして救って欲しいと思っているだけなのか、どうかそのあたりを考えてみて下さい。自分が自立して、心身ともに健康になるために、建設的な人生を生き、自分の人生や力を取り戻すために、その方法の助けを得ようと思っているのであれば、それは依存ではないでしょう。病気になった人、怪我をした人が、健康で自立した生活を営むために、医療やヘルスケアのサービスやサポートを受けるのと、何ら変わりがないのですから。でもそうではなく、その方法、サービスを提供してくれる人が、自分の人生を良いものに換えてくれる、そこに行けば、何かいいことがある、お金を払ってサービスを受ければ、自分の問題の大半が解決するに違いない・・・などと、そんな風に思って受けようというのなら、それは依存であり、中毒のようなものですから、不健康な関わり合い方になり、百害あって一利なしな結果になりやすいので、そのサービスは受けるべきではありません。自立して生きていく力を得るために、自分で自分の問題を解決できるようになるために、自分の問題を一人で解決できる自分になっていくために、そのために意識を持って、利用するかどうかの違いです。

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  • 23 Dec
    • 虹の橋の向こう側・・・命の生まれるところ

      畜生(ちくしょう)とは、仏教において、神や人間以外に生まれた生物のことをいう。畜生は、苦しみ多くして楽少なく、性質無智にして、ただ食・淫・眠の情のみが強情で、父母兄弟の区別なく互いに残害する。畜生道に堕ちると言うは、悪業を造り、愚痴不平多くして感謝報謝なき者、動物のような生き方をする者、死後に畜生に生るという事。畜生道(ちくしょうどう)とは六道また十界の1つ。※六道(ろくどう、りくどう)とは、仏教において迷いあるものが輪廻するという、6種類の苦しみに満ちた世界のこと。十界のうちでは迷界、三悪道(趣)に分類される。                Wikipedia参照★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★子供の頃に読んでいた漫画「うしろの百太郎」の中に、言葉を話す犬シロというキャラクターがいて、その犬は人間の生まれ変わりという設定だったりするのだけども、実際のところ、人が動物に転生することはありえない。(それでも、私はこの口の悪いシロが好きだったし、ペットが口が聞けて話せたなら便利だなあ、って思ったり)心霊科学では、ダーウィンの進化論も「違います」って、話になるんだけども、それはさておいて。(遺伝子ゲノムが近かろうが何だろうが我々の祖先はサルではなく、人間は最初から人間であり、このカタチだったということ)どうして、人間が動物に、そして動物が人間に、というように生まれ変わることは「無い」のかというと、それは人間とは肉体の仕組みが違うということと、動物には「霊」も無いし、「魂」も無いからって話になります。(昆虫、鳥類、爬虫類も。そして哺乳類であっても)肉体の仕組みの違いを言うなら、人間は、目に視える肉体が一つと目に見えない肉体が二つ。けれども動物は目に視える肉体のみ。人間は原型としての魂があるから、転生をする。でも、動物は転生はしないんです。人間の魂を今風?に分かり易くいうと、魂はそれまでの作業の経緯含めて、すべての過去履歴、今後の計画、データが入ってる、メインサーバでホストコンピュータみたいなもの。一つの人生を一台のPCだとすると、そのPCが昇天する度、そのPCで作業した全データがホストコンピュータに移行する。エラーもバグも、何回ウィルスに感染したとか故障したとか、インストしたアプリやアップデートの回数や使用履歴も一緒に。そしてそれまでのデータを元に新しいPCの環境作りをする。それが転生する際の肉体とキャラ作りみたいなもの。そのPCを使用して作業するのが新しい人生みたいな。(この場合、PC廃棄は死亡になるかと)これは人間一人につき、メイン一台。(転生の終わりはさておいて)動物の場合は、その動物の種類別にメインサーバが一台。共有で使っているって感じかな。一匹の猫が死んだとき、猫専用メインサーバにそのデータは回収されるって感じ。犬は犬専用、馬は馬専用に。あくまで比喩の言い方ですけどね。動物は魂はないけど、宿っているもの、はあります。(ぶっちゃけエレメンタルなんですけど)まあ、生命エネルギーとして考えても問題ないかと。この辺り説明するとめんどくさいので。この動物の「命」は学習しますし、記憶もします。その人生での体験や恐怖など。人間への警戒心や感情も。人にされたこと、もちろんメモリーとしてインプットします。だから動物は進化するし、個性も生まれる。ペットだったり、人間との接点が多い動物は、身近な人間が創り出すエレメンタルを吸収して、それを己が特徴や性格として表現するようになります。(憑依体質ってわけではなくっっ笑)だから、飼い主に似てくるのは当然なんですね。攻撃的な人といると攻撃的な性質を帯びてくるし、穏やかでのんびりした人に育てられるとそうなるし。どんな人間に育てられるか・・・これによって感化される性質が決まるんですね。つまりペットってのは、一番身近にいる人間が創り出す想念を表現する媒体ともなる。そして、その犬だったり馬たったり猫だったり・・・は、やがて死ぬとひとつの命の源たる塊の中に戻ることになる。原始の海に還るがごとく…。その人生での体験、記憶したことすべてを携えて。それは大きな水瓶の中に水が戻されるようなもの。組みだされた水の量より、生きた人生分増えた量が加算されて再び水瓶の中に。そして新たな命が生まれる時、水瓶から水が汲みだされることになる。けれど、必ずしもそれは、以前ひとつの形骸を持っていたものとは一致することはない。水は混ざるものだから。だから、動物に関しては悲しいけれど、同じ「命」は転生してこない。過去、人生を一緒に過ごした、あの可愛い子の一部が混ざっている奇跡に出会えたとしても。同じ子には出会えない。とても残念で寂しいことだけど。犬も、猫も、馬も、牛も、鳥も、うさぎも、生まれながらにして個別の性格があるのはそういうこと。転生と言えばそうだけど、転生とはかなり違う。別の犬や猫が、どこかで生きていたときの記憶、何処かの誰か(人間)から模倣してコピーしたデータがあるから。それは虐待の記憶かも知れないし、愛に満ちた幸せな記憶かも知れない。捨てられた哀しみや人間に対する絶望や恨みかも知れないし、可愛がられて、抱きしめられた、懐かしい甘い想い出かも知れない。 "犬には犬の哀しみがあり、 猫には猫の喜びがある…"いずれにしても、いつかこの子とまた会いたい、生まれ変わって、またうちの子になりにおいでね、と思っても、それは叶わない夢。動物に関してだけは、その子がその子として生きるのは一度きりの人生になるから。また、その種類の一匹にすることは、すべてのその種の動物にすることとなる。その動物にとって、共通の記憶にもなるので…。つまり、一人の人間が一匹の動物に対してしたことは、その種のすべての動物の恨みをかうってことでもある。その人が生まれ変わって姿形が変わったとしても。それに関しては、その人がそのような行動をしたという行為のデータ(エレメンタル)をその人自身が所持している、というのもあるんだけれども。動物側にも、「この人はかつて同胞に酷いことをした」というデータがインプットされているのです。だから、やたらと動物から攻撃されたり、嫌われたり、極端な目に遭ってしまう人というのは、その人自身の身体から匂い立つ悪しき波動とか、そうしたものだけに反応しているのではなくて、過去の行いに対して復讐されているのかも知れませんね。★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★そんなわけで動物は人間と違うので、いわゆる成仏がとても速いです。死んだらサクッとサヨウナラという感じで。しばらく飼い主の周囲をエレメンタルとして徘徊してるのもいますが。人間みたいに自分が死んだ現場を離れられないとか、自分の死を受け入れられないでいるとか、そんなことはありません。何年も飼い主の傍にいるようなのは、ほぼ100%といっていいんですけど、その飼い主が創ったエレメンタル(生前に創ったコピー)ですね。(あ゛ーただし、あまりにも悲惨で非業の死とも言える状況下では、キレイに上がれず、人霊の地縛霊と同じ状態に陥っているそうした動物たちもいます。飢餓状態で死んだとか人によって残虐に殺戮された場合とか。こういう状況下で結果的に人間に祟ってしまうなど、「悪さ」をしてしまう子たちは、一般に言う「動物霊」というのとはまた別種ですケド)飼い主が死ぬと一緒に回収(人間の方に)されるものだけど、たまーに、はぐれちゃって迷子になって、犬好きな人や犬を飼っている人に、くっついていたりすることがあったりします。あと前に街中で見たケースでは、電車の中ですけど、盲導犬に心配そうに寄り添っている犬の霊(霊ではないけどっっ)を見た事があります。これもまた、誰かが創った、ペットのコピーとしてのエレメンタルでしたけど。犬ってやっぱ優しいんだなって思いました。人間と違って「心の身体」も「思考の身体」もないけど、だからこそ、人と違って混じりけが無いというか、計算なくて、純粋でまっすぐなんだなって、ホント。あ゛・・・そういえば昔、実家が肉屋(解体とか含む)だって言う人の、家に遊びに行った時、牛とか豚とかの霊(正確には違うが)がたくさんいて、苦しくなって、「ごめーん、用事できた」とすぐに飛んで帰ってしまったことがあります。彼らってボリューミー(体重が)なんで・・・。さて、ならばどうして動物という存在がいるのかっていうと、私たち人間がため、だったりするんですよね。こういうと人類至上主義みたいな言い方になってしまうので、ちょっとイヤなんですが、そういう意味ではなくて。地球という天体、私たち人類が生きていくための母なる大地、その環境維持のためには、微生物や昆虫や各種の動物、植物、魚類の存在(生態系)が不可欠で。動物たちを滅びの道に追い込むことは、自滅の道であり、環境破壊以外のナニモノでもありません。我々人類が存続していくためには地球環境を守る必要があり、そのためには、動物たちの世界もそのままに、維持して守っていく必要があるのです。彼らはこの地球を住みよい天体にしてくれている功労者で、環境を生みだし作り出している自然システムそのものなので。(だから彼らが生息している地域から彼らを引き離すのは悪です。命を必要以上に奪うことや彼らの生息地を荒らすことも含めて。)またそれだけでなく、動物の生きる姿から、様々なことを学ぶためでもあります。あと、私たちのために「命」を「糧」として提供してくれているところもありますが…でも、いつかは彼らから「命」を頂くことも、卒業することが目標ではあります。して、「動物」に対してどう接するか…ってのは、その人が同胞たる「人間」に対して、どう想い、どう考えているか、人を人としてどう扱かっていうバロメーターなんだそうで。まぁ、だから、動物虐待は殺人の予兆だっていうのは真理なのか。子供は虫やカエルなんかを殺すことで残虐性を発揮して、やがて命の大切さを知って、しなくなるというけど。動物しか愛せない人、昆虫としか向き合えない人、植物しか関心がないってのもかなり問題があるとは思いますが。やっぱ動物嫌いより好きな人のほうがキャパあるかもな。動物に対してどう接する人なのか…動物の命をどのように考えている人なのかって言うのは、その人の「人間」に対する本当の想いを知ることの出来る、ひとつの目安になるでしょうね。動物や植物をどう扱っているか、って点がね。とはいうものの、私は植物は好きだけど枯らしまくりの炎の手の持ち主だし、犬も猫も鳥も金魚も飼ってたことはあるけれど…よその犬には4回噛まれてますのよ、ワハハハ。(そして蛙とクマとネズミは嫌いだ~!)動物園も大嫌いで、反対の立場であります。野生動物を保護する施設は必要だけど、その土地に生息しない動物を人間の娯楽のために、別の土地に連れてきて見世物にするのは良くない。人間のエゴイズム以外のナニモノでもなく・・・。一般の人が動物の生態を学ぶなら、書物や映像だけで十分です。野生に戻れなくなった動物を保護飼育する施設が、維持管理費稼ぎのために見物料を取るのはいいかなって、そう思いますがね。てなわけでして、人間が動物に転生することはありません。動物に人間が、人間に動物が「憑依」することはあったとしても。↑(あるんだな、これが)

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  • 18 Dec
    • コメントへの返信 ※追記アリ

      すみません。トップにお断り書きを入れているのですが(PCの人しか見れないのかな?)、ここアメブロのCSSが未だよく分からず(時々ソース表示が変わってしまうしっっ汗)、コメント欄へのレスの文字色が淡い色で文字が埋まってしまっているんですけれど、変更箇所がわからず・・・てなわけでレスで返すと読めないらしいので、こちらから失礼します。贖罪と受容~赦すこと赦されること①サイコパスの心理 byエア12月16日 20:38犯罪心理や殺人事件は、かつて私も少し興味を持った事がありました。そこから犯人の生い立ちや動機、心の闇が気になった事がありました。ところで、スピリチュアルな観点から見て、サイコパスは何故現れるのでしょうか?彼らも発達障害の様に、何らかのカルマを持っているのでしょうか?=====================================================サイコパスの人は「カルマ」によって、そのような行いをするのではなく、彼らはそれが彼らがこの物質社会に存在する役割分担で意義なのだ、で要約することができます。人間の5種のイデア(アーキタイプ)のうち、人口の一割程度(1/5ではなく)を占める彼らは、「悪」を体現し、人に善を問う存在でもあり、闇がなければ光を知ることができないがために善悪を教える存在といったところ。このあたりに関しては下手に説明すると誤解を生む源になってしまうので、正直スピリチュアリズムではタブーの領域でもあり、公の場に書くことは多くの人が自重しています。きちんとした段階を踏んで、基礎的な知識を身に着けた人のみに開示される教義なので、これでも多くをしゃべりすぎだ、ということでご理解下さい。彼らはルシファーのイデアを持っている、というところまでで。12/28追記こちらにいただいたコメントへのレスです回答ありがとうございました。byエア12月27日 20:57わざわざタブー視されている質問に回答してくださり、ありがとうございました。サイコパスの存在は、カルマとは違い、宇宙からすれば、あくまで必要悪であり、漫画やアニメでいうと、悪役がいないと、正義の味方は必要ない!物語はいらない!というのと、同じ理屈なのですね。ああいう人達は、たとえ罪を犯しても(現世での報いは受けるでしょうが)、カルマは発生しないのですね。それでも、被害を受けた側からすれば、溜まったものではありませんが。=====================================================コメントどうもです。彼らにとってももちろんカルマにはなります。彼らもまた輪廻転生をして、解脱してその学びの終わりを迎えるまで、人として生きなければいけない存在ですので。なので、悪の子として生まれた彼らを、「善」に染め、人としての心を育み、「愛」を教えるのがそれ以外の人の役割でもあるのです。「悪」を「悪」として知り、「悪」によって、「善」を学び、人の道を人としてどう生きるべきなのか人はどうあるへきか迷い誘惑にさらされながらも、やはり「悪」はいけないことであり、すべての生あるものたちよ善きものであれ、と…「悪」をも超越した「愛」があることを理解してこの世に表現して物質社会を創り上げていくのが、すべての人類に与えられた義務で権利でもあるといえましょう。そして本質が「悪」がである彼らも、やがて自らの罪深さ、「善」や「愛」のない己の本質や歴史に苦しみ、おののき、自らの業の深さの前に打ちのめされ、葛藤する日がいつか来ます。差はありますけれども。

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  • 09 Dec
    • 近況報告とやる気の行方

      ブログの主旨とは関係ない、どうでもいい呟きとお知らせです。結局Facebookページ作ったものの、あんまし更新していません。ごめんなさい。うーん、あんまし必要なかったかなあ?(汗)アナログな友人とか普通の友人たちから、「アナタが何をやっている人なのか、さっぱりわからん」「名刺見ても、横文字だし、スピリチュアルセラピストって何?」「占い師って言われれば分かるけどさー」・・・と言われることが多いもので(だって説明しようがないし)、一枚ペラで「こんなことしてます」と伝えるための紙媒体(ようするにチラシですな)を作りました。まだまだ試作段階です。印刷屋さんに出せばいいんでしょうけど、安く済ませようとして自前のプリンターで家内工業。せっかく、あたり一面が印刷屋と製紙工場の街に住んでるのにね<江戸川橋在住ついでにレイキの案内も作ってみました。サイトもさっぱりしたデザインに変えたつもりですが、さて。セルフヒーリング講座のも作らないと、です。ちゃんと仕事しないとな~ありがたいことに仕事しろ~とお尻叩いてくれる人がいるので、珍しく真面目にやる気出しています。ここ数年冬眠状態だったというか、昨年眼の手術をしたこともあり、仕事に関しては引き籠りに近かったので、来年からはきちんと国民の義務を果たせるように一度挫折した青色申告も頑張りまーす(結局白色のままだったりして)。そして、今のスタイルの仕事とは別に、占い業も復活させようかと。ええ、今みたく完全予約制でサロンに来ていただいて、じっくりゆっくりお話しを聞いて施療するのは私にとってはベストなスタイルなんですけれども、予約なしにふらっと訪れて、ライトなことを相談してもらいにくる場もいいかもって、思いまして、はい。電話は時間で料金カウントするとこはちょっとやりにくいので対面ならって思いましたんです。それでどこか占いのお店に出させてもらおうかと、何件か探しているんですけど。私のスタイルやカラーに合うところ、何よりもオーナーさんやお店との考え方が合わないとなってのはあります。お客さん目線で考えてて、占い師のことも守ってくれて、ビジネスライクは当たり前ですが、雇われて働くってことは自分が頑張ることで会社(店やオーナー)に儲けがいくということですから、豊かになってもらいたい、繁栄してほしいなって、そういうお店や主の下で働きたいわけです。てか、こんなブランクだらけのオバサンでも雇ってくれるところ、と謙虚に考えないとですね。でもそうですねー いちおう昔大手企業での正社員経験もあって、この仕事をしながら会社員(派遣社員)として内外の企業に多数勤務してきた側からすると、占い師が歩合制の委託(単なるブース貸)だってのはわかるとして、募集要項や雇用(勤務)条件が曖昧できちんとした説明がないところが多すぎるな、と。そこって一番大切なとこなんですけれどもね。色々突っ込みどころはありますが、それが業界の慣例ってものなんでしょうか。何しろ占い館でお仕事していたのは20年以上前だし、レギュラーで出ていたとこは給与制だったし、スカウトと紹介で働いていたから求人応募の経験って皆無でっっっ汗はい。くじけず、もうちょっと相性の良いお店がどこかないか探してみます。見つからなかったら、きっと道ではないんでしょうね。

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  • 15 Nov
    • Facebookページ

      サイトのページはあることはあるのですが、それ以外に職業的肩書のページも作ってみたりしました。https://www.facebook.com/yamato.maho/FBやられている方には、フォローしていただけると嬉しいです。ツイッターもインスタもやらないので、このページがそうしたものの代わりになりますかね。(何しろスマホ使えないかんたんケータイuser。スマホは視力の問題で使えないんです。よって書き込みできるのはPCからのみ)ブログは時おりにしか書かないし、ここはアーカイブ的な位置づけなので、ほとんど放置ブログと化していますが、あっちでは書き込み頑張ってみます。そうなんですよ。あちこちからお尻叩かれいるので、ちゃんと仕事に本腰入れないとと決意表明と覚悟をば。とにかく真面目に仕事しろ仕事しろ仕事しろ、ですね。派遣の仕事では企画広報とか営業とかできるんですけど、自分に対してだけは苦手です。セルフプロデュース、本当にダメダメで。いつまでも天岩戸に籠るがごとく、引き籠って目立たぬように隠れていないで、表に出ていきなさいって色んな方が仰って下さいますので、言われるうちが花でありがたいことです。でもって、唐突ですが改名しました。いえ、今までの名前も愛着あるし、本名よりなじんでいますので、もちろん継続して使っていきますけど(名刺もまだまだ残あるし)。日本人なのにヘブライ語の名前なんで、ちょっとアレなんで、和風の名前を付けてみたりしました。ヤマトタケルの辞世の句から取った次第でございまして。私に合うかどうかはわかりませんが、とりあえず今後はこっちの名前も使っていきます。ややこしいですけど、呼ぶときはどちらでも好きな名前で呼んでください。追伸こちらのコメント機能、拝啓と文字色がうまくいかないので、もし記事に対して何か質問ありましたらhttps://www.facebook.com/yamato.maho/のほうに書き込み下さると返信しやすいので助かります。

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  • 03 Jul
    • 薬毒不二~病気と医学とスピリチュアル

      こっちのブログはあくまでセッションのケースファイルと、知識的な記事をピックアップしたアーカイブで、自分語りを含む内容のものは、極力掲載しないようにしているのですが、ちょっと思うところありましたので、これもこっちに掲載しておきます(前置き)。☆ ☆ ☆~薬、人を殺さず 薬師、人を殺す~意訳; ものは使いよう。使う人次第では、それが毒にも薬にもなるということ。薬を飲んで死ぬことがあっても、薬に罪はなく、問われるのは薬を調合したり服用させたりした医師の責任であるとして言う。☆ ☆ ☆自分語りになってしまいますが、私は子供の頃、病弱で怪我もたくさんしたから、一年の1/3、下手したら半分は病院通いしてましたかね。そのお陰で待合室でたくさんの漫画本を読みました。おでき体質というか炎症体質というか、あちこち皮膚が膿んで爛れてて、まあ色々と。プールの塩素にやられたり、走ると嘔吐してしまったり、ボールペンの筆圧で腱鞘炎になっちゃったりetc...生命力が弱かったと言えばそうだと思うけど(生まれつき単腎で自己免疫疾患持ち)、主に生育環境におけるストレスから来ていたような…まあ、当時の私の体調不良の原因は、現代医学の範疇では解決できない霊媒体質故の問題も含んでいて、もしも沖縄に住んでいたならば、あなたはユタだし、これはダーリィだから…の一言で片づけられ、納得されて済まされるようなことだったかも知れません。毎度原因不明とかで、あちこち検査されては血を抜かれ、レントゲンだの超音波だの、いじくりまわされた経験から、そういう意味で病院に行くのは苦手で今も極力避けてます。でも医学不信ということはなく、必要だと思える時以外は行かないってだけのこと。なるべく民間療法とか、家庭の医学で乗り越える方針てだけ。(とはいうものの、加齢による衰えは避けられず、気を付けるだけではどうにもならないことも多々。先月網膜剥離と白内障の同時手術しましたし)派遣の仕事でほんの数年の期間だけでしたけれども、大手の製薬企業で仕事をする機会もあったので、(臨床開発での治験事務や市販後調査とか)化学合成された薬全般を否定するということもないのです。(ただ、私自身は薬を飲むのは好きじゃない(笑)これは過去生絡みのトラウマからくるものだから、克服できるまではしょうがないですかね。)そんな経緯もあり、難病を治療するための薬剤の開発を努力している企業、施設、頑張っている治験医師の先生方がいるのも、知っています。安定供給される薬や現代医学のお陰で、守られる健康や助かる命がはるかに多いことは周知の通り。もちろん弊害(副作用)もあるし、負の遺産的矛盾や人道的問題点もたくさん抱え込んでいる部分もあるけれども。その辺は人類全体と業界全体の課題で。確かに今日の医療現場において、赤ひげ先生みたいな人にはなかなか出会えないし、少数派の難病患者の命を救う薬を創るより、莫大な利益を産んでくれる薬剤は何かを考えるのに、忙しい企業の方が多かったする現実もある。いつだって正しいこと、世のため人のためになることをしようと頑張っている研究者や医師はなかなか日の目を見ない。変わり者のレッテルを貼られ、資金難にあえいでいたり等…あ゛ー話がそれてしまうので・・・ひとまず、そんな話はさておいて。さてさて そんなこんなで私自身生まれつき健康に関する問題を抱えていて、そのことに向き合ってもきたし、交通事故のお陰で後遺症に悩まされた時期もあって、西洋医学では解決できない痛みや不調の問題を東洋医学や民間療法などに助けてもらってきた。現代医学(西洋医学)は確かに万能ではないし、フォローやサポート含め解決できないこともたくさんあるから。アロマテラピーやハーブ療法に興味を持って勉強もしたし、ちょこっとお障り程度で指圧とか整体とか、ホリスティック医学とかもこれまた学んだアテクシ(習い事程度)。今は氣の概念を利用したハンドヒーリングもするし、そうした方面からのメンタル及びヘルスケアのサポートやアプローチもしているのだけれども・・・して、現代科学の対極にある(非科学的な)、胡散臭いことを生業にしている立場のものではあるけれど・・・だからといって、現代医学を否定して、対立しようなどとは思わない。現代医学の技術は素晴らしいし、進歩も目覚ましい。それは信頼に足るものだ。おそらく、自分の体質のことをよく理解出来ていて、日々メンテナンスとケアを怠らず、運動もして、相性良く、信頼できるかかりつけの医師さえいれば、起こりうる最悪の事態は防ぐことが出来るように思う。日々の予防とヘルスケアは民間療法を利用して、その上で現代医学の診断と技術からの、チェックも欠かさないようにするならば。で・・・・なんでこんなこと言いだしたかと言うと、どうもスピリチュアル信者みたいな人の中には、現代医学や化学的な療法、薬剤を否定する人もたまにいたりするから。薬は毒だって、そんな風に言う人もいたりして。なんて言いますか、それはちょっと極端だと思いましたのよ。薬を薬として用いるか、毒となるような用い方をするか、それは人間次第だと思いますから。まー 処方された薬を最後まで飲み切らず、病院に行くことを避けまくっている私が言うには、説得力が全くありませんが・・・確かに病は氣から、で・・・心の問題が反映されたりその人の生き方の問題(肉体や心の使い方を間違えている)が、病気へと導いている誘因で根本原因ではあるけれど・・・そこを見ていくことも勿論大事で、忘れてはいけないとこだし、スピリチュアルな視点はその部分の核心をついて、そこを解決するのに役立つし、そのためのツールではあるけれども、だからといって、それだけで病気を治そうとするものじゃない。スピリチュアルな思想を原点とするワークは、患者さんが病気を呼び込んでしまった自分自身の問題、自分を病気にしてしまった考え方の誤りを正すだけに留めるだけで、現代医学における所見や治療法から、引き離すものであってはならないのだと思う。複数存在する医師や施設の中から相性の良いところ、よりよい適切な医療を受けられる方法を選択するために、その力を用いて助言を行ったりはしたとしても・・・フィジカル(メディカル)リーディングなどは本来そのように行われるべきで、立ち位置を弁えるべきものだと思う。理想としてはあらゆる民間療法も現代医学も、スピリチュアルな見立ても、対立しあうことなく、否定しあうことなく、連携しあい、それぞれの良い面、長所短所を補いあって、クライアントの問題解決に協力し合えれば最高だけれども、まだまだその時代ではないだろう。それを模索している人も出始めてはいるけれど・・・なかなか。時代はまだ追いついていない。☆ ☆ ☆いつだったか、自らの状態、体調不良を、浄化だ、アセンションだの言う人がいたのだけれども、でも、私から見たとき「これは統合失調症では?」と。さほど重篤ではなく、しごく軽度の段階で、何らかのホルモン分必異常というか、脳内物質の問題という気がしたので、適切な薬物療法を行ったなら、すぐに改善するのでは?とも思ったのだけども・・・何しろ私は医師ではないのだから、病気を断定して診断することは出来ないわけで、あくまで、もしかして・・・という仮定の話をしたり、この辺りが気になるし、こうしたらよいのでは?と、遠回しに通院を勧めても、当人がその気にならないでは仕方がない。霊的な問題、スピリチュアルな現象こそが原因と、そう信じ込んでいる人に現代医学の門を叩かせるのは難しい。また、別の例として昔の知り合いなんだけども、エコなスローライフを理想としている人がいて、有機農法やマクロビを実践しているのはいいとして、現代医学に懐疑的で否定的なスタンスなものだから、ペットが病気になったとき、ホメオパシーに頼ってたのね。毎日のケアや診断結果としての治療に添う補助的なものなら、私は別にそれをしてもいいとは思うんだけども、最初から獣医に連れて行かないってのはどうかと思った。結果、助からなかったが。別にホメオパシーが悪いってんでもない。助からないときは何をしても助からないというのはある。ただ、助かる命をみすみす見捨てるような、そういうことをしなくてもいいのではないか、と思ったりもする。無理な延命処置や過剰医療も是非のあるところだけど。結局は、病を治すのとは当人なのだと実感する。ヒポクラテスの言葉ではないけれど、病を治すのは医師(治療家)なのではなく、医師(治療家)はあくまで手助けをするだけであって、その人自身が自らの力をもって自然に治すものであると、なぜなら病はその人がなることを選んでいるのだから、治ることを選ぶのもまたその人自身なのだと…病になったのもその人なら、治す方法を選択すること、治りたいか治りたくないかを決めるのもその人自身で、医者に掛からず、薬剤や検査や治療を拒否して、科学的根拠のない商品や健康食品に頼ったり、民間療法に救いを求めたり、霊的な助言に従うのも従がわないのも、すべてその人の選択。自分の肉体が何を必要としているのか・・・病になった自分の身体に何を与えようとするのか、今の自分の状態では、どんな治療法がベストなのか、病気へと導いたのも自分なら、病気を追い出すのも自分次第その時その段階に応じて、適切なケア、医療があるわけで、心の悩みを解決し、生活を変えるだけで、改善される症状や治る病もあるけれど、精神的な問題や生き方をいかに変えようとも、それだけでは如何とし難く、すでに手遅れというものもある。カルマのレッスンがどうとかこうとか、それはもう別の問題で。(その辺りを考えるのとは別に考えるべきというか)科学という知恵、その恩恵に預かるのが一番て時もあるのだから、なんでもかんでも、スピリチュアルな手法や民間療法や健康食品など、自らの頑固たるポリシーにしがみついて、病を治そうとするものではないと思う。もちろん、健康食品とか安全な食品は身体にはイイモノだし、民間療法も運動も体質改善や基礎的な健康を養うのに役に立つ。スピリチュアルなツールも、健康的な立ち位置で用いれば、メンタルヘルスや問題解決のための人生のクスリ(肉体の使い方や生き方の矯正)になるだろう。けれども、適切かつ迅速な医療や科学薬剤によってのみ、対処できず救済できない問題も人間の肉体はたくさん抱えている。それのみに依存しすぎると見誤るものもあるが、スピリチュアリストはこの文明の英知や利器をもう少し信頼するべきと思う。(どんな分野、世界にも言えることだが、信頼できる専門家が少ないのが問題なだけで)それがどんな健康法でも、技術でも、知識でも、使う側の方に問題があるわけで、すべては使い方次第なんだって思う。どれがいいとか悪いとかではなく、時と場合、状況に応じて上手に使い分けて、あるいは組み合わせて、どれとも上手く付き合っていければ一番良いのであろう。一つの方法だけが全て万能ではないわけなので。うん。自然のものも確かに良いし、有機農法も無農薬栽培も素晴らしいよ。何を食べるのかという、「食事は健康の基本」というのは真実。人に「氣」を補充する気功をはじめとしたマグネティックヒーリングも、人肌のぬくもりや温かさを伝えるハンドヒーリングも、ツボを刺激する鍼灸も凝りをほぐす整体もリフレも、あらゆる民間療法もセラピーも素晴らしいと思う。けれど、化学的な薬剤も同時に素晴らしいんですよ。ペニシリンの発見によって、私たちはどれほど救われたことか…。数々の抗生物質や薬剤によって救われているどれほどの命があるのかを考えてみれば、安易に現代医学や薬物療法を否定することなんて、絶対にできないはず。自分の健康を維持するための方法やどんな治療を選ぶのか、命を救うための方法を、選ぶのは当人の意思で判断でよいと思うのだけど…(自分だけがそれをするのは勝手というもので)スピリチュアルなワークの結果を誇張して語り、現代医学にかかる機会を阻害するなど、自分が属する分野の限界も知らずして、おのが領分を超えて慢心する人には、ほとほと困ったものだと思う。

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  • 14 Apr
    • ご案内

      さて、私はスピリチュアルな方面の友達(ちょっと言い方がヘンだ)とか、同業の友人ってほとんどいないんです(何しろ話か合わないんで⇒私は現実主義の俗物)。その私の数少ない10年来の信頼できる友人が、最近ようやっと重い腰を上げてサイトを開設してくれましたんで、ここでご案内をば。「Blossom-Works」ちなみにブログは 「魔女の見習い よもやま歳時記」よかったらどうぞご利用下さいませ。提供してらっしゃるセッションメニューは、タロットセラピーとかチャクラに対するサイキカルヒーリングとか。場所は旗の台(品川)のセッションルームですけど、希望があれば出張などもされますよ。ようやく由美子さんがやる気になってくれて、アタシャ嬉しいです。彼女は才女で、知識も豊富な美魔女です。私なんかより遥かに色んな事に通じてて詳しいですし、私が勉強している霊的真理の道では先輩なのです。皆さま、是非っっ!それと私のほうでは、5/7(日)にマネーレイキ1(全3回のうち、プラテクショナーレベル)のグループアチューンメントを開催します。13時30分~17時頃くらいまで 通常料金1万円ですが、グループワークなので5000円このエネルギーをアチューンメントしたら、お金持ちになる、お金を引き寄せられるというような、成功術を教えるものや引き寄せ的なものではなく、お金に対する負の感情や思考、トラウマ、お金にまつわる問題を浄化(クリーニング)するためのヒーリングツールとしてのエネルギー伝授です。とくに伝授に関しての条件はありません。どなたでも受講できますが、エネルギーワーカーなら、ベストかも。(私生活のみならずクライアントに使用するという意味において)今のとこ3名で、あと3名まで枠があります。申し込みはサイトの問い合わせフォームか、FBのページかメッセにて。初夏のアバンダンス祭りhttps://www.facebook.com/events/431896993821274/

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  • 15 Mar
    • ワークショップに開催に寄せて

      こちら、新しい記事更新していないのでとりあえず。(メインもしばらく放置中)先日の「スピリチュアリズム入門」お陰様で満員御礼で終了。なかなか不思議な顔ぶれというか面白いメンバーが集まりました。メインが私の話(講義)でしたので、参加者同士の交流とか、体感的なワークはなかったのですけど、次に何か開催するときは、そうした交流(お茶とおしゃべり)やエネルギーを感じてもらうようなのもトライしてみますかねーでも、後述のだと、場所的に広くないと厳しいかな。ちなみに今回お渡ししたテキストです。こんな感じ。占星学のは、こんな感じのをお配りしました。これは参加者の方がいらっしゃる前の室内。記念撮影は忘れてたーテキストを作っちゃえば、あとは少し手直しする程度(改訂)なので、希望者が2名以上集まれば(リクエストあれば)、たぶん開催します。そして次は何やろう。

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  • 19 Feb
    • 日程変更)初心者からのプチ・スピリチュアリズム入門①

      2/25(土)に予定していたワークショップですが、参加者の希望により、日程を変更することにしました。残枠まだありますので、興味のある方はお問合せください。2017年3月4日 13:30 - 17:00場所:当サロン(新宿区山吹町/有楽町線江戸川橋駅下車徒歩3分)場所は参加申し込み後にお知らせします参加費:5000円 茶&茶菓子付最小開催人数:2名より 定員6名オーラやチャクラ、エーテルバイタリティ(氣)やエネルギーボディ(エーテル体)とその健康やエネルギーヒーリングのこと。また、人の健康を損ない、運命をも形作っていく「エレメンタル(想念体)」の話と引き寄せの法則の本当の仕組みについて。本格的にみっちりお勉強する半年間の講座ではなく、まずはさわり程度の入門編からといった、受けやすいショートスタイルでのちょっと軽めのプチ講座。とりあえずやってトライ(その先は判りませんがっっ)第一回目は基本中の基本、私たちの物理的な身体以外の、目には見えない身体やその身体が必要としているエネルギーについて。心や思考の身体によって創られる想念体についてなど。その他、オーラやチャクラがどのようなもので、どのような役割をしているのか、など。その健康を維持するために、どのようなことに注意を払えばいいのか、などなど・・・です。あとはエネルギーヒーリングとは何なのか、ヒーリングとは何をすることでそれによって何が変化するのか等も。時間があれば質疑応答の時間なども儲けたいとは思っています。オーラやチャクラって何? エネルギーって? という用語自体がよく分からないレベルの人から、興味はあるし知りたくはあるけど、いきなり本格的に勉強を始めるほどの気合はなく、お試し程度にお話しを聞いてみたいという人など。そんな方にお薦めです。申し込み、問い合わせはフェイスブック、あるいはホームページのメールフォームにて。https://www.facebook.com/events/454647438258634/http://home1.tigers-net.com/medicine_wheel/締め切りは2/28

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  • 04 Feb
    • 戦士の休息

      「三時方向に敵の狙撃手発見。伏せろ!伏せろ!」銃弾が壁を貫く。誰かが叫ぶ。別の誰かは神に懇願している。殺してくれと。クィンは戸口へ這い寄った。銃を構えて狙いを定めようとしたその時、世界が炸裂した。どういうわけか自分はイラクに舞い戻り、仲間の頭が吹き飛ぶのをまた見ている。と思った瞬間、クィン・ウォーカーはベッドの上に跳ね起きた。心臓が高鳴り、全身汗びっしょりだった。上掛けを剥いでふらふらと窓辺まで歩き、山に広がる草地を眺めた。夜明けまで一時間足らず。すでに空の色は、新しい一日の始まりを告げている。なぜ、繰り返しあの夢を見る? なぜ、忘れられない?クィンは窓に頭をあずけて目を閉じ、念じた。悪夢よ、二度とよみがえるな。しかしの恐怖が消え去る日が本に来るのだろうか。ケンタッキーの自宅へ戻ったという現実を受け入れられる日が。心的外傷後ストレス障害(PTSD)というやつは、起きて欲しくないときに限って起きる、厄介なしろものだ。同じ戦地土産でも、寄生虫のスナノミなら、ティートリーオイルを垂らせば済むが、PTSDには特効薬もワクチンもない。魔法の杖をひと振りして終わり、というわけにはいかないのだ。夜の眠りのさなかに、あるいは思いを寄らない真っ昼間に、そいつはやってくる。きっかけは些細なひと言、ちょっとした物音、場合によってはかすかな匂いだったりもする。 シャロン・サラ「マイ・スィート・ガール」より引用☆ ☆ ☆これまでの過去記事の中でも何度か、「死」にまつわる経緯すなわち「死」という行為たる出来事、が強いトラウマになるということに触れてきた。自分が死に至った事由、死に至らしめられた状況、自分を殺した道具、死の原因になったもの、自分を殺した相手、死んだ場所etc・・・例えば、カミソリで首を切られた人はカミソリが苦手となり、とある食べ物が原因で死ぬことになった人は、その食べ物が嫌いになったり、アレルギーを引き起こしたり、高いところから落ちて亡くなった人は高所恐怖症に、水死で水を大量に飲んでしまった無意識の記憶のある人は、水をごくごくと飲めず舐めるようにしか水分を取れず、崩落事故や地震で建物や穴倉に生き埋めになっての死は、閉所恐怖症や暗闇恐怖症を発症していたり・・・など。人が死する状況は様々であり、病死や事故死、殺人、餓死、自然災害に巻き込まれての死、老衰といったもっとも少ない自然死もあれど、戦争による戦場での死というのは、どんな状況にせよ、強く、深い影を後の人生にも落とすことになるようだ。戦地から戻った帰還兵の心の問題は、今でこそ、ケアサポートプログラムがしっかりとあるようだが、湾岸戦争以前はあまり真剣に取り組まれてなかったように思う。というか、おそらく昔からあったのだと思うが・・・ベトナム戦争を機に大きく注目されるようになったというか、アメリカ人のベトナム後遺症ともいうべき、帰還兵とそしてその周囲の人々が抱え込むことになった数々の社会的問題、負の遺産のひとつとして、PTSD(心的外傷後ストレス障害)が有名になったというのもある。それは主に、ベトナム戦争を題材する映画、帰還兵のPTSDを扱ったシリアスなハリウッド映画が、大きなインパクトを人々の心に与えることになったからだと思う。それまでの戦争映画というのは、敵を敵として描き、いかに作戦を遂行するかの頭脳戦や、戦場での駆け引きなどに焦点を置いてはいるものが多く、人としての葛藤など人間ドラマを扱う部分はあったとしても、人が人を殺すというジェノサイドを経験することによって負った、帰還兵の心の傷に触れたものは皆無に近かった。例えば、太平洋戦争、第二次世界大戦で言えば、「史上最大の作戦」「遠すぎた橋」「大脱走」「トラトラトラ」「バルジ大作戦」「戦場にかける橋」とか、ちょっと娯楽的な感じで、戦勝国万歳って感じなものが多く。まあ、「ジョニーは戦場へ行った」とか「西部戦線異状なし」「戦争と人間」とか、問題提起している傑作ももちろんたくさんあったけど。「ディアハンター」「地獄の黙示録」「プラトーン」「7月4日に生まれて」なんか、この辺りの映画が問いかけてくることは大きかったよね。そういう意味では映像の力、一本の映画が与える力、影響力ってスゴイ。たった二時間弱で、多くのことをたくさん考えさせてくれて、たくさんの人の立場、人生を教えてくれる。(写真もまたたった一枚で真実を伝えてくれたりする)とはいうものの、「精神医学の分野」「心の医学」が発達したのが近年だっていうのも大きい。この辺りが飛躍的に発展したのって、本当に最近で。戦前なんてとんでも理論で妙ちきりんな治療をしてたり、ありえない非人道的なマッドサイエンスティックなロボトミー手術なんてのもほんの少し前まであったし。今でこそトラウマって、誰でも知ってる用語だけど、PTSDも、全国区で周知になったのは、日本でも地下鉄サリン事件以降ではなかろうか。日本は太平洋戦争以降は戦争に参加してないから。帰還兵のケアサポートとかの必要性はなく、社会復帰できない彼らによって引き起こされる、犯罪が社会問題になることもないからね。(ただ、湾岸戦争に派遣された自衛隊の人たちは、あくまで後方支援的立場であり、ドンパチをしなかったとはいえ、緊張感あふれる、いつ巻き込まれるか判らない状況下で、様々な心理的圧迫から、精神的ストレスを引き起こし、鬱、不眠ほか、ケアサポート要な人が多発したみたいだ。)でも、太平洋戦争から帰還した日本兵が肉体の障害や後遺症だけでなく、様々な心理的問題、精神疾患を抱えることになって、苦しんだってのはたくさん後に語られてもいるんだけど。フラッシュバックで暴れたり、幻聴や不眠に悩まされたり、家族に暴力をふるったり、あれやこれや・・・※たくさんの映画とかドラマとか小説とかコミックの作中で描かれてる。けど、当時はそれを問題視する世相はなく、国も国民もそれどころではなかったというべきか。そういう意味では、どんな時代にもどの国にもどんな戦争においても、あった問題で、遅まきにして今さらながらようやっとな感じなのかな。でも、まあ・・・生きて戻ってきて、治療を受けられる人は、まだ救いの道が残されてると言えるのかも知れない。自分の苦しみの理由、原因が分かるから。何よりも当人自身が知っているし、周囲にも説明できるし、理解もしてもらえる(わかってもらえないことも多いが)。PTSDから解放されるか否か、完治するかどうかは別として。だけれども、戦地に行って、そのまま亡くなってしまった人は、生まれ変わって、平和な国、平和な時代に生まれたものの、平穏な日常の中、とくに何もない生活において、自分が何故、そのような症状を抱えるのかが分からない。心の中に広がる不安や得体の知れない恐怖感、自分の中に巣食う闇の正体が・・・自分を苦しめる見えない敵の存在が分からない。現実には何もなく、親も普通で、とくに問題のない家庭に育ち、これといった心当たりもないのに、フラッシュバックに悩まされたり、悪夢に魘される。それ故に周囲にも、家族にも理解されず、誰かに説明するにも、自分自身が一番理解できず、自分は狂っているのでは? 病んでいるのでは?と悩み、原因の分からない、根拠のない行動規範や無意識の癖、それらは関わる人を悩まさせ、周囲との間に軋轢や壁を生じさせもする。深い、深い、孤独の中、奈落の底に沈むような閉塞感をもたらして。その人自身が、他人とは違った自分の異常に気付き、問題に取り組めば、まだ光明が見つかる可能性もある。が、自分の内に閉じこもり、理解されようとも思わず、問題意識も持たない場合、その傷や問題を手放すに相当な時間と年月が必要になるだろう。実際、当人も気づかない「心の傷」を抱えている人はたくさんいる。無意識の思い癖や考え方の癖に人生を支配され、深層心理の中に植え付けられ、刷り込まれた「恐怖」がある故に、心をこじらせ、不要なものを引き寄せ、人生で多くの寄り道をし、望む人生を生きれずに、本来の自分を生きれずにいる人が・・・そういう人たちは、ほんの少し立ち止まって、自分について考え、自分の人生を邪魔しているものが何であるのか、それが自分の中にあるものだと、自分の中に要らない考えや想いがあることに気づいて、それらと決別する、ほんの少しの勇気を持って、自分を、人生を変えてみようと決心するべきなんだろう。過去生の記憶を紐解いてみるのも一つの方法だが、別にそれをしなくても、他の方法でも何でもいいのだ。今の人生を生きるのに余計なものがあるかどうか、それらを見つけて、手放す努力をすれば、それがきっかけで、きっと何かが動き始めるだろうから。☆ ☆ ☆友人との会話で、ご主人に奇妙なクセがあることを聞かされた。「とにかく神経質で、物の配置がいつも同じところにないと怒るの。そして物音にものすごく敏感で、真夜中に何か音がした時とか、わざわざ起きて確かめて、異常がないと確認出来るまで、絶対に寝ないのね。家鳴りとか、家の外で木の葉が落ちる音でもダメなの」少し他にも気になることがあったので、彼・・・友人の旦那さんの過去生を見てみようと集中してみると、ジャングル、密林のように木々が生い茂った場所で、迷彩服を着て、張り詰めた緊張感でひきつったような、恐怖に怯えた顔をしている旦那さんの姿が見えた。『これってベトナムだ。そして旦那さんはアメリカ兵だったんだ』過去に何本かの映画を見ていたので、軍服や状況ですぐにそう理解というか推察できた。私が見たのは、銃を構えながら、密林?の中を恐る恐る移動している場面。何人かの仲間といたのだけど、音や声がするたび、振り向くと、一人ずつ減っていく・・・その度に緊張の糸が張り詰めて、気も狂わんばかりの恐怖に襲われ、もう発狂しそうな、血管が今にも破れそうってくらいに、心臓の音がバクンバクンしていて、冷や汗がだらだらと。ものすごい緊張感。やがて後から首に手をかけられ、もう一方の手で喉をかっ切られて絶命・・・したらしい・・・というところまで。おそらく、ベトコンのゲリラ作戦で命を落としたのかな。年はわりかし若くて、学校出たてという感じ。ティーンということはないと思うし20歳前半というところ。その話をすると、「・・・そういえば、ある日突然、『サバイバル入門』という本を買ってきたわ。そして、あっちこっち、ページおりまくってるの。一番最初に折ってるところが、『いかにして生き残るか』というページだった・・・しかもアメリカの本だわ」とのこと。(ちなみに旦那さんの勤務先はアメリカ系企業で担当は貿易関連なのでした)「なんでこんな平和な国に、日本に生まれて暮らしてて、サバイバルゲームが趣味なわけでもないのに、突然こんな本買ってきて、何だ、どーしたんだ?って不思議に思ってた。災害に備えるための防災の本なら分かるけど、北海道の山奥に住んでたって、こんなの、必要になりそうもないのにって、ねぇ。でも、ベトナム戦争で亡くなっていたのなら、そんな経験をしていたのなら、判るかも」ちなみに彼女は私より一回りは下で、旦那さんは年下。生まれ年を考えるに、矛盾はないわけ。で、友人は戦争映画嫌いだから、「プラトーン」とか「ディアハンター」とかは観てなかったり。映画見ると、彼の抱える闇が分かると思う、けれども・・人によっては軽くトラウマ映画にはなるから、旦那さんの抱える問題を理解するためとは言え、ベトナム戦争映画を見て、というのはやっぱり酷かなあ。それに、兵士だったのは、前世(直前の人生)だけでなく、別の人生でも、いくつか戦争に参加していたりして。(女性だったときもあるけど、男性だった時のほうが多いみたい)そういう戦場における精神的ダメージによって創られた後世の人生でも引きずる習慣的行動や考え方。この想念体のことを勝手に、ロンリーソルジャーエレメンタルって呼ぶことにしちゃったけど。(どうでもいい話だけど、勝手に名付けたエレメンタルの中にはかぐや姫エレメンタルとかマリー・アントワネットエレメンタルとかあったりする。そのエレメンタルの特徴に合わせてww※かぐや姫エレメンタルとは、男性に対して素直じゃなくて、あれやこれや無理難題や注文をつけたり、ダメ出しをするタカピー女だった時のパーソナリティのクセ ※マリーアントワネットエレメンタルとは、「パンがなければお菓子を食べればいいのに」というような、勘違い世間知らずで上から目線的KYなやっぱり高慢ちきだった人生のパーソナリティの考え方や思い癖。そんな風に、こんな傾向のエレメンタルあるなって、分類して用語付けてしまってたりするのデス)ロンリーソルジャーエレメンタルっていうと、とても軽いけど、結構というか、かなり深刻なエレメンタルだなって思いました。今はそれはしないけど、実家のお母さんが言うには、水道水でさえ、煮沸しないと飲まなかった・・・そうなんで。(東京都の水道水、世界一優秀なんだけどなぁ)あと他人の作った食べものを信用してないとか、それ以外にも共同生活を送る上で、弊害になっていること、習慣とか規律とか、色々とあるわけです。ここでは触れませんけども。でもね、彼が前の人生でベトナム戦争に従軍して死ぬことになったというのも、それはそれで意味があるというか、それ以前の人生のことがあり、そうした体験をする、その人生を生きる必要あってのことです。だから、まあこの前世のことを、短絡的に「可哀想」「お気の毒」と同情だけで片づけることはできないのですけども。必然的に、それまでのあれやこれやの経緯で、このような「死」に導かれているので、はい。でも、まあ・・・困ったなあ、厄介だなあ、ロンリーソルジャーエレメンタルって。そうですね。この場合、当人が自分のことで悩んで、ではないので。周囲が理解するしかないのですわ。本人が自分のそうしたところを問題と思って、解決したいと望み、相談してきてるわけでもないし、知りたいと思っているわけではないことを、「あなた、ソレ、ロンリーソルジャーエレメンタルが原因ですよ」「あなたのそのクセ、前世でベトナム戦争で亡くなったときの後遺症、PTSDが起因しているのですよ」とはお節介にいうわけにはいきませんから。この場合、妻である友人やその友人である私が出来ること、彼に対して、何をしてあげられるかって言ったら、彼のそうした意味不明で不可解な行動は、そのような過去生の出来事があったからなのだと・・・理解するように努めること。そして、その傷が早く癒えるように祈ること。ヒーリングもそのひとつの方法にはなりますが。そんなこんなで、知らず知らずのうちに、過去の戦争のロンリーソルジャーエレメンタルの影いやさ過去生で体験した戦争のPTSDを引きずっている人、意外と多いかも知れませんね。未だ癒えず、解放されず・・・もちろんPTSDは戦場における死に限ったことでなく、あらゆる死によって、たくさんの人が抱える傷でもあります。願わくば、現在の人生で、後生の平和な人生と平穏な日常の中で、少しずつ癒されて、すべての人が解放されて、心の自由を取り戻せますように。せっかく平和な時代の平和な国に生まれて、安穏に暮らせる人生を今回選択して生まれてきたのだから、背後から忍び寄る敵の影に怯えず、ボッーとしてのんびりできる日常を、もっと楽しんでほしいものです。今の人生では、「戦場」を離れた多くの戦士たちが、兵士だった時の人生から離れ、その記憶を埋没させ、ただ、一人の人として癒され、魂の休息において、愛のある日々を送り、少しでも人間性を取り戻せますように。 ☆ ☆ ☆霧がかかったような視界の中に、マライアがいた。不自由な方の足を投げ出して、もう片方を窮屈そうな形に折り曲げて、デッキにぺたりと座り込んでいる。誰かが肩にかけようとしてくれたらしいキルトは、腰の周りに落ちてしまっている。マライアはしきりに体を揺すっている。前へ後ろへ規則的なリズムで。無表情だからといってだまされてはいけない。頭の中では嵐が吹き荒れいるのだ。「マライア?」彼女は固くこぶしを握り締めている。戦闘に赴くときと同じだ。顔に表情がないが、目には光が宿っている。目の前のものではない何かを見ている。マライアがどこに居るのか、クィンには判っていた。わからないのは、そこからどうやって連れ戻すかだ。「マライア、ぼくだ、ハニー。ぼくの声が聞こえる?君が何処にいても、ぼくはきみと一緒だ。覚えているだろう? ぼくたちはいつもふたり一組だった」そこでクィンは声を高くした。「マライア、ぼくを見るんだ」身体を揺するばかりで、マライアは反応しない。クィンはさらに大きな声で言った。「撤退だ、コンラッド! 敵は全滅したぞ」マライアが目を瞬いた。クィンは彼女の両手を取った。「一緒に戻るぞ。コンラッド。聞こえるか? 戦いは終わったんだ」マライアは手を振りほどこうしたが、クィンはそうはさせなかった。すると彼女はうなり声をあげた。ドリーは見ていられなくなり、すすり泣きをもらしながらその場を離れた。ベスも涙を流し、ライアルの胸に顔をうずめた。自分がここへ来たばかりにこんなことになってしまったのだと思うと、たまらなかった。クィンはマライアとの距離をつめて声を張り上げた。「もう終わったんだ。基地へ帰るぞ。立つんだ、さあ!」ぱちぱちとまばたきをして、マライアが突然大きくあえいだ。まるで今までずっと息を止めていたかのようだった。体の揺れも止まった。クィンは前かがみになっていた背を起こした。もう大丈夫だ。彼女は戻ってくる。冒頭紹介の本より

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  • 31 Jan
    • 感想「チャクラヒーリングを受けて気づいたこと」

      クライアントさんでありGレッスンの参加者でもある方から、チャクラヒーリング(二回目)をセットで受けて頂いた感想を頂けましたので、ご本人の希望もあり掲載させて頂きます。☆☆☆昨年のチャクラヒーリングで気づいたことをまとめてみました。箇条書きのようになってしまいましたが、この経験を踏まえて、自分と向き合って生きたいと思います。【第一チャクラ】 この時はまだ混乱した部分が多く、心は未整理な部分ばかりが表に出ていました。アドバイスや指摘のひとつひとつが心の奥まで行かず、表面的に理解しようとしている感じでした。そのなかで印象的な体験をしました。●友人を事故で亡くした経験の時の感情古い過去生の記憶の中に、事故で助けられなかった友人のために悲しむものがありました。その感情を体験した時、自分の中にこのような心があったということに驚き、その悲しみの中でしばらくとどまっている自分を体験しました。 自分の中に、無情でない部分を発見したひと時でした。このことは後から考えると、決してそだたない心を持ち合わせたわけではなく、自分が経験を理解しようとしなかったということをあらわしているように思いました。●荒い波動に細かい波動は伝わりにくい 第一チャクラのヒーリングを受けた時、自分の中にあるエレメンタルを全て綺麗にした後にエネルギーを入れると、とても入りにくく感じました。私の中には細かい波動と荒い波動が混在していて、荒い波動の方が割りを占めているように思いました。 荒い波動の多い中に細かい波動を広げていくにはとても時間がかかり、伝わりにくいものなんだと思いました。この経験から推測したことは、低い波動の人は高い波動の人のものは伝わりにくく、高い波動を持つ人には、低い波動はひどく疲れるのではないか、ということでした。 低い波動はネガティブなものが多いように感じました。 それがすべて欲望志向型のエレメンタルだとしたら、欲望志向型エレメンタルを多く持つ人は他者にとってエネルギー的にも痛みを与えやすい存在になるのではないかと思いました。 私は人に痛みを与えやすい人間だったんだと思います。 ネガティブなものを心からなくしていくことは、自分だけの解放ではなく、周りへの影響に変化があることにつながると感じました。【第二チャクラ】この日は対話の中から自分のありようを見つめたという感じが残りました。この頃起きた事件などで自分の身に起こったとしたらどうなのか、では過去の記憶を持ち合わせながら、その人に拘らなければならなくなった時どう感じると思うのか。対話の中から自分の感覚を確かめていく時間のように思いました。 実際第チャクラを見ても、全てを口にできていない自分がいました。どこまで話していいのかがわからないという感じです。見たもの全て、感じたこと全てを言った方がいいのに、なぜか言わないでいる自分がいました。どこまで本当に感じているのか、自分に対して疑問を持っていました。見たものをすべて話せなかったのは、恐怖に勝つことができなかったからだろうと、今は感じています。自分が過去に行なったことは、二度と消えることはないということを実感し、エレメンタルをすべて取ったとしても自分が変わらなければ意味がないということが心に響きました。 ヒーリングの間涙が止まらず、後味が悪く、もう二度と過去のような行いはしたくないと感じていました。 ヒーリング後、相手のことを考えること、相手の幸せを考えることは、すぐにうまくできることではないけれど、できないことではないのかもしれないと感じ、また、無意識のエレメンタルに気が付けるようになりたいという気持ちにもなりました。【第3チャクラ】この回に気づいたことは、自分の視野の狭さでした。それは今も昔も変わっていなくて、誰かのアドバイスがなければ周りが極端に見えてなく、気づかないのでした。 また、一つの過去生から気づいたことがありました。 それは、3000年前の奴隷の人生だった頃です。彼は体が小さく、できる仕事は少なかったようでした。仲間は多く、色々助けてもらったのに、そのことと人生観とは別で、もう自分はこんな身分には二度と生まれない、と思っていました。 彼はこの人生で、どんな人生にも人を愛し、学びはあり、変えなければいけないのは社会のシステムだけで、どんな人生にも意味があるということを学ばなくてはならなかったのです。なのに学べませんでした。 それは物事を悲観的に、他者を排除して考える傾向がこの頃にもあったということです。物事をとても狭い視野からとらえ、その考えを広げられない、その傾向は今の私の性格につながっていました。また、この人生は、この後の人生に大きな影響を及ぼしているように思いました。この後の道を踏み外した人生に進んでしまうきっかけの人生が、奴隷だったとは思いませんでした。ネガティブなものは本当に怖いことになることを知りました。 アドバイスをいただいて、この過去生の彼の生き方について、私が提案を考えることになりました。私は、過去生の彼に対して、小さなことにも喜びを見出し、仲間が助けてくれることに感謝し、日々のたわいないことに気を向けて、1日1日積み重ねるというようなことを提案しました。 エレメンタルに向き合った時のアドバイスを大事にして、自分で考える癖をつけていこうと思いました。少しでも視野を広げるためには、努力するしかないと思いました。【第4チャクラ】●目標を自分で決めて生きることは、とても大切なことこの回のヒーリングの前に、心に決めたことがありました。自分の生きる目標をしっかり持つということです。たとえ間違っていても、自分で決めた大きな目標に向かって生きるということは、自分の人生を人任せにしない姿勢であるというように思いました。 今までもそうして生きてきたように思うのだけれど、なにが違うのか考えた時に、もしかしたらたて方の方向が違うというか、根本の考え方が違うものだったのではないかと思いました。今までは、私欲(エゴイズム)に基づいた、生きる目標たったように思います。 人並みになりたい、認められたい、人として対等に扱われたい、などなど。そのためにどう生きればいいかという目標だったように思います。 目標とはそういうものではなくて、自分が成長するためにはどうあるべきか、という視点が重要だったのだと思いました。この項の最初に書いた、「たとえ間違っていても」という言葉の意味は、「(成長するという観点ならば)たとえ間違っていても…」という書き方が正しいのでしょう。 いつか本当の生きる目標にたどり着くために、今感じている生きる目標をしっかり心に据えて生きていこうと思いました。その気持ちを持ってヒーリングを受けました。第4チャクラにあったものはさまざまなものの残骸で、それぞれの品物に詰まった、作ってくださった人の気持ち、丁寧に管理してくれた人の気持ち、壊した人の気持ちが伝わってくるものでした。そのひとつひとつは哀しく寂しく、切ないものでした。何も分かろうとせずに邪険に扱っていた過去生の自分は、一つ一つのものに込められていた気持ちのひとつも気が付かず生きていました。 「壊した人の罪を無くしなさい。元どおりに一つ一つ自分で直しなさい」とアドバイスされたことで、人の罪をなくしていくことも大事なことなんだと感じ、原因を作ったのは自分であることを再認識しました。 この回は他者の様々な感情を追体験し、ただただ悲しくて涙が止まらず、人を大切にしたい、もう二度と悲しませたくない、と思いました。そのために成長したいと思いました。「羨ましいと思った時、自分にないものを人に見た時は、そのまま認めてあげればいい。素敵だなって思うこと。それが愛すること。そのことを見られたことに感謝すること。それが愛すること。じぶんにないものをみられたことを、見せてもらえたことを、その人の美徳を、感謝すること。それが愛すること」愛について教えていただいた言葉です。 終わってみて、気持ちはとてもハードだったけれど、愛する方法、悲しみの実感、寂しさの本質が少しでも感じられたことが印象的でした。私の過去の行いは消えることはないけれど、向き合いたいと思いました。【第5チャクラ】前回の後、「やらなくてはいけないと思っていたことが、実はやりたいことだった」ということに気がついた日がありました。今まで、やらなくてはいけないと思って生活を律してきたけれど、そのほとんどが実はやりたいことでした。ちゃんと生活したかったし、さぼりたくなかったということは、いろんなことを覚えたかったし、できるようになりたかったんだと思います。また、人としてどう生きたいかを考えた時に、例えば一番身近な介助の方との関係について頭な浮かび、介助を通しての関係性をビジネスライクに考えて我が道を行く生き方よりも、いろんなことを考えながらベストを尽くす生き方をしたいと感じました。今回のヒーリングは、私の中にある「見栄」「誤解」「間違った解釈」に向き合う回になりました。寂しさばかりで、そこに愛のない赤ん坊のような心から起こした私の行動は、多くのひとを傷つけ、悲しみを残しました。 とても悲しく、ただ悲しく、もう二度とこんなことはしないと思いました。 ヒーリングの最中に見えたたくさんのガラスの破片は、私が壊したひとの心だと教えていただきました。「おもちゃのようにひとの心を欲しがったけれど、心は得ることはできなかった」 この日は立ち直れないほどの悲しいきもちで終わりました。この悲しみは、私のものではありませんでした。多くの人が感じていたものでした。【第6チャクラ】毎回毎回がとても大事なひとときになりますが、この回は特に私にとって大切な時間になりました。●人の幸せを願うことをしてもいいということ私は、人の幸せを願うということが、何か特別なことをしなくてはいけないことなんだと思い込んでいたようです。私にはできそうもないことなんだと、心の何処かで思っていました。それは、自分と他者を差別していたということかもしれません。 ある過去生と向き合った時に、私も人の幸せを願っていいということに気づきました。 今生で私と接してくれる人のなかには、(障害を持つ人と)どう接していいかわからない、何か特別なことが必要なのかもしれないという気持ちを教えてくれる人たちがいます。そのような経験の中で、実は私自身の中にある気持ちを見せてもらっていたのかもしれないと思いました。また、今生で障害を持つ私に足らなかったことは「他者の幸せを願うこと、祈ること」だったんだと感じました。感謝だけではダメなんだと思いました。人の視点に立つということは、その人の幸せになる視点に立つということなのかも知れません。 どうすればいいかメタトロンに聞くと、心からしあわせを願えばそれでいいと教えてくれました。なにも難しいことではなく、心から幸せを願えるならば、その時にその人に対して自分のできることがわかるように思いました。自分がなにもできないとか、なにをすればいいのだろうと焦る前に、その人が幸せであるように願ってみようと思いました。 また、メタトロンのいるべき場所がエレメンタルでいっぱいだったことにはじめて気づかされました。 ネガティブな自分のエレメンタルと向き合えるよう、鍛えたいと思いました。【第7 チャクラ】第7チャクラのヒーリングを受ける前に気がついたことは、「提供する方の人生を選ぶということ」です。 自分の人生は求めることばかりだったと気づきました。人生で選べる道が二つにひとつならば、求める人生ではなく、提供する方の人生をこれからは生きてみたいと思いました。なぜならば、求め続けるときりがなく、不安になり、得られないことに不満が募り、エゴイズムが大きくなるだけだとわかったからです。私はそういう人生を生きてきたのだと思いました。これからはできれば、一つ一つに学びを見いだせるような豊かな人生を生きたいと思いました。 そして、頭で考える、と言っていたことはエレメンタルが考えていたんだということを、なんとなく感じるようになりました。サイキカル体とノエティカル体を使って、感じたり考えたりすることが必要だということを実感しました。 好きな人たちを幸せにしたいという最初の思いに戻って(自分のことしか人は幸せにできないということを胸に留めて)、自分のやりたかったことをぶれないようにすること、間違ってしまったことで取り返しのつかないことがたくさんあるけれど、二度とその道は行かないということを誓い、幸せを願おうと思いました。第7 チャクラのヒーリングを受けて感じたことは、思い込みや恐れなど、自分で作ったネガティブなものはとても手強く、深く大きなものになってチャクラに宿っているということでした。 幾つ振り返っても新たなものがあり、不安になればまたできていくような感じを受けました。また、恐怖は本当に怖いものだと思いました。いつも雲のない空を保つためには、気持ちを強く持たないと、と思いました。自分の現実を知り、一歩一歩確実に歩くことが大事なのだと思いました。【トータルのチャクラヒーリングを受けて】実はまだまだヒーリングは続いております。私の中で自分と向き合うことに終わりはなく、今回は納得のいくまで向き合ってみたいと思っております。 昨年中に自分の中で納得のいった、上記以外のことを記させていただきます。【障害についての理解が深まったこと】私が持って生まれた障害は、私に必要な経験を与えてくれるものであり、私が人に与えてきたものを理解するためのものでした。今までの人生の結果であり、一つひとつの行いの重さに気づかないまま過ごしてしまったツケであり、蒔いた種であるということです。私が今回できないこと、制限のあることひとつひとつには意味があり、その状態を体験しなければならなかった理由があります。障害のことにすべて向き合うにはまだまだ長い道だとは思いますが、本気で受け入れて、生きてみようと思いました。【エゴイズムと自分の区別がついたこと】第4チャクラの回目のヒーリングを受けた時に、エゴイズムというものは怒るばかりで反省もしないし、自らも振り返らないということを見ることができました。ただ自分の気持ちを押し通すだけで、人のことを考えることもしないエゴイズム。これは自分とは違うものなんだと気づきました。 振り返らないのがエゴイズムならば、ああそうか、と思う心は私自身なのかもしれないという仮説が生まれました。 明らかにエゴイズムと違う行動なのだと思いました。 自分の姿を見つけた時、こちらの方を大切にしていこうと思いました。エゴイズムと自分を切り離して、日々自分を見つけようと思いました。【自分の中にも愛を感じたこと】第4チャクラの回目のヒーリングの時に、エレメンタルを綺麗にした後、湧き出るようなものを感じました。言葉にならないものでした。それが「愛」なんだと説明していただきました。胸の奥に湧き出るものは熱くなく、硬くもなく、暖かいとかそういう言い方では言い表せない、表現しようとすると涙が出てきてしまうものでした。私の中にもあったということが驚きでもありました。今でも思い出すと涙が出てきます。日々思い出して記憶を留めておきたいものです。 「愛は愛である」この時に心に聞こえてきた言葉です。 「愛は許しではない。愛は愛である」 この言葉を聞きながら、脳裏に浮かんだことがあります。 愛は許しではない、愛は愛である。そのことを肝に命じました。 ことあることに、この時のイメージを思い出している自分がいます。【傲慢でしかなかった】私はいつの日も自分のことしか考えず、傲慢でしかありませんでした。そのことに気がつくこともありませんでした。傲慢さに気づいた時、私の選択のほとんどが間違えていたことを知りました。自分の世界しかないということはとても怖いことだと思いました。 自分の殻の中に入らず、学ぼうという姿勢をいつも持つことは、知らなかった世界を知ることになるのではないかと思います。 毎日を大切にして、一つでも多く知り、謙虚さとは何かをいつも胸にといながら、人として生きることを身につけていこうと思いました。【自分なりに物事を考えるということ】私は今まで、いただくアドバイスや意見に対して、そのまま受け取って、直さなくてはと思うばかり、その方向でひたすら考えるばかりでした。今回のヒーリングの中での対話などの体験を通して、アドバイスなどいただいた言葉は、もう一度自分で検証し内省して、自分なりの結論という、見解を出していくことが必要なのではないかと思えました。【人の気持ちを感じることができるという実感】今回のヒーリングを受けるまで、自分には人の心を感じられるような心はないと思っていました。いくら努力をしてもできなかったことでした。 今回のことで、感じることは努力してできることではなく、感じたい、理解したい、その人の心をわかりたい、とまず思うことと、自分の中のエゴイズムを捨てていくことを日々やっていくことが大事なことなんだと思いました。人を大切に思う姿勢を持ち、経験を積んでいけばできるようになるのだと思いました。【エゴイズムの奴隷に二度とならないということ。そのためにどう生きるか】私は、長い間、エゴイズムの中で生きてきました。スクールで様々な知識を学んでいる時でも、そこからなにも気づけずに日々を重ねていました。 習ったことを復習しても、実践していても、そこに自分の生きる目的を持ち、自分が成長する観点から、美徳の観点から「どういう自分になりたいか」という思いがなければ、成長は決してしないということを知りました。エゴイズムの観点から生きる目標を持っても、エゴイズムを育ててしまうだけで自分自身は成長せず、エゴイズムの強さの中で溺れてしまうのだと思いました。 20回あまりの過去生の中で同じ道を歩んでしまった私は、やはり性格に欠点があったように思います。まず傲慢なこと。自分が正しいという観点から離れられませんでした。 差別意識が強いこと。自分は人と違うとどこかでいつも思いたいという欲望がありました。 これらのエゴイズムは、感情が強すぎること、理性を働かせる経験が少ないこと、思い込みに対して執着が激しいこと、そのような傾向が引き寄せたものではないかと思います。そして、他者に対しての愛を育むことを忘れてしまったということが、転落の大きな原因でした。 自分の弱さ、臆病さがそこにあり、その性格と向き合えないために、他の理由をいつも探して、ひねくれた嘘の正しさ、嘘の正義感の中にいました。なにかと自分は孤独だと思いがちなのもその傾向があるからだと思います。弱さのために、人との関係を作ることを怠けてきたということに行き着きます。 感じている恐怖や不安の根本に向き合わず、ただ逃げるだけだったということです。そして自分が一番楽な理屈に逃げてしまったのです。その結果、エゴイズムに囚われてしまいました。本来絶対に手放してはいけない、愛も見失いました。 辛くてもその場にいて、物事を見る目を謙虚な気持ちで養っていけば、自分がその場しのぎの楽な方に逃げなければ、もっと早く道は拓けたかも知れません。多くの人を悲しませることにはならなかったかも知れません。自分の弱さを変えていくには、忍耐を身につけること、どんなことからも学んでいこうとする謙虚さを育てることだと、今は思っています。日常の様々なことから教えていただけることに感謝して、傲慢の自分を手放し、胸の中に感じた愛情を増やせるような人間を目指そうと思います。 人は望めば限りなく成長できるという言葉を信じて、わかったと安心しない生き方を身に付けたいと思っています。心から納得のいく人生を探し続けたいと思います。この機会に、本当に、感謝しています。ありがとうございました。

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  • 20 Jan
    • 初心者からのプチ・スピリチュアリズム入門①

      そしてまたイベントのお知らせです。今日は瞑想会でした。いつものことですが、少人数でまったりと。ワークショップというよりは女子会って感じですかねー でもって、またしても来月とタイトなスケジュール。2/3のイベントもまだまだ参加者募集中です。2017年2月25日 13:30 - 17:00場所:当サロン(新宿区山吹町/有楽町線江戸川橋駅下車徒歩3分)場所は参加申し込み後にお知らせします参加費:5000円 茶&茶菓子付最小開催人数:2名より 定員6名オーラやチャクラ、エーテルバイタリティ(氣)やエネルギーボディ(エーテル体)とその健康やエネルギーヒーリングのこと。また、人の健康を損ない、運命をも形作っていく「エレメンタル(想念体)」の話と引き寄せの法則の本当の仕組みについて。本格的にみっちりお勉強する半年間の講座ではなく、まずはさわり程度の入門編からといった、受けやすいショートスタイルでのちょっと軽めのプチ講座。とりあえずやってトライ(その先は判りませんがっっ)第一回目は基本中の基本、私たちの物理的な身体以外の、目には見えない身体やその身体が必要としているエネルギーについて。心や思考の身体によって創られる想念体についてなど。その他、オーラやチャクラがどのようなもので、どのような役割をしているのか、など。その健康を維持するために、どのようなことに注意を払えばいいのか、などなど・・・です。あとはエネルギーヒーリングとは何なのか、ヒーリングとは何をすることでそれによって何が変化するのか等も。時間があれば質疑応答の時間なども儲けたいとは思っています。オーラやチャクラって何? エネルギーって? という用語自体がよく分からないレベルの人から、興味はあるし知りたくはあるけど、いきなり本格的に勉強を始めるほどの気合はなく、お試し程度にお話しを聞いてみたいという人など。そんな方にお薦めです。 申し込み、問い合わせはフェイスブック、あるいはホームページのメールフォームにて。締め切りは2/15 ※最小開催人数に満たない場合は中止または延期になる場合があります。また平日や夜間開催を希望される方はお気軽に問い合わせ下さい。

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    • スピリチュアルな道

      結局のところ、スピリチュアル(霊性)において、一番大切なことというのは、「人としての在り方」以外のなにものでもなく、人と人との関係性、自分以外の他人をどう大切に出来るか・・・この一言に尽きると思う。すべての発端はそこで、帰結するのもそこ。つまりは自分を含めた他者への愛の示し方であり、自分以外の存在の固有の個性を寛容に受け入れ、相手の内的世界も慈しんで、尊重して生きること。目には見えない世界を尊重して大事にして生きるとは、目に見えるものの中に込められた、人の(見えない)想いも大切にして生きること。人の心を、気持ちを大事にして、想いの行方を見極めて、受け止めて、きちんと伝えて、どんなことにも真心を込めて、誠実に向き合って、命を大切にして、生ある世界を輝かせて生きること。いやさもっとシンプルに言うと、自分以外の人との関係性、他人との関係性を大事にして生きること。出会いや縁を大事にして、身近にいる人にしても、そうでない人にしても、関わった人たちすべてを大切にして、思いやりや愛情を示して、誠実に生きてさえいれば、間違いはないというか・・・たぶん、本当にただそれだけのことなんだろう。スピリチュアルな道というのは、しごく簡単でさほど難しいことではない。スピリチュアリストが大切にすべきなのは、何よりも謙虚さで、人としてどう生きるかで、周囲の人たちに日々自分の愛情や思いを伝えていくこと。そして愛のある行いや仕事をすること。そのような生き方を貫こうとする段階で、私欲(エゴイズム)が邪魔をするから、余計なエゴイズムを切り捨てていく修養をするだけ。自分も周囲の人も不幸にするような、自分の中にある考え方や思い癖を断ち切っていく道を、自らに課すだけのこと。スピリチュアルな修養というのは、内省して自らの行いや生き方を振り返り、己が欲望、エゴイズムを冷静に見つめて、自身を含む色んなことを観察していく目を養って、エゴイズムに呑まれない生き方が出来るようにと・・・物事への理解力を高めて、心や精神の力を鍛えたり、愛ある生き方とは何かを模索して、それを実践するためのトレーニングでしかなく・・・だから、人間関係を・・・周囲の人との関係性を疎かにしてまで、進むべき道ではないんだよ。霊性を高めるというのは、偉業を成し遂げる立派な人間になることでもなく、奇跡を起こせる聖者になることでもなく、自分の命を犠牲にして世を救うヒーローになることでもなく、たくさんの人に愛情と理解を示すことの出来る人になろうとするだけのこと。それはそんなに難しいことでも、特別なことでもない。身近な人との縁を大切にするだけでいい。大切にしたい誰かを愛するだけでいい。まずは身近な人から、家族や友達、仲間とか、職場の人たちとか。そして何よりも自分自身。自分が示すことの出来る愛情や友情を示すことからでいい。でも、無理に誰かを愛する必要性なんて何処にもなく、どうしても好きになれず、愛せない人を・・・憎しみや嫌悪感を覚えてしまう人のことを、赦すことのできない人を愛せない自分を責める必要はない。自分に親切にしてくれる誰か、自分が愛している誰かに、「ありがとう」って、感謝の気持ちを素直に伝えるだけでいい。人は、人の間でしか成長できないし、人間関係によってしか、人の霊性も精神も磨かれない。それは本当のことで、人間力を身に着けていくことこそが、霊的な成長で。そこには神のメッセージを聞くとか、宇宙意識と繋がれるとか、霊の姿が見えるとか見えないとか、スピリットたちと話せるとか、奇跡的なヒーリングが出来て病気を治せるとか、未来が分かるとか、神通力があって雨を降らせることができるとか、他人の過去生が分かるとか、透視能力があるとか・・・そんなのはどこにも関係ないし、必要もない。そんな特技なんかどうだっていいんだ。身近な誰かの心を思いやり、気遣ってあげる優しさを示せること以上に大切なものはどこにもない。誰かの事を大切にして、労わってあげる気持ち以上に尊いものはない。大切な誰かと一緒にいる時間。その人の言葉を聞き、心ある言葉をかけ、その人にとって必要なものは何であるのかを考え、精一杯できることをしてあげるだけ。人を大切にすること、モノを大切にすること。そのような生き方を示すのが霊性(スピリチュアル)な教えの法であり核。逆を言えば、それが出来ないで何がスピリチュアルか?ということになるだろう。・・・とはいうものの、私自身、それを実践して生きて来れたわけじゃない。どちらかというと、過去において、あまり人もモノも大切にして生きることはしてこれなかった。其れがゆえにそのことを強く教えられ、骨身に沁みさせられる経験があっての今ともいえるから。だからこそ、それが一番大事なんだと気づかされたというのもある。結局のところ、スピリチュアリティの是非や真価は、人との関係性、人を大事に出来るか否かであるのだと。愚かなことをたくさんして、間違いもたくさん犯してきて、他人にたくさん迷惑をかけて、その結果、自分自身が一番痛い思いをして、かつての自分自身の姿に悩まされ、苦しめられ、そのツケを払うことになり、ようやく改めて痛感したこととでもいいますかね。そんなところです。#ハッシュタグ#エゴイズム#スピリチュアル#他者への愛#生き方#スピリチ

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  • 09 Jan
    • イベント告知~魔女のお茶会

      数年ぶりにワークショップ開催をしようと思います。フェイスブックのページでも告知しているのですが、いちおうこちらでも・・・まあ、そのちょっと企画してみました、的な?ラフなものです。定員は6人くらいの少人数で考えていますが、2名以下とかだと中止するとオモワレ。でもって、今回女性のみですー参加資格は常識あってマナー守れる方ということでお願いします。★魔女のお茶会~午後の瞑想会(女性のみ) ・日程:2017年1月20日 13:30 - 16:00 ・参加費:2500円 茶&菓子込みフツーの瞑想会をやります。内容としては三つの身体の健康とバランスを取る基礎的なエクササイズ瞑想とパワー補充と浄化のための太陽の瞑想(仙道の応用)の二つを予定しています。瞑想初心者からお気軽に。上級者には物足りないかも知れませんがっっ まあ、ラフな感じで茶飲み、おしゃべりしながらで。★魔女のお茶会~星占いからの占星学入門 ・2017年2月3日 13:30 - 16:00 ・参加費:3000円(茶&菓子代込)自分のチャート(ホロスコープ)が読めるようになるための占星学のお勉強をするのではなく、「私は〇〇座だから、こういう性格なんでしょ?」「〇〇座と〇〇座って相性悪いんだ、ガーン!」みたいな、「占星学って何ですか?? 何が分かるんですか?」的な初心者向けに、占星学で分かることとか、一般的なマスコミでの吉凶占いに用いられている太陽占星学(星占い)と占星学の違いについてなど解説します。とりあえず初回(二度目があるのか不明)は、占星学で分かることとか、各サインの意味とか、そんな感じ。あとは質問に答えたり、とか。まあ、ようするに「占星学ってなんですかー?」ってまったく知識のない人に、優しく分かり易くをモットーに参加者の知りたいことに答えていく、講座というよりは、ラフにお茶しながらたべる・・そんな会です。◎参加表明のときに、生年月日、もし分かるのであれば出生時間(母子手帳に書いてあります)、出生地(市町村位まで)、パートナーがあればパートナーの分も。 興味のある人、参加希望者はメール(フォーム)下さい。http://home1.tigers-net.com/medicine_wheel/お問い合わせもお気軽に。フェイスブックからの申し込みでも大丈夫です。https://www.facebook.com/Medicine-Wheel-677842025652721/

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  • 30 Dec
    • 占い・・たかが占い、されど占い

      占い・・たかが占い、されど占い文・小林公雄埼玉県在住*真言宗某寺住職「占い」とは、裏の意を探る事から、そう呼ばれるのだと言う。何も売らないから占いというのだと洒落をいう人もいる。私が占いと出会ったのは、中学の時に父が手相は当たるものらしいというのを聞いて自分も興味があるし、父を喜ばせようと手相の本を求めたのが始まりである。当時から劣等感を抱いていた私としては、なぜ自分と他人あるいは人それぞれの性格や能力・才能が異なるのか関心があったので、それを知る術として占いにのめりこんでいった。手相・人相・指紋・姓名判断・墓相・家相・印相・タロット・トランプ・ルーン・周易・梅花心易・占数術・干支術・気学・0学占星術・四柱推命・ダイス・西洋占星術・宿曜占星術などを自分なりに研究してきたが、その間には色々と考え悩み、思うところあって占いを辞めようとしたこともあった。しかし、神秘的なことを好み、精神世界が大好きな私としては、結局占いを捨てられる訳も無く、今日まで自分の一部として付き合っている。占いについて考える時、まず占いとは当たるものなのか、ということが問われると思う。経験の上では「占いは全く当たらないとは言えない」という言い方が出来る。例えば、自動車免許の合宿で拝見した同じ特徴を持つ二人の手相の場合は、身体的疾患が当たった。また、本山で多くの僧侶の手相を拝見したときに気付いたことは、後継者の運を持った人が多いことであった。また、サラリーマンの時にお得意様のイベントで占ったときは、0地帯にある人が多かった。名前の発音でカップルの相性を当てたり、ホロスコープのアスペクトでカップルの性格と結婚観の相違を指摘したりもした。そして、私は敢えて「占いは当たる」とは言えないのである。「占いが当たる」とはどういうことなのか。新刊の占い本が出るたびに、その宣伝文句には「これも当たった、あっちも当たった」と社会的事件や政治・経済、そして芸能界のゴシップについての事例が出ている。これらの予言は、読者の側からは「事後予言」の形でしか受け取らざるを得ないし、ましてその占いの答えを聞いて社会や政界が対処したとは到底思えない。もちろん、政治家や経営者が個人的に相談して指針とすることはあるだろうが、組織や機構が占いで左右されることはないだろう。特に毎年年末年始に放映される「今年(あるいは来年)の占い」の中で地震や台風についての答えは聞いていても苦笑してしまう。例えば、地震も台風も毎年何らかの影響は与えるわけだし、その予言がいつ、どこで、何が起きると言ったところで、果たして政府・自治体・経済界が対策を立てるだろうか。また、芸能人のカップルの相性を占って、その答えが「相性は悪く、離婚するでしょう」だったとして、その予言の通りにならない中むつまじいカップルに対して「なぜ別れないのですか」とインタビューするレポーターがいるだろうか。5W2Hの項目について答えるだけの具体性が必要だと思う。以前、母親の健康について相談があった。私と断易を得意とされる占い師の答えは「どこが悪いのかは不明だが、八月に注意しなさい」という同じ答えになった。(私の未熟さのせいか、何故か病巣が解らなかった)そして、実際には母親は健康に異常はなく、九月を迎えたというのである。ここで相談者いわく、「当たらなかったんですね」である。私はこう言った。「では、当たって欲しかったんですか。天気予報は聞いても天候を変えることは出来ません。しかし、占いの場合、良い事は当てて悪い事は当たらないように努力することです。もし、占いの答えが絶対で変更不可能なものだとしたら、敢えて占ってもらう必要があるでしょうか。占いはシュミレーションであり、現在のままで行くと、この先こうなるという予測です。ですから、今を変えれば未来は変わるのです」果たして運は変えられるのか。占いの上で例を挙げれば、手相の大凶の相が大吉の相に変わった例がある。以前勤めていた会社の先輩の手相に、29歳の時に九死に一生を得るという相が出ていたので注意するように言ったのであるが、数年後、彼が29歳の時、彼は災難どころか昇進したのである。聞けば、彼は私に注意されてから、飲食や運転などに注意していたのだと言う。また、タロットで占ったときに、相談者の希望が叶えられるのは難しいと答えが出た後で、相談者の考えや思いを変えるようにアドバイスして相手が納得した上で、改めて占うと望ましい答えが出るものである。本人の思いや考え方を変えただけで答えが変わるのである。さて、「占いは当たるものだ」として考えてみたい。占いはなぜ当たるのか、その答えのひとつとして先人たちの経験に基づく統計的なものだという意見がある。だが、現代ほど情報網の発達していない昔に、どうやって他人の人生の統計が調査できるのであろうか。また、そんな手間暇かけて調べる人がいただろうか。西洋占星術において、星の位置による統計的に有意な結果を得ている部分があるようだが、それとても占星術が説くほんの一部分に過ぎない。こんな話がある。占い師が「お宅の家に松の木がありますな」と言う。相談者が「いいえ、松の木ではありません」と答えると、占い師いわく「無くて幸い。あれば大変なことになりましたぞ」。別の話ではこうだ。占い師が「お父さんは死んでいませんね」と言う。この場合、死んでいない、つまり存在していない」という意味と、「死んではいない、つまり存在している」という二つの受け取り方が出来るのだ。相談者がどちらの場合でも該当することになるので、相談者は当たったというふうに思うのである。占い師ではないが、霊感商法と思われる被害にあった人たちから伺った話はこうだ。まず最初に家族構成と年齢を用紙に記入させると、それを基にそれらしい脅し文句をのたまうらしいのである。たとえば、20歳前後の息子が入れば事故に遭うと言い、年頃の娘が入れば結婚運が悪いと言い、働き盛りの人は病気になると言うのである。この場合は常識的に考えれば誰でも当てはまることをもっともらしく言っているに過ぎないのであって、そのような不安があればこそ、保険制度が成り立っているのだ。常識的に考えても言える事柄を、相談者の態度や言葉の端々や表情で推測して答えているに過ぎないこともあるはずであり、抽象的な占いの答えをより具体的に答えるためには必要なことだと思う。そのことが、「占い師の苦手な客は当たったとも当たっていないとも言えない無表情な客だ」という指摘に表されている。当たるかどうかを判断しているのは、どうやら相談者のようだ。占い師の言葉を自分なりに判断して当たったと思ってしまう。冷静に考えれば誰でも思い当たるようなことでも、占いの答えとして聞くと絶対的なものだと思ってしまう。つまり、「当たった」のではなく、「当たったと思い込んでしまう」のである。こんなことを言えば、次のような反論のご意見が聞こえてきそうだ。「お前の場合はともかく、私の占いは当たる」と。実に占い師自身が相談者同様「当たった」と主観的に捉えているに過ぎない。占いが当たったという背景には、このような主観的な意味での「当たった」という例が少なくないのではないかと思う。仮に占いが当たるとして、占い師の側から考えてみたい。多くの場合、様々な占い師がいるのにもかかわらず、相談者はなぜ「或る占い師」のもとを尋ねるのであろうか。「医者選びも運の内」とは言うが、占い師を選ぶ段階で既に運の善し悪し、つまり「占い師選びも運の内」という相談者自身による「占い」が始まっていると言えるのではないだろうか。占い師は相談者を占う前に、既に相談者によって占われているのだ。この機縁があればこそ、六壬神課・梅花心易・ホラリー占星術などの時間を基にした占いが存在する。この「機縁」が存在するのは何故だろうかそれは占い師と相談者の間に「縁」があるからだ。「なあんだ、そんなことか」と言わないで欲しい。なぜなら、この単純な法則にこそ重要な鍵があるのだ。私たちの行為とそれに関わる出来事は、一見偶然であるようなものも全て私たちに関係しており、かつその原因は私たち自身にある。このことは「因果応報」「自分で撒いた種は自分で刈り取れ」「人生に偶然はない。ただ必然的な偶然があるだけだ」などの言葉で古今東西言われており、様々な宗教やクリスチャンサイエンスなどの思想において説かれているので、既にご存知のことと思う。だが、果たして頭では理解していても、心底納得しておられるだろうか。つまり、この法則から言えば占い師に縁のある相談者がくる訳で、もっと言えばその占い師のレベルに合った相談者が訪れることになる。だから占い師から見れば、自分に見合った相談者が来るので、「当たる」という主観的判断をすることになる。また、PK(念力)予知能力者タイプの占い師の場合、相談者の運を変えてまで結果的に当ててしまうことも考えられる。ここまで極端な場合ではないにせよ、相談者の方で、占いの結果を受け入れ信じるあまり、その通りに「当ててしまう」ことはありうるのではないだろうか。紅茶を飲んだ後、カップの底に出来た模様で占う方法があるが、パーティの余興である人が若い女優を占ったところ、半年後海外でヒロインに抜擢され成功を収めるが、その後まもなくして泥棒の被害に遭うという答えが出た。結果は後に全くその通りになったのだが、占った当の本人は占った当初、「思い付くままに口に出して言ったまでで、本当に当たるとは到底思えない」と漏らしたというのである。これなどは、占い師の告げた答えを相談者の潜在意識が受け入れたために、占いの結果通りになった例ではないだろうか。これまでは、占いに対する疑問や問題点を考えてきた。「たかが占い」といった観点である。では次に「されど占い」という観点から考えてみたい。占いは薬であり、占い師は医者とよく似ていると思う。健康な人が医者を訪ねることもないし、薬を求めることもない。それと同様に悩みのない人が占い師の門を叩くこともない。自ら占いの本を手に取ることもないだろう。本来人間の望ましい姿は心身ともに健康で、人間関係にも恵まれ、物質的な余裕のある生活をすることであろうが、現実には何かの苦悩や問題を抱えているものだ。そこで医者であれば、患者を診察して適切な薬の処方箋を書くように、占い師も相談者の悩みに対して適切な答えを与えることが必要だと思う。ただし、如何に現代医学が進歩したとは言え、まだまだ様々な難病が存在し、生命の神秘そのものについても解明されていないのと同様に、運命に対する様々な考察が行われても、その正体が掴めても「占い」そのものの限界を知った上で、占いに対して臨んでいかなければならないのだと思う。自分の占いに対する自信は必要だが、自分の占った答えに絶対的な確信を持ち、当たっていないという相談者の返事に耳を貸さない占い師がいるとすれば、それは不完全な占いに対する盲信であり、注意すべき態度である。運命に対する謙虚さが占い師には求められると思う。先に譬えたように、占いを薬とすれば、その調合を誤れば薬変じて猛毒と化すこともある。漢方薬で言えば相談者の体質にあった薬を処方し、調合するように、相談者も気付かない、場合によっては敢えて隠している真の原因と問題の背景を探り、相手に応じた対応が望まれる。だからこそ、占いだけに拘わらない広い知識と視野を持って社会的常識を踏まえた回答を心掛ける必要があるだろう。占いは現在の状況を客観的に捉える一つの観点であり、「このままいくとこうなる」という未来のシュミレーションである。であるから、少なくとも現状に至る過去の原因や現在の状況と相談者の心境などは当てる必要があるだろう。そして、その答えは一夜にして悩みが解決する魔法の奇跡のような答えではなく、常識的にも納得できる第三者的な回答になるのも当然だと思う。精神的に動揺している相談者を占いを通じて、冷静に考える機会を与えることが出来ると考える。例えば、一人占いの場合には周易やルーンなどの助言に耳を傾けるのが適切だと思う。私自身も易の爻辞の言葉やルーンのメッセージをじっくりと味わいつつ考えるときがある。そうしたとき、自分の気付かなかったところが見えてきて、はたと気が付き、感心してしまうことがある。しかし、占いを信じるあまり、愚かな行動をしないようにしたい、例えば、方位を気にして医者に行くのが遅れて病気を悪化させたり、相性が悪いからといって幸せな二人の仲を裂こうとしたり、せっかくのチャンスを時期が悪いと言って、断ったりするような、常識ある考え方や冷静な状況判断もせずに、占いの答えのみで行動してしまうことである。自分の人生に対する責任ある決断ができない、このような「占い中毒」にならないこと、そして「占い中毒患者」を生み出さないことが占い師の課題だと考える。「占い」とは、相談者当人とその人を囲む環境とを繋ぐ無意識との会話の道具であり、その道具を使ってメッセージを伝えるのが占い師であろう。道具に振り回されることなく、うまく使いこなせる人が良い占い師と言えるのではないだろうか。占いという道具を生かし、活かすようにしていきたいと自分は思っている。日の下に生まれると書いて「星」と読む。占星術を研究するようになってから、夜空を眺めるようになった。星の輝きを見つめながら、古来から人は運命を司るものとして、今の私同様に星を見つめていたのだろうとロマンティックに思いを馳せる。人が運命や運に思いを寄せ、自分の行く末を考えるとき、運命はその片鱗を「占い」という形で、ほんの少し覗かせてくれるのである。そして、その神秘に魅かれる「占い師」も悩める人たちがいる限り存在していくことだろう。

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      テーマ:
∞Reincarnation~輪廻転生∞
星の数ほども、砂漠にある砂の粒ほども存在する人間の、一人ひとりに命があり、魂があり、人生がある。決して語り継がれることのない忘れ去られた物語。歴史に名を刻まれることはなくとも、魂に歴史は刻まれて、記憶の片鱗は確実に次の人生に影響を及ぼし、継承されていく。そんな風な、名も無き人々の忘れ去られた過去のドラマ…生と死と癒しの物語、そしてそこから知り得たことや得られる学びや教訓、そしてその周辺の予備知識としての霊的知識(スピリチュアリズムや霊的真理)の話など。




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プロフィール

やまと真秀(YamatoMaho)

性別:
女性
お住まいの地域:
東京都
自己紹介:
大都会、東京の片隅に生息する50代BBA魔女 ・スピリチュアルセラピストとして非科学的な視点か...

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