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先日,このブログでもご紹介いたしました『リアリズムの法解釈理論/ミシェル・トロペール論文選』(勁草書房,2013年)は,パリ第十大学(現パリ西大学)名誉教授で憲法学者・法哲学者のミシェル・トロペールさんの10編の論文を,ミシェル・トロペールさんの下で3年間留学生活を送られた,現在九州大学准教授の南野森(みなみのしげる)さんが翻訳されてまとめた作品です。



同作品に収められた10編の論文は,どれも興味深く,知的興奮を覚える内容なのですが,特に私が印象に残った論文があります。それは,「フランス革命初期における司法権の概念」です(同書139頁以下)。



同論文は,三権分立を前提にして,立法権と司法権との関係について考察したものですが,フランスにおける立法権優位の思想の下で,立法権が制定した法を,司法権(裁判所)が解釈することを禁じようとしてきた歴史を,興味深く紹介されながら,現在における「司法権」の役割を検討されたものです。



フランスにおける司法権と申しますと,真っ先に思い出されるのはモンテスキューでありまして,彼は「裁判官は法律の言葉を発音する口である」ということを,『法の精神』の中で書かれています。その立場は,裁判官の恣意を一切排除しようというものでありまして,司法権(裁判所)は,立法権が国民の総意として制定した法律を形式的に事件に適用すればいいのだ,いや,そうでなければならないのだ,というものです。



モンテスキューがそのような主張を行ったのには,理由があります。といいますと,フランス革命勃発までの王権時代では,王の意思の下で,裁判官が恣意的な判決を下し,市民を苦しめていたのです(私が刑法の講義で聞いた話では,ある王権時代の裁判官は,「自分は裁判官として数万人を死刑にした」と豪語していたということです。ヴォルテールは,当時の裁判官を評して,「法服を着た野蛮人」と呼んでいます)。



つまり,そのような王権時代の裁判においては,訴追された被告人こそが「被害者」であったわけです。そのような専断的な裁判制度を排斥し,合理的な裁判制度を実現しようとして出されたのが,ベッカリーア(『犯罪と刑罰』の著者)などのフランス革命時の法思想でした。



その思想はフランス憲法にも影響を与えておりまして,ミシェル・トロペールさんの上掲の論文でも,1789年8月17日の最初のフランス憲法草案9条には,「いかなる方法であれ,裁判官が法律を解釈することは許されない。法律に疑念が存在する場合,必要であればより正確な法律を得るために,裁判官は立法府に出頭しなければならない」との規定が定められていたことが紹介されています(148頁)。



でも,そのように「司法権の恣意」を「立法権の理性」により制限しようとしたフランスにおいても,以前「ナポレオン法典と法の解釈 」でもご紹介しましたように,その後は立法権で制定された法に対して,司法権(裁判所)による解釈が行われるに至ります。それは,法律の制定や存在それ自体が社会の目的ではなく,正義や公平の実現こそが社会の目的であり,法律の制定や存在はその手段にすぎないことを,私たちに教えてくれています。





そのフランス革命(1789年)よりも少し早い1786年の7月4日に大西洋を隔てて出されたのがアメリカの独立宣言でした。その独立宣言の前文では,全ての人間は平等に造られていること,人は不可侵・不可譲の自然権として「生命,自由,幸福の追求」の権利を有していることを唄われており,フランス革命と人権宣言にも影響を与えたといわれています。



そんなアメリカにおいては,フランスのような王の意思に従って専権を振りかざした司法権(裁判所)という意識はなく,逆に司法権(裁判所)への信頼の下で,立法権が制定した法律が憲法に違反するという判断(違憲審査権)が司法権(裁判所)にある,という判決が出されることになります(1803年のマーベリー対マディソン事件)。



その結果アメリカでは,社会の多数意見により制定した法律が,少数派の人権を守るために制定した憲法に違反した場合には,裁判所の判決により,その効力が失われることになったのです。つまりそれは,社会では多数決で決めることができないことがある,ということを意味するわけです。



そのアメリカ流の憲法と司法権概念を基にしているのが,現在の日本国憲法です。アメリカの憲法も日本の憲法も,「司法権の優位」「司法国家」という言葉で表現がされています。



ところが,その「司法権の優位」の思想に支えられているはずのアメリカにおいては,司法権の作用は全て裁判官が行使するのではなく,事実認定は市民から選ばれた陪審員が行うことになっています。



そして日本においても,司法権は全て裁判官が行うのではなく,市民から選ばれた裁判員も参加する「裁判員裁判」が施行されていますね。



それらの市民による裁判への参加は,「この世には完全な人間は存在しない。それは専門家である裁判官でも同じである。だから市民が異なる光を事件に当てるのだ。」という思想を背景としているのです。



それ自体は紙に書かれた活字である「司法権」という言葉でも,その時代,その社会の思いによって,与えられる意味は異なるのです。そしてそれは,今後も変化し続けていく私たちの社会の中で,「司法権」の意味自体が決して固定されたものではなく,流動的なものであることを示しています。



さらに申すと,その永遠に続く意味を与える活動は,「この世には完全な人間など存在しないのだ」という,とても悲しい現実に直面しながらも,それでもこの社会を少しでも良いものにしたいと願う人々の思いが投影されたものなのだと思います。



ミシェル・トロペールさんの著書を拝見して,そのようなことを改めて考えたのでした。



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