『リアリズムの法解釈理論/ミシェル・トロペール論文選』(勁草書房,2013年)は,パリ第十大学(現パリ西大学)名誉教授で憲法学者・法哲学者のミシェル・トロペールさんの10編の論文を,ミシェル・トロペールさんの下で3年間留学生活を送られた,現在九州大学准教授の南野森(みなみのしげる)さんが翻訳されてまとめた作品です。



このミシェル・トロペールさんのお考えについては,このブログでも度々,南野先生のご意見を通して,紹介させていただきました(ミシェル・トロペールと憲法規範の生成 など)。



そのお考えは,「憲法を適用する任にある機関=憲法の有権解釈機関が解釈するより以前に存在するのは憲法規範(ノルム)ではなくたんなる憲法条文(テクスト)であって,そのような解釈を通じてはじめて憲法テクストの意味=憲法規範(ノルム)が生成される。」(南野森「憲法・憲法解釈・憲法学」『憲法学の現代的論点』(有斐閣,第2版,2009年)3頁以下)ですとか,



「有権解釈機関(たとえば最高裁判所)による解釈がなされるより前にはいかなる規範も存在しない。存在するのはたんなるテクスト(条文)であり,解釈によりはじめて規範が創設されるにすぎない。」(上掲『リアリズムの法解釈理論/ミシェル・トロペール論文選』201頁)として集約されるのです。



そのような斬新な(ラディカルな)立場への評価として南野先生は,ミシェル・トロペールさんのお考えについて,「法律専門家集団が真摯に受け入れる主張とは考えがたい」とさえ評価されることがある,との紹介もされています(上掲『リアリズムの法解釈理論/ミシェル・トロペール論文選』201頁)。



でも,そのような評価もされるというミシェル・トロペールさんのお立場ですが,法律実務家の立場から感想を述べさせていただくと,むしろ立法府と司法府との関係,特に司法府が日々行っている司法作用というものを適切に表現された,至極正当なお考えのように感じます。



憲法も,そして法律も,それ自体としては紙に書かれた活字にすぎないのです。その活字に具体的な意味を与えていく国家機関こそが司法府であり,活字に与えられる意味こそが「規範」である,ということになります。



ただ,私が個人的に思いますのは,そのような紙に書かれた活字に意味を与える,規範を生み出す作用は,決して司法府である最高裁判所や,下級裁判所のみが行うものではないと思うのです。



例えば,民法を考えてみますとよく分かるのですが,活字である民法を前提にして私人間で和解をして解決をすることは自由です。「この民法の条文をこのような意味であると解釈して,私たちはこのような合意をしよう」との和解契約が結ばれれば,そこに活字である民法に意味が与えられ,規範が生み出されたことになります(憲法についても,その趣旨が民法などの私法を通して私人間に間接的に適用されますので,そのような意味で私人による規範の生成は行われるはずです)。



そのような規範の生成は,私人だけでなく,行政機関によっても行われます。行政機関が自らの立場で,活字である憲法や行政法規を解釈します。するとそこに意味が与えられて規範が生じるのです。



でも,そのような私人の話し合いや,行政による立場が当事者間で受け入れられない場合には,当然問題は司法府に持ち込まれることになりますね。司法手続では,両当事者から主張と証拠が提出された上で,裁判所による判決が出されます。その裁判所による判決で行われた解釈も,裁判所が紙に書かれた活字である法律に意味を与えて,規範を生み出したことになるわけです(そしてその事件においては,当事者の解釈よりも裁判所の採る解釈が優先して適用され,両当事者もその裁判所による解釈に拘束されることになります。それは憲法がそのことを制度的に予定しているからです)。



でも,その裁判所により生み出された規範は,決して「正解」そのものではないわけです。それは社会の変化に対応して変わりゆくものです。裁判所の立場が変化すれば,生み出される規範もまた変化することになります。



ミシェル・トロペールさんのお考えに対しては,「あらゆるテクストの理解は解釈を要するという前提となる解釈観念からすると,解釈の帰結も一つのテクストに過ぎない以上,テクストの意味は永遠に不明となるのではないか」との批判があると紹介されています(『法学セミナー』(日本評論社)2013年9月号119頁)。



でもその批判は当たらないように思います。立法府が生み出す紙に書かれた活字(テクスト)と,それに意味を与えて規範(ノルム)を生み出す司法府や私たちの活動は,社会が変化し続けるものである以上,永遠不断のものとなります(それはテクストが永遠に生み出されるのではなく,ノルムが永遠に生み出されるのです。テクスト自体は紙に書かれた活字として不変だからです)。それら両者の関係は,社会が変化し続ける以上,そして社会をより良いものとしようとする人々の情熱がある以上,永遠に行われ続けるのだと思います。




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