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裁判には,民事事件,刑事事件ともに,単独事件と合議事件があります。



単独事件は1人の裁判官が審理と判決を行います。合議事件は3人の裁判官が行います。



合議事件は,法律で合議で行わなければならないと定められた事件(法定合議事件といいます)と,1人の裁判官でも審理などを行えるのだけれども,事件の複雑さなどを考慮して,あえて3人の裁判官で審理などを行う場合があります(裁量合議事件といいます)。



合議事件では,3人の評議で判決が下されます(3人の意見が合わなければ,判決は多数意見に基づいて下されることになります)。事件に対して,3人の裁判官からそれぞれの光が当てられることになり,より事件に対する慎重な審理と多面的な評価が行えるのですね。








合議事件を題材にした,法律の教訓を含んだ架空のお話があります。それは,ある合議事件で,有罪が無罪かが争われた重大な刑事事件でにおいて長い審理を終え,裁判長が評議室に戻った時を描いたものです。



裁判長が評議室に戻ると,あと2人の裁判官がなにやら話をしており,さらには何か書面を作っています。



裁判長が,何をしているのかをその2人に問いますと,先ほどの重大事件につき,2人の意見交換をすると,2人とも有罪であると意見が一致したので,仮に裁判長が無罪の意見だとしても,2対1で有罪が多数意見なので,もう有罪の判決を書いているのです,と答えた,というものです。








現行法上,合議事件における評議の内容は秘密とされていますので,もちろんこのお話は真実ではなく,架空のものです。でも,架空の話が作られたのは,逆にこの話を作った方は,社会に何かを伝えたいと考えたのだと思うのです。



確かに,裁判長が入るまでもなく,2人の裁判官の意見が一致しているのなら,その内容で判決を作って,何が問題なのだろう,と思われる方もいらっしゃるかもしれません。でも,大切なことは,3人の裁判官が事件について,有罪か無罪かのそれぞれの考え,意見を交換することで,考えが変わる可能性がある,ということです。



それは,有罪か無罪かという事実認定についてだけではありません。仮に有罪であるとしても,その量刑,つまり刑の重さをどうするのか,もそうですね。自分自身がこうだ,と思っていたことが,他の方の意見を聞き,自分にはなかった事件への光の当て方,事件の見方を知ることで,考えが変わることがある,ということは,皆さんもご経験をお持ちなのではないでしょうか。



法律に正解はない,という命題は,より社会が望む結論に近づくように,どのような手続が保障されるべきか,という手段の適性さを要求するのですね。








1954年に制作された映画「12人の怒れる男」は,陪審制を題材にした屈指の名画と言われています。



映画では,1人の少年が被告人となった刑事裁判が描かれます。証拠調べが終わり,12人の陪審員は評議室に向かいます。



有罪か無罪かについて,最初に挙手で12人の意見を求めると,11人が有罪,1人だけ無罪の意見でした。



11人の有罪の意見の陪審員は,「有罪に決まっているではないか」とばかりに,その1人の無罪の意見の男性に意見を向けます。するとその男性が言ったのは


We need to talk. (話し合うべきだ)


という言葉でした。



エチケット違反になるといけませんので,映画の結末はお話しませんが,この「12人の怒れる男」も,「大切なことは今どう思っているかではない。他の人と意見を交わし,自分にはない事件への光の当て方を知り,その上で社会としてどのような結論に至かが大切なのだ。そのプロセスが大切なのだよ。」という,とても大切なメッセージを,陪審制を通して私達に送ってくれたように思います。








討議によって多数意見を形成する,と言いますと,すぐに国会や地方議会による立法過程を思い出される方が多いと思います。では,討議さえ行われれば,その結論として成立する多数意見の発現としての法律や条令に,問題はないのでしょうか。



国会を例に考えてみましょう。国会において成立した法律の正当性は,いかなることで根拠づけられるのでしょうか。



まず国会議員はどのようにして選ばれるか,といいますと,選挙で多数決で選ばれますね。そしてその多数決で選ばれた国会議員のさらに多数決の賛成を得たものが,法律として成立するのです。




つまり,国会で制定される法律とは,日本社会における多数意見の現れですね。法律は,社会において,唯一その内容を強制することができるルール,規範です。法律に根拠さえあれば,お金を払わない人の家を競売にかけて売ってしまったり,自分は無罪であると言っている人を死刑にすることもできます。



そしてその法律は,まさに討議という手続を経て成立するものですね。



ところが,例えばその法律によってある人,たった1人の人の宗教行為ができなくなり,それが信教の自由を保障した憲法20条に反する,との裁判所の判断がなされるならば,討議というプロセスを経て成立した,その社会における多数意見の現れであり,強制力を有するはずの法律が無効となる,ということがあるのです。これが人権が保障されるシステムです。そのような人権救済を求める訴訟は,司法権に提起されます(このような訴訟を憲法訴訟といいます)。



そして,国会で法律が成立するには,多数決を必要とするのに対し,裁判所で憲法訴訟を起こすのは1人でもできるのです。討議というプロセスを経て成立した日本の社会の多数意見が,1人の原告の「憲法違反である。」という訴えによって,無効になるのです。



そのような制度を保障した憲法は,仮に討議というプロセスを経て成立した多数意見としての法律であっても,何もかも決めることはできない,ということを保障したものと言えるように思います。憲法は,多数決の濫用を防止することを目的とした法だと言えるかもしれないですね。



もう少し分かりやすく例えますと,社会には多数決では決めることができないことがある,と言えるのではないでしょうか。そのようなことまで,「これは多数決で決めて法律になったから,あなたをも拘束する。あなたはその法律を守らなければならない。」と強制されるのなら,私はこの日本という社会から出て行きます,という事態にならないようにしているわけです。








法律には正解がありません。この社会で起きる事件に対する評価にも正解はないのです。



単に意見の多い少ないで事件への評価を行ってはならない,必ず他の人の事件への評価を聞き,意見を交わした上でなければ,それを行ってはならない。



また,仮に討議を行った上で決めた多数意見であったとしても,それで決めることができないことが,社会には存在する。



法律には正解がない,というのは,逆に言うとこの世には完全な人間は存在しない,ということを前提としているのだ,というのが,私の考えです。そして,私達人間が不完全な存在であっても,それでもこの社会を少しでもより良い姿に変えていくために,人間が知恵と工夫を尽くして作り上げたのが,法律制度である,と思うのです。



私が今回の記事のタイトルを「2は1に勝てるのか」とした意味を感じていただけたのではないかと思います。法律制度は,決して勝ち負けではないのですね。私達が社会の問題を考えていく際,そのことを忘れてはならないと思うのです。

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