うさぽんかめぽん世界一周へ

2014年3月3日からツレと世界一周の旅に出ました。
一日一日、大切な日々、メモ魔の本領
記録を書き綴ります。世界一周人間の脳内ダダ漏れ
経験や失敗の記録が誰かの役に立てば嬉しいです。


テーマ:

世界一周の旅に出る時、ここは外せないと言う場所は多々ありますが
ここ、アウシュビッツもそのひとつです。
ガイド付きツアーと言うのもありますが、3500円ほどするので
(宿までの送迎、往復運賃、ガイド付き収容所2箇所見学全行程7時間)
我らはバスで往復することとしました。

アウシュビッツはドイツ語での名称で、ポーランド語ではオシフィエンチム(Oswiecim)と言います。その博物館行きのバス

昨日もチェックしてましたが、午前は3便で、8:25が一番早いバスです。

チケットは窓口で購入しなくても運転手さんに直接購入できます。
2人往復で54ズウォティ(1890円)一人片道14ズウォティなんで、チョッピリ安い
幾つか停留所を通過し、一時間半程で到着しました(片道約40km)
帰りのバス時間をチェックして、博物館に向かいます。

平たい土地に林がちらほら見えて、見通しのいい土地に霧がかかって曇り
どんよりとした陰鬱な天気でしたが、より真に迫ってここを感じられるかと。

入場無料ですが、ハイシーズン(5~10月の10:00~15:00)は英語ガイド付きで無いと入場出来ないんだけど、今は無しでもで入り出来ます。
とはいえ、やはり説明を聞きたい。なんで、英語ツアー(40ズヴォティ=1400円)に参加します。10:30~

こうしてみると、様々な国のツアーが出てるんだなぁ!

土曜日だった為か、こんな寒い日でもお客さんたーっくさんいます。
我らはこのお姉さんのガイドで回ります。早口のアメリカ英語なんで、少しは聞き取れます。

収容所の入口には ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)と、記されてますが、

Bの字が逆さまなのは、これを作らされた収容所者のせめてもの抵抗だったといわれています。

ここアウシュビッツ(オシフィシエンチム)で「処理」された人はユダヤ人のみならず、ポーランド人、ロマ(ジプシーと言われる)、同性愛者、反ナチス運動者など、150万人と言われますが、正確な人数は把握出来ていないとの事

何故ならば連行され、「選別」され、労働出来ると判断されるのは全体の約2割
その人たちは腕に番号の刺青をされて強制労働にかりたてられましたが
後の人達、目の悪い人、体の不自由な人、

子供、妊婦さんなどは、有無を言わせず
ガス室行きの列に並ばされたので、人数は不明

ちなみにガスは『サイクロン』赤十字社が関わっていたそうな、赤十字社は敵味方関係無く援助の手を差し伸べるが、サイクロンはノミ虱の駆除の為と言う大義名分で配給されたものでもあるらしい。

もちろん赤十字社もきちんと援助物資が援助されたい人に回っているかどうか監視団を送るんだけど、脅されたり、偽の楽な強制収容所を作ってそれを監視団に見せて誤魔化したり、そもそも赤十字社がドイツ本部の管轄下であったり、様々な要因があったそうだが。
収容所に来たら男女関わらず伝染病予防法として丸坊主にされ、その髪は布を作ったり、ソファやクッションの詰め物にされたり、人間の脂で石鹸を作り、死体からは金歯など金目のものは全て取り除き、死体の灰は畑に蒔いて肥料にし、
何と言うか、ドイツ人らしいと言うか、何一つ無駄にしない人たちです。
価値のある貴金属はスイス銀行に流れて行ったとか。
その様々な色の髪の毛(丸めてあったのは人の手で丸めて糸に繰ろうとしたのか?やらされたのはやはり女性収容者なんだろうな)の山
メガネの山、鞄の山、靴の山、ブラシや食器の山

「安住の地を与える」大義名分にしてこの人達は全財産を持って来た。
その為人々を安心させる為「後からわかる様に」と住所名前を鞄に書かせ

安住の地の土地建物の偽の権利書をみんな買わされて来たのだ。
ガイドさんは建物の事を「バラック」と呼んでいた建物、バラックと言うと木造の掘っ建て小屋を想像するけど、レンガ造りでしっかりしている…とは言っても

当時は木の床におがくずが撒かれていたとか。ここはまだましだけど。
ここに来た収容者の写真、ここに来た人は平均3~4ヶ月で亡くなったので
もちろんここの写真の人達のうち生き残った人はいない。

アウシュビッツの聖人と言われたコルベ神父はよく知られた人だが、彼はフランシスコ会に所属しており、1930年から6年間日本にも滞在していた経緯がある。
彼の説くカトリックの教えとナチスの思想が相反するとして、ゲシュタポに連行
アウシュビッツに至った。ある時一人の脱走者が出、10人の人間が見せしめに処刑されることとなった。その中で妻子のある若い男性の身代わりを申し出たのがコルベ神父、彼は他の9人の収容者と共に18番の飢餓室に入れられ、本来は阿鼻叫喚の部屋だったのが、部屋からは祈りとと賛美歌の声が聞こえ、他の部屋にも同様の声が聞かれる様になり、地下の飢餓房は聖堂となった。
彼は2週間経っても死に至らず、最後は薬剤投与で死に至らしめたそうだが、その時も自らその腕を差し出したと。一人の神父が他人の身代わりになって死んだという話は収容所中にたちまち広がり、戦後は英雄として語られることとなった。
1982年、マキシミリアノ・コルベ神父は教皇ヨハネ・パウロ二世により聖人の列に加えられた。
その、話は去年長崎にお仕事で行った時、天主堂にコルベ新婦の展示があったので
よくよく覚えていたのだが、ここで18号飢餓房を目にするとは。

どんな人間でも理性や道徳を忘れ去ってしまう環境において、コルベ神父は一人の命を救っただけでは無く、他の受刑者と共に苦しむ道を選び他の多くの見捨てられ、絶望にかられた人達の友となった。
その建物の隣には反ナチスの活動をする人を見せしめに銃殺した壁

高圧電流が流れる

二重になった有刺鉄線と見張り小屋

その後、2キロ程離れたアウシュビッツ2号(ビルケナウ)にバスで移動、

こではイヤホンなしで約1時間の見学。ここに「シンドラーのリスト」にも出てくる

収容所への貨物列車の引込み線があります。ここで人々が「選別」されていたんですね。

引込み線の終わりには追悼の碑が建てられ、

ここの収容所に関わる人達の二十以上の言語によってメッセージが残されています。

右側のバラック及びガス室は終戦直前に壊されたそうですが、まだ一部建物が残っています。

その一つに入り、説明を聞くとここはオシフィエンチムより、さらに広大で
戦況が悪化して来た頃になると物資も不足し、第二アウシュビッツの壁は本当にレンガのみで床は土、

真冬は-20にもなる土地であっても地面に寝ざるを得ない状態で
一つの段に8人が寝ていたと。

トイレも部屋の真ん中に溝を掘ってそこに足していたそうで、衛生状況は劣悪
『アンネの日記』のアンネもこうした所で栄養失調とチフスで亡くなったのです。
そしてあまりの寒さに顔がこわばり、声も出ない状況になった頃に帰りのバス時間となりました。
行きに比べ、数段ボロいバスで、南米でもお目にかかったこと無い!ってバス

ドアは乗客が開閉します。帰りも一時間半

お昼の時間はとっくに過ぎてますが全く食欲なんて湧いて来ませんが
一応作ってきたサンドイッチを少し食べ、リンゴをかじって世界のトップに立つ人はここを訪れた方がいいよ、とか色々考えているうちに
クラクフ到着。
先ほどの光景と、クラクフ駅ビルのきらびやかさがあまりに違いすぎてクラクラしました。




朝食……オレンジジュース、紅茶

昼食……ハムサンド、チーズサンド、りんご

夕食……パン、サラダ用のつまみ菜、焼き鶏半分、チーズ、リンゴとシナモン入りヨーグルト
カップスープ(ピクルススープ美味しかった)田舎風チーズ






↓今まで本を読んだり映画を見たけど本物を見ると迫り来るものが違います・・・・・・・・・クリーック!

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↓今回撒かれた「種」が、どっかで開花するのを期待して・・・・・クリ~ック!



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